「ふぁ……ッ」
暗い部屋で目を覚ました僕は、小さくあくびを噛み殺した。冷たい水を使って顔を洗い、水分を補給する。深夜の冷気が頭を冴え渡らせ、コンディションは最高へと仕上がっていく。窓の外を見上げれば、そこには痺れるほどに美しい満月が浮かんでいた。
外に出る準備を始める。財団支給のバックを背負い、夜の厳しい寒さに耐えられるよう厚着を重ねた。準備を終えて縁側へと向かうと、誰かの姿があった。霊夢だ。こんなところで居眠りをしているらしい。起こすのも悪いし、このまま静かに出発することにしよう。
ギィ……、ギィ……。
しかし、こういう時に限って、古びた床板というのは間の抜けた音を立てて軋むものだ。
「はぁ……。昇? そんなところで何してるのよ」
案の定、霊夢が薄く目を開けてこちらを睨んでいた。眠たげな声が静かな境内に響く。
「朝一に人里に着きたいので、そろそろ出発しようかと思いまして。……今日は月が綺麗ですから。綺麗な月を見ながら、のんびり空を飛ぼうと思っていたんです」
口にしてから、ふと脳裏をよぎるものがあった。確か『月が綺麗ですね』というのは、古い文豪が遺した告白の隠語だった気がする。少し気まずい言い回しをしてしまったかもしれないが、まあ、気のせいだろう。
「知ってた? 昇。それ、幻想郷では告白の隠語みたいなものよ少し違うけれど」
ジト目を向けてくる霊夢。やはりそうだったか。とはいえ、僕にそんな意図はないし、深く気にする必要もないだろう。
「そうでしたか。正直、それに関してはどうでもいいです。では、行ってきます。縁側で寝ていると風邪をひきますよ」
「行ってらっしゃい。ちゃんと後で布団で寝るから大丈夫よ。……あ、そうだ。今日は満月だから、妖怪には気をつけなさいよ」
「満月だと、何か不味いことでもあるのですか?」
足を止め、首を傾げる僕に、霊夢は呆れたように息を吐いた。
「妖怪の妖力が高まって、とてつもなく凶暴化するのよ。まあ、貴方の場合は、襲ってきた妖怪の方が気の毒な目に遭いそうだけどね」
「手厳しいですね。では、今度こそ行ってきます」
出発を告げ、僕は夜空へと身体を浮かせる。時計は持っていないが、おそらく今は深夜の2時か3時といったところだろう。霊夢の忠告を頭の片隅に置きつつ、僕は静寂に包まれた幻想郷の空へと飛び立つ。
眼下には鬱蒼とした森が広がり、冴え渡る月明かりが辺りを美しく照らし出している。その幻想的な光景に、まるで自分が物語の登場人物にでもなったかのような錯覚を覚えた。
――その時だった。「グォ、グォ……助けてーー! 誰かーー!」
心地よい浮遊感は、下から響いた生々しい悲鳴によって一瞬でかき消された。もし人が襲われているのなら、一刻の猶予もない。僕は即座に急降下を開始し、木々が乱立する暗い森の中へと飛び込んだ。着地と同時に、闇の中にうごめく「赤い化け物」の姿を捉える。暗がりのせいで詳細までは見通せないが、倒すほかない。僕は気配を殺し、刀を静かにサッと引き抜いたが...
しかし、そこで奇妙な違和感が僕の思考を止める。周囲を見渡しても、逃げ惑う人間の姿などどこにもないのだ。なら、あの悲鳴は一体どこから、誰が発していたのだろうか?だが、考えている暇はなかった。敵はすでにこちらを察知している。僕は迷わず突撃し、鋭い一撃を見舞った!
キィン――!
渾身の突き攻撃は、闇から伸びた謎の爪によって容赦なく跳ね返された。金属音が響く中、僕はバックステップを繰り出して素早く距離をとる。確か、この装備にはライトが備え付けられていたはずだ。僕は手元のスイッチを入れ、強力な光で正面の暗闇を一閃した。白い光に照らされ、ついにその全貌が浮かび上がる。そこにいたのは...
赤く、まるで皮を剥がれた犬のような悍ましい姿をした四足歩行の怪物だった。引き裂かれたように大きな顎には、鋭い牙がびっしりと並んでいる。しかし、顔のどこを探しても「目」が存在しない。
「――嘘だろ……」
記憶の引き出しが、目の前の怪物の正体を弾き出す。間違いない。僕が見たことがある、あの存在。被害者の声を騙って獲物をおびき寄せる不気味な捕食者。
――SCP-939『数多の声』
なぜ、財団の管理下にあるはずの存在が、この幻想郷にいるのだろうか。驚愕に震える僕を嘲笑うかのように、怪物は再び、誰かの悲鳴をあげながら一歩を踏み出してきた。
「グォ、グォ……助けてーー!」
人間の悲鳴を模した悍ましい声をあげながら、SCP-939が地を蹴った。凄まじい瞬発力。目がないはずの怪物は、僕がバックステップした際の「足音」を正確に捉え、一直線に突っ込んでくる。
僕は即座に得物を刀から弓へと持ち替えた。間合いを詰められる前に仕留める。精神を集中し、引き絞った矢の先端に火の力を込めた。能力の使い方はいまいち分かっていないがこう言う事も出来るはずだ。
「燃えろ……!」
矢じりに爆発的な火属性の力が宿り、烈火の矢へと変わる。引き絞った弦を放つと、闇を切り裂く紅蓮の軌跡がSCP-939の脳天へと一直線に伸びていった。
ドォン!
直撃と同時に激しい炎が上がり、周囲の木々が一瞬だけ昼間のように照らされる。手応えはあった。だが、炎の向こうから飛び出してきた赤い影に、僕は目を見張る。
「ガアアアアアッ!」
体表を焦がしながらも、怪物は怯むことなく肉薄してきた。執念深い捕食者の突撃。あの頑強な皮膚は、並の火火力では焼き切れないらしい。目の前まで迫る巨大な顎。噛み砕かれそうになる寸前、僕は刀を振るい凶悪な牙を弾いた。
「させるか!」
間一髪、SCP-939の牙は僕の顔に届く事はなく、激しい金属音を響かせた。空中へと退避した僕は、即座に次の一手を打つ。先ほどの火属性の矢で、周囲の草木に火が燃え移っていた。炎の爆ぜる音がパチパチと森に鳴り響く。
こいつは音を聴いて動いているはずなら...空中で弓を構え、今度はあえてSCP-939本体ではなく、周囲の地面や木々に向けて火属性の矢を連射した。
ドガァン!!ドガァン!!
と連続して巻き起こる爆発音。燃え盛る炎の音と爆音の嵐が、静寂だった森を完全に支配する。
「グルルル……ッ!? ガアッ!」
狙い通りだった。四方八方から轟く大音響に、音を頼りにするSCP-939は完全に攪乱された。どの方角に敵がいるのか分からず、怪物は狂ったようにその場で首を振り回し、虚空を引っ掻いている。
「これで、僕の足音は聞こえないはずだ」
僕は空中から刀を引き抜き、音もなく着地する。一瞬で仕留める。刀身に全神経を注ぎ込み、今度は水属性の力を限界まで纏わせた。刃の周囲に高圧の水流が激しく渦巻き、恐ろしいほどの鋭利さを持つ「水刃」へと変貌する。音の嵐に惑う怪物の死角へ、滑るように踏み込む。ターゲットは、あの巨大な顎の付け根――。
「これで終わりだ!」
爆音に紛れ、僕は渾身の力で刀を振り抜いた。高圧の水流を伴った一撃が、SCP-939の頑強な肉体を深く切り裂く。
高圧の水刃が真っ二つに裂いたSCP-939の巨体が、どさりと地面に崩れ落ちる。手応えは十分。赤黒い血液が地面を濡らすのを確認し、僕はふうと息を吐いて刀を引いた。
「よしこれでいい――」
少しscpを終了させた事で財団に怒られるなどの心配があったがこればっかりはしょうがない安堵しかけたその瞬間、森の奥から無数の「音」が押し寄せてきた。
「助けて――」「誰か、誰かいないの!?」「痛い、痛いよぉ!」
静寂を取り戻したはずの森に、狂気じみた人間の悲鳴が何重にも重なって木霊する。ゾッとして周囲の暗闇にライトを向けると、そこには信じられない光景が広がっていた。白い光の中に浮かび上がったのは十匹近くの、あの赤い悍ましい異形の群れだった。それらが一斉に、目を持たない顔を僕へと向け、凄まじい速度で地を這いながら迫ってくる。多すぎる!! まともにやり合ったら確実に押し潰される!
僕は即座に空へと飛び上がった。しかし、背後から無数の咆哮が追いかけてくる。群れは僕が空へ逃げる際の風切り音すら正確に捉え、驚異的な跳躍力で木々を蹴り、空中へと爪を伸ばしてきた。空中戦を挑む余裕はないまずないしこのまま逃げても誰かがこいつらの犠牲になる僕は火属性の矢を足元へ向けて放ち、爆風で怪物を怯ませながら、とにかくこの場を離れるために必死で空を駆けた。暗い森の上を無我夢中で飛び続ける。
すると、木々の開けた場所に、ぽつんと佇む一軒の奇妙な家が視界に入った。
あそこは……まぁいいどうにでもなれ!!
背後からは、木々をなぎ倒しながら猛スピードで追ってくる怪物の足音が迫っている。背に腹は変えられない。僕はその家の玄関前へと急降下し、荒々しく扉を開け放って中へと滑り込む。
「誰だぜ? こんな夜中に――」
奥の部屋から、眠そうに目をこすりながら魔理沙が姿を現す。
「魔理沙さん! 詳しい説明は後でします、扉を閉めてください! 外にヤバい化け物の群れがいるんです!」
「高柳久しぶりだな。化け物って、妖怪のことか?」
怪訝な顔をする魔理沙だったが、僕の尋常ではない様子を察し、すぐに表情を引き締めて玄関の頑丈な木扉をバタンと閉め、重い閂をかけた。
ドガァン!!
閉め切った直後、扉に凄まじい衝撃が走り、家全体が大きく揺れた。外から「ギチギチギチ」と、鋭い爪が木肌を激しく引っ掻く不気味な音が響き渡る。
「おいおい、なんだあいつらは!? 妖怪の気配じゃないぞ!」
魔理沙が窓の外を覗き込み、驚愕の声をあげる。
「奴らは妖怪じゃないですがとにかく妖怪よりも強い化け物です。」
窓ガラスの向こうで、赤い皮膚の怪物がギョロリとした「目のない顔」をこちらに向けて蠢いている。扉や壁を破壊しようと、奴らの猛攻が始まった。ここからは一歩も外に出られない。ここからは籠城戦になるだろう。
「おいおい、冗談だろ……? なんだよあの数は!」
窓の外を警戒していた魔理沙が、引きつった声をあげる。
霧雨魔法店の周囲は、すでに十数匹のSCP-939によって完全に包囲されていた。バキバキと音を立てて庭の木々がなぎ倒され、家の外壁を鋭い爪が削る嫌な音が響く。
「魔理沙さん、奴らは音を聴いて動いています! 家の中で大きな声を出すと、そこに攻撃が集中しますよ!」
「なるほどな……! なら、派手に暴れるのはナシってわけか。大人しく引きこもるなんて性に合わないぜ」
魔理沙は不敵に笑いながらも、懐からミニ八卦炉を取り出した。
ドガァン!!
激しい衝撃と共に、居間の窓ガラスが粉々に砕け散った。赤い前足が室内に侵入し、鋭い爪が床を深く抉る。音を察知した二匹のSCP-939が、引き裂かれた大顎を開いて室内に這い入ってきた。
僕は一歩前に出ると、刀を引き抜きながら水属性の力を解放した。
狭い室内で火属性を使えば、魔理沙の家ごと消し飛びかねない。僕は能力を操作し、砕けた窓の周囲に極厚の『水の障壁』を展開した。激しく渦巻く水の壁が、室内に侵入しようとするSCP-939の突撃をズサァと受け止め、その勢いを殺す。
「グルルルルッ!?」
水圧に押し戻され、もがく怪物たち。その隙を逃さず、僕は刀を真一文字に振り抜いた。高圧の水流を纏った刃が、一匹の首を正確に撥ね飛ばす。この能力も汎用性が高いものだ
「ナイスだ! なら、私はこっちを――『マジックミサイル』!」
魔理沙が八卦炉を向け、声を抑えながら無音に近い光弾を放った。精密に制御された魔法の弾丸が、もう一匹の脳天を正確に撃ち抜く。
しかし、一息つく間もなかった。
仲間が倒された音、そして僕たちの動く音を聴きつけた外の群れが、一斉に狂ったような悲鳴をあげ始めた。
「助けて!」「痛い、誰か!」「開けてよぉ!」
人間の声を真似たおぞましい大合唱が家を包み込む。同時に、玄関の扉、壁、天井の至る所から、凄まじい質量がぶつかる衝撃音が響いた。メリメリと音を立てて木製の壁に亀裂が走る。
「おい、このままじゃ家ごと押し潰されるぜ!」
「一か八か、外の奴らの耳を完全に潰します。合図をしするので、最大火力で正面の奴らを吹き飛ばしてください!」
「へっ、待ってました! 派手に行くなら任せな!」
魔理沙が八卦炉を両手で構え、魔力を練り始める。
僕は深呼吸をし、今度は火属性の魔力を全身に滾らせた。
狙うのは、砕けた窓の外――群れが密集している庭の中心だ。僕は弓を引き絞り、限界まで火の魔力を込めた『爆炎の矢』を番える。
「耳を塞いでください!!」
放たれた紅蓮の矢は、窓を突き抜けて庭の地面へと突き刺さった。
ドゴオオオオオオオオォン!!!
深夜の魔法の森に、鼓膜を電気で焼かれるような大爆発音が轟いた。凄まじい衝撃波と爆風が周囲の木々を揺らし、燃え盛る炎が夜空を赤く染める。
「ガ、ア、アアアアアッ!?」
至近距離で破壊的な大音響を喰らったSCP-939たちは、自慢の聴覚が完全に仇となった。音の暴力に脳を揺さぶられ、全ての個体が頭を抱えるようにしてその場に転倒し、激しく悶絶している。完全に動きが止まった。
「今だ!!」
僕の合図と同時に、魔理沙の瞳が怪しく輝く。
「恋符『ファイナルースパーク』!!!」
八卦炉から放たれたのは、夜の闇を昼間に変えるほどの、圧倒的な熱量を持った巨大な極太のレーザー。
光の濁流は、動きを止められたSCP-939の群れを正面から完全に飲み込んだ。轟音と共に、直撃した怪物たちが塵一つ残さず消滅していく。
光が収まった後、庭には巨大な直線状のクレーターと、焼け焦げた地面だけが残されていた。外からの気配は、完全に消えている。
「ふぅ……。なんとかなったか?」
魔理沙が八卦炉の煙を吹き消しながら、額の汗を拭った。僕は刀を鞘に納め、まだ心臓の鼓動が速いまま、静まり返った外の景色を見つめた。