ブラック……4?
星団暦3010年。
その日、フロート・テンプルは、主を欠いていた。
星団会議。
その名のもとに、レディオス・ソープ――あるいは、アマテラスのミカドと呼ばれるべき存在は、玉座を離れていた。
それは、ほんのわずかな空白であったはずだった。
A.K.D.という、この星団最大の怪物国家の中枢。
ミラージュ騎士団という、神の近衛ともいうべき化け物たちの巣。
フロート・テンプルは、主が不在であろうと、ただの王宮ではない。
星団のどの国家よりも堅牢で、どの要塞よりも危険で、どの戦場よりも死に近い場所である。
そこに踏み込むなど、狂気の沙汰であった。
だが、その狂気を好む者たちがいた。
バッハトマ魔法帝国皇帝、ボスヤスフォート。
魔導の女王、ビューティ・ペール。
黒騎士、デコース・ワイズメル。
後にブラック3と呼ばれる三名。
彼らは、アマテラス不在という針の穴ほどの隙間をこじ開け、A.K.D.の心臓に刃を突き立てた。
そして、この世界では。
その闇の三名の傍らに、もう一人の影があった。
トローラ・ロージン。
名誉ある騎士ではない。
忠義の武人でもない。
王に殉じる英雄でもない。
悪党騎士。
そう呼ばれるほうが、本人も納得する男であった。
デコースに誘われた時点で、嫌な予感はしていた。
それも、背筋を撫でるような生易しいものではない。
喉笛に冷たい刃を当てられたような、胃の底を誰かに掴まれるような、そんな種類の予感だった。
だが、デコースが笑っていた。
「見たくねぇか? ミラージュの本気ってやつを」
その言葉が悪かった。
トローラは、自分が賢い男だとは思っていなかった。
だが、馬鹿ではないつもりだった。
少なくとも、入ってはいけない場所と、敵に回してはいけない相手くらいは知っている。
アマテラス。
ミラージュ騎士団。
フロート・テンプル。
この三つが並んだ時点で、まともな騎士なら逃げる。
まともな悪党なら、なおさら逃げる。
だが、騎士という生き物は、ときに自分の生存本能よりも、剣の業に負ける。
最強の騎士たちは、どれほど強いのか。
神の宮殿は、本当に血を流すのか。
デコースと肩を並べてそこへ踏み込んだ時、自分はどこまでやれるのか。
その好奇心が、トローラ・ロージンという男の運命をねじ曲げた。
ブラック3ではない。
ブラック4。
後にそう呼ばれる四人は、アマテラス不在のフロート・テンプルを蹂躙した。
王宮の白い床に、赤が走った。
静謐であるべき回廊に、金属の悲鳴が響いた。
薔薇の香りと精密機械の冷たい匂いに満ちていた宮殿は、一瞬にして焼けた血と砕けた装甲の臭いに塗り替えられた。
リィ・エックスが倒れた。
ベスター“クローズ”オービットが沈んだ。
ランドアンド・スパコーンは重傷を負い、なお剣を離さなかった。
メイザー・ブローズもまた深手を負い、それでも退かなかった。
そして、サリオンを庇ったF・U・ログナーは、最強騎士の名にふさわしい戦いを見せた。
それは戦闘というより、神話の一節であった。
倒れてなお倒れず、斬られてなお斬り返し、死そのものに命令するように立ち続ける男。
だが、そのログナーでさえも、ついには血の中に沈んだ。
死ではない。
彼にとって死は終わりではない。
けれど、再生には時間がかかる。
その時間こそが、A.K.D.にとっての痛手であった。
朱塔玉座は損壊した。
それは単なる椅子ではなかった。
権威の象徴であり、秩序の中心であり、この星団におけるA.K.D.という名の巨大な影を具現化したものだった。
その玉座に亀裂が入った。
フロート・テンプルは血と破壊にまみれた。
ミラージュ騎士団は防戦した。
よく戦った。
異常なほどに戦った。
だが、防ぎきれなかった。
この日、A.K.D.の威信は傷ついた。
いや。
傷つけられた。
その爪痕を残したのは、ブラック4であった。
しかし、どれほど深い悪夢にも、終わりは来る。
異変を察知し、メル・リンスが駆けつけた。
その瞬間、空気が変わった。
宮殿そのものが息を吹き返したようだった。
伏していた光が、再び天井から降りてきた。
血の臭いの奥に、冷たい静寂が満ちていく。
戦況は反転した。
デコースは笑いながら血を吐いた。
その笑みは狂気でも歓喜でもなく、満足に近かった。
黒騎士は、自分が求めた地獄を味わった者の顔をしていた。
ペールは、最も早く撤退を判断した。
魔女は引き際を知っていた。
美しいもの、恐ろしいもの、そして本当に触れてはならないものを、彼女はよく知っていた。
ボスヤスフォートもまた、目的は果たしたと見た。
破壊すべきものは破壊した。
刻むべき傷は刻んだ。
これ以上は、神の視線に踏み込むだけである。
ゆえに、三人は退いた。
そして、トローラも当然のように逃げようとした。
「おい、帰るぞ。もう十分やっただろ」
誰にともなく、しかし確かに仲間へ向けてそう言い、トローラは退避線へ視線を走らせた。
あとは逃げるだけだった。
命がある。
手足もある。
多少の傷はあるが、まだ笑える。
ブラック4などという不吉な名前を背負うことになっても、生きていればどうにでもなる。
そう思った。
その瞬間。
接続が切れた。
退路が、消えた。
音もなく。
叫びもなく。
フロート・テンプルそのものが、ただ彼一人を閉じ込めるように沈黙した。
「……は?」
間の抜けた声が漏れた。
だが、トローラの理解は遅くなかった。
これは事故ではない。
転送魔導の不具合でもない。
ペールの術式の乱れでもない。
ボスヤスフォートの魔導が狂ったわけでもない。
切り離されたのだ。
デコースとペールとボスヤスフォートは逃げた。
自分だけが、残された。
「おいおいおいおい」
血の気が引く音を、トローラは自分で聞いた気がした。
「デコース! てめぇ、俺だけ置いてくんじゃねぇ!」
返事はない。
「ペール! 笑ってんだろ! 絶対笑ってんだろ!」
返事はない。
デコースなら笑う。
ペールも笑う。
ボスヤスフォートは、おそらく笑いもしない。
ただ、最初から勘定に入れていなかったような顔をするだろう。
トローラは、その三つの顔を同時に想像し、心の底から罵倒した。
その時だった。
柔らかな声が入った。
「逃げないでくれて助かったよ」
世界が止まった。
トローラは、ぎぎぎ、と音を立てるように振り返った。
そこにいた。
レディオス・ソープ。
いや。
アマテラス。
普段通りの顔で。
普段通りの声で。
普段通りの微笑みで。
だが、その背後には壊れた朱塔玉座があった。
倒れたミラージュ騎士たちがいた。
ログナーの血があった。
砕けた柱があった。
燃えた壁面があった。
沈黙した回廊があった。
そして、そのすべてを前にしてなお、ソープの顔には怒りがなかった。
ないのだ。
本当に。
少しも。
朱塔玉座が壊れたことも。
ミラージュが倒れたことも。
ログナーが血の中に沈んだことも。
A.K.D.の威信が傷つけられたことも。
人ならば怒る。
王ならば許さない。
主ならば報復を命じる。
神ならば天罰を下す。
だが、アマテラスは怒っていなかった。
なぜなら、それらは彼にとって、人の営みでしかなかったからだ。
国家。
威信。
血統。
忠誠。
裏切り。
勝利。
敗北。
傷。
死。
それらは人にとっては重い。
命より重いことさえある。
だが、神にとっては違う。
星々の配置が変わるほどの意味はない。
宇宙の呼吸が止まるほどの事件ではない。
人が血を流し、玉座が砕け、王宮が燃えた。
ただ、それだけのことだった。
だからこそ、恐ろしかった。
怒っている相手なら、まだ分かる。
憎んでいる相手なら、まだ対処できる。
復讐したい相手なら、殺意の向きが読める。
だが、目の前の神は怒っていない。
怒っていないのに、逃がさなかった。
怒っていないのに、ここに来た。
怒っていないのに、トローラだけを切り離した。
その理由が、トローラには分からなかった。
いや。
分かりたくなかった。
「いや」
トローラは、喉の奥からどうにか声を引きずり出した。
「逃げようとはした」
「うん。知ってる」
「じゃあ逃がせ」
「それは無理かな」
「ですよねぇ」
即答だった。
トローラは、自分でも驚くほど素直に諦めた。
アマテラスは、にこりと笑った。
その笑顔は、剣よりも怖かった。
それは怒りの笑顔ではなかった。
処刑を決めた王の顔でもなかった。
傷ついた主君の顔でもなかった。
面白いものを見つけた者の顔だった。
それも、人間が珍しい虫を覗き込むような顔ではない。
子供が玩具を見つけるような顔でもない。
もっと遠い。
もっと深い。
もっと冷たい。
世界そのものを眺める視線が、たまたま一人の騎士の上で止まった。
そのことが、ただ怖かった。
「トローラ君」
「はい」
「君、変だよね」
「……いきなり何ですか」
「この世界の騎士なのに、この世界の騎士じゃないみたいだ」
トローラの喉が、ひゅ、と鳴った。
アマテラスは続けた。
「デコースに誘われて来た。分かるよ。悪党騎士らしい選択だ。ミラージュの本気を見たい。うん、それも騎士としては分かる」
「なら帰してくれても」
「でも、君は時々、違う」
アマテラスは首を傾げた。
その仕草は、あまりにも自然だった。
だからこそ、異様だった。
「死ぬはずだったものを、死なせない。
壊れるはずだった流れを、少しだけずらす。
黒騎士とヨーンの運命にも、触ったよね」
トローラは黙った。
「K.O.G.にも殺されなかった。
ハグーダ戦では死者を救った。
カステポーでは、決まっていたはずの糸に、妙な結び目を作った」
アマテラスは楽しそうだった。
本当に楽しそうだった。
「君はこの世界の中にいる。
でも、少しだけ、世界の外側の匂いがする」
「……何の話だよ」
「分からなくていいよ」
「分からない話で人を囲うな」
「だって、面白いから」
その一言に、トローラは凍った。
怒りではない。
罰ではない。
正義でも、報復でも、A.K.D.の面子でもない。
面白いから。
ただ、それだけだった。
神に見つかった。
その実感が、トローラの背骨を冷たく撫でた。
「ミラージュは嫌だって言ってたよね」
アマテラスは、ふと思い出したように言った。
「言いました」
「うん。じゃあ、それは尊重するよ」
「本当ですか」
「本当」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、トローラは安心しかけた。
その一瞬を、アマテラスは見逃さなかった。
いや、見逃さなかったというより、観察していた。
トローラの目の動き。
頬の緩み。
呼吸の浅さ。
逃げ道を探す思考。
安堵から警戒へ、警戒から嫌な予感へと揺れ戻る感情。
その揺らぎを、アマテラスは楽しんでいた。
「でも、この襲撃の損害分、働いてもらうのは、いいよね?」
トローラの顔から、残っていた血の気がすべて抜けた。
アマテラスの笑みが、ほんの少し深くなった。
「……損害分?」
「うん」
アマテラスは穏やかに言った。
「朱塔玉座が損壊したし」
「それはログナーさんが」
「王宮施設もかなり壊れたし」
「そっちはボスヤんが」
「ミラージュの騎士たちも大勢負傷したし」
「あ、はい」
「ログナーも再生に時間がかかるし」
「はい」
「A.K.D.の威信も傷ついたし」
「はい」
そこでトローラは、恐る恐るアマテラスを見た。
この男は、それらを本気で気にしているのか。
玉座。
施設。
騎士。
ログナー。
威信。
一つ一つ、口にしてはいる。
だが、その言葉の底に、怒りの熱がない。
あるのは、もっと別のものだった。
口実。
そうだ。
これは口実なのだ。
「……あんた、怒ってねぇだろ」
トローラは言った。
アマテラスは微笑んだ。
「うん」
あまりにもあっさりと認めた。
トローラの背筋に冷たいものが走った。
「怒ってないのかよ」
「怒ってないよ」
「じゃあ、なんで俺を残した」
「君をもう少し見ていたいから」
沈黙が落ちた。
剣よりも重い沈黙だった。
「……見ていたい?」
「うん」
「何を」
「君がどうするか」
アマテラスは、本当に楽しそうに言った。
「逃げようとするのか。
諦めるのか。
怒るのか。
笑うのか。
借金を背負わされた時、どんな顔をするのか。
A.K.D.の中で働かされた時、どんなふうに文句を言うのか。
それでも、結局どこで剣を抜くのか」
ひとつひとつの言葉が、トローラの逃げ道を塞いでいく。
「君は面白いよ、トローラ君」
アマテラスは言った。
「この世界の人間は、だいたい自分の役割の中で動く。
王は王らしく、騎士は騎士らしく、悪党は悪党らしく、英雄は英雄らしく。
でも君は、悪党みたいに振る舞って、時々、妙なところで踏みとどまる」
「……買いかぶりだ」
「そうかもしれないね」
「俺はただ、その場その場で好きにやってるだけだ」
「だから面白いんだよ」
アマテラスは書類を差し出した。
「大丈夫。ミラージュ騎士団員じゃないから」
「実質ミラージュの下働きじゃねぇか!」
「違うよ」
「何が違う」
「損害賠償労務契約者」
「もっと嫌な名前になった!」
トローラの絶叫が、壊れた王宮に虚しく響いた。
アマテラスはにこやかに言った。
「署名して」
「しなかったら?」
「一括請求」
「働かせていただきます」
即答だった。
その瞬間、アマテラスは笑った。
大きく笑ったわけではない。
声を上げたわけでもない。
ただ、ほんのわずかに目を細めた。
その反応を見て、トローラは理解した。
こいつは、今の顔を見たかったのだ。
自分が逃げ道を塞がれ、誇りと現実を天秤にかけ、最終的に情けないほど即座に屈服する、その一瞬の感情の揺れを。
その滑稽さを。
その生々しさを。
その人間臭さを。
神が、楽しんでいる。
トローラは初めて、怒れる王よりも、無慈悲な魔導士よりも、狂った黒騎士よりも、目の前の笑顔が恐ろしいと思った。
こうして、ブラック4の一人としてフロート・テンプル襲撃に参加した悪党騎士トローラ・ロージンは、ただ一人撤退に失敗し、アマテラスによって捕獲された。
処刑はされなかった。
ミラージュにもされなかった。
しかし、自由も与えられなかった。
彼の首にかけられたのは、鉄の枷ではない。
騎士団の紋章でもない。
忠誠の誓いでもない。
A.K.D.の損害賠償という、剣より重い鎖だった。
朱塔玉座の損壊。
王宮施設の破壊。
ミラージュ騎士団の人的損害。
ログナー再生までの戦力穴埋め。
A.K.D.の威信回復に伴う諸経費。
警備体制再構築費。
情報封鎖費。
対外発表調整費。
復旧工事費。
慰問費。
精神的損害。
その他、アマテラスが必要と認める一切の費用。
そのすべてが、請求書となって彼の前に積まれていった。
もちろん、アマテラスにとって、その金額に意味はない。
A.K.D.の財政にとっても、本当はどうとでもなる。
玉座は直せる。
施設は再建できる。
ログナーは戻る。
威信など、必要ならいくらでも上書きできる。
だが、トローラにとっては違う。
紙の一枚一枚が、現実だった。
数字の一桁一桁が、首にかかる縄だった。
署名欄の空白が、墓穴のように見えた。
だから、アマテラスはそれを使った。
人を縛るには、人にとって重いものを使えばいい。
神にとって意味のないものでも、人には意味がある。
神にとって軽い紙でも、人には鎖になる。
その差異を、アマテラスは知っていた。
そして、楽しんでいた。
以後、トローラ・ロージンは、A.K.D.に借金漬けでこき使われることになる。
彼はミラージュではない。
ミラージュ騎士団員ではない。
正式な臣下でもない。
忠誠を誓ったわけでもない。
アマテラスの騎士になったわけでもない。
ただ、逃げられない。
逃げれば一括請求。
その一言が、どんな忠誠の誓いよりも強かった。
本人曰く。
「ミラージュじゃない。ミラージュじゃないが、これならミラージュの方がまだ肩書きがあるだけマシだったんじゃねぇか……?」
シューシャは、いつものように静かに答えた。
「マスター。肩書きはありませんが、債務はあります」
トローラは、しばらく黙っていた。
そして、壊れた朱塔玉座の残骸よりも深い絶望をこめて叫んだ。
「一番いらねぇ!」