メサ・ルミナス学園
デルタ・ベルン。
星団歴3011年から3020年くらい多分。原作にない場面なので年号は適当。
午後の講義を終えたヨーンが校舎を出ると、正門へと続く並木道の脇に、ひどく場違いな男が立っていた。
学園は公的な教育機関である。
貴族や騎士家の子弟だけでなく、官僚を目指す学生や、奨学制度で地方から集められた優秀な少年少女も学んでいる。敷地内には教師や事務官、警備員の姿が絶えず、来訪者の身元も厳しく確認される。
当然、ファティマを気軽に伴って入れるような場所ではなかった。
だから、その男は一人だった。
木陰に寄りかかり、売店で買ったらしい紙袋を片手に、焼き菓子を食べている。
騎士らしい華美な装いではない。
保護者にも、教師にも、軍人にも見えない。
裏通りの酒場の前で、借金取りが来るのを待っているような姿だった。
ヨーンは足を止めた。
まばたきをした。
もう一度、男を見た。
見間違いであってほしいと、一瞬だけ思った。
しかし男はヨーンを見つけると、何事もなかったように片手を上げた。
「よう」
トローラ・ロージンだった。
「元気そうじゃねぇか」
ヨーンは返事をしなかった。
無言のまま歩き出す。
一歩。
二歩。
次第に足が速くなる。
トローラは紙袋へ手を入れながら、怪訝そうに眉を上げた。
「なんだよ。せっかく様子を見に来たってのに、もう少し愛想よく――」
「なにやってるんですか!?」
ヨーンの怒声が、並木道に響き渡った。
周囲を歩いていた学生たちが、一斉に振り返った。
トローラは菓子を口に入れたまま、少し考えた。
「今?」
「今じゃありません!」
「じゃあ何だよ」
「フロート・テンプルです!」
「ああ」
トローラはようやく思い当たったように頷いた。
「襲撃?」
「襲撃? じゃありません!」
ヨーンの顔が赤くなった。
「バカなんですか!」
「そうだけど?」
一瞬の迷いもない返答だった。
ヨーンは言葉を失った。
トローラは何事もなかったように、紙袋の中を覗き込んだ。残っている菓子の数を確認するほうが、ヨーンの怒りよりも重要であるらしい。
「いやぁ、強かったな、ミラージュ騎士」
「感想がそれなんですか!?」
「他に何を言えってんだ。強ぇもんは強ぇよ。ログナーなんか死んでも止まらねぇし、ランドの爺さんは血まみれでも前に出てくる。メイザーも化け物みてぇにしぶとい。ありゃひでぇ。人間じゃねぇよ」
「あなたも、その人たちを襲った側でしょう!」
「そうともいう」
「そうとしか言いません!」
周囲を行き交う学生たちが、ちらちらと二人を見ていた。
トローラ・ロージン。
今や、その名を知らない者は学園にもほとんどいない。
フロート・テンプルを襲撃した四人。
バッハトマ魔法帝国皇帝ボスヤスフォート。
ビューティ・ペール。
黒騎士デコース・ワイズメル。
そして、悪党騎士トローラ・ロージン。
ブラック4。
新聞は、彼らをそう呼んだ。
ニュース端末には、損壊したフロート・テンプルの映像が何日も流れ続けた。朱塔玉座の破壊、ミラージュ騎士団の損害、ログナーの死亡と再生待機。
どれも、星団を震撼させる報道だった。
その中に、トローラの名があった。
最初、ヨーンは誤報だと思った。
同姓同名の別人かもしれないとも考えた。
だが、後から公開された映像に映っていたのは、紛れもなくヨーンの知るトローラだった。
口が悪い。
態度も悪い。
高潔な騎士を鼻で笑い、自分を悪党と呼ばれても否定すらしない。
だが、ヨーンを人買いから救った。
食事を与えた。
戦い方を教えた。
バーシャを守るための力の使い方を、根気強く叩き込んだ。
その男が、デコースと肩を並べて、フロート・テンプルを襲撃した。
しかも。
四人のうち、三人は撤退に成功した。
ただ一人。
トローラだけがその場に残り、A.K.D.に捕らえられた。
ヨーンは、新聞のその一文を何度も読み返した。
トローラが死んだという続報が出るのではないか。
処刑が決まったと報じられるのではないか。
そう思いながら、毎朝の新聞を確認した。
だが、何も分からなかった。
拘束。
事情聴取。
処遇検討中。
報道に出るのは、曖昧な言葉ばかりだった。
その男が今、何事もなかったような顔で、学園の並木道に立っている。
ヨーンの怒りは、容易には収まらなかった。
「どうして……」
声が低くなった。
「どうして、あなただけ残ったんですか」
トローラは手にしていた焼き菓子を口へ放り込んだ。
「逃げ損ねた」
「そんなわけないでしょう」
「いや、本当に」
「あなたが?」
ヨーンは即座に否定した。
K.O.G.を相手に生き残った男だ。
ハグーダの戦場を駆け抜けた男だ。
ヨーンがゴロツキ騎士たちに囲まれた時にも、まるで偶然通りかかったような顔で現れた。
逃げ道を見つけることに関して、この男は並の騎士よりもよほど優れている。
そのトローラが、四人の中でただ一人だけ逃げ遅れた。
偶然であるはずがなかった。
ヨーンの中で、報道された断片的な情報が、一つの形を取り始めた。
追撃するミラージュ騎士団。
崩れかけた退路。
撤退するボスヤスフォート、ペール、デコース。
そして、一人だけ残ったトローラ。
「三人を逃がすためですね」
「は?」
「あなたが残って、ミラージュの追撃を止めた」
「いや」
「だから、ほかの三人は撤退できた」
「違う違う」
「そうでもなければ、あなただけ捕まるなんておかしいです」
「お前、俺を何だと思ってんの?」
「最低の悪党です」
「うん」
「でも、必要な時に誰かを見捨てる人じゃない」
トローラの動きが止まった。
焼き菓子へ伸ばしかけた指が、紙袋の縁にかかったまま動かない。
ヨーンは怒っていた。
しかし、その怒りの奥にあるものを、トローラは見てしまった。
心配。
安堵。
尊敬。
そして、何も知らされなかったことへの寂しさ。
トローラは、ひどく居心地の悪い顔をした。
「いや、本当に違うんだって」
「あなたはいつもそうです」
「何がだよ」
「何かしても、まともに説明しない」
「今回は説明してるだろ」
「人を助けても、偶然だと言う。危険な場所に残っても、逃げ遅れただけだと言う」
「今回は本当に逃げ遅れただけなんだよ!」
トローラが珍しく声を張った。
しかし、その必死さが、ヨーンには別の意味に見えた。
自分の行為を誇りたくない。
恩を着せたくない。
残った理由を、仲間にも知られたくない。
この男なら、そう考える。
ヨーンはそう確信してしまった。
「僕には、無茶をするなと言ったでしょう」
「言ったな」
「力に酔うなとも言いました」
「言った」
「自分の命を粗末にするなとも言いました」
「そこまで立派な言い方はしてねぇと思うぞ」
「それなのに、自分は何をしているんですか!」
「だから、馬鹿だって言っただろ!」
「笑い事じゃありません!」
「笑ってねぇよ」
「笑っています!」
実際、トローラは少し笑っていた。
ヨーンがあまりにも真剣に、自分を仲間のために残った騎士へ仕立て上げているため、訂正する気力より先に笑いが込み上げてきたのである。
「お前、俺を買いかぶりすぎだ」
「買いかぶっていません」
「俺はデコースに誘われて、ミラージュがどれくらい強いのか見たくなったから、ついていっただけだぞ」
「そんな理由でフロート・テンプルを襲う人がいますか!」
「ここにいる」
「バカなんですか!」
「二回目だぞ、それ」
「何度でも言います!」
ヨーンの声に、周囲の学生たちは完全に足を止めていた。
ブラック4の一人を真正面から叱りつけている学生。
どう見ても、尋常な光景ではない。
トローラは周囲の視線に気づき、声を低くした。
「おい。少し静かにしろ。俺はいま、あんまり注目されたくねぇ立場なんだ」
「それなら、どうして学園に来たんですか!」
「お前の様子を見に来た」
ヨーンは言葉に詰まった。
ほんの一瞬だった。
しかし、トローラはその隙に話を戻した。
「いいか。俺はあいつらを庇って残ったんじゃない。殿を務めたわけでもない。追手を引きつけようとしたわけでもねぇ」
「では、なぜあなただけが」
「俺の退路だけ切られたんだよ」
ヨーンの眉が動いた。
「退路を?」
「ああ」
「誰にですか」
「アマテラス」
その名が出た瞬間、ヨーンの表情が固くなった。
アマテラス。
A.K.D.を統べる天照帝。
星団最大の権力者。
騎士団、国家、軍、財力。そのどれを取っても、ヨーンの理解をはるかに超える存在だった。
「アマテラス陛下が、あなた一人の退路を?」
「そう」
「なぜです」
「知らねぇよ」
トローラは心底嫌そうな顔をした。
「ボスやんも会長も凸助も逃げた。俺も帰ろうとした。そうしたら、俺が使うはずだった退路だけ、ぷつんと切れた」
ヨーンはしばらく黙っていた。
それから、静かに尋ねた。
「三人が撤退するまで、あなたが最後尾にいたからでは?」
「違う」
「追撃を警戒して、後方に残っていた」
「残ってねぇ」
「では、なぜ三人より撤退が遅れたんです」
「ちょっと周りを見てた」
「ミラージュの追撃を確認していたんですね」
「違う。壊れた王宮を見てただけだ」
「戦況を確認していた」
「見物だよ!」
「逃げる前に、全員が退いたことを確かめた」
「だから違うって!」
どれほど否定しても、ヨーンの中では筋道が整っていった。
トローラは自分の行為を誇らない。
仲間を庇ったなどとは絶対に言わない。
まして、相手がデコースである。
ヨーンの左腕を奪い、バーシャを連れ去った男。
それでも、同じ戦場に立った以上は見捨てなかった。
その事実を、ヨーンには言いたくないのだ。
そう考えると、トローラの曖昧な態度も、必死な否定も、すべて説明がついてしまった。
「分かりました」
ヨーンは言った。
トローラがほっと息を吐く。
「やっと分かったか」
「それ以上は聞きません」
「待て。何を分かった?」
「あなたが話したくないなら、無理に聞くべきではありません」
「違うぞ」
「でも、三人を逃がすために残ったことは――」
「だから残ってねぇ!」
「誰にも言いません」
「お前、全然分かってねぇじゃねぇか!」
ヨーンは、トローラの抗議を聞き流した。
むしろ、そこまで必死に否定すること自体が、この男らしく思えた。
自分を恩人扱いされるのを嫌う。
英雄扱いされることを嫌う。
善人だと言われれば、不機嫌になる。
だが、誰かが本当に危険に陥れば、最後には自分が動く。
ヨーンの中で、これまで見てきたトローラの姿と、ブラック4襲撃の結末が重なった。
「それで」
ヨーンは問いかけた。
「アマテラス陛下に捕らえられて、どうなったんですか」
「働かされてる」
「囚人として?」
「違う」
「では、捕虜交換を?」
「そういうんじゃねぇ」
「裁判は」
「受けてねぇ」
「では、なぜ自由に学園へ来られるんです」
「仕事の途中だからだ」
「仕事?」
トローラは嫌そうに紙袋を丸めた。
「損害賠償」
「……はい?」
「朱塔玉座の修理費。王宮施設の復旧費。ミラージュ騎士団の人的損害。ログナーが戻るまでの戦力穴埋め。A.K.D.の威信回復にかかる諸経費」
「それを、あなたが支払うんですか」
「そうらしい」
「一人で?」
「逃げた連中からは取れねぇからな」
ヨーンの顔が険しくなった。
「つまり、三人を逃がすために残ったうえ、その三人の分まで背負わされたんですか」
「違う!」
トローラは即座に否定した。
「俺が払うのは俺の分だ!」
「でも、正確に四分の一だけではないのでしょう」
「……まあ、諸経費とか、色々盛られてる気はする」
「やはり」
「何が、やはりだ」
ヨーンの表情に、静かな憤りが浮かんだ。
トローラは頭を抱えたくなった。
誤解が深まっている。
自分はただ、面白そうだからついていっただけだ。
逃げる時に、アマテラスから自分だけ退路を切られた。
捕まった。
請求書を渡された。
それだけである。
それなのに、ヨーンの中では、
仲間を逃がすために殿を務め、そのためにA.K.D.の支配者から狙いを定められ、他の三人の分まで押しつけられた男。
という、妙に筋の通った物語が完成しつつあった。
「それで、今は何をしているんです」
「色々だよ。護衛、調査、戦力の穴埋め、面倒事の処理」
「それは、ミラージュ騎士団の任務では?」
「違う」
トローラはそこだけは強く言った。
「俺はミラージュじゃない」
「でも、アマテラス陛下の命令で働いている」
「命令じゃねぇ。契約だ」
「契約?」
「損害賠償労務契約者」
ヨーンは何度か瞬きをした。
「それは、捕虜と何が違うんですか」
「契約書に署名してる」
「自分の意思で?」
「一括請求と選べって言われた」
「それを自分の意思とは言いません」
「俺もそう思う」
「逃げられないんですか」
「逃げたら一括請求」
「結局、拘束されているのと同じじゃないか」
「だから、そういう言い方をするな。俺が惨めになるだろ」
ヨーンはしばらく黙って、トローラを見つめた。
ニュースで名を見た時。
拘束されたと知った時。
処刑されるのではないかと思った時。
自分には何もできなかった。
アマテラスのいるフロート・テンプルへ乗り込むことも、A.K.D.へ抗議することもできなかった。
ただ、毎日新聞を読み、続報を待つことしかできなかった。
その無力さが、ヨーンの中には残っていた。
「どうして、連絡をくれなかったんですか」
トローラが目を瞬かせた。
ヨーンの声は、先ほどまでよりも小さかった。
「生きていると、一言知らせてくれてもよかったでしょう」
「忙しかったんだよ」
「新聞でしか、あなたのことが分からなかった」
「悪かったって」
「処刑されたという記事が出るかもしれないと、ずっと……」
ヨーンはそこで言葉を止めた。
トローラは少しの間、何も言わなかった。
それから、わざと軽い調子で口を開いた。
「俺がそう簡単に死ぬかよ」
「あなたは、自分から死ぬような場所へ行くでしょう」
「それは否定できねぇな」
「否定してください!」
ヨーンの声が再び大きくなる。
トローラは苦笑しながら、紙袋をヨーンの胸へ押しつけた。
「土産だ」
ヨーンは反射的に受け取った。
中を覗く。
「食べかけじゃないですか」
「一個残ってる」
「一個しか残っていません」
「お前の分だ」
「最初から僕の分だったんですか」
「今そう決めた」
「いりません」
「学生は甘いもの食って、頭を使え」
「あなたは、もう少し頭を使ってください」
「使った結果がこれだよ」
「それなら、次から使わないでください」
「ひでぇ言い草だな」
ヨーンは紙袋を突き返そうとした。
だが、途中で手を止めた。
「……無事でよかったです」
聞き逃しそうなほど、小さな声だった。
トローラは一瞬、何も言わなかった。
「何か言ったか?」
「何も言っていません」
「そうか」
「それと」
ヨーンはトローラを真っすぐ見た。
「次に同じことをしようとしたら、僕が止めます」
「止められるくらい強くなれよ」
「なります」
迷いのない答えだった。
トローラの脳裏に、左腕を失い、血の中に倒れていた少年の姿が浮かんだ。
あの時よりも背が伸びた。
目も変わった。
まだ未熟だ。
だが、もうただ守られるだけの少年ではない。
トローラはわずかに目を細めた。
「そうかよ」
ヨーンは紙袋を抱えたまま、なおも厳しい顔をしていた。
「ですが、三人を逃がすために残ったことを美談にするつもりはありません」
「だから残ってねぇって」
「仲間を守ったことと、襲撃に加わったことは別です」
「聞けよ」
「あなたが無茶をしたことも許していません」
「おい」
「それでも、あなたがしたことを、僕は忘れません」
「忘れろ。全部勘違いだ」
「誰にも話しません」
「そういう問題じゃねぇ!」
「分かっています」
「分かってねぇ!」
ヨーンは、深く頭を下げた。
「三人を逃がしてくれて、ありがとうございました」
「やめろ!」
トローラの声が、学園の並木道に響き渡った。
周囲の学生たちは、その会話を聞き、ひそかに確信した。
ブラック4のトローラ・ロージンは、仲間を逃がすために一人フロート・テンプルへ残り、アマテラスの手に落ちたのだ、と。
翌日。
学園内には、新聞にも載っていない新たな噂が広がった。
悪党騎士トローラ・ロージン。
ブラック4最後の一人。
三人の撤退を成功させるため、ミラージュ騎士団の追撃を単身で引き受けた男。
本人は、その噂を耳にするたびに否定した。
「違う。俺はただ逃げ損ねただけだ」
だが、人は美しい話を好む。
そして、普段から悪党を名乗る男が必死に否定すればするほど、それは照れ隠しにしか聞こえなかった。
トローラの弁明を信じる者は、一人もいなかった。