理性の外側   作:茶葉坊主

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17.エアグルーヴ/選んだ先で(前編)

 

フロアには、キーボードの音だけが続いている。

 

エアグルーヴは資料を確認しながら、一箇所で手を止めた。

 

数値が合わない。

原因を辿ろうとした瞬間。

 

「そこ、前のデータ混ざってる。」

 

横から声が入る。

別部署の男だった。

 

今進めている企画で、

ここ数か月やり取りが続いている相手。

 

「午前に更新入ってる。」

「そうか、確認する。助かった。」

「俺もさっき気づいただけだ。」

 

男は軽く肩をすくめる。

それだけ言って、自席へ戻る。

 

静かな仕事の仕方だった。

 

手柄のように言わない。

必要なことだけを置いていく。

 

 

 

数日後。

会議室。

 

議論が途中で止まる。

判断材料が足りない。

 

「このまま進める。」

 

エアグルーヴは資料から目を上げずに、淡々と口にする。

 

「リスクは?」

「許容範囲だ。」

「俺も同意します。止める理由が薄い。」

 

横から声が入る。

 

必要以上に庇わない。

流れに乗るわけでもない。

判断を見た上で、必要な言葉だけを足している。

 

 

会議後。

資料を閉じながら、男が言う。

 

「さっき、よく切ったな。」

「止まる方が面倒だった。」

 

男の口角が、わずかに上がる。

 

「徹底してるな。」

 

無理に話を広げない。

必要以上に踏み込まない。

 

だが、判断が必要な場面では外さない。

 

そういう距離感が、妙に引っかからずに残る。

 

 

夕方。

 

資料をまとめていると、机の端へ缶コーヒーが置かれる。

 

「ブラックだったよな。」

 

視線を上げる。

 

男は自分の席へ戻りかけていた。

エアグルーヴは缶を見る。

 

「……覚えているのか。」

「前に、甘いやつ避けてただろ。」

 

軽く返る。

 

些細なことだった。

気を回した、という顔もしない。

 

こういう距離の取り方をするものは、多くなかった。

 

 

************

 

 

別の日。

 

会議前。

男が資料を持ってくる。

 

「ここ、少し迷ってる。」

 

エアグルーヴは受け取り、目を通す。

 

「方向は悪くない。」

「珍しいな。」

「ただ、このままだと後半が弱い。理由をもう一段足せ。」

「……ああ。」

 

すぐに納得したように頷く。

エアグルーヴは資料を返す。

 

「全体はまとまっている。」

「今日は評価が甘いな。」

「事実を言っただけだ。」

 

男は、それ以上何も言わない。

そのやり取りが、少しだけ自然だった。

 

特別なことはない。

 

それでも、

同じ場所で会話を続けることが増えていた。

 

 

夜。

 

フロアに残る人も、少なくなっていた。

 

照明は落とされ始め、

キーボードの音もまばらになっている。

 

エアグルーヴは最後の資料を閉じ、視線を上げる。

 

少し離れた席で、男も端末を閉じるところだった。

 

「まだ残っていたのか。」

「そっちこそ。」

 

男が少し笑った。

 

以前なら、ここで終わっていた会話だった。

 

エアグルーヴは、鞄を手に取りながら続ける。

 

「そっちは終わったのか?」

「ああ。一応。」

「珍しく早いな。」

「お前基準で言うな。」

 

小さな笑いが混ざる。

静かな空気だった。

 

並んでフロアを出る。

 

話題は、仕事の延長がほとんどだ。

 

今日の会議。

止まりかけた案件。

修正が増えた資料。

 

そんな話を、途切れ途切れに続ける。

 

エレベーター前。

男が、ふと思い出したように言う。

 

「この前言ってた店、結局行ったのか?」

「ああ。」

「どうだった?」

「悪くはなかった。」

 

口角がひとつ動く。

 

「その言い方、気に入った時だろ。」

「……椅子以外はな。」

 

吹き出す声。

 

「まだ言うのか。」

「長時間座るなら重要だ。」

「お前、そこだけ妙に厳しいよな。」

 

エレベーターが開き、二人で乗り込む。

 

一階へ着く。

エントランスを抜けると、外は少しだけ雨が降っていた。

 

「降ってたのか。」

「窓の外、見ていなかったのか?」

「今日は余裕なかった。」

「珍しいな。」

「誰かさんの判断が早すぎるせいでな。」

 

軽口だが、棘はない。

エアグルーヴは小さく息を吐く。

 

「遅れるよりはいい。」

「否定はしない。」

 

男は、それ以上続けない。

 

雨音が静かに落ちる。

 

エアグルーヴは、その空気に気づく。

 

必要以上に踏み込んでこない。

それでいて、必要な場面ではきちんといる。

 

無理がないまま、

同じ方向へ歩いている感覚だけが残る。

 

「……駅まで行くなら、途中までは同じだ。」

 

男が、少しだけ目を瞬かせる。

すぐに小さく笑った。

 

「じゃあ、少しだけ助かる。」

 

並んで歩き出す。

雨は、まだ静かに降っていた。

 

 

************

 

 

昼休み。

 

エアグルーヴは共有スペースの端で、

資料を見ながら簡単に食事を取っていた。

 

人は多い。

話し声も絶えない。

 

その中で、不意に視界へ影が入る。

 

「そこ、空いてるか?」

 

例の男だった。

 

「ああ。」

 

男は礼だけ言って、向かいへ座る。

 

エアグルーヴも、そのまま資料へ視線を戻す。

 

静かな時間だった。

 

周囲は騒がしい。

だが、こちらの空気は妙に落ち着いている。

 

しばらくして、男がコーヒーへ口をつけながら言う。

 

「午後の会議、長引きそうだな。」

「だろうな。」

 

エアグルーヴは資料を閉じる。

 

「先に論点を絞らないと止まる。」

「また切る気か?」

「止まる方が面倒だ。」

「ぶれないな。」

 

少し笑った声。

エアグルーヴは肩をすくめる。

 

それ以上は続かない。

けれど、空気は途切れなかった。

 

コーヒーを飲み終え、男が先に立ち上がる。

 

「先に戻る。」

「ああ。」

 

短いやり取り。

 

エアグルーヴは、去っていく背中を少しだけ目で追う。

 

理由があるほどではない。

ただ、視線だけが少し残った。

 

 

午後。

会議前。

 

エアグルーヴは席へ着きながら、

一枚の資料を見て眉を寄せる。

 

数字がひとつ足りない。

確認しようとした時。

 

「追加分、後ろに入ってる。」

 

男が、別資料を軽く持ち上げていた。

 

「……ああ。助かる。」

 

男は頷くだけで、自分の席へ戻る。

 

 

会議が始まる。

議論は長引いた。

 

途中、何度か空気が止まりかける。

 

そのたびに、エアグルーヴは結論を切る。

男は、足りない言葉だけを添える。

 

前には出ない。

だが、流れを切らせもしない。

 

 

会議後。

廊下を歩きながら、男が言う。

 

「今日のあれ、結構強引だったな。」

「待っても材料は増えなかった。」

「まあ、それはそうか。でも、普通あそこまで切れないぞ。」

 

男は苦笑する。

エアグルーヴは少し考える。

 

「切るべき時に止まる方が問題だ。」

「……そういう判断、嫌いじゃないけどな。」

 

軽い声色だった。

押しつける感じもない。

 

 

 

外へ出る。

夕方の風が少し冷たい。

 

男が、空を見上げる。

 

「今日、降りそうだな。」

「朝の予報では、夜からだったな。」

「外したか?」

「最近多い。」

 

会話が途切れる。

沈黙は重くない。

 

エアグルーヴは、ふと気づく。

 

前までなら、用件が終わればそこで切っていた。

だが、今は隣にいることを負担に感じていない。

 

男が歩き出す。

エアグルーヴも、その後を追う。

 

歩幅は、気づけば揃っていた。

 

 

************

 

 

数日後。

 

雨が続いていた。

 

外回りから戻った人間の声と、

濡れた傘の音がフロアに混ざっている。

 

エアグルーヴはパソコンから視線を上げ、時計を見る。

 

予定より少し押していた。

この後の確認が終われば、一段落する。

 

そう考えたところで、横から資料が差し出される。

 

「修正版。」

 

男だった。

 

エアグルーヴは受け取り、そのまま目を通す。

 

「……直したのか。」

「言われたとこだけな。」

「十分だ。」

「なら良かった。」

 

男は笑う。

 

「前よりは整理されている。」

 

事実だけを返す。

 

男は何も言わない。

評価を欲しがる空気もない。

 

そのやり取りが、不思議と記憶に残る。

 

 

夕方。

確認作業が長引き、フロアの人数も多くはない。

 

男が、パソコンから顔を上げる。

 

「そっち、終わりそうか?」

「ああ。あと少しだ。」

「じゃあ待つ。」

「お前も帰るところだろう?」

「途中まで同じだしな。」

 

今までなら、先に帰れと言って、終わっていた。

 

だが。

 

「……5分で終わる。」

 

言葉が先に出る。

 

「了解。」

 

それだけ。

 

急かさない。

埋めるように話しかけてもこない。

 

エアグルーヴは、視線を資料へ戻す。

キーボードの音だけが続く。

 

少しだけ、意識が散る。

嫌ではなかった。

 

ただ、“待たれている”ことに慣れていない。

 

 

会社を出る。

雨は止みかけていた。

 

並んで駅へ向かう。

途切れ途切れに続く会話。

 

仕事の話。

次の会議。

修正が増えた資料。

 

そんな話を交わしながら歩く。

 

男が、思い出したように言う。

 

「そういえば、この前の店さ。」

「また椅子の話か?」

 

男が吹き出す。

 

「そこまで擦る気はない。」

 

声がわずかに弾ける。

その空気が切れないまま、歩く。

 

駅が近づく。

 

「俺こっち。」

「ああ。」

 

エアグルーヴは続ける。

 

「来週の会議、資料は先に回す。」

 

男は、わずかに瞬いた。

 

「助かる。」

「遅れると面倒だからな。」

「変わらないな。」

 

声がわずかに緩む。

 

エアグルーヴは視線を外す。

そのまま別方向へ歩き出す。

 

数歩進んだところで、ふと気づく。

 

会話を続けたのは、自分だった。

理由は、まだ分からない。

 

 

************

 

 

雨は、もう止んでいた。

濡れたアスファルトが、街灯を反射している。

 

エアグルーヴは鞄を持ち直し、静かな道を歩く。

 

頭の中には、さっきまでの会話が残っていた。

 

他愛ないやり取り。

仕事の話。

短い軽口。

 

それだけだ。

特別なことではない。

 

だが、以前ならあそこまで続いていなかった。

用件が終われば、終わる。

 

そうやって、距離を整理してきた。

 

それが、自分には合っていると思っていた。

実際、間違っていたとも思っていない。

 

曖昧にしたことはない。

不誠実だったつもりもない。

 

だが、今は少し違う。

 

会話を切らない。

隣にいることを負担に感じない。

 

さっきもそうだった。

 

あそこで終わらせることもできた。

それでも、自分から言葉を足した。

 

理由は、まだはっきりしない。

 

ただ、“戻していない”。

その自覚だけはある。

 

エアグルーヴは歩きながら、小さく息を吐く。

 

以前の自分なら、もっと早く線を引いていた。

 

だが、今回は違う。

切らないまま、ここまで来ている。

 

男は急かさない。

こちらの判断を待つ。

 

それでも、同じ時間が続いている。

 

靴音が静かに響く。

 

(……向き合えている)

 

そう思う。

少なくとも、今は。

 

何かを重ねて見ているわけではない。

“似ているか”を探しているわけでもない。

 

ただ、目の前にいる相手と会話をしている。

 

それは前とは違った。

 

 

自宅へ着く。

 

エレベーターへ乗り込み、壁へ軽く寄りかかる。

静かな箱の中で、思考だけが続く。

 

特別な熱があるわけではない。

劇的に惹かれているわけでもない。

 

無理はない。

会話も続く。

沈黙も苦にならない。

 

一緒にいる時間を、煩わしいと思わない。

 

それで、十分ではないのか。

 

エアグルーヴは、ゆっくり視線を上げる。

 

(……選ぶ理由は、ある)

 

静かにそう思う。

 

それは衝動ではない。

考えた末に、残った結論だった。

 

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