フロアには、キーボードの音だけが続いている。
エアグルーヴは資料を確認しながら、一箇所で手を止めた。
数値が合わない。
原因を辿ろうとした瞬間。
「そこ、前のデータ混ざってる。」
横から声が入る。
別部署の男だった。
今進めている企画で、
ここ数か月やり取りが続いている相手。
「午前に更新入ってる。」
「そうか、確認する。助かった。」
「俺もさっき気づいただけだ。」
男は軽く肩をすくめる。
それだけ言って、自席へ戻る。
静かな仕事の仕方だった。
手柄のように言わない。
必要なことだけを置いていく。
数日後。
会議室。
議論が途中で止まる。
判断材料が足りない。
「このまま進める。」
エアグルーヴは資料から目を上げずに、淡々と口にする。
「リスクは?」
「許容範囲だ。」
「俺も同意します。止める理由が薄い。」
横から声が入る。
必要以上に庇わない。
流れに乗るわけでもない。
判断を見た上で、必要な言葉だけを足している。
会議後。
資料を閉じながら、男が言う。
「さっき、よく切ったな。」
「止まる方が面倒だった。」
男の口角が、わずかに上がる。
「徹底してるな。」
無理に話を広げない。
必要以上に踏み込まない。
だが、判断が必要な場面では外さない。
そういう距離感が、妙に引っかからずに残る。
夕方。
資料をまとめていると、机の端へ缶コーヒーが置かれる。
「ブラックだったよな。」
視線を上げる。
男は自分の席へ戻りかけていた。
エアグルーヴは缶を見る。
「……覚えているのか。」
「前に、甘いやつ避けてただろ。」
軽く返る。
些細なことだった。
気を回した、という顔もしない。
こういう距離の取り方をするものは、多くなかった。
************
別の日。
会議前。
男が資料を持ってくる。
「ここ、少し迷ってる。」
エアグルーヴは受け取り、目を通す。
「方向は悪くない。」
「珍しいな。」
「ただ、このままだと後半が弱い。理由をもう一段足せ。」
「……ああ。」
すぐに納得したように頷く。
エアグルーヴは資料を返す。
「全体はまとまっている。」
「今日は評価が甘いな。」
「事実を言っただけだ。」
男は、それ以上何も言わない。
そのやり取りが、少しだけ自然だった。
特別なことはない。
それでも、
同じ場所で会話を続けることが増えていた。
夜。
フロアに残る人も、少なくなっていた。
照明は落とされ始め、
キーボードの音もまばらになっている。
エアグルーヴは最後の資料を閉じ、視線を上げる。
少し離れた席で、男も端末を閉じるところだった。
「まだ残っていたのか。」
「そっちこそ。」
男が少し笑った。
以前なら、ここで終わっていた会話だった。
エアグルーヴは、鞄を手に取りながら続ける。
「そっちは終わったのか?」
「ああ。一応。」
「珍しく早いな。」
「お前基準で言うな。」
小さな笑いが混ざる。
静かな空気だった。
並んでフロアを出る。
話題は、仕事の延長がほとんどだ。
今日の会議。
止まりかけた案件。
修正が増えた資料。
そんな話を、途切れ途切れに続ける。
エレベーター前。
男が、ふと思い出したように言う。
「この前言ってた店、結局行ったのか?」
「ああ。」
「どうだった?」
「悪くはなかった。」
口角がひとつ動く。
「その言い方、気に入った時だろ。」
「……椅子以外はな。」
吹き出す声。
「まだ言うのか。」
「長時間座るなら重要だ。」
「お前、そこだけ妙に厳しいよな。」
エレベーターが開き、二人で乗り込む。
一階へ着く。
エントランスを抜けると、外は少しだけ雨が降っていた。
「降ってたのか。」
「窓の外、見ていなかったのか?」
「今日は余裕なかった。」
「珍しいな。」
「誰かさんの判断が早すぎるせいでな。」
軽口だが、棘はない。
エアグルーヴは小さく息を吐く。
「遅れるよりはいい。」
「否定はしない。」
男は、それ以上続けない。
雨音が静かに落ちる。
エアグルーヴは、その空気に気づく。
必要以上に踏み込んでこない。
それでいて、必要な場面ではきちんといる。
無理がないまま、
同じ方向へ歩いている感覚だけが残る。
「……駅まで行くなら、途中までは同じだ。」
男が、少しだけ目を瞬かせる。
すぐに小さく笑った。
「じゃあ、少しだけ助かる。」
並んで歩き出す。
雨は、まだ静かに降っていた。
************
昼休み。
エアグルーヴは共有スペースの端で、
資料を見ながら簡単に食事を取っていた。
人は多い。
話し声も絶えない。
その中で、不意に視界へ影が入る。
「そこ、空いてるか?」
例の男だった。
「ああ。」
男は礼だけ言って、向かいへ座る。
エアグルーヴも、そのまま資料へ視線を戻す。
静かな時間だった。
周囲は騒がしい。
だが、こちらの空気は妙に落ち着いている。
しばらくして、男がコーヒーへ口をつけながら言う。
「午後の会議、長引きそうだな。」
「だろうな。」
エアグルーヴは資料を閉じる。
「先に論点を絞らないと止まる。」
「また切る気か?」
「止まる方が面倒だ。」
「ぶれないな。」
少し笑った声。
エアグルーヴは肩をすくめる。
それ以上は続かない。
けれど、空気は途切れなかった。
コーヒーを飲み終え、男が先に立ち上がる。
「先に戻る。」
「ああ。」
短いやり取り。
エアグルーヴは、去っていく背中を少しだけ目で追う。
理由があるほどではない。
ただ、視線だけが少し残った。
午後。
会議前。
エアグルーヴは席へ着きながら、
一枚の資料を見て眉を寄せる。
数字がひとつ足りない。
確認しようとした時。
「追加分、後ろに入ってる。」
男が、別資料を軽く持ち上げていた。
「……ああ。助かる。」
男は頷くだけで、自分の席へ戻る。
会議が始まる。
議論は長引いた。
途中、何度か空気が止まりかける。
そのたびに、エアグルーヴは結論を切る。
男は、足りない言葉だけを添える。
前には出ない。
だが、流れを切らせもしない。
会議後。
廊下を歩きながら、男が言う。
「今日のあれ、結構強引だったな。」
「待っても材料は増えなかった。」
「まあ、それはそうか。でも、普通あそこまで切れないぞ。」
男は苦笑する。
エアグルーヴは少し考える。
「切るべき時に止まる方が問題だ。」
「……そういう判断、嫌いじゃないけどな。」
軽い声色だった。
押しつける感じもない。
外へ出る。
夕方の風が少し冷たい。
男が、空を見上げる。
「今日、降りそうだな。」
「朝の予報では、夜からだったな。」
「外したか?」
「最近多い。」
会話が途切れる。
沈黙は重くない。
エアグルーヴは、ふと気づく。
前までなら、用件が終わればそこで切っていた。
だが、今は隣にいることを負担に感じていない。
男が歩き出す。
エアグルーヴも、その後を追う。
歩幅は、気づけば揃っていた。
************
数日後。
雨が続いていた。
外回りから戻った人間の声と、
濡れた傘の音がフロアに混ざっている。
エアグルーヴはパソコンから視線を上げ、時計を見る。
予定より少し押していた。
この後の確認が終われば、一段落する。
そう考えたところで、横から資料が差し出される。
「修正版。」
男だった。
エアグルーヴは受け取り、そのまま目を通す。
「……直したのか。」
「言われたとこだけな。」
「十分だ。」
「なら良かった。」
男は笑う。
「前よりは整理されている。」
事実だけを返す。
男は何も言わない。
評価を欲しがる空気もない。
そのやり取りが、不思議と記憶に残る。
夕方。
確認作業が長引き、フロアの人数も多くはない。
男が、パソコンから顔を上げる。
「そっち、終わりそうか?」
「ああ。あと少しだ。」
「じゃあ待つ。」
「お前も帰るところだろう?」
「途中まで同じだしな。」
今までなら、先に帰れと言って、終わっていた。
だが。
「……5分で終わる。」
言葉が先に出る。
「了解。」
それだけ。
急かさない。
埋めるように話しかけてもこない。
エアグルーヴは、視線を資料へ戻す。
キーボードの音だけが続く。
少しだけ、意識が散る。
嫌ではなかった。
ただ、“待たれている”ことに慣れていない。
会社を出る。
雨は止みかけていた。
並んで駅へ向かう。
途切れ途切れに続く会話。
仕事の話。
次の会議。
修正が増えた資料。
そんな話を交わしながら歩く。
男が、思い出したように言う。
「そういえば、この前の店さ。」
「また椅子の話か?」
男が吹き出す。
「そこまで擦る気はない。」
声がわずかに弾ける。
その空気が切れないまま、歩く。
駅が近づく。
「俺こっち。」
「ああ。」
エアグルーヴは続ける。
「来週の会議、資料は先に回す。」
男は、わずかに瞬いた。
「助かる。」
「遅れると面倒だからな。」
「変わらないな。」
声がわずかに緩む。
エアグルーヴは視線を外す。
そのまま別方向へ歩き出す。
数歩進んだところで、ふと気づく。
会話を続けたのは、自分だった。
理由は、まだ分からない。
************
雨は、もう止んでいた。
濡れたアスファルトが、街灯を反射している。
エアグルーヴは鞄を持ち直し、静かな道を歩く。
頭の中には、さっきまでの会話が残っていた。
他愛ないやり取り。
仕事の話。
短い軽口。
それだけだ。
特別なことではない。
だが、以前ならあそこまで続いていなかった。
用件が終われば、終わる。
そうやって、距離を整理してきた。
それが、自分には合っていると思っていた。
実際、間違っていたとも思っていない。
曖昧にしたことはない。
不誠実だったつもりもない。
だが、今は少し違う。
会話を切らない。
隣にいることを負担に感じない。
さっきもそうだった。
あそこで終わらせることもできた。
それでも、自分から言葉を足した。
理由は、まだはっきりしない。
ただ、“戻していない”。
その自覚だけはある。
エアグルーヴは歩きながら、小さく息を吐く。
以前の自分なら、もっと早く線を引いていた。
だが、今回は違う。
切らないまま、ここまで来ている。
男は急かさない。
こちらの判断を待つ。
それでも、同じ時間が続いている。
靴音が静かに響く。
(……向き合えている)
そう思う。
少なくとも、今は。
何かを重ねて見ているわけではない。
“似ているか”を探しているわけでもない。
ただ、目の前にいる相手と会話をしている。
それは前とは違った。
自宅へ着く。
エレベーターへ乗り込み、壁へ軽く寄りかかる。
静かな箱の中で、思考だけが続く。
特別な熱があるわけではない。
劇的に惹かれているわけでもない。
無理はない。
会話も続く。
沈黙も苦にならない。
一緒にいる時間を、煩わしいと思わない。
それで、十分ではないのか。
エアグルーヴは、ゆっくり視線を上げる。
(……選ぶ理由は、ある)
静かにそう思う。
それは衝動ではない。
考えた末に、残った結論だった。