/*/ フィルモア帝国 皇帝宮殿 大謁見の間 /*/
帝国の大謁見の間は、戦場より静かだった。
高い天井。
青と白を基調とした長大な旗。
歴代皇帝と騎士団の紋章。
磨き上げられた床には、左右に並ぶ騎士や貴族たちの姿が映り込んでいる。
その中央を、ひとりの男が歩いていた。
よく整えられた口髭。
背筋は伸び、足取りに乱れはない。
礼装に身を包んでいても、その姿は宮廷人というより、長く戦場に身を置いてきた騎士のものだった。
バーバリュース・V。
かつてフィルモア三銃士のひとりとして名を知られ、青騎士団を率いながら、一度の敗北によって地位も名誉も奪われた男。
その少し後ろを、小さな少女が歩いている。
クリスティン・V。
幼い彼女にも、この場が普通の式典ではないことは分かっていた。
母からは、今日だけは父のそばを離れず、静かにしているようにと言われた。
だが、何が起きるのかまでは教えられていない。
大人たちは、子供には難しい話だからと言った。
クリスティンは、それが嫌いだった。
大人たちはいつも、子供には分からないと言う。
父がなぜ家に帰ってこないのか。
なぜ学校で父の名前を笑われるのか。
なぜ父が、強い騎士だったはずなのに、負け犬と呼ばれているのか。
聞いても、誰も本当のことを言わない。
だから彼女は、小さな手を固く握ったまま、父の背中を見つめていた。
玉座の前で、バーバリュースは足を止めた。
片膝をつく。
クリスティンも、教えられた通り、その後ろで頭を下げた。
玉座には、レーダー八世が座している。
皇帝の傍らには、軍務を預かる重臣たち。
さらにその前には、青騎士団と帝国騎士団の代表者たちが並んでいた。
そこには、かつてバーバリュースと共に戦った者もいる。
彼を見捨てた者もいる。
処分に異を唱えられなかった者もいる。
そして、処分によって空いた席を得た者もいる。
レーダー八世は、臣下の手から一通の文書を受け取った。
封蝋には、フィルモア帝国の皇帝印が押されている。
「バーバリュース・V」
「はっ」
バーバリュースは頭を下げたまま応じた。
皇帝の声が、大謁見の間に響く。
「星団暦2985年に発生した、デコース・ワイズメルとの遭遇戦について、帝国は再調査を行った」
列席する者たちの間に、ごく小さなざわめきが生じる。
だが、すぐに静まった。
「提出された三騎の未編集戦闘記録、ファティマの演算記録、騎体の損傷資料、ならびに当事者の証言を総合した結果、当時の戦闘評価には重大な不備があったと認められた」
クリスティンが、わずかに顔を上げる。
父の話だ。
それだけは分かった。
「当該戦闘は、バーバリュース・Vの怯懦、指揮能力の不足、あるいは騎士としての力量不足によって生じた敗北ではない」
大謁見の間の空気が変わった。
レーダー八世は、ゆっくりと言葉を続けた。
「敵騎士デコース・ワイズメルは、後にファティマ・エストによって選定され、バッシュ・ザ・ブラックナイトを継承した、三代目黒騎士である」
黒騎士。
クリスティンも、その名前は知っていた。
学校の子供たちでさえ知っている。
星団中の騎士が憧れ、恐れ、あるいは打倒を夢見る、特別な騎士。
「バーバリュース・Vは、未知の強敵に対し、三騎の連携を即時に再構築した」
皇帝の前に映像が投影された。
三騎のサイレン。
その中央へ斬り込む若きデコース。
クリスティンは息を呑んだ。
速い。
何をしているのか、ほとんど見えない。
次に映像が引き延ばされる。
父のサイレンが、デコースの攻撃を引き受けていた。
残る二騎へ合図を送り、左右から黒騎士となる男を挟み込む。
刃が、デコースの首へ迫る。
「敵を撃破する寸前まで追い詰め、戦況不利と判断した後は、部下二名の生還を優先。自ら最後まで戦場に残り、敵戦力に関する情報を帝国へ持ち帰った」
クリスティンは父の背中を見た。
父は動かなかった。
だが、片膝をついたその姿が、いつもよりも大きく見えた。
「これは敗北である」
レーダー八世は、あえて明言した。
「その事実を、帝国は偽らない」
列席者たちが皇帝を見る。
「しかし、敗北と怯懦は同じではない。任務を完遂できなかったことと、騎士としての名誉を失うことも同じではない」
皇帝の声は静かだった。
だからこそ、その一語一語が重く響いた。
「バーバリュース・Vは敗れた。だが逃げなかった」
「……」
「部下を捨てなかった」
「……」
「帝国へ敵の情報を持ち帰った」
「……」
「そして、名誉を奪われた後もなお、騎士としての責務を捨てなかった」
別の文書が掲げられる。
クバルカン法王庁の印。
ミューズ・バン・レイバック枢機卿の署名。
「カステポーにおける非合法実戦試験事件に際し、バーバリュース・Vは、民間人ならびにクバルカン法国関係者を保護した」
感状の内容が読み上げられる。
> バーバリュース・Vは、国家間の重大事へ発展しかねなかった非合法実戦試験に際し、民間人および関係者を保護し、メヨーヨ地上軍の介入を阻止した。
>
> その判断、武勇および自制は、一国の騎士団を預かる者にふさわしいものであった。
>
> クバルカン法国は、その働きに対して深甚なる感謝と敬意を表する。
読み上げが終わる。
レーダー八世は、しばらくバーバリュースを見つめていた。
「他国が、そなたを騎士団長にふさわしいと認めた」
皇帝の声には、苦いものが混じった。
「それにもかかわらず、そなたの祖国であるフィルモアが、その働きを知ろうともしなかった」
バーバリュースは頭を上げない。
「陛下。それは、私が報告を――」
「余を庇う必要はない」
レーダー八世は遮った。
「報告を求めるのは、国の務めである」
静かな叱責だった。
バーバリュース個人ではない。
この場に並ぶ、帝国そのものへの叱責だった。
「帝国は、そなたの沈黙を忠節として受け取らず、罪を認めたものとして利用した」
誰も動かない。
「ゆえに本日、星団暦2985年に下された、バーバリュース・Vに対する戦闘評価を正式に改訂する」
重臣が新たな詔書を開いた。
皇帝の名による裁定が読み上げられる。
> 星団暦2985年の戦闘は、バーバリュース・Vの怯懦、能力不足、または指揮官としての資質欠如によるものではない。
>
> 当該戦闘は、後に三代目黒騎士となるデコース・ワイズメルとの遭遇戦であり、バーバリュース・Vは任務上必要な戦闘を遂行し、部下を生還させ、敵戦力に関する重要資料を帝国へ持ち帰った。
>
> また、その後のカステポーにおける功績を勘案し、帝国はバーバリュース・Vに対する旧来の評価を撤回する。
>
> その階級、爵位ならびに帝国騎士としての名誉を回復し、名誉青騎士団長の称号を授与する。
>
> あわせて、アルカナ・サイレン開発試験総責任者として、帝国騎士団への復帰を命ずる。
クリスティンには、難しい言葉が多かった。
だが、分かる言葉もあった。
名誉を回復する。
騎士団長。
帝国騎士団への復帰。
父親が、またフィルモアの騎士になる。
いや。
父は最初から騎士だった。
ただ、国がそれをようやく認めたのだ。
「バーバリュース・V」
「はっ」
「顔を上げよ」
バーバリュースは、ゆっくりと顔を上げた。
いつも通りの、厳しく整った顔。
口髭の下の唇は固く結ばれている。
だが、その目にはわずかな光があった。
「そなたは、敗北しなかった騎士ではない」
レーダー八世は言った。
「敗北してなお、帝国の騎士であり続けた者である」
「……はっ」
「帝国は、その忠節に報いるのが遅れた」
皇帝は玉座から立ち上がった。
侍従が、長い箱を捧げ持つ。
その中には、一振りの剣が納められていた。
青騎士団の意匠を施した、帝国皇帝から騎士へ与えられる儀礼剣。
レーダー八世は自ら剣を取り、バーバリュースの前へ進んだ。
「この剣をもって、そなたの名誉が帝国によって正式に回復されたことを示す」
バーバリュースは両手を差し出した。
皇帝から剣を受け取る。
「謹んで、拝領いたします」
声は揺れていなかった。
だが、剣を受け取った指には、わずかに力が入っていた。
レーダー八世は次に、その後ろにいる少女へ目を向けた。
「クリスティン・V」
突然名前を呼ばれ、クリスティンの肩が跳ねる。
「は、はい!」
「前へ」
少女は父を見た。
バーバリュースが小さく頷く。
クリスティンは立ち上がり、おそるおそる父の隣へ進んだ。
大謁見の間に並ぶ大人たちの視線が、一斉に自分へ向けられている。
怖かった。
だが、逃げたくはなかった。
父の娘だからだ。
皇帝は、幼い少女へ言った。
「そなたの父は、戦いに敗れた」
クリスティンの手が握られる。
「だが、臆病ゆえに敗れたのではない」
「……はい」
「力が足りなかったから、その責務を捨てたのでもない」
「はい」
「そなたの父は、後に三代目黒騎士となる者と戦い、部下を守り、生きて帝国へ帰った」
皇帝の言葉は、子供にも分かるように選ばれていた。
「その後も、人々を守った」
「……はい」
「クリスティン・V」
「はい」
「父の名を恥じる必要はない」
少女の目が、大きく見開かれた。
「そなたの父は、フィルモアの騎士である」
クリスティンの唇が震えた。
「知っています」
小さな声だった。
だが、大謁見の間にはよく響いた。
「わたし、ずっと知っていました」
バーバリュースが娘を見る。
クリスティンは皇帝をまっすぐ見上げた。
「お父さまは、弱くありません」
「ああ」
レーダー八世は頷いた。
「帝国が、それを認めるのに時間を要した」
クリスティンの目に涙が浮かぶ。
だが、泣くまいとして歯を食いしばった。
騎士の娘だから。
大勢の前だから。
父に心配をかけたくないから。
その小さな努力を見て、レーダー八世は少しだけ表情を和らげた。
「泣いてもよい」
「……泣きません」
「そうか」
「でも」
クリスティンは父の袖を掴んだ。
「お父さまのそばにいても、いいですか」
バーバリュースの厳しい顔が崩れた。
彼は剣を片手に持ち直し、もう片方の手を娘の肩へ置いた。
「ああ」
低い声だった。
「ここにいなさい」
その瞬間、大謁見の間に並んだ騎士たちが、一斉に剣を抜いた。
儀礼の剣が胸元へ掲げられる。
青騎士団の代表が声を上げた。
「名誉青騎士団長、バーバリュース・Vに敬礼!」
剣が鳴る。
それは、バーバリュースを笑った者たちを黙らせるための音ではなかった。
失われていた一人の騎士を、帝国が再び迎え入れる音だった。
/*/ フィルモア帝国 帝都 初等学校 数日後 /*/
教室は、クリスティンが入った瞬間に静かになった。
いつもなら聞こえてくる囁き声もない。
無名の傭兵に負けた騎士の娘。
三人がかりで負けた腰抜けの娘。
騎士団を追われたクズ騎士の娘。
何度も聞いた言葉だった。
直接言われたこともある。
背中へ投げつけられたこともある。
わざと聞こえるように話されたこともある。
そのたびに、クリスティンは拳を握った。
殴ってはいけないと教えられている。
一般人は弱い。
騎士が本気で殴れば死んでしまう。
分かっていた。
だが、父を笑う言葉を聞くたびに、頭の中が真っ白になった。
今日は違った。
教室の壁面端末には、昨夜の再放送の静止画が残っていた。
若き日のデコース・ワイズメル。
三騎のサイレン。
そして、最前線で黒騎士となる男の攻撃を受け止めるバーバリュース。
画面の下には、大きな見出し。
> 帝国、バーバリュース・Vの名誉回復を正式発表
>
> 三代目黒騎士との戦闘評価を改訂
>
> 名誉青騎士団長およびアルカナ・サイレン開発試験総責任者に任命
クリスティンは、自分の席へ向かった。
途中で、以前父を侮辱した上級生のひとりが立っていた。
彼はクリスティンを見ると、気まずそうに目を逸らした。
「……おはよう」
小さな声だった。
クリスティンは足を止めた。
拳は握らなかった。
「おはようございます」
それだけ答えた。
上級生はしばらく黙っていた。
やがて、恐る恐る尋ねる。
「君のお父さん、本当に黒騎士と戦ったの?」
「はい」
「黒騎士を、あと少しで倒せたって」
「お父さま一人ではありません」
クリスティンは答えた。
「三人で戦ったんです。お父さまが皆を指揮しました」
「すごいな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げた。
怒りではない。
父の名を守るために、誰かを殴らなければならないと思っていた。
だが、もう必要なかった。
父の名は、帝国皇帝が公に認めた。
クバルカン法王庁が感謝を示した。
三代目黒騎士本人も、父の強さを覚えていると言った。
少女の小さな拳で守らなくとも、父の名は立っていた。
クリスティンは、自分の席へ座った。
机の中には、父から届いた手紙が入っている。
昨夜も、何度も読んだ。
> 愛するクリスティンへ。
>
> 父は今も騎士として生きている。
>
> 敗北したことを恥じてはいない。
>
> ただ、お前にその敗北を背負わせてしまったことを、すまなく思っている。
>
> 父の名を守るために、お前が怒る必要はない。
>
> 次にあの男と戦う時は、勝つつもりでいる。
>
> それまでは、よく学び、よく食べ、友人を大切にしなさい。
最後の一文だけは、何度読んでも少しだけ腹が立った。
子供扱いされている気がする。
それでも、嫌ではなかった。
クリスティンは手紙をそっと机へ戻した。
授業開始の鐘が鳴る。
教師が教室へ入ってくる。
その日、クリスティン・Vは初めて、父の名前を笑う声を聞かずに一日を終えた。
/*/ カステポー ヴァキ市 ワックストラックス /*/
壁面端末では、フィルモア帝国の式典が再放送されていた。
レーダー八世から剣を受け取るバーバリュース。
その隣に立つ、幼いクリスティン。
カウンターでは、トローラが酒を飲んでいる。
ヒッターは端末を眺めながら、満足そうに笑った。
「帝国は、ずいぶん大きく出たネ」
「世論に押されて仕方なくだろ」
「それでも、皇帝自ら剣を渡した」
「放送番組に負けたって思われたくなかったんだろ」
「君は、もう少し素直に喜べないのかい?」
「俺が喜んでどうする」
ジョルジュが、新しいグラスを置いた。
「バーバリュースから、礼状が届いている」
「捨てとけ」
「クリスティンからもだ」
トローラの手が止まる。
「……なんて書いてある」
「自分で読みたまえ」
ジョルジュは、小さな封筒を差し出した。
子供の字で、トローラ・ロージン様、と書かれている。
トローラは嫌そうな顔をした。
「こういうの、苦手なんだよ」
「悪党は子供からの手紙を読めないのかい?」
「うるせぇ」
封を開く。
中には、短い文章があった。
> トローラ・ロージンさま。
>
> お父さまが、またフィルモアの騎士になりました。
>
> わたしは、前からお父さまが強いと知っていました。
>
> でも、みんなも知ってくれて、うれしいです。
>
> お父さまを助けてくれて、ありがとうございました。
トローラは最後まで読むと、しばらく黙った。
「助けてねぇよ」
小さく呟く。
「デコースの値打ちを上げただけだ」
ヒッターが笑う。
「そういうことにしておこうか」
「実際そうだ」
その時、店の扉が勢いよく開いた。
「トローラァ!」
聞き覚えのある、間延びした怒鳴り声。
デコース・ワイズメルだった。
手には、例の再現番組を記録した媒体を握っている。
「なんでボクちゃんが、フィルモアの三人に追い詰められてるみたいな番組になってんだよぉ!」
「実際、追い詰められてただろ」
「首は落とされてない!」
「あと少しだったって自分で言った」
「その音声を勝手に使うな!」
「黒騎士の若き日の貴重な証言だ」
「消せ!」
「もう星団中に流れた」
「てめぇぇぇ!」
デコースが剣へ手をかける。
トローラはクリスティンの手紙を外套の内側へしまいながら立ち上がった。
「外でやれよ。店が壊れたらジョルジュに請求されるぞ」
「君に払わせるからいいよぉ!」
「金がねぇのは首がねぇのと同じだぞ、黒騎士」
「今日はその首を落としてやる!」
二人が騒ぎながら店の外へ出ていく。
ジョルジュは深く息を吐いた。
「名誉回復を果たした日の締めくくりが、これか」
ヒッターは楽しそうに酒を口へ運んだ。
「いいんじゃないかナ」
外から、剣がぶつかる音と怒鳴り声が響く。
「少なくとも、一人の少女が父親のために拳を振るう必要はなくなった」
壁面端末の中で、バーバリュース・Vは皇帝から授かった剣を掲げていた。
その隣では、クリスティンが父の袖を握っている。
父の名は、もう幼い娘が守る必要のあるものではない。
帝国が認めた。
星団が知った。
そして何より、バーバリュース自身がもう一度、その名を背負って立ち上がったのだから。