/*/ カステポー ヴァキ市 ユモ通り ワックストラックス 深夜 /*/
ワックストラックスは、深夜になっても客が絶えなかった。
騎士。
傭兵。
ドーリーの操縦士。
整備屋。
身元を明かしたくない者。
身元を明かしても誰も信用しない者。
酒と煙草と油の匂いが混じる地下の店で、今夜もジョルジュ・スパンタウゼンは、磨き上げたグラスを棚へ戻していた。
店の奥。
他の席からわずかに離れたカウンターに、ひとりの男が座っている。
年齢は、外見だけなら壮年。
よく整えられた口髭。
背筋はまっすぐで、酒場の椅子に腰を下ろしていても、軍人として染みついた品格が崩れない。
上等だが目立たない外套。
腰には剣を提げていない。
それでも、騎士であることは隠しようがなかった。
バーバリュース・V。
フィルモア帝国の元青騎士団長。
かつて三銃士のひとりと呼ばれ、そして今は、その名を過去形で語られる男である。
彼は静かに酒を飲んでいた。
酔うためではない。
味わうためでもない。
眠りが来るまで、時間を少しずつ殺しているような飲み方だった。
その隣へ、誰かが腰を下ろした。
「隣、いいか」
返事を待たず、椅子を引く。
バーバリュースはグラスから視線を上げた。
外套姿の男。
目つきが悪い。
態度も悪い。
だが、その顔には見覚えがあった。
「トローラ・ロージンか」
「俺を知ってるとは光栄だねぇ」
「カステポーで騒ぎを起こしていれば、嫌でも耳に入る」
「人聞きが悪いな。俺は騒ぎに巻き込まれてるだけだ」
カウンターの向こうで、ジョルジュが鼻を鳴らした。
「自分から騒ぎの真ん中へ歩いていく人間が、それを言うのかね」
「酒をくれ、ジョルジュ」
「何にする」
「安いやつ」
「君の相手をするための迷惑料込みで、高いものを出しておこう」
「ぼったくりだ」
「店主の裁量だよ」
トローラの前へ琥珀色の酒が置かれた。
彼は一口だけ飲み、それから、隣の男を横目で見た。
「娘さん、かわいい盛りだろ」
バーバリュースの手が止まった。
グラスの中で氷が小さく鳴る。
「……何の話だ」
「クリスティンだったか」
トローラは酒を揺らした。
「二十歳くらいなら、こっちじゃまだ小学校だ。友達と遊んで、喧嘩して、親の前じゃ大人ぶってみせる。かわいい盛りだろ」
バーバリュースは答えない。
トローラは構わず続けた。
「離れて暮らすのはつらいねぇ、お父さん」
「私の家族の話をするために、隣へ座ったのか」
「そうだ」
「なら、席を移れ」
「まだ本題じゃない」
「聞くつもりはない」
「お母さんは言わないだろうけどさ」
トローラの声から、酒場向けの軽さが消えた。
「娘さん、学校で虐められてるそうだぜ」
バーバリュースの視線が動いた。
ほんのわずかだった。
だが、騎士同士なら、それで十分だった。
「……誰に聞いた」
「それが最初に出るってことは、まったく知らなかったわけじゃないな」
「誰に聞いたと尋ねている」
「母親からじゃない」
トローラはグラスを置いた。
「奥さんは、あんたに言わないだろ。言ったところで、あんたが苦しむだけだと思ってる。娘の方だって、父親に泣きつくような性格じゃない」
バーバリュースの表情は変わらなかった。
だが、グラスを持つ指に力が入っている。
トローラは、その指を見ていた。
「なんて言われてると思う?」
「やめろ」
「無名の傭兵騎士に負けたクズ騎士の娘」
「やめろと言った」
「サイレンに乗って、バランシェ・ファティマまでつけて、それでも三人がかりで負けた腰抜けの娘」
カウンターが鳴った。
バーバリュースの手にしていたグラスの底が、木の板へ食い込んでいた。
割れてはいない。
砕かないように、ぎりぎりのところで力を止めたのだ。
「トローラ」
低い声だった。
「娘を侮辱するなら、場所を変えよう」
「侮辱してるのは俺じゃねぇ」
「同じ言葉を口にしている」
「それを口にしなけりゃ、なかったことになるのか」
「貴様に何が分かる」
「分からねぇさ」
トローラはあっさり言った。
「俺には子供はいない。立派な騎士団長だったこともない。帝国のために戦って、その帝国に名誉を剥ぎ取られた経験もない」
「ならば黙れ」
「だが、これから起きることは少し知ってる」
バーバリュースの眉が動いた。
ジョルジュは黙ってグラスを磨いている。
ただし、その手は同じ場所を何度も拭いていた。
聞いていないふりをしているだけだった。
トローラは酒を一口飲む。
「子供ってのは、親の名前を笑われると怒る」
「……」
「とくに騎士の子供はな。まだ自分の力がどれだけ危ないか分からない。それでも、一般人より何十倍も速くて、何十倍も強い」
「何が言いたい」
「このまま放っておけば、いつか誰かが死ぬ」
バーバリュースの目が、完全にトローラを向いた。
「娘を犯罪者扱いするつもりか」
「逆だよ」
トローラは睨み返した。
「犯罪者にしたくないから来た」
「……」
「娘さんが父親の名を守ろうとして、取り返しのつかないことをする前に、父親の名誉を戻す」
バーバリュースは、しばらく何も言わなかった。
やがて、深く息を吐く。
「戯れ言だ」
「そうか?」
「一度下された処分だ。私が何を言おうと、敗者の弁解としか受け取られん」
「だから、おっさんには弁解させねぇよ」
「では誰が語る」
「勝った奴だ」
トローラは外套の内側へ手を入れた。
バーバリュースの肩がわずかに緊張する。
だが、出てきたのは武器ではなかった。
小型通信端末。
トローラはそれをカウンターへ置き、記録を再生した。
雑音。
ホテルの室内音。
そして、聞き覚えのある、間延びした声。
『弱くはなかったよ』
バーバリュースの顔が固まった。
『あの三人は弱くない。騎体も悪くなかった。ファティマもね』
デコース・ワイズメルの声だった。
『中でもバーバリュースは、面倒だった』
間がある。
『きちんとボクちゃんを殺そうとしてた。自分が勝つことより、他の二人に殺させることも考えてた。騎士団長らしい戦い方だったよ』
バーバリュースの目が、端末へ落ちる。
『あと少し、こっちの踏み込みが鈍かったら、落ちてたのはこっちの首だったかもねぇ』
さらにトローラの声。
『弱い奴のことは?』
『忘れる』
『バーバリュースは?』
『覚えてるって言っただろ』
記録が終わる。
ワックストラックスの喧騒が戻ってきた。
遠くの席で、誰かが笑っている。
グラスが鳴る。
扉が開き、また一人、夜の客が入ってくる。
だが、バーバリュースの周囲だけは静かだった。
「……これは」
「さっき録ってきた」
トローラは端末を指で叩いた。
「新鮮だぜ」
「デコース・ワイズメルが」
「三代目黒騎士になった」
トローラは言った。
「エストに選ばれて、バッシュ・ザ・ブラックナイトを継いだ。もう無名の傭兵騎士じゃない」
バーバリュースは目を閉じた。
「そうか」
「反応薄いな」
「黒騎士となることに驚いてはいない」
「おっさん、あいつの強さを知ってるもんな」
「誰よりも、とは言わない」
バーバリュースはゆっくりと目を開いた。
「だが、忘れたことはない」
「だったら話は早い」
トローラは身を乗り出した。
「2985年のデコースとの戦闘記録、あるだろ」
バーバリュースの視線が鋭くなる。
「なぜ、それを求める」
「俺にくれないか、おっさん」
「断る」
「早いな」
「あれは帝国の軍事記録だ」
「公式記録じゃない。あんた自身が持ってる方だ」
バーバリュースの表情が変わった。
トローラはそれを見逃さない。
「あるんだな」
「……」
「騎体の動作記録。ファティマの演算ログ。デコースの踏み込み。剣速。攻撃予測。三人の連携。最後にどこで崩されたか」
「なぜ、個人記録が残っていると思う」
「おっさんみたいな奴が、敗北を感情だけで片づけるわけねぇからだ」
トローラは言った。
「自分の判断のどこが間違っていたか。部下がなぜ死なずに済んだか。次に同じ相手と戦うなら、どうすべきか。何度も何度も見直したはずだ」
バーバリュースの口髭の下で、唇が固く結ばれる。
「……見たのか」
「何を」
「私の記録を」
「見てねぇよ」
「ならば、なぜ」
「騎士団長だったんだろ、おっさん」
トローラは酒を飲んだ。
「負けたからって、ただ酒飲んで泣いて終わるような奴が、ノイエ・シルチスの青グループリーダーまで行けるかよ」
ジョルジュが、黙ってバーバリュースの前へ新しいグラスを置いた。
先ほどのグラスは、底に小さなひびが入っていた。
バーバリュースはそれを見て、少しだけ力を抜いた。
「記録を得て、何をするつもりだ」
「デコースが強かったと証明する」
「私の名誉を回復するのではないのか」
「それはついでだ」
バーバリュースが目を細める。
トローラは平然と続けた。
「デコースは俺の相棒でさ」
「相棒?」
「あいつは否定するだろうが、知るか」
トローラは鼻で笑った。
「正直、困るんだよ。三代目黒騎士になったあいつと戦ったおっさんが、弱いクズ騎士だったって罵られてるのはさぁ」
「……」
「黒騎士が弱い奴を三人倒しただけって話になるだろ。それじゃ、あいつの値打ちまで下がる」
「よくもそこまで、恩着せがましさを排除して話せるものだな」
「恩なんか売ったら、あんたは受け取らねぇだろ」
「当然だ」
「だからこれは、俺の都合だ」
トローラは端末を引き寄せた。
「2985年のあの戦い。おっさんだから生き残れたって戦闘データが欲しい」
「私だから?」
「そうだ」
「私は敗北した」
「負けたことは知ってる」
「騎体を破壊され、部下を守ることもできず、帝国へ恥を持ち帰った」
「それでも生きて帰った」
トローラの声が低くなる。
「デコースを相手にしてな」
バーバリュースは答えなかった。
「今のあいつを見りゃ分かる。弱い奴を殺すだけなら、首も名前も覚えちゃいねぇ。なのに、おっさんの戦いは覚えてた」
「……」
「三人を同時に仕留められる場面で、少なくとも全員を生還させた。あいつの首へ届く寸前まで追いつめた。自分が勝つんじゃなく、他の二人に殺させる布陣も組んだ」
トローラは指先でカウンターを叩く。
「それを戦闘ログで証明する」
「デコース本人の証言だけでは足りないと」
「あいつの証言なんざ、自慢だと言われりゃ終わりだ」
「では、私の記録も敗者の弁解とされる」
「単独ならな」
トローラは笑った。
「だが、黒騎士本人の証言と、三騎分の戦闘データが一致したらどうだ」
バーバリュースの目が、わずかに変わる。
「さらに、騎体の損傷記録。ファティマの予測履歴。攻撃の優先順位。デコースが最初から三人を圧倒していたのか、それとも危険な局面を強引に突破したのか」
「……」
「噂話じゃなくなる」
トローラは言った。
「三代目黒騎士デコース・ワイズメルが、フィルモア三銃士を破った戦闘の正式な分析資料になる」
「帝国が公表を許すと思うのか」
「許させる」
「どうやって」
「クバルカン法王庁から口を挟ませる」
ジョルジュの手が一瞬止まった。
バーバリュースもトローラを見る。
「ミューズ・バン・レイバック枢機卿は、あんたに借りがある。壊し屋事件の記録と証言も出させる」
「待て」
「ヒッター子爵にも署名させる」
「トローラ」
「カステポー・ナイトギルドの検証もつける。ジョルジュにも手伝ってもらう」
ジョルジュが眉を上げた。
「すでに数へ入っているのかね」
「嫌か?」
「内容を確認してから判断する」
「手伝うってさ」
「そうは言っていない」
トローラは聞かなかった。
「フィルモアに求めるのは、敗北の抹消じゃない。戦闘評価の訂正だ」
バーバリュースが静かに問う。
「何が違う」
「おっさんは負けた」
トローラは正面から言った。
「そこは変えねぇ」
その言葉に、バーバリュースは怒らなかった。
「負けなかったことにしたら、おっさんの戦いまで嘘になる。娘に聞かせるのも、都合のいい英雄譚になる」
「……」
「だが、誰にどう負けたのかは正しくする」
トローラは端末を持ち上げた。
「無名の雑兵に惨敗した無能な団長じゃない。後に三代目黒騎士となるデコース・ワイズメルと戦い、奴の首へ刃を届かせかけ、生きて部下を帰した騎士団長だ」
バーバリュースは俯いた。
口髭に隠れて、その表情は読み取りにくい。
「デコースも、おっさんが弱いって言われてるのは面白くないってさ」
「そのようには言っていないように聞こえたが」
「意味は同じだ」
「本人が聞けば、君を殺そうとするだろう」
「もう言われた」
「だろうな」
ほんのわずかだった。
バーバリュースの口元に、苦い笑みが浮かんだ。
トローラはそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「記録をくれ」
「……目的は、それだけか」
「娘さんが人を殺さないようにする」
笑みが消えた。
バーバリュースが顔を上げる。
トローラはもう軽口を叩いていなかった。
「父親の名誉を取り戻せば、虐めが全部なくなるとは言わねぇ」
「……」
「子供は別の理由を見つけて他人を傷つける。大人だって同じだ」
「ならば無意味ではないか」
「違う」
トローラは言った。
「娘さんが、父親を恥じなくていいようにする」
「クリスティンは、私を恥じてはいない」
「だから危ねぇんだ」
バーバリュースの目が見開かれる。
「父親を信じてる。父親を笑われたら、自分が守らなきゃいけないと思う。だが、あの娘は騎士だ」
「まだ子供だ」
「騎士の子供だ」
その言葉は、重かった。
子供である。
だから加減ができない。
騎士である。
だから、加減を誤れば人が死ぬ。
「父親が我慢してるから、娘も我慢できるとは限らねぇ」
トローラは静かに続けた。
「おっさんが帝国のために黙って汚名を被っても、その意味を小学校のガキどもが理解するか?」
「……しないだろう」
「娘さんだって、まだ全部は分からねぇ」
バーバリュースの手が、新しいグラスへ伸びた。
だが、飲まなかった。
「私は」
声が掠れていた。
「クリスティンには、何も背負わせたくなかった」
「もう背負ってる」
「……」
「だから降ろしてやれ、お父さん」
バーバリュースは目を閉じた。
長い沈黙だった。
ワックストラックスの騒音が、二人の間を流れていく。
ジョルジュは何も言わない。
トローラも急かさなかった。
やがてバーバリュースは、外套の内側へ手を入れた。
取り出したのは、小さな鍵だった。
古い型の、物理鍵。
それをカウンターの上へ置く。
「2985年の記録は、ヴァキ市内の貸金庫に保管してある」
「全部か」
「私のサイレンの主記録。ファティマの戦闘演算。ブルーノとイアンから受け取った複製。帝国へ提出する前の、未編集記録だ」
トローラの目が細くなる。
「改竄されてないな」
「だから、表へ出せなかった」
「どういう意味だ」
「帝国の公式報告書よりも、デコースが危険な騎士だったことが明瞭に記録されている」
「帝国は何を隠した」
「デコースを高く評価すればするほど」
バーバリュースは苦く言った。
「そのような危険人物を事前に把握できず、三銃士を送り込んだ帝国上層部の責任が問われる」
「だから全部、おっさんたちの無能で片づけたのか」
「国家とは、そういうものだ」
「腐ってんな」
「それでも、私の国だ」
トローラは鍵を手に取った。
「勝手に公表していいのか」
「よくはない」
「処罰されるぞ」
「すでに処罰は受けた」
「さらにだ」
「娘が人を殺すよりはいい」
即答だった。
トローラはバーバリュースを見た。
ダンディな口髭。
整った姿勢。
敗北も、屈辱も、家族と離れて暮らす寂しさも、すべて外へ出さずに飲み込んできた男。
だが、今だけは、その目が父親のものになっていた。
「頼めるか、トローラ・ロージン」
「何をだ」
「娘に」
バーバリュースは一度、言葉を切った。
「父親のために怒る必要はないと、伝えられる名を取り戻してほしい」
トローラは鍵を指先で転がした。
「高くつくぞ」
「払えるものなら払う」
「金じゃねぇ」
「では、何だ」
「今度、デコースに会ったら一緒に戦え」
バーバリュースは目を瞬いた。
「私が?」
「あいつ、おっさんを覚えてるぞ」
「先ほど聞いた」
「黒騎士になった今のあいつが、昔よりどれだけ化け物になったか見たくないか」
「君は私に、再び敗北しろと言っているのか」
「勝てばいいだろ」
トローラは悪そうに笑った。
バーバリュースは呆れた顔をした。
それから、口髭の下で静かに笑った。
「無茶を言う」
「騎士だろ、おっさん」
「ああ」
バーバリュースは、今度こそ酒を口に運んだ。
「私は騎士だ」
トローラもグラスを持ち上げた。
軽く触れ合わせる。
澄んだ音が鳴った。
「じゃあ、話は決まりだ」
「まだ何一つ決まっていない」
「戦闘記録は貰った」
「貸すだけだ」
「デコースの証言もある」
「本人の許可は」
「ない」
「法王庁を動かすと言ったな」
「これからだ」
「フィルモア帝国は」
「これから喧嘩を売る」
「君ひとりでか」
「ジョルジュもいる」
カウンターの向こうから、冷たい声が飛んだ。
「巻き込むなと言っている」
「ヒッターもいる」
「本人の許可を取れ」
「ミューズもいる」
「枢機卿を君の悪巧みへ数えるな」
バーバリュースは、今度ははっきりと笑った。
長く失っていたものを、ほんの少し思い出したような笑いだった。
「君は、ひどい男だな」
「悪党だからな」
「娘の話を持ち出して、私を脅した」
「事実を教えただけだ」
「最初から記録を得るつもりだったのだろう」
「もちろん」
「デコースも騙して証言を取った」
「自分の強さを正直に喋らせただけだ」
「それを騙したという」
「結果が良けりゃいいんだよ」
トローラは残りの酒を飲み干した。
鍵を外套へしまう。
「じゃあ、明日の朝、貸金庫へ行くぞ」
「今夜ではないのか」
「今夜は疲れた」
「私の家族へあれだけのことを言っておいて?」
「大仕事は明るくなってからだ」
トローラは椅子を降りた。
数歩進んでから、振り返る。
「おっさん」
「何だ」
「娘さんに手紙を書け」
バーバリュースの表情が固くなる。
「何を書けばいい」
「何でもいい。飯食ってるかとか、学校はどうだとか、次に会ったらどこへ行こうとか」
「……」
「名誉回復は時間がかかる。だが、父親からの手紙はすぐ届く」
「そうだな」
「それと」
トローラは口の端を上げた。
「デコースに負けた話も書いとけ」
「なぜだ」
「今度は勝つってな」
バーバリュースは、しばらく彼を見ていた。
やがて、静かに頷いた。
「ああ」
「じゃあな、お父さん」
「二度とその呼び方をするな」
「娘さんの前でも?」
「特に娘の前ではやめろ」
トローラは笑いながら階段へ向かった。
背後で、ジョルジュが紙と筆記具をカウンターへ置く音がする。
バーバリュースは、しばらくそれを見ていた。
酒を飲むために来た夜だった。
過去を忘れるために、時間を殺すはずの夜だった。
だが今、彼の前には白い紙がある。
クリスティンへ。
その最初の一行を書くまでに、バーバリュース・Vは長い時間を要した。
それでも、やがて筆は動いた。
愛する娘へ。
父は今も、騎士として生きている。
そして次にあの男と戦う時は、勝つつもりでいる。
ワックストラックスの夜は、まだ終わらない。
黒騎士が生まれたその夜。
フィルモア帝国が捨てた騎士の名もまた、静かに再び歩き始めていた。