/*/ ジュノー コーラス王朝 王宮 畳の間 /*/
コーラス王宮には、妙な部屋がある。
床に畳が敷かれ、低い卓が置かれ、茶器が並び、外の庭には手入れされた木々が揺れている。
王宮らしい豪奢さは薄い。
だが、静かだった。
静かすぎて、かえって逃げ場がない。
その畳の間で、トローラ・ロージンはコーラス三世と向き合っていた。
膝は崩している。
正座などできる柄ではない。
コーラス三世もそれを咎めない。
王は負傷から回復しつつあるが、まだ完全ではない。
しかし、国民の前に立った時と同じく、その姿勢は崩れていなかった。
「トローラ卿」
「卿って柄じゃねえですよ、陛下」
「では、トローラ」
「そっちの方がまだ落ち着きます」
トローラは茶を一口飲み、顔をしかめた。
「熱い」
「茶はそういうものだ」
「王様の茶ってのは、もっとこう、飲むだけで強くなるとか、そういうのはないんですか」
コーラス三世は少しだけ笑った。
「ないな」
「ちぇっ」
その時、廊下の向こうがざわめいた。
足音。
控えめだが、ただ者ではない気配。
侍従が襖の向こうで告げる。
「陛下。ボード・ヴィラード様、ならびにレディオス・ソープ様がお見えです」
トローラの手が止まった。
茶碗を持ったまま、目だけが横へ動く。
「……今、なんつった?」
コーラス三世は穏やかに答えた。
「友人たちだ。私の見舞いに来てくれたらしい」
「友人」
「そうだ」
「ボード・ヴィラードと」
「ああ」
「レディオス・ソープが」
「ああ」
「陛下の友人として」
「そうだ」
トローラは、ゆっくり茶碗を置いた。
音を立てないように。
そして、すっと立ち上がった。
「失礼します」
「どこへ行く」
「死にたくないので」
コーラス三世が目を瞬かせる。
トローラは襖の方と反対側、庭へ逃げる導線を見た。
「星団三巨頭会議の場に居合わせたら死ぬわ」
「三巨頭?」
「陛下、自覚ないんですか。あんたと、ヴィラードと、ソープが畳の間で茶飲むとか、もう星団の密室会談じゃねえか。そこに俺みたいな半端な悪党騎士がいたら、空気だけで消し飛ぶ」
「そんなことはない」
「あります」
トローラは即答した。
「俺はK.O.G.に潰されかけて生き残った男ですが、政治のK.O.G.三体同時は無理です」
その時、襖が開いた。
ボード・ヴィラードが姿を現し、続いてレディオス・ソープが入ってくる。
ソープはいつものような飄々とした顔で、トローラを見るなり、にこりと笑った。
「やあ」
トローラは、反射的に一歩引いた。
「やあ、じゃねえ」
ヴィラードが低く笑う。
「逃げるのか」
「逃げます」
「正直だな」
「正直じゃなきゃ死ぬ場面だ」
ソープが首を傾げる。
「別に取って食べたりはしないよ」
「そういうこと言う奴ほど怖いんだよ!」
コーラス三世が困ったように笑う。
「トローラ、彼らは私の見舞いに来ただけだ」
「ええ。では、ごゆっくり。俺は医療区画で負傷者の様子を見てきます。すげえ大事な用事です。今思い出しました」
「本当に用事か?」
「今作りました」
トローラはそれだけ言うと、畳の間から逃げるように出ていった。
廊下へ出た瞬間、彼は深く息を吐く。
「危ねぇ……」
背中に、ソープの楽しそうな声が聞こえた気がした。
「面白い人だね」
「聞こえてんだよ……」
トローラは早足で医療区画へ向かった。
/*/ 王宮医療区画 ファティマ治療室 /*/
医療区画は、畳の間よりずっと落ち着く。
薬品の匂い。
器具の音。
医師たちの低い声。
ここには、命がある。
減ったり、戻ったり、ぎりぎりで繋がったりする命が。
負傷したファティマは二名。
コーラス三世を守って倒れたウリクル。
そして、ミミバ族に川へ捨てられ、トローラが引き上げたシューシャ。
ウリクルは、まだ医療槽の中にいる。
呼吸は戻った。
心臓も戻った。
だが、重傷であることに変わりはない。
コーラス三世の側近たち、医師、イエッタが交代で状態を見ている。
トローラは、ウリクルの状態を確認した後、別室へ向かった。
そこには、シューシャがいた。
医療ポッドからは出られるようになっていたが、まだベッドの上で安静にしている。
川に流されたため体温は落ち、肺にも負担が残っている。
顔色は悪い。
しかし、意識はある。
トローラが入ると、シューシャはゆっくり目を開いた。
「……マスターは?」
第一声がそれだった。
トローラは少しだけ足を止める。
答えに迷ったのは一瞬だけだった。
嘘をついても仕方がない。
「コーラス三世に討ち取られた」
シューシャの目が、わずかに揺れた。
悲鳴はない。
泣きもしない。
ただ、主を失ったファティマの沈黙が落ちた。
トローラは椅子を引き、ベッドの横にどかっと座った。
「それにしても、お前、クープ博士の銘入りファティマだろ」
シューシャの視線が動く。
「……」
「黙っても分かる。動きと反応が綺麗すぎる。あの雑な戦場に置くには上等すぎるんだよ」
トローラは腕を組んだ。
「それを使い捨てか。贅沢なこった」
「私は……」
「しかも身分をブーレイ傭兵騎士団と偽っても、行動でフィルモア帝国ってバレバレだ」
シューシャの唇がわずかに動く。
「それは……」
「言わなくていい」
トローラは片手を振った。
「俺は尋問しに来たんじゃねえ。ファティマから情報を抜き取ろうとか、そういう趣味もねえ」
シューシャは、少しだけ目を細めた。
「信じろと?」
「信じなくていい」
トローラは即答した。
「俺だって、昨日までなら信じるなって言う。元ユーバー汚職大公の雇われ悪党騎士だぞ。信用できるわけねえだろ」
「では、なぜ」
「気分だ」
「気分」
「ああ」
トローラは、少しだけ顔をしかめた。
「俺は今日、死ぬはずだったファティマを二人見た。ウリクルとお前だ。片方は心臓を戻した。片方は川から引っ張り上げた。だったら、助かった後に雑に扱うのも気分が悪い」
シューシャは黙った。
トローラは続ける。
「良い気になるなよ。お前の立場は悪い。主は死んだ。所属も怪しい。敵側のファティマだ。政治屋や軍務屋が見れば、情報の塊だ」
「……はい」
「だが、少なくとも俺は、お前を剥いて中身を見るつもりはねえ」
トローラは、壁際の医療記録を見る。
「今は傷を癒せ」
シューシャが、かすかに顔を上げる。
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
「私は、敗れたファティマです」
「だから?」
「マスターも失いました」
「だから?」
「私は……」
言葉が途切れる。
ファティマにとって、その先は重すぎる。
トローラは、少しだけ乱暴に言った。
「そしたら、また新しい主人を探せば良い」
シューシャの目が大きくなる。
「そんな簡単に」
「簡単じゃねえよ」
トローラは笑った。
「でも、生きてるなら次がある。俺はK.O.G.に頭を潰されて死に損なった。騎体も失った。元の飼い主も吹っ飛んだ。なのに、こうして王宮の医療区画でファティマ相手に説教してる」
「……」
「人生、だいたい予定通りにはいかねえ」
シューシャは、ゆっくり瞬きをした。
「あなたは、騎士なのですか」
「一応な」
「悪い騎士ですか」
「だいぶ悪かった」
「今は?」
トローラは少し考えた。
「負け犬騎士だ」
「負け犬」
「ああ。K.O.G.に負けた。逃げた。生き残った。だから次は勝つ。勝てなくても、誰かを死なせないくらいはやる」
シューシャは、初めて少しだけ表情を動かした。
「変な騎士ですね」
「よく言われる予定だ」
「予定」
「これから有名になるからな」
トローラは歯を見せて笑った。
その笑いは乱暴で、品がなくて、王宮には似合わない。
だが、不思議と湿ってはいなかった。
砕かれても立ち上がる者の笑いだった。
「だから、お前も寝ろ。傷を治せ。目が覚めたら、自分の足で次のマスターを探せ。フィルモアに帰るのか、別のところに行くのか、それは知らん」
シューシャは静かに言った。
「私は、帰れるのでしょうか」
「帰れるかどうかは知らねえ」
「……」
「でも、帰るかどうかを考える時間は作れる」
トローラは立ち上がった。
「その時間を、俺たちが今稼いでる。コーラス王は国民の前で立った。ウリクルは戻った。お前も生きてる。なら、次の話は明日でいい」
シューシャはしばらく彼を見ていた。
そして、小さく言った。
「トローラ・ロージン」
「あ?」
「覚えました」
「そりゃ光栄だ」
「あなたは、私から何も聞かないのですね」
「聞いてほしいなら聞く」
「いいえ」
「なら聞かねえ」
トローラは扉へ向かった。
その背中に、シューシャが声をかける。
「負け犬騎士様」
「なんだよ」
「私は、少し眠ります」
トローラは振り返らず、片手を上げた。
「寝ろ。起きたら勝ちだ」
医療室を出ると、廊下の向こうからログナーが歩いてきた。
彼はトローラを見て、短く問う。
「情報は抜いたか」
「抜いてねえよ」
「そうか」
「疑ってたな」
「当然だ」
「正直でよろしい」
ログナーは医療室の扉を見る。
「彼女は何と」
「寝るってよ」
「なら、良い」
トローラはふと、畳の間の方向を見た。
「で、あっちの星団三巨頭会議は?」
「まだ続いている」
「俺、戻らなくていいよな」
「戻った方がいい」
「なぜ」
「コーラス陛下が呼ぶだろう」
「呼ばないでくれよ……」
ログナーが、ほんの少しだけ口元を動かした。
「諦めろ。お前は目立ちすぎた」
トローラは天井を仰いだ。
「K.O.G.に負けても目立たなかったのに、心臓マッサージで目立つのかよ」
「そういう日もある」
「最悪だ」
だが、声ほど嫌そうではなかった。
ウリクルは戻った。
シューシャも生きている。
なら、今日は勝ちだ。
死んでいないなら勝ち。
トローラ・ロージンは、そういう雑な理屈を胸に、王宮の廊下を歩き出した。
畳の間には、星団の怪物たちが待っている。
逃げたい。
非常に逃げたい。
だが、砕けた空から戻ってきた負け犬騎士は、今日もまだ走らなければならなかった。