オリジナルキャラクターたちによる熱きレース群像劇。
17歳の現役高校生ドライバー・一ノ瀬美織と、17インチのサファイアブルーBRZが魅せる、公道レースの新たな地平をどうぞお楽しみください。
第1話:サファイアブルーの遺伝子
日本のモータースポーツ界を揺るがした法改正から、わずか3年。
「16歳からの普通自動車免許取得の解禁」
かつて若者の車離れと叫ばれた時代は過去のものとなり、いまや高校の駐輪場の横に、生徒たちがアルバイトで手に入れた中古のコンパクトカーやスポーツクーペが並ぶ光景も珍しくなくなっていた。
だが、それが単なる「移動手段の低年齢化」に留まらないことを、日本中、いや世界中の熱狂的なクルマ好きたちが知っていた。世界的な配信プラットフォームで数千万人の視聴者を集める公道レース『MFG』。その下部組織として新設された『MFGフレッシュマンシリーズ(MFG-F)』は、馬力を300馬力以下に制限し、10代の若き才能を青田買いするための、文字通りの虎の穴だった。
初夏の強い日差しが照りつける鹿児島。
市街地から少し外れた山裾に位置する「一ノ瀬モータース」のガレージには、金属の焼ける匂いと、高精度な化学溶剤の香りが充満していた。
リフトの上に鎮座しているのは、サファイアブルー・パールの輝きを放つスバル・BRZ(ZD8)。
「――おじいちゃん、そこ。右リヤの減衰、もう1クリック戻して」
低く、抑揚のない声がガレージに響いた。
声をかけたのは、一ノ瀬美織、17歳。現役の高校生ドライバーだ。
152センチメートル、体重は30キロ台後半。お世辞にも肉体的なアドバンテージがあるとは言えない華奢な体型。フィンランド人の母親から受け継いだ鮮やかな金髪ロングヘアを後頭部で無造作にお団子にまとめ、油汚れのついたツナギを着込んでいる。普段は極端に口数が少なく、その瞳は常に冷徹なまでに合理的だ。
「これ以上戻すと、バンプしたときの収まりが悪くなるぞ、美織」
リフトの下から顔を出したのは、一ノ瀬巌、67歳。
丸太のような腕とガチムチのマッチョな巨躯を持つその老人は、かつて関東の峠で「怪物」と恐れられ、あの藤原文太とも命を削り合ったという伝説の走り屋だ。今はここ鹿児島で、知る人ぞ知る本格派チューニングショップを営んでいる。
「いいの。芦ノ湖の火山灰(μ)を考えたら、路面からの入力をいなす方が先。ケツのセンサーが『もっと動かせ』って言ってる」
「……お前のそのケツの感覚だけは、データロガーの数値より信用できるから困るな」
巌は苦笑しながら、手慣れた動作でツールを操った。
美織が自分の華奢な体型をコンプレックスに思ったことは一度もない。それどころか、彼女の思考は極めてドライな戦闘主義(パッケージング)に基づいていた。
「邪魔なウェイト(胸)がないから、グリップウエイトレシオの計算上、無駄な車重を削れて好都合」
それが彼女の口癖であり、合理性の極みだった。MFGの鉄則である車重とタイヤ幅のレギュレーションにおいて、自身の体重の軽さは明確な武器になる。
そして彼女には、もう一つの圧倒的な武器があった。
母親であるエミリ・一ノ瀬から受け継いだ「フライング・フィン」の遺伝子。北欧の凍結路や超高速のグラベル(未舗装路)で鍛え上げられたアナログの路面センサー。美織は生まれながらにして、タイヤと路面が接地する境界の摩擦係数(μ)を、座席越しに五感で完璧に察知することができた。
「馬力は258馬力。ECUの現車セッティングで、中回転域のトルクの谷は完全に消してある。レスポンスはNA(自然吸気)の究極だ」
巌がボンネットをパチンと閉める。
美織のBRZが纏う武器は、それだけではない。大径18インチが主流のMFGにおいて、彼女があえて選択したのは「17インチ」へのインチダウンだった。
アドバン製の8.5J、フェンダーの内側にギリギリで収まるツラウチ仕様。
「いまのMFGはみんな見た目と一発の剛性を気にして18インチを履く。だけど、タイヤの表面がタレ始めてからは、17インチの『適度なタイヤのヨレ』こそが、路面の限界を正確に私に教えてくれる。ヨレは敵じゃない、味方」
美織はブルーのボディにそっと手を置いた。ゼッケンは『F24』。
このマシンには、もう一つの「遺志」が宿っている。
一ノ瀬駿。享年38歳。
かつてGT300/500のトップレーサーであり、あの高橋啓介の宿敵とも呼ばれた男。大パワー全盛の時代に、低馬力で軽量なBRZを駆り、第1回MFGの予選を14位で通過するという快挙を成し遂げた。しかし、決勝当日の朝、居眠り運転のトラックとの正面衝突により、その生涯を唐突に閉じられた。
その事故は、高橋兄弟をはじめとする初期のMFG関係者に深い傷を残した。
巌が、鹿児島から箱根までの遠征に、他人のキャリアカーを使わず、自分で頑さに積載車を運転していくのも、その時のトラウマがあるからだ。命を失う恐怖を誰よりも知る老兵は、孫娘を命がけでサポートすると決めていた。
ガレージの奥から、美織のスマートフォンが電子音を鳴らした。
画面に表示されたのは、担任の坂元先生からのメッセージ。美織はわずかに眉をひそめた。
「……また釘を刺された」
「学校のペナルティか?」
「うん。『箱根遠征から戻って、次の定期テストで一つでも赤点を取ったら、特別許可証は即没収する』って。遠征中も勉強しろって、数Ⅲの問題集を渡された」
「ははは! 走る方じゃなくて、そっちで失格になったら目も当て量んぞ」
「大丈夫。減点は失格(リタイア)と同じ。レギュレーションだと思えば、全力でクリアするだけ」
美織はぶっきらぼうに言い放ち、問題集をレーシングリュックの中に押し込んだ。
彼女にとって、これからの戦いは単なるレースではなかった。
母・エミリは現在、高橋涼介からの直々の依頼を受け、単身上京してMFGの統括アドバイザー(コース監修および安全レギュレーション策定担当)を務めている。身内を甘やかさない母から課された参戦条件は、母のラリー仕様WRX STIを相手に、鹿児島の私設峠での先行後追いタイマンバトルで勝つことだった。それをクリアして、ようやくもぎ取ったエントリーシートなのだ。
箱根には、すでに怪物たちが集まりつつある。
緒方からマシンを投資され、シミュレーターで牙を研ぎ澄ました「理詰めの秀才」逢坂彗(GR86)。
理論を超越した圧倒的な突進力を持つ「野生の天才少女」阿澄蘭(BRZ)。
さらにはドイツからの逆輸入レーサーであるマクシミリアン・シュミット(ロードスター)や、ポルシェを駆る氷室玲香といったエリートたちが、美織の前に立ちはだかることになる。
「行くよ、おじいちゃん。積載車の準備、手伝う」
「おう。箱根の火山灰を、その17インチで切り裂きに行ってやるか」
夕日に照らされたサファイアブルーのBRZが、静かに積載車の荷台へと吸い込まれていく。
17歳の現役高校生ドライバー、一ノ瀬美織。
父の走った箱根の空へ、蒼穹の遺伝子が、いま再び解き放たれようとしていた。
(第1話:サファイアブルーの遺伝子 編・完)
『蒼穹の遺伝子 -昴と彗星-』の第1話、いかがでしたでしょうか。美織の徹底した合理主義と、17インチへのこだわり、そして彼女を取り巻く一ノ瀬家の濃密なバックボーンを描き出しました。
次回、第2話はいよいよ舞台を箱根へと移します。火山灰が浮く過酷なドライコンディションの中、ゴーストシステムなき純粋なタイム計測に挑む美織。美織のアタックを、どうぞお楽しみに!