理性の外側   作:茶葉坊主

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15.エアグルーヴ/残す(後編)

 

夕方。

会議の時間が押し、フロアには人が少なくなっている。

 

エアグルーヴは席に着き、資料を開く。

 

ほぼ同時に、近くの席で音がする。

男も戻ってきている。

 

言葉は交わさない。

そのまま作業に入る。

 

キーボードの音が、同じ間隔で続く。

ひとつの区切りで、同時に止まる。

 

エアグルーヴは視線を上げる。

男も、同じタイミングで上げている。

 

男が話を切り出す。

 

「……さっきのやつ。条件、もう一段削れるな。」

「ああ。同じことを考えていた。」

「だと思った。」

 

それ以上、説明はいらない。

 

二人は画面に戻る。

修正の手が、同じ順序で進む。

 

迷いがない。

止まらない。

確認もいらない。

 

必要なところだけが、自然に合う。

 

数分で、形が整う。

 

「これでいけるな。」

「問題ない。」

 

そのまま、視線が合う。

 

沈黙が落ちる。

崩れない。

 

(……近い)

 

思考が、わずかに動く。

 

合わせている感覚がない。

ただ、そのまま合っている。

 

(――)

 

一瞬だけ、重なる。

 

理由は出てこない。

 

ただ、

あのときと同じ種類の静けさが、そこにある。

 

男が息をつく。

 

「こういうの、楽だな。」

「……そうだな。」

 

エアグルーヴは視線を外さない。

 

否定はしない。

できない。

 

(……今のは)

 

 

同じ流れのまま、次の資料に移る。

 

エアグルーヴは画面を切り替える。

男も、遅れずについてくる。

 

「次は、ここだな。」

「……ああ。」

 

呼吸は揃っている。

手も、同じように動く。

先ほどと同じ感覚が、続いている。

 

エアグルーヴは視線を落としたまま。

 

「この条件、さっきと同じ基準で削る。」

「……いや、ここは残した方がいい。」

 

速い返答。

だが、噛み合わない。

 

二人の視線が交差する。

 

「理由は?」

「後に効くからだ。ここ削ると、別のところで詰まる。」

 

説明は通っている。

間違ってはいない。

 

(判断としては成立する)

 

それでも。

 

(さっきとは違う)

 

同じ流れの中にあるはずなのに、引っかかる。

 

「今回は切る。」

 

エアグルーヴは、静かに言う。

 

男はすぐには動かない。

踏みとどまる。

 

「……リスクは?」

「織り込み済みだ。」

 

エアグルーヴは目を逸らさない。

 

男は数秒、黙る。

 

「……分かった。」

 

今度は従う。

 

けれども、

さっきのような“ずれのなさ”は、戻らない。

 

作業は続く。

形は整う。

問題もない。

 

ただ、先ほどの静けさは、ない。

 

(……違う)

 

思考が静かに動く。

 

否定ではない。

事実の確認。

 

(同じではない)

 

さっき確かにあったものと、

今ここにあるものは、

重なっていない。

 

理由は説明できる。

 

判断の差。

優先順位の違い。

 

それで足りる。

 

なのに。

 

(……それだけではない)

 

エアグルーヴは手を止めない。

 

それでも、

さっきの感覚だけが、切り離される。

 

再現はできない。

 

同じ流れの中にあっても、同じにはならない。

 

(……一度だけ、か)

 

結論にはしない。

まだ、早い。

 

しかし、小さく残す。

 

 

************

 

 

夜。

 

部屋の明かりはついたまま。

 

エアグルーヴは椅子に座っている。

手は動いていない。

 

今日の流れをなぞる。

 

重なった瞬間。

ずれた瞬間。

 

どちらも、正確に思い出せる。

 

(成立していた。だが、同じではない)

 

言葉は、それで足りる。

それ以上はいらない。

 

切ることはできる。

理由もある。

 

(……今なら)

 

そう思う。

 

迷いもない。

揺れもない。

 

それでも、指先がわずかに動く。

 

(……一度だけだった)

 

ずれのなかった時間。

一瞬、確かにあった。

 

再現はできなかった。

しかし、否定もできない。

 

(なら、もう一度、確認する必要はある)

 

思考が、わずかに傾く。

 

感情ではない。

判断として置く。

 

(ここで切るのは、早い)

 

静かに結論をずらす。

 

 

仕事は続く。

やり取りも変わらない。

距離も、以前と同じまま。

 

エアグルーヴは、止めない。

 

 

************

 

 

別の日。

 

男が隣に立つ。

距離は近い。

そのままにする。

 

「ここ、どう見る?」

「切る。」

「即断だな。」

「必要な範囲だ。」

 

会話は通る。

問題もない。

 

それなのに、ふとした拍子に思い出す。

 

あの一瞬。

ずれのなかった感覚。

 

(……まだ、確認が足りない)

 

 

夜。

 

並んで歩く。

静かな時間。

 

男が言葉を投げる。

 

「この前みたいなの、また出ると思うか?」

 

(……否定はできない)

 

「……分からない。」

「だよな。」

 

歩調は合っている。

距離も、崩れない。

 

思考は明確だ。

 

(切る理由はある。だが……まだ終わらせる段階ではない)

 

時間が伸びる。

関係が続く。

 

変化はない。

 

進みもしない。

戻りもしない。

 

(……もう一度)

 

ただ、あの一瞬だけが、残る。

 

 

************

 

 

店内は静かだった。

 

エアグルーヴと男は、向かい合って座る。

 

沈黙が続く。

 

男が、ようやく口を開く。

 

「俺、エアグルーヴといる時間、結構好きなんだ。

 仕事もやりやすいし、楽しいとも思う。」

 

エアグルーヴは黙って聞く。

 

「拒まれてるわけじゃない。

 でも、近くにいるはずなのに、遠くなる時がある。」

「……遠い?」

「俺だけ近づいてた、みたいな。」

 

(……気づいている)

 

エアグルーヴの思考が静かに沈む。

 

「いや、責めたいわけじゃない。」

「……分かっている。」

 

男は小さく笑う。

うまく形にならない笑いだった。

 

「適当にされてたら、もっと楽だった。

 ちゃんと返してくれるから、余計に厄介なんだ。」

 

空気が静かに止まる。

 

エアグルーヴは、答えられない。

 

(終わらせるべきだ)

 

思考は、冷静にそう出している。

 

(……まだ)

 

それでも、その言葉だけが残る。

 

「俺、待ってるみたいになってるな。変わるかもしれないって。」

 

エアグルーヴの指先が止まる。

自分も、同じものを見ていたからだ。

 

「……すまない。」

「謝らせたいわけじゃない。」

 

即座に返る。

その速さが、逆に重い。

 

「ただ、もし違うなら、……早い方がよかった。」

 

喉の奥で引っ掛かった言葉が、小さく落ちる。

 

沈黙。

長く続く。

 

エアグルーヴは動けない。

 

(……分かっていたはずだ)

 

あの一瞬のあとで。

同じではないと、気づいていた。

 

それでも続けた。

確認のために。

 

可能性を残したまま。

 

男は、静かに笑う。

 

「まだ、嫌いにはなれないの、結構きついな。」

「…………っ。」

 

言葉が出ない。

出せる言葉に意味がない。

 

「……今日は、もう帰る。」

 

椅子が引かれる。

足音が遠ざかる。

 

その間も、

エアグルーヴは座ったまま動かない。

 

 

************

 

 

夜。

 

部屋は静かだった。

 

エアグルーヴは椅子に座ったまま動かない。

何を見ているわけでもない。

 

――「適当にされてたら、もっと楽だった。」

声が残っている。

 

――「ちゃんと返してくれるから、余計に厄介なんだ。」

消えない。

 

(終わらせるべきだった)

 

もっと早く。

あの段階で。

“違う”と認識した時点で。

 

判断はできていた。

それでも続けた。

 

確認のために。

可能性を捨て切れなかった。

 

(私が選んだ)

 

そこから目を逸らさない。

 

相手が望んだ。

流された。

そういう話ではない。

 

自分で残した。

自分で続けた。

 

エアグルーヴは指先を組む。

思考を整理するように。

 

(私は……)

 

そこで止まる。

 

間違っていた、とは思っていない。

 

線は引いていた。

曖昧にもしていない。

軽く扱ったつもりもない。

 

自分なりに、応じていた。

 

だが。

 

(それだけでいいのか)

 

嘘はなかった。

逃げてもいない。

向き合っていた。

 

それでも、残るものは別だった。

 

エアグルーヴはゆっくり目を閉じる。

 

近づこうとしていた視線。

期待を残した声。

最後まで、完全には引かなかった感情。

 

(見えていたはずだ)

 

気づかなかったわけではない。

分からなかったわけでもない。

 

それでも、自分は、可能性の方を残した。

 

(……それは)

 

右耳へ触れかける。

途中で止まる。

 

静かな部屋。

時計の音だけが響く。

 

(……私は、相手を使ったのか)

 

初めて、形になる。

重い。

 

感情は激しくない。

崩れもしない。

 

(……違う)

 

探していたものではない。

それは分かっている。

 

だからといって、許されるとは限らない。

 

静かな部屋。

時計の音だけが、一定の間隔で落ちている。

 

思考だけが続いている。

 

(私は、何を見ていた)

 

“違う”ことには、気づいていた。

あの一瞬のあとで。

同じではないと、分かっていた。

 

それでも続けた。

可能性があると思った。

 

いや、可能性を切れなかった。

 

(再現しようとしていたのか?)

 

あのときの感覚。

 

無理に合わせていないのに、ずれなかった時間。

説明できない静けさ。

 

それを、どこかでもう一度探していた。

 

条件を変えれば。

距離を変えれば。

関係を続ければ。

 

近いものが出るかもしれない。

 

(……それは)

 

男は、自分を見ていた。

だが、自分は何を見ていた。

 

(……そういうことか)

 

“この相手なら届くかもしれない”。

どこかで、そう見ていた。

 

(それで、残した)

 

静かに形になる。

 

誠実だったかどうかではない。

嘘がなかったかでもない。

 

その前に、

男を、ひとりの相手として見ていなかった。

 

そこで初めて、

エアグルーヴの中の基準が、わずかに崩れる。

 

今まで正しいと思っていたもの。

 

線を引くこと。

曖昧にしないこと。

誠実であること。

 

それだけでは、足りない。

 

静かな部屋。

何も動かない。

 

(私は……)

 

そこで、思考が止まる。

続きは、まだ出ない。

 

ただ、もう以前と同じままでは、いられなかった。

 

 

************

 

 

数日後。

 

夜。

以前と同じ店。

 

向かいに座る男は、何も言わない。

 

エアグルーヴも視線を外さない。

 

沈黙だけが続く。

 

エアグルーヴが静かに切り出す。

 

「話がある。」

「……ああ。」

 

男の表情が固まる。

 

エアグルーヴは息をこぼし、言うべきことを選ぶ。

 

「ここで終わらせる。」

 

真っ直ぐに。

言い訳は挟まない。

 

男は、ひとつ息を落とす。

 

「……なんとなく、分かってた。

 最近、少しずつ、……届いてない感じが、はっきりしてきてたから。」

 

静かな声だった。

 

「私の側の問題だ。続けるべきではなかった。」

 

過去に口にした言葉と同じ。

 

だが、意味は違う。

責任として落とす。

 

男は苦く笑う。

 

「それ、今言われると結構くるな。」

「……ああ。」

「でも、多分。お前なりに、本気だったんだろ?」

「否定はしない。」

「そこ、誤魔化さないんだな。」

「誤魔化すことではない。」

 

会話が途切れる。

以前なら、苦ではなかった時間。

 

「俺さ。結構、期待してたんだと思う。

 近づけてる感じがする時、ちゃんとあったから。」

 

エアグルーヴは何も言わない。

 

「勘違いじゃ、なかったんだろ。」

「……勘違いではない。」

 

その言葉だけは、逃げずに返す。

 

男は目を閉じる。

短く頷く。

 

それで十分だった。

十分だから、終わる。

 

「今日は、俺が払う。」

「必要ない。」

「最後くらい、そうさせろ。」

 

男は困ったように笑う。

 

椅子が引かれる。

男が一度振り返る。

 

「……嫌いには、なれそうにない。」

 

冗談みたいに。

だが、少しだけ掠れている。

 

エアグルーヴは答えられない。

 

男はそのまま店を出る。

扉の音が静かに閉じる。

 

エアグルーヴは動かない。

 

(……残した)

 

以前とは違う。

ただ“合わなかった”では、終わらない。

 

エアグルーヴはそっと目を伏せる。

 

その静けさだけが、長く残った。

 

 

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