ミッドシップ(MR)特有の圧倒的なトラクションを誇るポルシェに対し、美織はさらなる限界領域での計算を開始。一方、ピットで見守る巌の胸には、亡き息子・駿への熱い想いが去来していました。
「3連ヘアピン」での神懸かり的なクロスラインにより、逢坂彗と阿澄蘭を同時に仕留めて3位へと躍進した一ノ瀬美織。サファイアブルーのBRZが放つエキゾーストノートは、箱根の山々にその存在感を強烈に刻み込んでいた。
だが、ここから先は本当の「トップ2」が君臨する絶対的な領域だ。
美織のフロントスクリーン越し、火山灰が激しく舞う超高速セクションの先に、1台の美しいシルエットが捉えられていた。
2位を走るゼッケン2、氷室玲香(21歳)の駆るポルシェ・718ケイマンだ。
「さあ、レースは終盤戦に突入! 3位の一ノ瀬美織が、2位の氷室玲香とのギャップをまたたく間に縮めていく! ポルシェ対BRZ、排気量も駆動方式も異なる2台のガチンコバトルが始まります!」
実況の田中のボルテージは上がりっぱなしだったが、解説の池田竜次はモニターに表示されるテレメトリーデータを凝視しながら、厳しい表情を崩さなかった。
「ここからの高速セクションは、BRZにとって非常に厳しい戦いになりますよ。氷室さんのケイマンはミッドシップ(MR)。リヤ車軸の直前に重いエンジンを積んでいるため、この火山灰の浮く低μ路面であっても、加速時にリヤタイヤへ強烈なトラクション(駆動力)をかけることができる。対する一ノ瀬さんのBRZはフロントエンジン・リヤドライブ(FR)。立ち上がりのトラクション勝負では、構造上どうしてもポルシェに分があります」
池田の分析通り、コーナーを抜けて直線へと向かう加速区間で、ポルシェ・718ケイマンは火山灰を文字通り「踏み潰す」ような加速を見せていた。4気筒ターボが弾き出す圧倒的なトルクが、美織のBRZをジリジリと引き離しにかかる。
(……やっぱり、立ち上がりがすごく速い)
美織はバケットシートを通じて伝わる微細なGの変化を感じ取りながら、小さく息を吐いた。
普通なら焦りが生じる局面。だが、美織の瞳はどこまでも冷徹に、前方の白いポルシェの挙動を「関数」として分解していた。
(ポルシェの重量バランスは45:55。減速時のフロントへの荷重移動が早い分、コーナーの進入でリヤがわずかに軽くなるはず。それに、彼女の18インチは剛性が高すぎて、火山灰の上でわずかに微振動(ジャダー)を起こしてる。……計算の余地は、まだある)
その頃、セコンドブース。
モニターに映し出される美織の走りを、巌は腕を組んだまま、微動だにせず見つめていた。その無骨な拳は、かすかに震えていた。
「駿……」
巌の口から、亡き息子の名前が漏れた。
かつて、第一回MFGが開催されたあの頃。美織の父親である一ノ瀬駿もまた、この箱根の地で、強大なパワーを誇る欧州のモンスターマシンたちに、非力なFRで立ち向かっていた。
『親父、車のパワーの差なんて、公道じゃ関係ねえよ。路面が滑れば滑るほど、俺たちの作った足回りが活きるんだ』
そう言って不敵に笑っていた駿の姿が、いまの美織の走りに完全にオーバーラップしていた。
「駿、見てるか。お前が残した14番手のグリッドから、美織はここまで上がってきたぞ。お前が届かなかったあの頂点へ、あいつは自分の力で行こうとしてる……!」
巌のインカムの向こうで、美織の冷徹な声が響いた。
『おじいちゃん。ポルシェの加速特性の計算、終わったよ』
「……おう、美織。お前のセンサーは何て言ってる?」
『次の超高速S字コーナー。あそこは火山灰の浮き方が不均等。ポルシェのMRトラクションでも、左右の激しい振り返しではリヤの収まりがコンマ1秒遅れる。そこが、私の計算式の『解答(ゴール)』』
「よし、行ってこい! お前のケツのセンサーを信じろ!」
美織はアクセルペダルをさらに深く踏み込んだ。30mmローダウンされたBRZが、地を這うような姿勢のまま、時速170キロを超える超高速S字コーナーへと突入していく。
前方を行く氷室玲香は、バックミラーに映るサファイアブルーの残像に、明らかな不快感を覚えていた。
「なんなの、あのBRZ……。予選14位の現役高校生じゃなかったの? なんでポルシェの私が、あんな安物の国産FRに煽られなきゃいけないのよ……!」
玲香のプライドが激しく逆撫でされる。彼女はギヤを落とし、ケイマンのステアリングをS字の1つ目のクリップへと鋭く投げ込んだ。
ガッ! と、火山灰を切り裂いてポルシェが旋回する。
だが、美織の予測通り、左右の激しい振り返しが連続する高速S字において、ミッドシップ特有の慣性モーメントの大きさが、ほんのわずかな「お釣り(お尻の振れ)」を生み出した。火山灰の上でリヤタイヤが一瞬だけ外側へ流れ、玲香はそれを修正するためにコンマ数秒、アクセルを開けるのが遅れた。
その刹那の隙を、美織の17インチFRが容赦なくこじ開けにいく。
(ここ……!)
美織はBRZのステアリングを電光石火の速さで切り返した。
17インチのサイドウォールが極限までヨレ、ゴムの分子がアスファルトと火山灰を同時に噛みちぎる。ローダウンされた車体は、左右の激しい荷重移動の最中であっても、路面と完全に平行な姿勢を維持し続けていた。
「インが開いたぁーーーっ! 一ノ瀬美織、高速S字の振り返し、ポルシェの一瞬の乱れを完璧に見切った! イン側のわずかなスペースに、サファイアブルーのノーズが完全に突き刺さった!」
実況の田中の絶叫とともに、2台のマシンは時速160キロ以上の超高速のまま、サイド・バイ・サイドの状態で並び立った。
互いのドアミラーが接触しそうなほどのゼロ距離。
「嘘……っ! ここで入ってくるの!?」
玲香が驚愕の表情で横を見る。そこには、金髪のお団子ヘアをヘルメットに押し込み、脇目も振らずに前だけを見据える17歳の少女の、凍りつくような横顔があった。
美織の脳内の計算式は、すでにこのバトルの「収束」を証明していた。
S字の出口、次のコーナーでイン側になるのは――BRZだ。
(第8話:頂上決戦の計算式 編・完)
第8話をお読みいただきありがとうございました!
2位を走る氷室玲香のポルシェ・718ケイマンとの、息を呑む超高速セクションでの攻防戦。MRの圧倒的なトラクションに対し、美織は「超高速S字での振り返しの遅れ」というミッドシップの物理的な弱点を正確に計算し、30mmローダウン×17インチの圧倒的なレスポンスでサイド・バイ・サイドに持ち込みました。ピットで見守る巌じいちゃんの、亡き息子・駿への想いも熱く描けたかと思います。
次回、第9話は【ファイナルラップの境界線】。
ついにポルシェをパスして2位へと浮上した美織。しかし、レースはついに最終周(ファイナルラップ)へ。目の前に立ち塞がるのは、予選トップから一度も首位を譲っていない絶対王者、マクミリアン・シュミットのロードスターです。藤原拓海の遺伝子を持つ男と、一ノ瀬駿の遺伝子を持つ少女。箱根の頂点を賭けた、最後の死闘が始まります! どうぞお楽しみに!