リシアは深くため息を吐いた。
そして空を見上げた。
夕暮れの空。
赤く染まる街並み。
その隣では、狼族の青年が嬉しそうに肉を食べている。
――面倒な奴に捕まった。
本当にそう思う。
だけど。
不思議と嫌ではなかった。
「リシア」
「なに」
「宿は?」
「取る予定」
「俺も」
「別々に取りなさい」
「なんで?」
「なんででもよ」
ガロは納得していない顔だった。
だがリシアは無視して歩き出す。
すると当然のようについてくる足音。
カツ、カツ、カツ。
「付いてこないで」
「宿探してるだけ」
「私も探してる」
「じゃあ同じ方向だな」
「違うと思う」
「運命だな」
「違う」
ガロは楽しそうだった。
何がそんなに楽しいのか分からない。
だが本人も分かっていない気がした。
しばらく歩くと、小さな宿屋が見えてきた。
木造二階建て。
古いが手入れはされている。
「ここでいいか」
ガロが言う。
リシアも看板を見上げた。
悪くない。
少なくとも酒場と一体になっているような騒がしい宿ではなさそうだ。
中へ入る。
受付の老主人が顔を上げた。
「いらっしゃい」
「部屋一つ」
「二つ」
ガロとリシアの声が重なった。
主人が困惑した顔になる。
「どっちだい?」
「二つ」
「一つ」
「二つ」
「一つ」
「二つ」
主人が笑いを堪え始めた。
リシアは頭痛を覚える。
結局。
部屋は二つ取った。
当然である。
階段を上がりながらガロが不満そうに言った。
「金の無駄だろ」
「無駄じゃない」
「隣の部屋だし」
「そうね」
「壁壊せば一つになるぞ」
「その発想が出る時点で正解だったわ」
ガロは首を傾げた。
本気で何がおかしいのか分かっていないらしい。
部屋の前で立ち止まる。
「じゃあ」
リシアが言う。
「今日はここで解散」
「え?」
「え、じゃない」
「なんで?」
「夜だから」
「明日も会うのに?」
「だから?」
「今話せば明日話す分が増えるぞ」
「意味が分からない」
ガロはしばらく考え込んだ。
そして真剣な顔で言った。
「確かに」
「納得したの?」
「してない」
「してるじゃない」
結局どっちなのだろう。
リシアはもう考えるのをやめた。
鍵を開ける。
部屋へ入ろうとして。
ふと呼び止められた。
「リシア」
振り返る。
ガロが立っていた。
先ほどまでのふざけた表情ではない。
少しだけ真面目な顔。
「なに」
「今日は助かった」
リシアは目を瞬いた。
「……私は何もしてない」
「した」
ガロは即答した。
「銀貨貸してくれたし」
「それだけ?」
「化け物じゃないって言ってくれた」
リシアは黙る。
ガロは笑った。
今度は静かな笑顔だった。
「嬉しかった」
その言葉に。
リシアは何を返せばいいのか分からなくなった。
何十年も生きてきたのに。
こんな時の返事は知らない。
だから。
少しだけ視線を逸らして言った。
「事実を言っただけよ」
「それでもだ」
ガロは満足そうに頷く。
そして自分の部屋へ向かった。
「おやすみ!」
大きな声だった。
宿中に聞こえるくらい。
リシアは眉をひそめる。
「うるさい」
「おやすみ!」
「二回言わなくていい」
「おやすみ!」
「三回も言うな!」
廊下の向こうから笑い声が聞こえた。
宿の客らしい。
リシアは顔をしかめながら部屋へ入る。
扉を閉める。
静寂。
久しぶりだった。
いつもなら安心する静けさ。
だが今日は少し違う。
椅子に腰掛ける。
窓の外を見る。
夜の街。
灯り。
行き交う人影。
そして。
隣の部屋から聞こえる音。
ドン。
ガタン。
ドン。
「……何してるのよ」
壁越しに聞こえる。
何かにぶつかっているらしい。
数秒後。
コンコン。
壁が叩かれた。
リシアは嫌な予感しかしなかった。
すると向こうから声が聞こえる。
「リシアー!」
「なに!」
「壁越しでも話せるな!」
「寝なさい!」
「分かった!」
即答だった。
ようやく静かになる。
リシアは小さく息を吐いた。
これで休める。
そう思った。
だが数十秒後。
再び壁の向こうから声。
「リシアー!」
「今度は何!」
「おやすみ!」
リシアは思わず額を押さえた。
そして。
自分でも気付かないうちに。
ほんの少しだけ笑っていた。
「……おやすみ」
小さく呟く。
壁の向こうには聞こえないくらいの声で。
その夜。
リシアは何十年ぶりかに、少しだけ穏やかな気持ちで眠りについた。
夜中。
リシアはふと目を覚ました。
何か重みがある。
胸元。
腹の上。
妙な感触。
柔らかい。
温かい。
「……?」
薄暗い部屋を見下ろす。
そして固まった。
「なにこれ」
狼がいた。
白銀の毛並み。
ふわふわ。
大きさは少し大きめの犬くらい。
丸くなって眠っている。
しかも。
当然のようにリシアのベッドの上で。
当然のようにリシアにくっついて。
当然のように幸せそうな顔で。
寝ている。
「……」
数秒。
思考停止。
さらに数秒。
現実逃避。
そして結論。
「ガロ?」
ぴくり。
狼の耳が動いた。
だが起きない。
代わりに。
すり。
鼻先を押し付けてきた。
「っ」
リシアの肩が跳ねる。
狼は満足そうに尻尾を振った。
寝ながら。
「嘘でしょう……」
エルフとして百年以上生きてきた。
魔王軍とも戦った。
古代竜とも遭遇した。
だが。
今の状況への対処法は知らない。
狼は気持ち良さそうに眠る。
ふわふわだった。
信じられないくらい。
リシアは恐る恐る毛に触れる。
柔らかい。
「……」
もう一度触る。
柔らかい。
「……」
さらに撫でる。
柔らかい。
狼の尻尾がぶんぶん振られた。
寝ながら。
「起きてる?」
反応なし。
完全に熟睡している。
リシアは小さく息を吐いた。
そして。
少しだけ躊躇って。
本当に少しだけ躊躇って。
狼を抱き寄せた。
温かかった。
驚くほど。
狼は安心したように喉を鳴らす。
ぐるるるる。
猫みたいだった。
「馬鹿ね」
小さく呟く。
昼間はあれだけ騒がしいのに。
寝たらこんなになるなんて。
抱きしめた腕の中で、狼は無防備に腹まで見せ始めた。
警戒心というものが存在しないらしい。
「本当に馬鹿」
そう言いながら。
リシアの手は止まらない。
耳を撫でる。
頭を撫でる。
首元を撫でる。
ふわふわだった。
危険なほど。
朝。
鳥のさえずり。
窓から差し込む柔らかな光。
リシアはゆっくりと目を開けた。
暖かい。
妙に暖かい。
しかも重い。
昨夜の白狼だろう。
そう思った。
思ったのだ。
だから無意識に腕へ力を込める。
ぎゅっ。
すると。
頭上から声がした。
「おはよう」
男の声だった。
リシアの思考が停止する。
数秒。
完全停止。
そして恐る恐る顔を上げる。
金色の瞳。
狼耳。
寝癖。
そして。
至近距離のガロ。
「……」
「……」
抱き合っていた。
完全に。
言い逃れできないくらい。
抱き合っていた。
ガロも状況を確認する。
自分の腕。
リシアの腰。
リシアの腕。
自分の背中。
近い。
近すぎる。
「おお」
ガロが感心したように言った。
「すげぇな」
「……」
「抱き枕みたいになってる」
「……」
「温かい」
リシアの額に青筋が浮かぶ。
だが身体が固まって動かない。
なぜなら。
自分の方から抱き締めているからだ。
ガロではない。
自分だ。
昨夜は確かに狼だった。
狼だったはずだ。
だから。
だからこれは事故で――
「リシア」
「なに」
「離してくれ」
「……」
「腕動かねぇ」
リシアは反射的に飛び退いた。
ドン!
勢い余ってベッドから落ちる。
「痛っ」
「大丈夫か!?」
「来ないで!」
「なんで!?」
ガロは本気で困惑していた。
何も覚えていない顔。
それがまた腹立たしい。
⸻
そして朝食。
リシアはずっと無言だった。
ガロはパンを食べている。
六個目。
「リシア」
「……」
「怒ってる?」
「別に」
「怒ってるな」
「怒ってない」
「じゃあなんで目を見ないんだ?」
リシアはスープを飲む。
無視。
ガロは首を傾げた。
本当に分かっていない。
そして数秒後。
ぽん、と手を打った。
「分かった」
嫌な予感がした。
「寝相悪かったか?」
「違う」
「俺いびきかく?」
「違う」
「寝言?」
「違う」
「じゃあ何だ?」
リシアは黙る。
絶対言わない。
言えるわけがない。
昨夜。
狼だったはずのガロを抱き締めたまま寝て。
朝起きたら男になっていたなど。
絶対に。
⸻
一方のガロ。
実は少しだけ覚えていた。
夢を見たのだ。
温かい夢。
柔らかい夢。
誰かに抱き締められていた夢。
だから。
食後。
歩きながら何気なく言う。
「でもさ」
「なに」
「嫌じゃなかった」
リシアが止まる。
「何が」
「朝」
ガロは笑った。
いつもの笑顔。
悪意ゼロ。
「なんか安心した」
その瞬間。
リシアの耳が真っ赤になる。
本人だけ気付いていない。
ガロも気付いていない。