ある日。
エアグルーヴはデスクで仕事をしている。
作業に区切りがつく。
タイミングを合わせるように、声がかかる。
「今、少しいいか?」
同じ部署の男。
最近、やり取りが増えている。
「内容による。要点を言え。」
「ここ、判断迷ってる。確認させてほしい。」
差し出された資料を受け取り、目を通す。
数秒で要点を拾う。
「ここで止めている理由は?」
「リスクを見てる。」
「なら、切るならここだ。引き延ばす意味は薄い。」
「……やっぱりそうか。」
納得は早い。
「進めるなら、この形で整えろ。」
「分かった。」
言葉は短い。
だが、ずれはない。
男は、そのまま続ける。
「この後、少し時間もらえるか?」
「……内容は?」
「さっきの件の整理もある。……それだけじゃないけど。」
濁さない。
エアグルーヴは頷く。
「分かった。時間は取る。」
断る理由はない。
夕方。
会議室の一角。
話は終わり、資料はすでに閉じられている。
男が声をかける。
「最近、一緒に動くこと多いよな。」
「そうだな。案件が重なっている。」
「やりやすいよ。」
「こちらも同じだ。判断が早い。」
「……俺は、仕事以外でもそう思ってる。」
男は言い切る。
視線は外さない。
「……そうか。」
エアグルーヴは、それだけを返す。
男はそれ以上、踏み込まない。
引いてもいない。
************
別の日。
男と廊下ですれ違う。
「お疲れ。」
「……ああ。」
短い挨拶。
それで終わるはずだった。
「この後、空いてるか?」
足を止める。
時間を確認して答える。
「……少しなら問題ない。」
「じゃあ、コーヒーでも行くか。」
軽い調子。
(……拒む理由がない)
エアグルーヴはそのまま受ける。
「ああ、構わない。」
並んで店に向かって歩く。
会話は続く。
仕事の話が少し。
それ以外が少し。
どちらも偏らない。
「こういう時間も、悪くないな。」
「……否定はしない。」
距離は近い。
無理もない。
違和感もない。
店を出る。
足取りは揃っている。
会話も、途切れない。
ふと、男が言う。
「ほんと、変わらないな。」
「……そう見えるか。」
「悪い意味じゃないぞ。」
エアグルーヴの目元が静かに動く。
これまでと同じ位置にいる。
踏み込みもしていない。
しかし。
(……同じではない、か)
わずかに引っかかる。
理由は分からない。
だが、前とは違う感覚が残っている。
(……まだ、判断する段階ではないな)
思考はそこで止める。
************
数日後。
打ち合わせがひとつ伸びる。
予定より遅れて、フロアに戻る。
人は減っている。
エアグルーヴは席に着く。
ほどなくして、声がかかる。
「まだ残るのか?」
顔を上げる。
男は、手に資料を持っている。
「確認がいくつか残っている。もう少しやる。」
「じゃあ、俺もやるか。」
「無理はするな。終わる範囲でいい。」
しばらく、無言で進む。
キーボードの音だけが続く。
同じ速度で、同じように止まる。
男が先に口を開く。
「さっきの件、判断早かったな。」
「材料が揃っていた。迷う理由がなかった。」
「迷うことはないのか?」
エアグルーヴは、手を止めずに答える。
「迷うときはある。そのときは時間を使う。」
「今回は違った?」
「今回は必要なかった。」
男は小さく笑う。
「分かりやすいな。」
作業が一段落する。
どちらからともなく、手が止まる。
ほぼ同じタイミング。
言葉はなく、間が崩れない。
そのまま、自然に続く。
「……今の、合ってたな。」
男が言う。
「……そうだな。ずれはなかった。」
************
エアグルーヴと男は、並んでビルを出る。
「このまま帰るか?」
「ああ、その予定だ。」
「……時間があるなら、少し寄らないか?」
エアグルーヴは考える。
(今の感覚は、悪くない)
「いいだろう。時間は長くは取れないが。」
店内。
向かいあって座る。
言葉は少ない。
やり取りは途切れない。
男が静かに言葉を置く。
「さっきの、ああいう感じ。自然だったな。」
「……そう感じたなら、それでいい。」
「無理してないのに、合う感じだった。」
思考が一瞬だけ動く。
(似ている、あれに)
重ねる。
完全ではない。
しかし、遠くもない。
「……近い部分はあるのかもしれないな。」
エアグルーヴは、受け止めるように返す。
男は一歩、踏み込む。
「俺は、仕事だけで終わらせたくないと思ってる。」
以前より、はっきりしている。
エアグルーヴは逃げない。
(無理はない。……近い)
完全ではない。
ただ、否定する理由もない。
「……関係を変えることに、問題はない。」
「なら。」
「……ああ。その形でいい。」
関係は、そこで変わる。
明確な線引きはない。
同じ位置には、戻らない。
************
関係が変わった二人。
会議前の準備。
資料を広げ、エアグルーヴは内容を確認している。
男が隣に立つ。
「その資料、最終版か?」
「現時点ではそうだ。修正が入れば差し替える。」
距離が近い。
自然な範囲。
だが、以前よりわずかに内側。
エアグルーヴは位置を動かさない。
「ここ、数値変わってるな。」
「さっき更新された。反映は済んでいる。」
資料に指を置く。
同じ箇所を見る。
肩が触れるかどうかの距離。
男はそのまま、少しだけ寄る。
「このまま出すか?」
エアグルーヴは、そっと身を離す。
距離を取るわけではない。
ただ、自然に間が空く。
「出す。根拠は揃っている。支障はない。」
声は変わらない。
男は一瞬止まる。
すぐに、何もなかったように続ける。
「分かった。……あと、これが終わったら、少し時間取れるか?」
流れのまま差し込む。
エアグルーヴは資料から目を離さない。
「会議次第だ。終わった時間で判断する。」
断らない。
けれども、乗せない。
男は頷く。
それ以上は踏み込まない。
************
別の日の会議。
並んで座る。
資料を見ながら、やり取りが続く。
「このライン、どこで切る?」
「ここだ。」
男が少し身を乗り出す。
目が合う位置が近くなる。
「ここ。もう少し引けると思う。」
「引ける。もっとも、その分判断が遅れる。」
エアグルーヴは言い切る。
男は引かない。
「リスクは抑えられる。」
「……今回は速さを優先する。そちらの方が全体に合う。」
視線は外さない。
結論を整えて返す。
男は小さく息を漏らす。
「……分かった。」
一瞬だけ、距離がそのまま残る。
エアグルーヴは動かない。
次の資料に手を伸ばす。
「次、ここを確認する。」
流れを切り替える。
距離も、そこで切り替わる。
************
別の日。
エアグルーヴの元に、男が資料を持ってくる。
「これ、少し見てほしい。」
「どこを見ればいい?」
「ここだ。少し迷ってる。」
エアグルーヴは目を落とし。
「迷う要素はない。ここで切る。」
「理由は?」
男は踏み込む。
エアグルーヴは簡潔に返す。
「後ろに響く。今処理した方が、全体が軽い。」
「容赦ないな。」
「必要な判断だ。感情で遅らせる理由はない。」
男は苦笑したあと、目線を向ける。
「……今夜、空いてるか?」
今回は、はっきり差し込む。
エアグルーヴは一拍置く。
否定はしない。
それでも、仕事の流れを崩さない。
「……後で確認する。時間が取れれば連絡する。」
線を戻す。
男は小さく息を吐く。
「……了解。」
それ以上は踏み込まない。
エアグルーヴは資料を閉じる。
「他はあるか?」
次に進める。
流れが戻る。
関係は変わった。
距離は、以前よりも近い。
会話も途切れない。
それなのに、位置は変わらない。
踏み込もうとすれば、わずかにずれる。
押し返されるわけではない。
ただ、元の位置に戻る。
自然に。
最初からそうであるかのように。
拒まない。
それでも、越えられない。
************
――ジェンティルドンナ
ジェンティルは、仕事の打ち合わせで取引先に出向いている。
その取引先は、エアグルーヴ達の会社。
思いがけず続いている縁。
今日の打ち合わせには、エアグルーヴも参加している。
打ち合わせが一段落し、会議室の空気が緩む。
資料を閉じる音。
椅子が引かれる音。
その中で、ジェンティルだけが視線を止めていた。
少し離れた位置。
エアグルーヴが、隣の男と言葉を交わしている。
距離は近い。
自然に並び、資料を覗き込み、会話も途切れない。
「この数値、後で送る。」
「分かった。確認しておく。」
やり取りは滑らか。
視線も合っている。
呼吸もずれない。
しかし、そこから先へは動かない。
男が何かを言いかける。
エアグルーヴは応じる。
だが、流れを変えない。
エアグルーヴが、男に問う。
「次の会議、何時だ?」
「16時だな。」
「なら、その前に一度整理する。」
仕事へ戻す。
自然に、無理なく。
男も、それ以上は押さない。
押せない。
ジェンティルは静かに眺める。
(……妙ですわね)
恋人同士。
そう耳に入ってきている。
実際、距離も他よりは近い。
空気も悪くない。
なのに。
(近いだけですのね)
違和感は、そこだった。
甘さではない。
執着でもない。
互いを見ていないわけでもない。
むしろ、よく見えている。
それでも。
何かが、閉じたまま動かない。
ジェンティルは目を細める。
男が、エアグルーヴを見る。
視線には熱がある。
期待もある。
けれども、エアグルーヴの視線は変わらない。
穏やかですらある。
それなのに、一歩も越えさせていない。
(……まだ、その位置ですのね)
エアグルーヴ自身は、隠しているつもりもないのだろう。
だからこそ分かる。
これは拒絶ではない。
だが、許容とも違う。
成立しているまま、止まっている。
ジェンティルは小さく息を吐く。
「エアグルーヴ。」
エアグルーヴが振り返る。
「ああ、ジェンティル。」
男は一歩下がる。
エアグルーヴが男を紹介する。
「以前話した件の担当だ。」
「どうも。はじめまして。」
男は落ち着いて頭を下げる。
ジェンティルも微笑を返す。
「ええ、存じておりますわ。」
その間にも見る。
距離。
視線。
空気。
崩れない。
「随分、息は合っていますのね。」
男が少しだけ笑う。
「仕事はやりやすいですね。」
「無駄が少ないな。」
ジェンティルの目許が、わずかに鋭くなる。
(そこですのね)
理解する。
合っている。
しかし、
まだ、“そこ”まで届いていない。
ジェンティルは、それ以上は言わない。
ただ、静かに視線を外す。
(貴方が止めているのか。それとも……まだ、見つけていないのか)
答えは出さない。