休日の夕方。
駅前は人が多かった。
買い物帰り。
待ち合わせ。
途切れない話し声。
その中を、エアグルーヴは男と並んで歩いていた。
元は仕事の話だった。
昼過ぎに資料を受け取り、修正箇所を確認し、
その流れで遅い昼食を取った。
それで終わるはずだった。
だが、気づけば夕方まで一緒にいた。
特別なことをしていたわけではない。
店を回り、途中で休憩を挟み、
また話しながら歩く。
沈黙があっても途切れない。
男が横で言う。
「お前、休日でも仕事の話減らないな。」
「お前もだろう。」
「それもそうだな。」
少し笑う声。
以前なら、ここまで長く一緒にはいなかった。
用件が済めば、そこで終わらせていた。
だが、今日は違う。
日が落ち始める。
信号待ち。
男がふと口を開く。
「最近、結構一緒にいるよな。」
「ああ。」
「……嫌なら、もう少し距離取ると思ってた。」
エアグルーヴは、すぐには返さない。
今までなら、ここで曖昧に戻していた。
笑って流すか、仕事の話へ切り替えるか。
そうやって線を戻していた。
だが、今回は――
一緒にいる時間。
続いている会話。
線を引かない距離。
衝動ではない。
ちゃんと考えた上で、ここに立っている。
信号が変わる。
人が動き出す。
エアグルーヴは、その流れの中で静かに言葉を置く。
「……お前といる時間を、負担だと思ったことはない。」
男がわずかに目を向ける。
エアグルーヴは続ける。
「一緒にいて、無理もない。今の関係を戻す理由もない。」
男は、しばらく何も言わなかった。
ようやく息をつく。
「それ、期待していいやつか?」
冗談めかしている。
だが、声の奥はまだ固かった。
「……ああ。」
それ以上、大きな言葉はない。
だが、関係はそこで変わる。
静かなまま。
無理のない形で。
************
平日。
会議が長引き、席へ戻る頃には外も暗くなっていた。
エアグルーヴは、パソコンへ視線を落とす。
未読が増えている。
確認事項。
修正依頼。
共有メール。
淡々と処理を進めていると、缶コーヒーが置かれる。
「今日はまだ残るだろ?」
男だった。
前と同じブラック。
「覚えていたのか。」
「もう何回目だと思ってるんだ。」
それだけのやり取り。
だが、以前より間が短い。
言葉を探さなくなっている。
しばらくして、男が自席から声を投げる。
「来週の資料、先に確認するか?」
「ああ。送ってくれ。」
「今出す。」
すぐにデータが届く。
エアグルーヴは開き、目を通す。
「構成は悪くない。」
「珍しいな。」
「ただ、中盤が弱い。」
「やっぱり来たか。」
小さな笑い。
エアグルーヴは、視線を画面へ戻す。
「理由付けを増やせ。」
「了解。」
少し経ってから、男がまた口を開く。
「そういえば、この前言ってた店、別の椅子入れたらしいぞ。」
「改善したのか。」
「……っ。そこ反応するんだな。」
フロアの空気は静かだった。
キーボードの音。
遠くの話し声。
その中で、会話だけが途切れずに残る。
帰り道。
駅へ向かいながら、男がふと隣を見る。
「なんか、不思議だな。」
「何がだ?」
「お前と、こうなると思ってなかった。」
エアグルーヴは、一瞬だけ視線を落とす。
自分でも思っていなかった。
もっと早く戻していた距離。
終わらせていた時間。
だが、今は違う。
隣にいる。
それを、自分で選んでいる。
男が続ける。
「でも、無理してる感じはしない。」
「……ああ。」
事実だった。
この関係を戻す理由は、見当たらなかった。
隣にいる時間も、もう馴染んでいた。
だからこそ。
まだ、見えていなかった。
自分の内側だけが、妙に静かなことに。
************
週末。
昼過ぎ。
駅前で待ち合わせる。
男は先に来ていた。
「珍しいな。」
エアグルーヴが言うと、男が少し笑う。
「今日は余裕持って出た。」
エアグルーヴは、そのまま隣へ並ぶ。
仕事の延長ではない予定。
用件だけでは終わらない時間。
今は、それを不自然だと思わない。
店へ入る。
昼食を取りながら、他愛ない話が続く。
最近の案件。
社内の人間。
そんな話。
男が呆れたように言う。
「お前、本当に容赦ないよな。」
「必要な判断だ。」
「はいはい。」
エアグルーヴは小さく息を吐く。
その反応にも慣れてきていた。
食事を終え、外へ出る。
人混みの中を並んで歩く。
男が、ふとエアグルーヴの手首を引く。
横から人が流れてきていた。
「悪い。」
すぐに離れる。
エアグルーヴは視線だけを向ける。
「いや。」
歩きながら、ふと思う。
これまでなら、もっと意識していたかもしれない。
触れられたこと。
距離が近いこと。
だが今は、過剰に反応することもない。
落ち着いている。
それでいいはずだ。
夕方。
駅までの道。
信号待ちで、男が言う。
「最近、お前から連絡来るようになったよな。」
「そうだったか?」
「前は、必要事項だけだった。」
否定できない。
今は、資料とは関係ない話も少し増えている。
食事の店。
遅くなる連絡。
そういうやり取りが、いつの間にか日常に混ざっていた。
「まあ、ちょっと嬉しい。」
男が軽く言う。
押しつける響きはない。
エアグルーヴは何も返さない。
だが、拒む気にもならなかった。
別れ際。
「また来週な。」
「ああ。」
男が、手を上げて離れていく。
エアグルーヴはその背中を見送り、
ゆっくり歩き出す。
胸が高鳴っているわけではない。
離れ難さがあるわけでもない。
だが、一緒にいた時間を、悪くないと思っている。
会話は続く。
沈黙も苦にならない。
隣にいることも、もう自然だった。
それで、十分なのではないか。
エアグルーヴは、浅く息を吐く。
夜風は穏やかだった。
************
夜。
仕事帰り。
男と歩く。
今日の会議。
修正された資料。
来週の予定。
そんな話を続けながら、ゆっくり歩く。
関係は穏やかだった。
距離を戻そうとすることもない。
男も、急かさない。
互いに自然な速度で隣にいる。
それで成立していた。
横断歩道。
信号が変わり、人の流れが動き出す。
男の手が、軽くエアグルーヴの手へ触れる。
繋ぐ、というほど強くはない。
離れないように引く、短い接触。
エアグルーヴは拒まない。
そのまま数歩進む。
そこで気づく。
自分からは、触れていない。
男の指先だけが、そこにある。
エアグルーヴは、わずかに視線を落とす。
嫌ではない。
不快でもない。
触れられることに抵抗はない。
それでも。
“触れたい”が、ない。
数秒後、男の手が離れる。
「悪い、人多かった。」
「……大丈夫だ。」
会話は、その後も普通に続く。
だが、小さな違和感だけが残る。
************
別の日。
男の部屋。
ソファへ並んで座り、遅い時間の映画を流していた。
内容は、半分も頭に入っていない。
男が隣で笑う。
エアグルーヴも、姿勢がわずかに沈む。
落ち着いていた。
男の肩が軽く触れる。
エアグルーヴも避けない。
そのまま時間が過ぎる。
ふと、思考が止まる。
(……静かだ)
気まずさもない。
穏やかで、落ち着いている。
関係は整っている。
それでも。
どこか、自分が動いていない。
心が静かなまま、変わらない。
男は、和やかに笑っている。
エアグルーヴは、その横顔を見ながら思う。
(……恋愛とは、こういうものなのかもしれない)
熱が全てではない。
落ち着いた関係というものもある。
成立しているなら、それでいい。
そう考える。
自分の家に帰宅した後。
部屋には物音がない。
鞄を置き、上着を脱ぐ。
手元の動きが止まる。
“余韻”が、薄い。
楽しくなかったわけではない。
時間は穏やかだった。
だが。
ひとりへ戻った瞬間、感情まで静かに戻る。
残っているのは、
“問題はない”という認識だけだった。
お風呂に入り、エアグルーヴはソファへ腰を下ろす。
動かない。
テーブルには、途中まで飲んだ水。
頭の中には、今日の時間が残っている。
並んで座ったこと。
触れられた距離。
笑っていた声。
穏やかな空気。
嫌ではなかった。
むしろ、落ち着いていた。
一緒にいることを、負担だと思ったことはない。
会話も続く。
沈黙も苦にならない。
関係は穏やかだった。
今の距離を、戻したいとも思わない。
エアグルーヴは、ゆっくり目を閉じる。
動かない。
自分の内側だけが。
相手は、違う。
触れる時。
言葉を返す時。
少し嬉しそうに笑う時。
ちゃんと、こちらを見ている。
この関係を、喜んでいる。
それが分かる。
分かってしまう。
だから余計に、胸の奥が重く沈む。
エアグルーヴは指先へ視線を落とす。
以前、触れられた手。
拒まなかった。
不快でもなかった。
しかし。
自分から触れたいとは、思わなかった。
そこへ行く感情が、動かない。
凪いだまま。
(……向き合っている)
逃げていない。
曖昧にもしていない。
関係を続けることも、自分で選んだ。
相手を大事に思っていないわけでもない。
それでも、何かが決定的に足りない。
違う、と切り捨てたいわけではない。
そんな簡単な話ではない。
一緒にいる時間は、ちゃんと心地いい。
穏やかで、無理もない。
なのに、相手が向けてくるものと、
自分の内側の温度が揃わない。
返せていない。
その違和感だけが、少しずつ積もっていく。
エアグルーヴは、背もたれへ体重を預ける。
視界の先。
暗い窓ガラスに、自分の姿が映っていた。
感情がないわけではない。
ただ――
静かすぎる。
崩れない。
熱が動かない。
そこまで考えて、思考が止まる。
銀色が、胸の奥を掠めた。
だが、エアグルーヴはそこへ踏み込まない。
まだ早い。
変わるかもしれない。
これから、もっと深くなるのかもしれない。
そうでなければならない。
静かな部屋で、その考えだけが長く残った。
************
休日。
昼過ぎ。
エアグルーヴは駅前の店を見上げる。
以前、男が「気になる」と言っていた場所だった。
混みすぎているわけでもない。
騒がしすぎもしない。
入るには丁度いい。
エアグルーヴは数秒考え、携帯を取り出す。
『今日、空いているなら行くか?』
数分後。
『今ちょうど終わった。行く。』
返信は早かった。
エアグルーヴは画面を閉じる。
胸は静かなままだった。
店内。
男は、少し驚いたように笑った。
「珍しいな。お前から誘うの。」
「そうか?」
「そうだろ。」
向かいへ座る。
注文を待つ間、男はどこか嬉しそうだった。
(……喜んでいる)
それが分かる。
自分から誘ったこと。
時間を作ったこと。
ちゃんと関係を続けようとしていること。
そういうものが、相手へ届いている。
指先へ意識が落ちる。
間違ってはいない。
向き合っている。
食事を終えた後。
並んで歩く。
仕事の愚痴。
最近増えた会議。
小さな失敗談。
会話は続く。
ふと、男が笑いながら、
エアグルーヴの袖を軽く引いた。
「聞いてるか?」
「聞いている。」
「怪しいな。」
エアグルーヴは小さく息を吐き、
そのまま男の手へ触れる。
指先を軽く重ねる。
男が少しだけ目を見開く。
すぐに、嬉しそうに笑った。
エアグルーヴも、口元をわずかに緩める。
そうするべきだと思った。
(……っ!)
思考が止まる。
今――
なんで笑った?
恋人だから、笑い返した。
いや、笑い返すべきだと思った。
触れた。
自分から。
恋人として、正しい行動だった。
嫌ではない。
触れることに抵抗もない。
だが――
“触れたかった”わけではない。
(……違う)
エアグルーヴは指先へ力を入れたまま、表情を崩さない。
男は、そのまま話を続けている。
嬉しそうだった。
指先の感覚だけが残る。
(自分で選んだ)
向き合うと決めた。
そのつもりだった。
なのに。
気づけば、"そうするべき"が、先にある。
意識して触れている。
考えて言葉を返している。
関係を続けようとしている。
その感覚が、胸の奥へ静かに刺さる。
返せていない。
同じ場所へ立てていない。
足が一瞬、止まりかける。
今まで疑わなかったものが、静かにずれた気がした。
男は気づいていない。
ただ、隣で嬉しそうに歩いている。
触れているはずの手が、ひどく冷たかった。