トローラ・ロージンは、帰るつもりだった。
本気で帰るつもりだった。
王妃エルメラ・コーラスとの会談を終えた時点で、その日一日分の精神力はすでに使い果たしている。
完璧な貴婦人にしか見えなかった王妃が、学生時代には鉄板入りの鞄を持ち歩いていた元ヤンキーだった。
しかも、その過去を恥じるどころか、必要とあらば今でも流暢な言葉と間合いで相手を詰められる。
その事実だけで、トローラには十分すぎた。
「それでは、俺はこれで」
トローラは王と王妃へ形ばかりの礼をすると、踵を返した。
「夕食は七時からだよ」
背後から、コーラス三世が言った。
トローラの足が止まった。
「何の話だ」
「夕食の話だよ」
「誰の」
「我々の」
「俺には関係ねぇな」
「君も出る」
「なんで?」
トローラは振り返った。
コーラス三世は、何を当たり前のことを聞くのかという顔をしている。
隣では、エルメラが優雅に紅茶を飲んでいた。
「今日は非公式の夕食会なんだ」
「なおさら俺が出る理由がねぇだろ」
「公式の晩餐ならば、君は逃げるだろう?」
「非公式でも逃げるよ」
「だから、すでに厨房へ君の分も用意させている」
「勝手に用意すんな」
「食材を無駄にしてはいけない」
「王様が食え」
「私はもう一人分ある」
「王妃様が」
「私も適量をいただきますわ」
エルメラが、にこやかに答えた。
「トローラ卿の分はトローラ卿がお召し上がりくださいませ」
「逃げ道を一つずつ潰すのやめてもらえます?」
「まあ。せっかくセイレイも、あの子の弟も、楽しみにしておりますのに」
トローラは眉を寄せた。
「弟?」
「ええ。セイレイの弟です」
「聞いてねぇぞ」
「今、お伝えしました」
「王族が一人増えてんじゃねぇか!」
コーラス三世は愉快そうに笑った。
「安心するといい。あの子はセイレイほど君に夢中ではないよ」
「その言い方だと、王女が相当ひどいみてぇじゃねぇか」
「違うのかい?」
「俺に聞くな」
トローラは額を押さえた。
セイレイ王女が自分へ憧れている。
そこまでは、まだいい。
よくはないが、若者が妙な相手へ憧れることはある。
問題は、セイレイがトローラの言葉遣いを真似しようとしていることだった。
しかも、上流階級の令嬢が想像する「悪党騎士の言葉」である。
実際のトローラより妙に古く、妙に荒々しく、妙に気合が入っている。
そのセイレイだけでも厄介なのに、今度は弟王子までいるという。
「俺みてぇなのを入れたら、家族団欒が台無しになるぞ」
「そうでしょうか」
エルメラが上品に小首を傾げた。
「家族の団欒というものは、時に外から一人くらい面倒な方が加わった方が、話が弾むものです」
「今、面倒な奴って言った?」
「気のせいですわ」
「気のせいじゃねぇよな、サード」
「私は聞いていないよ」
「夫婦で連携すんな」
コーラス三世は立ち上がった。
「では、七時に」
「行かねぇぞ」
「迎えを寄越そう」
「逃げるぞ」
「王宮内の客室は、すでに用意してある」
「泊まらねぇよ」
「正門には、君を通すよう命じてある」
「出る方の命令は?」
「していない」
トローラは黙った。
コーラス三世は、満足そうに微笑んだ。
「では、後ほど」
「待て。今のはどういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
「俺、帰れるんだよな?」
王は答えなかった。
エルメラだけが、完璧な王妃の笑みを浮かべた。
「逃げんなよ」
「その言い方で見送るな!」
/*/
午後七時。
トローラは、王宮の私的区画にある小食堂へ案内された。
来たくて来たわけではない。
逃げようとはした。
だが正門へ向かう途中、トリオ騎士団の騎士二名に、
「夕食会場はこちらです」
と、ごく自然に進路を変えられた。
拒否すればよかった。
しかし、二人とも笑顔だった。
笑顔ではあったが、その立ち位置は完全に左右の退路を塞いでいた。
「お前ら、俺を拘束してる自覚あるか?」
「とんでもございません」
「ご案内しているだけです」
「じゃあ離れろ」
「道に迷われてはいけませんので」
「俺、出口へ行こうとしてたんだけど」
「会場はこちらです」
「話を聞け」
そうして連れてこられた小食堂は、トローラが想像していたよりもずっと質素だった。
もちろん、一般的な邸宅と比べれば十分に豪華である。
だが、大広間の長大な食卓も、儀礼用の金銀食器もない。
五人が余裕をもって座れる丸い食卓。
落ち着いた色の壁紙。
窓辺には小さな花瓶。
料理を運ぶ給仕たちも、必要以上の人数はいない。
王家の者たちが、公務から離れて静かに食事をするための場所なのだろう。
その事実が、トローラにはかえって重かった。
「来たな!」
セイレイが立ち上がった。
王女はすでに席についていた。
トローラを見るなり、嬉しそうに顔を明るくする。
「遅かったじゃねぇか、トローラ」
「その喋り方をやめろ」
挨拶より先に言った。
セイレイの表情が少し曇る。
「今日はかなり練習したのだぞ」
「練習すんな」
「母上にも教えていただいた」
トローラの身体が固まった。
ゆっくりと、エルメラを見る。
王妃はすでに席につき、優雅にナプキンを整えていた。
「何を教えたんです?」
「言葉は、表面だけを真似ても身につかないと」
「その先を聞きたくねぇ」
「呼吸、視線、間合い、相手への圧力のかけ方などを、少々」
「王女に何を継承しようとしてんだ!」
「姉上」
控えめな声が割って入った。
「その言葉遣いは、やはり公の場では控えられた方がよろしいかと思います」
セイレイの隣に、幼い王子が座っていた。
姉と同じく整った容貌を持つが、表情はずっと穏やかである。
姿勢はよく、衣服にも乱れはない。
食卓へ着く前に、きちんとトローラへ立ち上がって一礼した。
「初めてお目にかかります、トローラ卿。姉がいつもお話ししております」
「嫌な予感しかしねぇ紹介だな」
「ご安心ください。私は姉ほど言葉遣いに影響を受けておりません」
「いい子だな、お前」
トローラは即座に言った。
「王家に一人でもまともなのがいて安心した」
「トローラ」
セイレイの声が低くなる。
「誰がまともではないと言った」
「お前だよ」
「上等だ。表に出ろ」
「姉上」
弟王子が静かに窘める。
「ここは食堂です」
「言葉の綾だ」
「その言葉の綾をどこで覚えたのですか」
セイレイが黙った。
弟王子は小さく息をついた。
トローラは、感心したように少年を見た。
「苦労してんな」
「姉上は立派な方です。ただ、最近は少々、方向を見失っておられるようで」
「お前、本当に育ちがいいな」
「ありがとうございます」
弟王子は素直に頭を下げた。
その動作には、皮肉も裏もない。
王族としてきちんと教育された、ただ礼儀正しい少年だった。
「トローラ」
コーラス三世が席から声をかけた。
「立ったままでは食事が始められない」
「俺の席は?」
「そこだ」
王が示した席は、セイレイと弟王子の間だった。
トローラは席を見た。
セイレイを見た。
弟王子を見た。
もう一度、席を見た。
「王子の隣なら、まだいいか」
「私は歓迎いたします」
弟王子が言った。
「以前より、サード陛下をお救いくださった時のお話を伺いたいと思っておりました」
「お前もそっちか」
「姉上のように誇張して解釈するつもりはありません」
「頼もしいな」
「ただ、父上を守ってくださったことには、王家の一員として感謝しております」
「……ああ」
真っすぐに感謝されると、トローラは弱い。
照れ隠しの悪態をつく気にもなれず、曖昧に頷いた。
セイレイが、その様子を不満そうに見た。
「私が感謝を告げた時とは、ずいぶん態度が違うな」
「お前は余計な美談を三つくらい足すからだよ」
「事実だ」
「誤解だ」
「本人だけが認めない事実だ」
「それを誤解って言うんだよ!」
弟王子が、トローラのために椅子を少し引いた。
「どうぞ」
「悪いな」
「いえ」
トローラが座る。
右には、憧れをこじらせて不良言葉を覚え始めた王女。
左には、礼儀正しく穏やかな弟王子。
正面には、自分を完全に理解したつもりでいる王。
その隣には、元ヤンキー王妃。
弟王子が一人いるだけで、少しは安全になった。
だが、四対一が三対一になった程度である。
「今日は無礼講だ」
セイレイが言った。
「お前が言うと、絶対に無礼講にならねぇんだよ」
「なぜだ」
「王女様だからだ」
「今は私的な食事だ」
「私的でも王女は王女だろ」
「姉上」
弟王子が穏やかに言う。
「無礼講は、無礼に振る舞うという意味ではありません」
「分かっている」
「先ほどから、あまり分かっておられないように見えます」
「弟よ。今日は妙に私へ厳しいな」
「いつも通りです」
コーラス三世が穏やかに笑った。
「姉弟仲がよくて安心するよ」
「どこを見てそう思った」
トローラが反射的に言う。
「トローラ。相変わらず家族の会話へ自然に入るね」
「その瞳で俺を見るなぁぁッ!」
叫んでから、トローラは頭を抱えた。
今日二度目だった。
コーラス三世は楽しそうに笑う。
エルメラは口元を指先で隠している。
弟王子は、やや驚いた顔をした。
「父上は、どのような瞳でトローラ卿をご覧になったのですか」
「分かっているよ、全部分かっているよ、って顔だ」
「父上は、実際にトローラ卿をよく理解しておられるのでは?」
「お前までそっちへ行くな」
「失礼しました」
弟王子は素直に謝った。
しかし、その目にも父と同じような穏やかな親愛が宿り始めている気がして、トローラは警戒した。
「王子」
「はい」
「俺は悪党だからな」
「存じております」
「知ってんのか」
「姉上から、毎日のように伺っております」
「どんなふうに?」
「口では悪党を名乗りながら、最後には人を守る騎士だと」
「姉の話は話半分で聞け」
「半分にしても、立派な騎士だと思います」
「半分にする場所が違う!」
料理が運ばれてきた。
前菜は、香草を添えた魚介と、薄く切った野菜の盛り合わせだった。
王家の食卓らしく美しく整えられてはいるが、量は控えめで、家庭的な温かさがある。
トローラは、少しだけ身構えながらフォークを取った。
「毒は入っていませんわ」
エルメラが言った。
「疑ってませんよ」
「では、なぜそのように警戒しているのです?」
「食事以外の部分が怖いんです」
「心外ですわ」
「さっき流暢に詰めてきた人が言うことじゃねぇ」
弟王子が、小さく首を傾げた。
「母上がトローラ卿を?」
「「知らなくていい」」
トローラとコーラス三世が、ほぼ同時に言った。
弟王子は一瞬だけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「承知しました」
「察しが良くて助かる」
エルメラは、にこやかに魚介を口へ運んだ。
「ところで、トローラ卿」
「はい」
「普段は、どのような食事を?」
「適当です」
「適当とは?」
「食えるものを、食える時に」
セイレイが眉を寄せた。
「それでは身体を壊すぞ」
「騎士はそう簡単には壊れねぇよ」
「そういう問題ではない」
「何だよ」
「食事はきちんと取れ」
「お前は俺の母親か」
「姉上は、他者の食生活には細かいのです」
弟王子が説明した。
「自分はどうなんだ」
「姉上は野菜を残すことがあります」
「弟!」
セイレイが弟を睨んだ。
「事実です」
「今、その話は関係ないだろう」
「トローラ卿へ食事について説かれるのであれば、ご自身も改めるべきかと」
「お前、本当にしっかりしてんな」
トローラは弟王子を見て感心した。
「コーラス王家は、将来も安泰だ」
「ありがとうございます」
「トローラ」
セイレイが低い声を出した。
「私より弟を気に入っていないか」
「今のところ、かなり」
「何だと」
「お前と違って、変な喋り方をしねぇからな」
「私も、やろうと思えば普通に話せる」
「最初からそうしろ」
「だが、そなたと同じ目線で話すには――」
「言葉遣いを荒くする必要はありません」
弟王子が静かに割って入った。
「人と同じ目線で話すというのは、相手の口調を真似ることではないでしょう」
食卓が静まった。
セイレイが、弟を見た。
トローラも見た。
弟王子は、自分が何か大層なことを言ったとは思っていないらしい。
ただ当たり前のことを、当たり前に述べただけの顔をしている。
「……お前、姉より大人だな」
「聞き捨てならないぞ」
セイレイが言った。
「年齢の問題ではないと思います」
「弟よ」
「はい」
「あとで話がある」
「承知しました」
弟王子は動じなかった。
コーラス三世は、楽しそうに二人を眺めている。
エルメラもまた、どこか満足そうだった。
主菜が運ばれてきた。
肉料理だった。
見事な焼き加減で、濃厚なソースが添えられている。
セイレイが、トローラの皿を覗き込んだ。
「苦手なものはないのか?」
「ない」
「本当か?」
「食えるものは食う」
「好きなものは」
「肉」
「見れば分かる」
セイレイは少し考え、給仕へ顔を向けた。
「彼の分を、もう少し多くできるか?」
「おい」
「足りぬだろう」
「足りてる」
「遠慮するなよ」
ぎこちない言葉で、セイレイが言った。
トローラは眉間を押さえた。
「遠慮じゃねぇ」
「今日はアタシのシマだ。腹いっぱい食っていけ」
「王宮をシマって呼ぶな!」
弟王子が静かにナイフとフォークを置いた。
「姉上」
「何だ」
「それは、どのような意味でしょうか」
「この場所は私が責任を持つ、という意味だ」
「ここは父上の王宮では?」
セイレイが黙った。
コーラス三世が吹き出した。
トローラも思わず笑った。
「お前の弟、強ぇな」
「笑うな!」
エルメラが静かに口を開いた。
「セイレイ」
「はい、母上」
「その場合は、“ここはアタシが持つ”の方が自然です」
「教えなくていい!」
「なるほど」
「納得すんな!」
弟王子は、母と姉を交互に見た。
「母上は、なぜそれほど詳しいのですか」
食卓が止まった。
エルメラは、ゆっくりと弟王子へ顔を向けた。
完璧な王妃の微笑み。
「古い文学を、少々」
「文学ですか」
「ええ」
「学生時代のご経験ではなく?」
トローラが飲み物を噴きかけた。
コーラス三世は口元を押さえた。
セイレイは不思議そうに母を見る。
エルメラの微笑みは崩れなかった。
「誰から、そのような話を?」
「以前、宮中で古参侍女とアイリーンが、母上の学生時代について――」
「そのお話は、後ほど二人でゆっくりいたしましょう」
弟王子は、母の笑顔を見た。
一秒。
二秒。
少年は礼儀正しく頭を下げた。
「承知いたしました」
声は平静だった。
だが、トローラには分かった。
この王子も、危険を察する能力は十分に持っている。
「お前、長生きするぞ」
「ありがとうございます」
「トローラ卿」
エルメラが優雅に呼んだ。
「はい」
「何か余計なことを?」
「何も」
トローラは即答した。
「なら結構」
食事が進むにつれ、トローラの疲労は増していった。
料理自体はうまい。
酒も悪くない。
弟王子は礼儀正しく、話も通じる。
それでも、会話のたびに、自分についての妙に立派な解釈が飛んでくる。
否定する。
信じてもらえない。
さらに否定する。
照れ隠しだと受け取られる。
逃げ道がない。
「トローラ卿」
弟王子が言った。
「フロート・テンプルでの件について、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「嫌な予感しかしねぇけど、何だ」
「本当に、逃げ遅れただけなのですか」
「そうだ」
「三名を逃がすため、最後まで残ったのではなく?」
「違う」
「追撃するミラージュ騎士団を引きつけたのでもなく?」
「違う」
「ご自身の退路だけが、偶然失われたと」
「偶然じゃねぇ。俺だけ狙って切られた」
「アマテラス陛下に」
「そうだ」
弟王子は少し考えた。
「では、三名の撤退を確認するため最後尾に残った結果、アマテラス陛下に目をつけられたということでは?」
「お前もか!」
トローラは叫んだ。
セイレイが得意げに弟を見る。
「分かっただろう」
「はい。姉上のお話にも、一定の筋が通っているようです」
「通ってねぇ!」
「本人は認めない」
「その解釈を弟へ伝染させるな!」
弟王子は困ったように微笑んだ。
「申し訳ありません。しかし、トローラ卿が必要な時には他者を見捨てない方であることは、父上をお救いくださった件からも明らかです」
「一つやったからって、全部それで説明すんな」
「では、本当に必要な時にも見捨てるのですか?」
「それは……場合による」
コーラス三世が静かに笑った。
「ほら」
「サード、お前は黙ってろ!」
セイレイは確信を深めた顔をしていた。
弟王子も、姉ほど熱狂的ではないものの、納得したように頷いている。
トローラは悟った。
この家族に事実を説明するのは無理だ。
弟王子は常識人だ。
礼儀正しく、育ちもいい。
ただし、王家の一員である。
コーラス三世を救ったという実績を前にすれば、やはりトローラを好意的に解釈する。
姉のように不良言葉を真似ることはなくても、別の方向から同じ結論へ到達するのだ。
「なあ、サード」
「何だい」
「俺、いつ帰れる?」
「食後に茶がある」
「その後は?」
「セイレイが、君に相談したいことがあるそうだ」
「聞いてねぇぞ」
「今、言った」
セイレイが答えた。
「何の相談だ」
「騎士としての振る舞いについて」
「俺に聞くな」
「悪党としての振る舞いでもよい」
「もっと聞くな」
「私も同席してよろしいでしょうか」
弟王子が尋ねた。
トローラは弟王子を見た。
「お前も?」
「姉上が妙な方向へ進まれないよう、話を整理する者が必要かと」
「それならいてくれ」
「トローラ!」
「お前一人より百倍ましだ」
「姉上」
弟王子は穏やかに言った。
「言葉遣いを学ばれるより、騎士としての考え方を伺う方が有意義です」
「私は両方学びたい」
「片方は必要ありません」
「なぜだ」
「似合っておられませんので」
セイレイの顔が固まった。
トローラは耐えきれずに笑った。
「弟にまで言われてんじゃねぇか」
「笑うな!」
「いや、お前の弟は正しい」
「トローラ卿」
エルメラが呼んだ。
「はい」
「娘を笑いものになさらないでくださいませ」
声音は穏やかだった。
しかし、その奥に流暢な副音声が聞こえた。
――ウチの娘を調子こいて笑ってんじゃねぇぞ、あぁ?
「すんません」
トローラは即座に謝った。
弟王子は少し不思議そうに首を傾げた。
「トローラ卿は、母上に対してはずいぶん素直なのですね」
「世の中には逆らっちゃいけねぇ相手がいるんだ」
「アマテラス陛下のような?」
「種類が違うが、似たようなもんだ」
「トローラ卿?」
エルメラの声が、わずかに低くなる。
「何でもありません」
/*/
夕食会は、予定より一時間以上長引いた。
食後の茶。
セイレイからの質問。
弟王子による質問内容の整理と、姉への冷静な指摘。
コーラス三世の昔話。
エルメラによる、娘の言葉遣いに関する実演付き指導。
弟王子は、その指導だけは一貫して不要だと主張した。
トローラがようやく解放された時には、すでに王宮の外は暗くなっていた。
客室へ案内しようとする侍従を振り切り、トローラは廊下を早足で進んだ。
今度こそ帰る。
絶対に帰る。
このまま滞在すれば、明日の朝食にまで呼ばれかねない。
角を曲がったところで、背後から声がした。
「トローラ」
セイレイだった。
その隣には弟王子もいる。
弟王子は、姉より少し後ろに立っていた。
「まだ何かあるのか」
「今日は、来てくれてありがとう」
今度は、セイレイも普通の言葉だった。
トローラは足を止めた。
「勝手に連れてこられただけだ」
「それでもだ」
セイレイは少し迷い、それから頭を下げた。
「父上も母上も、楽しそうだった」
「俺は楽しくなかった」
「嘘をつけ」
「何でだよ」
「そなたも、途中から少し笑っていた」
トローラは黙った。
笑っていたかもしれない。
コーラス三世のからかい。
エルメラの豹変。
セイレイの似合わない不良言葉。
そして、礼儀正しい顔のまま姉を容赦なく窘める弟王子。
面倒で、疲れて、逃げたかった。
それでも、嫌ではなかった。
そのことを認めるのは、ひどく負けたような気がした。
「気のせいだ」
「そういうことにしておこう」
セイレイは微笑んだ。
弟王子も一礼した。
「本日は、ありがとうございました。お話しできて光栄でした」
「お前は最後までまともだな」
「姉上については、私からもできる限りお止めいたします」
「頼んだぞ」
「弟よ」
セイレイが不満そうに言う。
「私は止められるようなことはしていない」
「王宮を“シマ”と呼ばれるのは、おやめください」
「まだ一度しか言っていない」
「一度でも十分です」
トローラは、弟王子の肩に手を置きたくなる衝動を覚えた。
王族相手なので実際にはしなかったが、心から同情した。
「苦労するな、お前」
「姉上は立派な方です」
弟王子は、迷いなく答えた。
「ただ、少し影響を受けやすい性格が強いだけです」
「悪かったな」
「姉上の長所でもあります」
「お前、いい弟だな」
セイレイは少し照れたように顔を背けた。
「また来てくれ」
「嫌だ」
「次は朝食に」
「絶対に嫌だ」
「昼食でもよい」
「時間帯の問題じゃねぇ」
「では、非公式の茶会を」
「名称を変えても同じだ!」
弟王子が穏やかに提案した。
「次回は、もう少し短い時間にいたしましょう」
「王子の言うことなら、少しは信用できる」
「私の言葉は信用できないのか」
「今までのどこに信用できる要素があった?」
セイレイは少し考えた。
そして、つたないながらも得意げに言った。
「アタシらの仲に、水くせぇこと言うなよ」
トローラは目を閉じた。
王宮の高い天井を仰ぐ。
「王子」
「はい」
「止めてくれ」
弟王子は姉を見た。
「姉上。今の言葉遣いも、あまり自然ではありません」
「内容ではなく、そこを指摘するのか」
「内容についても、トローラ卿が困っておられます」
「照れているだけだ」
「その解釈が、最も困らせているのでは?」
セイレイは言葉に詰まった。
トローラは弟王子へ深く頷いた。
「お前だけが俺の味方だ」
「ありがとうございます」
「弟を取り込むな!」
廊下の奥から、エルメラの声が聞こえた。
「セイレイ。先ほどの言い方は、語尾に力を入れすぎです」
「母上、ありがとうございます!」
「教えるな!」
さらに別の方向から、コーラス三世の笑い声まで聞こえてきた。
弟王子は小さくため息をついた。
「申し訳ありません、トローラ卿」
「お前が謝ることじゃねぇよ」
トローラは、完全に悟った。
この王宮には、ほとんど味方がいない。
ただし、一人だけ比較的まともな王子がいる。
そして、その王子もトローラを立派な騎士だと思い始めている。
完全な味方とは言い難かった。
おそらく自分は、今後も何度となく、この非公式な夕食会へ呼び出される。
そのたびに帰ると言い、逃げようとし、結局席につかされるのだろう。
「……A.K.D.は借金で縛る。コーラス王家は飯で縛る」
トローラは、心の底から呟いた。
「どっちも質が悪ぃな」
するとエルメラが、離れた廊下の奥から、実に穏やかな声で答えた。
「次回は、あなたのお好きなお肉を多めに用意いたしますね」
弟王子も礼儀正しく付け加えた。
「姉上の言葉遣いについては、私が責任をもって抑えます」
セイレイが胸を張った。
「次までには、もっと自然にしてみせる」
「逆の意味だと思うぞ!」
トローラは、その場で頭を抱えた。
「もう逃げられねぇじゃねぇか!」