高速S字でポルシェを鮮やかにパスし、2位へと浮上した一ノ瀬美織(BRZ)。その目の前に君臨するのは、予選から一度も首位を譲っていないマクシミリアン・シュミット(ロードスター)。英国で藤原拓海から直接教えを受けた「究極の公道遺伝子」を相手に、美織は17インチのすべてを賭けた最後の計算式を紡ぎ出します。
「出たぁーーーっ! 高速S字コーナーの出口、イン側を完全にキープした24号車・一ノ瀬美織が、ポルシェ・ケイマンの鼻先をねじ切るようにして前へ! 氷室玲香をパスし、ついに2位浮上です!」
実況の田中の絶叫が、箱根の山々にこだまする。
マシンの構造的弱点である「高速の振り返しでのわずかな慣性の乱れ」を、17歳の現役高校生に完璧に計算され、突かれた。
抜かれた氷室玲香は、フロントスクリーン越しに遠ざかっていくサファイアブルーのリヤコンビネーションランプを見つめながら、ステアリングを握る両手を微かに震わせていた。
「嘘……信じられない。あの速度の振り返しで、火山灰の上なのに1ミリもリヤがブレないなんて。あの子の車、一体どうなってるのよ……!」
プライドを完全に打ち砕かれた玲香だったが、その表情には恐怖を通り越した、畏怖の念が浮かんでいた。
美織のBRZは、ポルシェを背後に従えた瞬間から、さらなる加速体制に入っていた。
車重1200キロ台のFR。30mmローダウンされたその機体は、路面の火山灰が激しく舞い上がるダウンヒルセクションにおいて、水を得た魚のように鋭く、しなやかに躍動している。
そして、コントロールラインを通過する。
電子音と共に、車内のモニターに『FINAL LAP』の文字が点滅した。
「さあ、レースはついに最終周、ファイナルラップへと突入しました! トップを独走するのは、ゼッケン1番、マクシミリアン・シュミットのロードスター! そしてそれをコンマ8秒差で猛追するのが、14番手から驚異のゴボウ抜きを見せてきた一ノ瀬美織のBRZだ! 開幕戦の頂点を決める、最後の1周が始まります!」
その頃、特設ステージ裏のパドックでは、二代目珍獣・星野もかが、両手に「24」の順位提示ボードを抱えたまま、感動で大粒の涙をボロボロと流していた。
「ううう……美織ちゃん、すごいですぅ……! 14番から、もう2番まで行っちゃいましたぁ! 私、もう嬉しくて、胸のファスナーが弾け飛びそうですぅ!」
「もか! 泣いてる暇があったらボードをちゃんと持ちなさい! ほら、テレビカメラがこっち向いてるよ!」
上原マネージャーが鋭く叱りつけるが、彼女自身の目も、モニターに映し出されるサファイアブルーの激走に完全に釘付けになっていた。法改正から3年、数々の10代ドライバーを見てきた上原だったが、これほどまでに公道の路面と「会話」ができている少年少女は、過去に一人として記憶にない。
「……ここからが本当の地獄よ、美織」
現地の管制テント。統括アドバイザーの一ノ瀬エミリは、腕を組んだまま、氷のように冷たく、しかし母親としての熱い祈りを込めた眼差しでモニターを見つめていた。
「トップを走るマクシミリアン・シュミット。あの男の強さは、これまでの大人たちとは次元が違う。彼はイギリスのレーシングスクールで、片桐夏向と同じくあの”藤原拓海”から直接指導を受けた、言わば『公道最速理論の正統後継者』の一人よ。あんたのアナログセンサーと数Ⅲの計算が、あの領域にどこまで通用するか……見せてもらうわ」
エミリの危惧通り、首位を走る白のロードスター(ND5RC)の走りは、文字通り「完璧」だった。
MFG-Fの300馬力規制において、1.5リッターのライトウェイトスポーツであるロードスターは、パワー面では不利なはずだった。しかし、マクミリアンは藤原拓海から叩き込まれた「タイヤの負荷を極限まで均等に分散するドライビング」により、火山灰の浮く低μ路面であっても、4本のタイヤを100%効率よく使って前に進んでいた。
その走りの軌跡には、一切の無駄なスライドも、急激な挙動の変化もない。まるで箱根の山そのものと調和しているかのような、美しくも恐ろしいまでのサイレント・スピード。
(……追いつけない。あの白い車、全然ブレてない)
バックミラーに美織のBRZを捉えながらも、マクシミリアン・シュミットの精神は完全に静水のごとく落ち着いていた。
「フム……。後ろから来ているのは、17歳のガールか。フジワラ先生が言っていた通りだな。『日本の公道には、時として理屈やセオリーを超えた、天性のセンサーを持つ怪物が現れる』と。確かに素晴らしいフットワークだ」
マクシミリアンはフッと口元を綻ばせ、ステアリングを微修正した。
「だが、僕のロードスターの限界領域には、まだ届かない。このままチェッカーを受けさせてもらうよ」
残り3コーナー。
コンマ5秒のギャップが、美織の前に絶望的な壁となって立ち塞がっていた。
『美織、聴こえるか』
インカムから、巌じいちゃんの低く、しゃがれた声が響いた。
『タイヤの残量はどうだ。お前のケツのセンサーは、まだ死んじゃいねえな』
「……うん。フロント、まだ5%くらい余裕がある。右リヤは、火山灰のせいで少し熱を持ってるけど、まだヨレのコントロールは効く。でも……追いつかない。あのロードスターのラインには、計算の付け入る隙(エラー)が1ミリもないの」
美織の声に、初めて微かな焦燥が混ざる。
『ガハハ! 当たり前だ、相手は藤原拓海の教え子だからな! だがな、美織。計算で勝てねえなら、計算の『前提条件』をブッ壊しちまえ』
「前提条件を……壊す?」
『そうだ。奴は18インチの限界を完璧にトレースしてる。だが、お前の履いてるのは、俺たちが意地で選んだ17インチだ。あいつのデジタルな頭の中にある『箱根の路面μの計算式』に、17インチの”ヨレ”という、あり得ねえ未知数をブチ込んでやれ!』
巌の言葉が、美織の脳細胞を激しく覚醒させた。
(……そうか。あのロードスターは、路面が『滑る』ことを前提に、完璧な摩擦円を維持してる。なら……私がその摩擦円の『外側』で、新しい関数を作ればいい!)
美織のモノクロームの視界の中に、鮮やかな「青い境界線」が浮かび上がった。
最終セクション、箱根の深い緑に囲まれた超高速の複合最終コーナー。
マクシミリアンのロードスターが、完璧なアプローチでイン側のクリップへと向けてターンインを開始した、その瞬間。
サファイアブルーのBRZは、マクシミリアンの誰もが予想し得ない「さらに内側」、縁石のさらにイン側にある、火山灰と泥が強烈に堆積した「未舗装のグリーン(芝生)」へと、フロントタイヤを躊躇なく突っ込んだ。
「なっ……!? 24号車、コースアウトか!? 最終コーナーの手前、イン側のグリーンに左側の車輪を完全に落とした!」
実況の田中の声が裏返る。
放送ブースの池田竜次が、ガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。
「違う……! コースアウトじゃない! 溝落としだ……! かつて藤原拓海が秋名で、そしてこの箱根で見せた、公道の凹凸を利用した強制旋回! 彼女はそれを、30mmローダウンの低重心と、17インチの圧倒的なしなりを利用して、この火山灰の箱根で再現する気だ!」
ガガガガガッ!! と、BRZの左サスペンションが悲鳴を上げるような強烈な衝撃が美織を襲う。
しかし、30mm車高を落としたことで、底付き寸前のダンパーが強烈な反発力を生み出し、17インチタイヤのサイドウォールをこれ以上ないほど強烈に路面の地肌へと押し付けた。
火山灰と泥を文字通り「噛み砕き」、BRZの車体が、ロードスターの右サイドポンの真横へと、斜めに引き裂くような角度で飛び出してきた。
マクシミリアンが、生まれて初めてバックミラーではなく、サイドウィンドウの「真横」に迫るサファイアブルーの機体を目撃した。
「なにぃ!? グリーンから曲がって……上がってくるというのか!?」
マクシミリアンの顔が、驚愕に歪む。
サイド・バイ・サイド。
チェッカーフラッグが振られるコントロールラインまで、残りわずか100メートル。
2台のFRが、互いのエンジンフードを並べたまま、最後の加速勝負へと突入した。
(第9話:ファイナルラップの境界線 編・完)
第9話をお読みいただきありがとうございました!
ついに迎えたファイナルラップの最終決戦。藤原拓海の教え子であるマクミリアン・シュミットの「完璧なデジタル」に対し、美織は巌じいちゃんの言葉を受け、17インチのヨレと30mmローダウンの限界を超えた「グリーンの溝落とし」という、計算の前提を覆すウルトラCを敢行しました! 池田竜次氏の解説も最高潮に達しています。
次回、第10話:コンマ零秒の関数。
サイド・バイ・サイドのままコントロールラインへ飛び込む美織とマクミリアン。コンマ数秒、数センチメートルの差でチェッカーを受けるのはどちらなのか!? そしてレースを終えた美織に、母・エミリと巌じいちゃん、そしてもかちゃんたちから贈られる言葉とは。感動の開幕戦フィナーレをどうぞお楽しみに!