ん?てことは……
/*/ カステポー ヴァキ市 ホテル上層階 夜 /*/
扉が閉まる。
部屋に残ったデコースは、預かり書をもう一度手に取った。
バッシュ・ザ・ブラックナイト。
黒騎士ドーリー。
装備品一式。
エスト。
黒騎士。
そのすべてが、自分のところへ来る。
デコースは喉の奥で笑った。
「こりゃ、ほんとにイカス」
夜のヴァキ市の灯りが、窓の外で揺れていた。
その頃。
部屋を出たトローラは、人気のない廊下を歩いていた。
厚い絨毯が足音を吸う。
壁には等間隔に照明が並び、窓の外には、ヴァキ市の夜景が広がっている。
酒場の明かり。
ドーリー置き場の誘導灯。
遠くで上下する整備用クレーン。
騎士たちの街は、夜になっても眠らない。
トローラは歩きながら、昼間のことを考えていた。
ヨーンの左腕。
バーシャの告白。
エスト。
黒騎士。
そして今、机の上に置いてきた預かり書。
三代目黒騎士デコース・ワイズメル。
そこで、足が止まった。
「……待てよ」
トローラは呟いた。
廊下に誰もいないことを確かめる。
それから、ゆっくりと振り返った。
デコースの部屋の扉は、まだ近い。
「あいつが、黒騎士になった」
ただ強い傭兵ではない。
ただのゴロツキでもない。
星団中の騎士が知る、黒騎士。
エストに選ばれ、バッシュ・ザ・ブラックナイトを駆る者。
ならば。
昔、デコースに敗れた男たちの意味も変わる。
フィルモア帝国の三銃士。
サイレンを駆り、バランシェ・ファティマを伴いながら、名もない傭兵騎士に敗れた。
そう噂され、笑われ、名誉を失った男。
バーバリュース・V。
「……違うじゃねぇか」
トローラの眉が寄る。
デコースが無名だったから、敗北が恥辱になった。
名もない傭兵に、帝国の精鋭騎士三人がまとめて倒された。
だからバーバリュースは無能とされた。
騎士団長に値しないとされた。
父親の名は地に落ち、その娘までが背負うことになった。
だが、その無名の傭兵が、後に黒騎士となったなら。
話は違う。
敗れた相手は、名もない雑兵などではない。
エストが選んだ、三代目黒騎士。
星団でも指折りの怪物。
サイレンに乗っていれば勝てる相手でも、三人で囲めば倒せる相手でもなかった。
それを証明したのが、今日という日だった。
「バーバリュースのおっさんが弱かったんじゃねぇ」
トローラは低く呟いた。
「相手が、あいつだったんだ」
それだけで、すべての汚名が消えるわけではない。
フィルモアの政治もある。
騎士団内部の面子もある。
一度出された処分を覆すことを嫌う者もいる。
だが、使える。
少なくとも、敗北の意味は変えられる。
無名の傭兵に屈した騎士。
それを、
三代目黒騎士と誰より早く戦い、その恐ろしさを知っていた騎士へ。
トローラはしばらく考えた。
そして舌打ちした。
「面倒くせぇ」
そう言いながら、来た道を戻った。
数歩でデコースの部屋へ着く。
ノックはしなかった。
扉を開ける。
「デコース」
室内では、デコースが酒瓶を口へ運ぼうとしていた。
再び現れたトローラを見て、眉を上げる。
「なんだい。忘れ物?」
「一つ聞き忘れた」
「書類なら全部あるよぉ」
「書類じゃねぇ」
トローラは部屋へ戻り、扉を閉めた。
デコースは面白そうに彼を見る。
「敵討ちする気になった?」
「違う」
「じゃあ何?」
トローラは窓際へ歩き、壁にもたれた。
そして、何でもないことのように言った。
「お前、ずいぶん安く見られてるらしいな」
デコースの目が細くなった。
「……あぁ?」
「聞こえなかったか」
「聞こえたよ。誰が、誰を安く見てるって?」
「星団中だ」
トローラは平然と言った。
「特にフィルモアじゃ、お前のことを大して強い騎士だと思ってねぇ奴が多い」
デコースの笑みが消えた。
「へえぇ」
「昔、お前がフィルモア三銃士を倒した話があるだろ」
「ああ。あったねぇ」
「世間じゃ、こういうことになってる」
トローラは指を一本立てた。
「サイレンに乗った三人が、名もない傭兵騎士に負けた」
二本目。
「バランシェ・ファティマまで使っておきながら、負けた」
三本目。
「お前が強かったんじゃない」
そこで、わざと一度言葉を切った。
「バーバリュースたちが弱かっただけだってな」
部屋から、音が消えた。
デコースは笑っていなかった。
手にした酒瓶だけが、ゆっくりと傾く。
「……誰が言ってんの、それ」
「みんなだよ」
「みんな?」
「騎士も、帝国の連中も、何も知らねぇ一般人もだ」
トローラは肩をすくめた。
「お前の名前なんざ当時は知られてなかった。そんな奴に負けたんだから、フィルモア三銃士の方が弱かった。そういう話になってる」
「くだらないねぇ」
「くだらねぇな」
「だったら放っておけば?」
「そうするつもりだった」
トローラは、デコースをまっすぐ見た。
「だが、お前、黒騎士になっただろ」
デコースの口元が、わずかに上がる。
「そうだねぇ」
「エストに選ばれた。バッシュを駆る。星団中が、お前を黒騎士として見る」
「それが?」
「だったら話が変わる」
トローラは言った。
「お前に負けた連中が弱かったんじゃない。三代目黒騎士になる化け物と、誰より先に戦っただけだ」
「……」
「だが、その話を証明できる奴がいねぇ」
トローラは鼻で笑った。
「当時の記録を見ても、機体が壊れたことしか分からねぇ。負けた側が何を言ったところで、言い訳だと笑われる」
「そうだろうねぇ」
「だから聞いてる」
トローラは腕を組んだ。
「バーバリュース・Vは、本当に弱かったのか?」
デコースは答えなかった。
酒瓶を机に置く。
椅子へ深く座り直し、目の前の男を見上げる。
「何がしたいの、君」
「質問してるだけだ」
「その顔で?」
「どんな顔だ」
「悪いことを考えてる顔」
「いつもだろ」
「それもそうだ」
デコースは少し笑った。
だが、その笑いは先ほどまでとは違っていた。
昔の戦いを思い出している。
サイレン。
フィルモアの騎士たち。
その先頭にいた男。
バーバリュース・V。
「弱くはなかったよ」
デコースは、何でもないことのように言った。
トローラは表情を変えない。
「へえ」
「あの三人は弱くない」
「三人ともか」
「そうだよぉ。騎体も悪くなかった。ファティマもね」
デコースは指先で、机を軽く叩いた。
「中でもバーバリュースは、面倒だった」
「面倒?」
「きちんとボクちゃんを殺そうとしてた」
目を細める。
「自分が勝つことより、他の二人に殺させることも考えてた。騎士団長らしい戦い方だったよ」
「なるほど」
「あと少し、こっちの踏み込みが鈍かったら」
デコースは、自分の首筋を指でなぞった。
「落ちてたのは、こっちの首だったかもねぇ」
トローラは、そこで初めて少し笑った。
「じゃあ、お前は覚えてるんだな」
「覚えてるよ」
「弱い奴のことは?」
「忘れる」
「バーバリュースは?」
「覚えてるって言っただろ」
デコースの声に、わずかな苛立ちが混じった。
トローラは満足そうに頷いた。
「十分だ」
「何が?」
「今の、記録したからな」
沈黙。
デコースの目が、ゆっくりと大きくなる。
「……は?」
トローラは外套の内側から、小型通信端末を取り出した。
記録灯が点いている。
「お前が言った」
トローラは指を折りながら確認した。
「フィルモア三銃士は弱くなかった」
「……」
「バーバリュースは面倒だった」
「おい」
「あと少し踏み込みが鈍ければ、自分の首が落ちていた」
「トローラ」
「そして、弱い奴は忘れるが、バーバリュースは覚えている」
「てめぇ」
デコースが立ち上がった。
その瞬間には、トローラはすでに扉を開けていた。
「じゃあな」
「待て!」
「黒騎士就任直後の貴重な証言だ。高く売れるぞ」
「消せ!」
「嫌だ」
「今すぐ消せ!」
「バーバリュースのおっさんの名誉が戻ったら考える」
「知るか、そんなの!」
「自分を安く見られるのは嫌なんだろ」
トローラは廊下へ出た。
扉を半分閉めながら、最後に顔だけを覗かせる。
「お前が強かったと証明すりゃ、ついでにあのおっさんの名誉も戻る」
「ついでで人を使うな!」
「悪党だからな」
扉が閉まった。
直後、内側から酒瓶が飛んできたらしく、重い音が響いた。
「トローラァッ!」
廊下まで怒鳴り声が響く。
トローラは肩を揺らして笑った。
「大声出すな。ホテルの迷惑だろ」
もちろん、扉の向こうから返事はない。
代わりに、何かが壁へ叩きつけられる音がした。
トローラは通信端末を確認する。
音声は、きれいに録れていた。
黒騎士デコース・ワイズメル本人による証言。
バーバリュース・Vは弱くなかった。
自分を殺し得た騎士だった。
弱い者なら忘れるが、彼のことは覚えている。
これだけでフィルモア帝国が処分を覆すとは思わない。
国家は面子で動く。
一度失われた名誉は、真実が見つかったからといって簡単には戻らない。
だが、黒騎士の名は使える。
エストが選んだという事実も使える。
バッシュ・ザ・ブラックナイトの存在も使える。
さらに、バーバリュースがカステポーで行ったことを知る者もいる。
ミューズ・バン・レイバック。
ヒッター子爵。
ジョルジュ・スパンタウゼン。
当時の戦闘記録も、探せばどこかに残っているだろう。
負けたという結果だけではない。
何と戦ったのか。
どう戦ったのか。
それを並べ直せばいい。
「……あの娘が三年生になるまで、あと何年だったか」
トローラは呟いた。
クリスティン・V。
父親の名を背負う少女。
父親が臆病者だと笑われ、その怒りを、自分より弱い相手へ向けてしまう少女。
騎士の子供。
だが、まだ力の扱い方も、怒りの止め方も知らない。
事件が起きてから助けるのでは遅い。
殴った後では遅い。
命が失われた後では、どれだけ歴史を変えても取り戻せない。
ならば、その前に。
父親の名を戻す。
少なくとも、学校の子供が気軽に笑える名前ではなくする。
「面倒くせぇなぁ」
トローラは、また同じことを口にした。
だが足は止まらなかった。
まずヒッターに相談する。
次にジョルジュへ記録を洗わせる。
ミューズから証言を取る。
必要ならクバルカン法王庁の名も借りる。
最後に、フィルモア帝国へ突きつける。
敗北の取り消しではない。
名誉の再審査だ。
負けなかったことにする必要はない。
バーバリュースは敗れた。
その事実まで変えれば、かえって彼を侮辱する。
ただ、何者に敗れたのかを正しくする。
三代目黒騎士となる男に敗れた。
そして生き残り、その後も騎士として戦い続けた。
それだけでいい。
トローラはエレベーターの呼び出しボタンを押した。
扉が静かに開く。
乗り込む直前、背後の廊下から、もう一度デコースの怒鳴り声が聞こえた。
「次に会ったら殺すからなぁ!」
トローラは振り返らずに答えた。
「証言を撤回しないなら、それでもいいぞ」
「撤回する!」
「今のも記録した」
「てめぇぇぇっ!」
エレベーターの扉が閉じた。
トローラは、誰もいない箱の中で声を立てて笑った。
黒騎士が誕生した夜。
ヨーン少年は、倒すべき目標を得た。
デコースは、バッシュとエストを得た。
そしてバーバリュース・Vは、まだ何も知らないまま、自らの失われた名誉を取り戻すための最初の証言を得た。
すべては、一人の悪党が廊下の途中で足を止めたことから始まった。