ガガガガガッ! とグリーンを削る凄まじい衝撃に耐えながら、一ノ瀬美織のサファイアブルーのBRZは、最終コーナーのイン側から強引に車体をねじり出してきた。
「並んだ、並んだぁーーーっ!! 最終コーナーの立ち上がり、イン側のグリーンを強行突破した24号車・一ノ瀬美織が、王者マクシミリアン・シュミットのロードスターと完全に横一線(サイド・バイ・サイド)! 残りわずか100メートル、2台のFRによる壮絶なドラッグレースだ!」
実況の田中のマイクが割れんばかりに響き渡る。
マクシミリアンの視界のすぐ左側。ドアミラーが触れ合い、互いのエキゾーストノートが激しく干渉し合う超至近距離で、サファイアブルーのボンネットが視覚的に並んでいる。
「信じられない……。あの火山灰の上で、さらにイン側の芝生を使ってポーションを維持するなんて。フジワラ先生が言っていた『理屈を超えた怪物』とは、まさに彼女のことか!」
マクシミリアンの端正な顔に、初めて焦燥と、それ以上の歓喜の笑みが浮かんだ。彼はロードスターの1.5リッターエンジンから最後の1馬力までを絞り出すように、アクセルペダルを床に踏み付けたままでステアリングをミリ単位で固定する。
対する美織の車内。
グリーンを通過した際の衝撃で、フロントの左側が激しく路面に擦れ、不快な金属音が響いていた。だが、美織の意識はそんな雑音を完全にシャットアウトしていた。
タコメーターの針は7200回転。2速から3速へ、電光石火のパドルシフト。
(3速、ギヤ比の繋がりは完璧。おじいちゃんのセットアップ……まだ生きてる。ここからコントロールラインまでの距離は、あと約50メートル。私のBRZの2.4リッターのトルクなら、理論上、時速1キロぶんだけ、私のほうが加速の伸び代(ベクトル)が大きい――!)
美織の頭脳は、最後の瞬間まで「コンマ零秒の関数」を解き続けていた。
泥と火山灰をリヤから激しく吹き飛ばしながら、サファイアブルーの機体が、白いロードスターの鼻先をわずかに、本当にわずか数センチメートルだけ前に押し出す。
『行けぇぇぇ、美織ィィッ!!』
インカムから、巌じいちゃんの魂の咆哮が鼓膜を震わせた。
パドックの超大型モニターの前では、星野もかが「24」のボードを胸に抱きしめたまま、息をすることすら忘れて画面を凝視していた。上原マネージャーも、隣のスタッフも、グランドスタンドを埋め尽くした数万人の大観衆も、全員が総立ちでその瞬間を見つめていた。
現地の管制テント。
エミリは、組んだ腕の指先が白くなるほど強く自分を抱きしめていた。
(美織……!)
白のロードスターと、サファイアブルーのBRZ。
2台の機体は、火花を散らすような咆哮を上げながら、重なるようにしてチェッカーフラッグが激しく振られるコントロールラインへと飛び込んだ。
――ビシィィィッ!!!
閃光のような電子音。
2台のマシンはそのままの速度で惰性走行(クーリングラップ)へと移っていく。
「チェ、チェッカーーーフラッグ!!! 同時! ほぼ同時にコントロールラインを通過しました! 目視では全く判別がつきません! 開幕戦・芦ノ湖GTの勝者はどちらだ!? 現在、オフィシャルによる写真判定(フォトフィニッシュ)が行われています!」
田中の実況が響く中、コース上の美織はヘルメットの中で小さく息を吐いた。
ステアリングを握る両手の感覚が、極限の緊張から解放されてジンジンと痺れている。
「……おじいちゃん。終わったよ」
『おう。よくやった、美織。最高の走りだったぞ』
巌の声は、少しだけ震えていた。
やがて、パドックの超大型モニター、そして全車の車内ディスプレイの順位表(リザルト)が、一斉に書き換えられた。
【1st:No.1 M.Schmidt(ロードスター)】
【2nd:No.24 M.Ichinose(BRZ)】
【Time Diff:0.012s】
「出ました! 判定が出ました! 勝者は12号車、マクシミリアン・シュミット! わずか『100分の1秒』……距離にして数十センチメートルの差で、一度も1位を譲ることなく死守しました! そして2位は、14番手から驚異のジャンプアップを果たした24号車・一ノ瀬美織! 惜しくも優勝は逃したものの、開幕戦にして全MFG関係者にその名を轟かせる、伝説的な走りを披露してくれました!」
スタンドから、地鳴りのような拍手と歓声が沸き起こった。それは勝者マクシミリアンへ…ではなく箱根の空の下、17歳の少女が魅せた奇跡のドライビングへの、惜しみない賛辞だった。
クーリングラップを終え、レース後の車検を終えたサファイアブルーのBRZ。
美織が、汗に濡れた金髪のお団子ヘアを解く。
「グッドレース、一ノ瀬。最後のグリーンからのアプローチ、本当に肝を冷やしたよ」
隣に並んだロードスターから降りてきたマクシミリアン・シュミットが、爽やかな笑みをたたえて右手を差し出してきた。
美織はその手をしっかりと握り返し、静かに視線を合わせる。
「……次は、計算通りに抜き去るから。100分の1秒の誤差、すぐに修正する」
「ハハ、楽しみにしているよ」
――そして、グランドスタンド前に設置された特設ポディウム。
華やかな音楽と、新MFGエンジェルズが掲げるフラッグがはためく中、開幕戦のトップ3が表彰台へと登壇する。
2位のステップに立った美織の胸元で、銀色のメダルが初夏の日差しを浴びて眩しくきらめいた。
手渡された巨大なシャンパンのボトル。マクシミリアンや3位のドライバーが勢いよく泡を噴射させる中、17歳の美織はまだお酒が飲めないため、代わりに用意されたノンアルコールのスパークリングウォーターのボトルを不器用そうに振る。
白い泡のシャワーが箱根の青空に舞い上がり、観客席からの大歓声がポディウムを包み込んだ。
その喧騒を、少し離れた場所から見下ろしている影があった。
エミリだ。
彼女は相変わらず冷徹な表情のまま腕を組んでいたが、その手には、美織がガレージに忘れていった数Ⅲの問題集がしっかりと握られていた。
「100分の1秒の敗北……。その原因を、次の第2戦までにしっかり計算しておきなさい、美織」
小さく、誰にも聞こえない声で呟いたエミリの口元には、厳しい運営の顔ではなく、ほんのわずかに母親としての誇らしげな微笑が浮かんでいた。
ピットの片隅では、巌じいちゃんがBRZの傷ついたフロントを愛おしそうに撫でながら、不敵に笑っている。
「へっ、17インチの空気圧とローダウンのデータは完璧に取れた。次はもっと攻めた足にしてやるからな、美織」
法改正から3年。
日本の公道モータースポーツの勢力図を塗り替える、サファイアブルーの遺伝子。
一ノ瀬美織の、そして『昴と彗星』の真の戦いは、この箱根の火山灰の空の下から、いよいよ本格的に動き出すのだった。
(第10話:コンマ零秒の関数 編・完)
(芦ノ湖GT・開幕戦編 完)
第10話をお読みいただきありがとうございました!
結果はわずか「0.012秒差」での2位!マクシミリアンが首位を死守したものの、14番手からのこの大進撃は、新生MFG-Fに「一ノ瀬美織」の名を強烈に刻み込む結果となりました。マクミリアンとの爽やかなスポーツマンシップ、そして遠くからそれを見つめる母・エミリの眼差しなど、公式レースならではの格式高いラストを描き切ることができました。
これで緊迫の「開幕戦編」は堂々の完結です!
……が、激闘を終えた美織を次に待ち受けているのは、新たなライバルでも、過酷なサーキットでもありません。そう、現役高校生としての「日常」と「赤点補習の危機」です(笑)。
次回、第11話からは【束の間のインターミッション(日常回)】がスタート!
レースを終えて学校へと戻った美織。そこへダイナマイトなやらかしクイーン・星野もかもクラスメイトとして本格合流(!?)し、ガレージでは巌じいちゃんが「次戦の雨のセットアップ」を企む中、美織は数Ⅲの問題集と再び死闘を繰り広げることに……。
お楽しみに!!