ルーミアの後ろ姿を追いながら、僕の視線は人間の里の町並みを彷徨っていた。
ここへ至るまでの道中、僕は事前報告書に記されていた通り、極めて多くの妖怪たちの姿を目撃していた。この未知の領域には人智を超えた存在が多数跋扈している――その事実には強い警戒を抱かざるを得なかったが、今こうして足を踏み入れた人里は、それとは実に対照的な場所であった。周囲を見渡しても妖怪の姿はなく、行き交うのは平穏に暮らす普通の人間ばかりである。外の世界と変わらない、のどかで安全な人間の営みがそこには広がっていた。
しかし、僕の思考を占めていたのは里の様子だけではない。もう一つ、どうしても看過できない懸念事項があった。人里へ至る道中で目にした、あの広大な湖の霧の向こう、その中央に毅然と佇んでいた巨大な洋館の存在である。
隣を歩く幼き姿の妖怪、ルーミアに尋ねたところ、彼女はそれを「紅魔館」と呼んだ。そこには恐るべき吸血鬼が君臨しており、今から約二ヶ月前、幻想郷全土を巻き込む大騒動を引き起こしたのだという。報告書には記載されていなかったその未知の事件について、僕は頭の片隅に記憶を留めることにした。
思考を巡らせながら歩を進めていると、いつの間にか僕たちは一軒の甘味処の前に差し掛かっていた。香ばしい醤油の焦げる香りと小豆の甘い匂いが、夕暮れ時の空気の中に漂っている。
「ちょうど良いところに甘味処があるのだ!」
ルーミアが短い手を上げて、嬉しそうに声を弾ませた。その瞳は完全に、団子に釘付けになっている。
「たくさん歩いてお腹が減ったから、あの団子を食べたい……ということ?」
「食べたいのだ。今回は私が奢ってあげるから、一緒に食べるのだ!」
どうやら彼女は、さっきから僕を案内して歩き回っていたため、相当に体力を消耗していたらしい。僕自身、この見知らぬ世界に迷い込んでから何も口にしていなかったそれゆえ、彼女のこの提案は実質的に非常にありがたい申し出であった。
「分かった。僕が買ってくる。ここで少し待っててくれ。」
ルーミアから数枚の硬貨を受け取り、僕は店先へと向かった。
暖簾をくぐり、注文をしようとしたその時、店番をしている店員の姿を見て、僕は思わず言葉を失った。その店員の頭頂部からは、衣服のデザインとは明らかに異質な、白く長い一対の「うさぎの耳」が伸びていたからである。この穏やかな人間の里において、これほど異質な特徴を持った存在が平然と店を構えていることに、僕は内心で驚愕を禁じ得なかった。
僕が驚きのあまり、まじまじとその耳を覗き込んでいると、店員は僕の不審な視線に気づき、小首をかしげて声をかけてきた。
「どうも! 味が一番、鈴瑚屋(りんごや)の鈴瑚です。お客さん、どうかしましたか? 私の顔に何か付いています?」
鈴瑚と名乗ったその少女は、気さくに微笑んでいる。
「あ、すみません。怪しまれるような見方をして……。ただ、本物のうさぎの耳が生えていたので、少し驚いただけです。」
「ん? 私の耳ですか?」
鈴瑚は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、次の瞬間、僕の顔の正面へと迫り、その瞳を凝らして僕の容姿をまじまじと観察し始めた。まるで、観察対象の素性を値踏みするかのような鋭い視線であった。
「もしかして……あなた、外来人ですか?」
外来人――。
その単語を聞いた瞬間、僕の背中に緊張が走った。脳内を思考が高速で駆け巡る。おそらくそれは、この幻想郷における「外の世界から来た人間」を指すワードに違いない。
一瞬、自分の素性が露見したことに対する焦燥感が込み上げた。しかし、すぐに思い直す。僕をここへ送り出したあの男は、確かにこう言っていたはずだ。「財団と幻想郷が同盟を結べるように、向こうでうまく立ち回ってくれ」と。
そうであるならば、自身の身元を隠蔽し続ける必要性は薄い。むしろ、最初から誠実に素性を明かした方が、今後の交渉や情報収集において有利に働く可能性が高かった。
「はい、その通りです。実は、今日こちらに来たばかりの外来人なんです」
僕がそう認めると、鈴瑚は手をポンと叩き、納得したように深く頷いた。
「やっぱり! だから見覚えのない顔だったんですね。里の人間なら全員把握していますから。……とりあえず、あなたが本当に外来人なら、まずは『博麗神社』にいる巫女の『博麗霊夢』という人に会いに行った方がいいですよ! .....あと霊夢さんは現金なので合ったときはなるべく神社にお賽銭をした方がいいです。多めに」
「博麗神社、ですか?」
「ええ。そこにいけば、本人の任意ですけど、幻想郷から外界へ帰るための方法を教えてくれますから。ちなみに、私は月出身の玉兎(ぎょくと)です。」
驚くべき事実であった。この人里には人型の兎が存在するだけでなく、彼女の発言が事実であれば、遥か天空に浮かぶ「月」にも独自の文明や都が存在することを示唆している。
さらに、事前報告書の中で最重要拠点として記述されていた「博麗神社」の名が、ここでようやく具体性を持って浮上してきた。外の世界へ強制的に送還されるわけではないという点も、僕にとっては好都合である。今は何よりも、この世界の構造と現状を知るための情報が欲しかった。
僕は鈴瑚から世間話を装いつつ、博麗神社の正確な位置や人里からの経路を入念に聞き出した。そして、注文していた団子を受け取ると、急ぎ足でルーミアの待つ場所へと引き返した。
「遅かったのだー!」
案の定、ルーミアは両頬を膨らませ、不満を全身で表現しながらへそを曲げていた。
「待たせたな。お店の定員と少しお話をしていたら、思ったよりも時間が経ってしまったんだ。」
僕は平謝りしながら、手渡された団子を彼女に差し出した。彼女はそれを受け取ると、途端に機嫌を直して美味そうに頬張り始めた。
その後、団子を食べ終えたところで、僕はルーミアと別れることにした。これ以上、彼女を僕の私的な用事に付き合わせるわけにはいかない。
博麗神社への参拝も検討したが、すでに時刻は夕刻を過ぎつつあり、山の上にあるという神社へ向かうには手遅れな時間帯であった。何より、僕には今夜の宿を確保するためのお金がない。まずはこの人里で当面の生活費を稼ぐための「仕事」を見つけることが最優先事項であった。
僕は人里の商店街を回り、雇ってもらえそうな店を一軒一軒尋ね歩いた。
しかし、現実は甘くなかった。見ず知らずの素性も分からない人間に、突然仕事を斡旋してくれるような店は早々存在しない。断られ続け、気がつけば九件目の店の前に立っていた。
周囲の空は完全に残照を失い、深い夜の帳が降りようとしている。周囲の店も次々と明かりを消し、看板を下ろし始めていた。
これが最後の機会だろう。視線を上げると、その店の軒先には「香霖堂(こうりんどう)」という古風な看板が掲げられていた。和洋折衷とも言うべき奇妙な骨董品が並ぶ店内に向かって、僕は心の中で「頼むから、どうか雇ってくれ」と強く願いながら、意を決して扉を開けた。
「すいません……。あの、唐突で大変失礼とは存じますが、こちらで働かせていただくことはできないでしょうか?」
僕は敬語で恐る恐る聞く。僕の声に反応し、奥のカウンターで読書をしていた店主らしき男が、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。整った容姿に、どこか浮世離れした理知的な雰囲気を纏った男である。男は僕の姿を静かに見据えた後、淡々とした口調で告げた。
「構わないよ。ちょうど人手不足で困っていたところだからね。だが、採用する前に二つほど質問をさせてもらうよ。……いいかい?」
「はい、何でしょうか」
「第一の質問。君は、外の世界から来た『外来人』かい?」
「……はい、そうです」
隠す必要はない。僕は真っ直ぐに店主の目を見て答えた。店主は感情の読めない笑みを僅かに浮かべ、言葉を続けた。
「第二の質問。君は、一週間のうち最低でも二回、定期的にここへ通うことができるかい?」
「はい! もちろん大丈夫です」
僕が即座に答えると、男は本を閉じ、満足そうに頷いた。
「よし、テスト合格だ。ようこそ香霖堂へ。僕はここの店長を務めている、森近霖之助(もりちか りんのすけ)……通称、香霖だよ」
あまりの展開の早さに、僕は一瞬我が耳を疑った。拍子抜けするほど簡単に、この異世界での職を得てしまったのである。
後に詳しく聞いたところによると、提示された仕事内容は非常に単純なものであった。外の世界からこの幻想郷へ流れ着く様々な物品、いわゆる「外来物」の正しい使用方法や知識を、店長である彼に教えるという役目である。
この香霖堂の店長は、幻想郷の住民が持つ「能力」を有しており、彼の場合は『道具の名前と用途が分かる程度の能力』というものであった。
一見すると極めて強力で便利な能力に思えるが、これには「名前と本来の目的は分かっても、具体的な使用方法や原理まで理解できない」という致命的な欠陥が存在した。例えば、それが「電卓」という計算機であることは分かってもそれをどう操作すれば作動するのかが彼には分からないのである。
そのため、彼は外の世界の知識をリアルタイムで提供してくれる、信頼できる外来人の従業員を切実に欲していたのだという。僕の存在は、彼にとってまさに渡りに船であったわけだ。
「今日来たばかりで行く当てもないのだろう? 差し当たって、これは前借りの給与だ。上手く使ってくれ。」
香霖店長は、僕が幻想郷へ来たばかりの身であることを察してか、非常に深い配慮を示してくれた。手渡されたのは、人里の宿屋における二日分の宿泊費と、それに伴う十分な食事代に相当する額の通貨であった。
こうして、最大の懸念事項であった金銭および困窮の問題を、僕は来訪初日にして完全に解決することに成功した。
紹介された宿の清潔な布団に身を沈めると、一日の極度の緊張と疲労が一気に押し寄せてきた。僕は安堵感に包まれながら、深い泥のような眠りへと落ちていった。明日から始まる幻想郷での生活に、一筋の希望を見出しながら。