コーラス王宮。
王との会談に使われる小広間は、豪奢でありながら、不思議と落ち着いた空気に包まれていた。
大きな窓から柔らかな陽光が差し込み、深い色の絨毯には歴代コーラス王家の紋章が織り込まれている。
その奥に座るのは、コーラス三世。
そして、その隣には王妃エルメラ・コーラスがいた。
トローラ・ロージンは、二人の前に立ちながら、すでに帰りたくなっていた。
王との面会という時点で気が重い。
そこに王妃までいる。
さらに今回の用件については、身に覚えがあるような、ないような、しかし間違いなく自分に責任があるような気がしてならない。
トローラは一度、咳払いをした。
「ええと」
コーラス三世は、穏やかな表情で彼を見ていた。
エルメラ王妃もまた、王妃にふさわしい優雅な微笑みを浮かべている。
その二つの視線を受け、トローラはますます居心地が悪くなった。
「なんで一介の騎士が、王様と王妃様にこんなことで頭下げてんのか、よく分からねぇんですけど」
「君が一介の騎士かどうかについては、議論の余地があるね」
コーラス三世が言った。
「余地はねぇよ」
「白騎士殿」
「その呼び方をやめろ」
トローラは即座に返した。
コーラス三世は楽しそうに笑った。
その笑顔が、トローラには嫌だった。
責めているわけではない。
怒ってもいない。
ただ、よく知っている相手が相変わらず面倒に巻き込まれているのを、心から面白がっている目だった。
トローラはその視線から逃れるように、エルメラへ顔を向けた。
「とにかく」
一度、頭を掻く。
「王女に悪い言葉を覚えさせて、すんません」
エルメラは上品に目を細めた。
「まあ」
声も柔らかい。
「トローラ卿が教えたのですか?」
「教えてねぇんですけどね」
「では、セイレイが勝手に?」
「俺の真似をしようとしたらしいです」
「なるほど」
エルメラは静かに頷いた。
その仕草は、どこからどう見ても完璧な貴婦人だった。
指先の動き。
背筋の伸ばし方。
わずかな微笑み。
どれも洗練されている。
トローラは、少しだけ肩の力を抜いた。
少なくとも王妃は、話の通じる人物らしい。
「若い時には、悪いものに憧れるものです」
エルメラは言った。
「そういうもんですかね」
「ええ。言葉遣いも、服装も、振る舞いも。一時的に形を変えて、自分がどのような人間なのか確かめたくなることがあります」
「はあ」
「大切なのは、それを場所と相手によって使い分けられるかどうかです」
「なるほど」
トローラは感心したように頷いた。
さすがは王妃である。
言葉に重みがある。
若者の反抗を頭ごなしに否定せず、それを成長の一部として受け止める。
実に懐の深い人物だ。
「このように――」
エルメラが言った。
その瞬間。
空気が変わった。
優雅に重ねられていた両手が離れた。
背筋は伸びたままだったが、肩の力がほんの少し抜ける。
顎がわずかに前へ出た。
細められた目が、先ほどまでとはまるで違う光を帯びた。
王妃の微笑みは消えていない。
だが、その笑みの奥から、何か非常に古く、非常に危険なものが顔を覗かせた。
「テメェよぉ」
トローラの身体が固まった。
エルメラは、貴婦人そのものの姿勢で続けた。
「ウチの娘に、なに余計な影響くれてんだ、あぁ?」
流暢だった。
セイレイのつたない言葉とは違う。
発音。
間。
語尾。
相手へ圧をかける呼吸。
どれも完全に身体へ染みついている。
即席で覚えたものではない。
明らかに、かつて日常的に使っていた者の言葉だった。
「え」
トローラの口から、間の抜けた声が漏れた。
エルメラは優雅に脚を組み替えた。
動きだけ見れば、宮廷画に描かれる王妃そのものだ。
「娘がよぉ。朝っぱらから鏡に向かって、『ナメてんじゃねぇぞ』だの、『ケツ持ってやる』だの練習してんだわ」
「いや、俺は教えてねぇ」
「あ?」
「俺は教えてません」
トローラは即座に言い直した。
エルメラは目を細めた。
「じゃあ何か? テメェは何にも悪くねぇって言いてぇのか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「セイレイが、どこの誰に憧れてああなったか、分かって言ってんだろうな?」
「分かってます」
「名前を言ってみろ」
「俺です」
「声が小せぇ」
「俺です!」
小広間にトローラの声が響いた。
コーラス三世は口元へ手を当てていた。
肩がわずかに震えている。
明らかに笑いをこらえている。
「おい、サード」
「何かな」
「助けろ」
「夫婦の教育方針に、客人が口を挟むべきではないよ」
「俺は客人じゃなくて、今まさに教育されてる側だろ!」
エルメラは、つい先ほどまで紅茶を飲んでいた繊細な指で、卓上を軽く叩いた。
音は小さい。
だが、トローラは反射的に背筋を伸ばした。
「アタシらがよぉ、娘をここまで品よく育てんのに、どんだけ苦労したと思ってんだ」
「いや、立派に育ってますよ」
「その立派な娘が、今じゃ廊下で騎士ども相手に『おう、気合入ってんな』だぞ?」
「それは……」
「しかも似合ってねぇ」
「それは俺も言いました」
「笑ったのか?」
「笑ってません」
「本当か?」
「少ししか」
エルメラの目が鋭くなった。
「笑ってんじゃねぇか」
「すんません」
トローラは素直に頭を下げた。
コーラス三世の肩が、さらに大きく震えた。
「サード、お前本当に楽しんでるだろ」
「いや」
「こっち見ろ」
「見ているよ」
コーラス三世は、実に穏やかな顔をしていた。
かつて自分を救った騎士。
王家に仕えようとせず、褒賞から逃げ、白騎士という呼び名すら嫌がる男。
その男が今、自分の妻に詰められ、王女へ悪影響を与えたことを謝罪している。
その光景を、コーラス三世は心から愉快そうに眺めていた。
「トローラ」
「何だよ」
「相変わらずのようで安心したよ」
その瞳には、信頼があった。
親愛があった。
そして何より、
――やはり君は、どこへ行っても人に好かれ、妙なものを背負い込むのだな。
という、完全に理解者を気取った色があった。
トローラは、その視線を正面から受けた。
一秒。
二秒。
耐えられなかった。
「その瞳で俺を見るなぁぁッ!」
トローラの絶叫が、小広間に響き渡った。
コーラス三世はとうとう声を上げて笑った。
エルメラもまた、口元を扇で隠していた。
ただし、その目だけはまだ笑っていない。
「まだ話は終わってねぇぞ、トローラ卿」
「王妃様に戻ってください!」
「使い分けられればよいと申したでしょう?」
「切り替えが怖ぇんだよ!」
エルメラは扇を閉じた。
そして、何事もなかったように、再び完璧な貴婦人の微笑みを浮かべた。
「では、今後とも娘をよろしくお願いいたしますね」
「嫌な予感しかしねぇ」
「セイレイは、あなたをたいそう慕っております」
「その誤解を解いてくれ」
「誤解?」
エルメラは小首を傾げた。
「あなたが、本当は仲間思いの高潔な騎士であるという話でしょうか」
「全部だよ!」
「まあ」
エルメラは優雅に笑った。
「若い娘が、少しくらい悪い男に憧れるのは、自然なことです」
「だから俺は悪い男だって言ってんだろ!」
「分かっています」
「分かってねぇ!」
「私も若い頃は、少々やんちゃな殿方に憧れたものです」
そう言って、エルメラはコーラス三世へ視線を向けた。
コーラス三世は、なぜか少しだけ遠い目をした。
トローラは二人を見比べた。
「まさか」
コーラス三世は答えなかった。
エルメラがにこやかに告げた。
「学生時代、鞄に鉄板を入れていた程度の、ささやかなものですわ」
「ささやかじゃねぇよ!」
「教科書が折れませんので、便利でした」
「絶対それだけじゃねぇ!」
「護身にも使えます」
「やっぱり使ってたんじゃねぇか!」
エルメラは、心外そうに眉を寄せた。
「失礼な。先に手を出したことはありません」
「出されたら?」
「話し合いました」
「鉄板入りの鞄で?」
「円滑に」
トローラは天井を仰いだ。
セイレイがなぜ、不慣れながらも妙な方向へ順応しつつあるのか。
その理由が、今ようやく分かった。
血だった。
「王女の教育について、一つだけ言わせてくれ」
「何でしょう」
「俺じゃなくて、あんたの影響だ」
エルメラは、再び優雅に微笑んだ。
「それをセイレイへ伝えたら――」
声がわずかに低くなる。
「分かってんだろうな?」
「言いません」
トローラは即答した。
「結構です」
王妃は満足そうに紅茶のカップを持ち上げた。
その姿は、どこから見ても気品に満ちた王妃そのものだった。
コーラス三世が、まだ笑いを残した声で言った。
「トローラ。今日は泊まっていくといい」
「帰る」
「セイレイが待っているよ」
「なおさら帰る」
「新しく覚えた言葉を、君に聞いてほしいそうだ」
「絶対に帰る!」
エルメラが紅茶を一口飲み、静かに告げた。
「逃げんなよ」
トローラの足が止まった。
背後から聞こえたのは、完璧に洗練された、元ヤンキー王妃の声だった。
「……コーラス王家、怖ぇ」
トローラは心の底から呟いた。