理性の外側   作:茶葉坊主

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18.エアグルーヴ/選んだ先で(後編)

 

休日の夕方。

 

駅前は人が多かった。

 

買い物帰り。

待ち合わせ。

途切れない話し声。

 

その中を、エアグルーヴは男と並んで歩いていた。

元は仕事の話だった。

 

昼過ぎに資料を受け取り、修正箇所を確認し、

その流れで遅い昼食を取った。

 

それで終わるはずだった。

 

だが、気づけば夕方まで一緒にいた。

特別なことをしていたわけではない。

 

店を回り、途中で休憩を挟み、

また話しながら歩く。

 

沈黙があっても途切れない。

 

男が横で言う。

 

「お前、休日でも仕事の話減らないな。」

「お前もだろう。」

「それもそうだな。」

 

少し笑う声。

 

以前なら、ここまで長く一緒にはいなかった。

用件が済めば、そこで終わらせていた。

 

だが、今日は違う。

 

 

日が落ち始める。

 

信号待ち。

 

男がふと口を開く。

 

「最近、結構一緒にいるよな。」

「ああ。」

「……嫌なら、もう少し距離取ると思ってた。」

 

エアグルーヴは、すぐには返さない。

 

今までなら、ここで曖昧に戻していた。

笑って流すか、仕事の話へ切り替えるか。

そうやって線を戻していた。

 

だが、今回は――

 

一緒にいる時間。

続いている会話。

線を引かない距離。

 

衝動ではない。

 

ちゃんと考えた上で、ここに立っている。

 

信号が変わる。

人が動き出す。

 

エアグルーヴは、その流れの中で静かに言葉を置く。

 

「……お前といる時間を、負担だと思ったことはない。」

 

男がわずかに目を向ける。

エアグルーヴは続ける。

 

「一緒にいて、無理もない。今の関係を戻す理由もない。」

 

男は、しばらく何も言わなかった。

ようやく息をつく。

 

「それ、期待していいやつか?」

 

冗談めかしている。

だが、声の奥はまだ固かった。

 

「……ああ。」

 

それ以上、大きな言葉はない。

だが、関係はそこで変わる。

 

静かなまま。

無理のない形で。

 

 

************

 

 

平日。

 

会議が長引き、席へ戻る頃には外も暗くなっていた。

 

エアグルーヴは、パソコンへ視線を落とす。

 

未読が増えている。

 

確認事項。

修正依頼。

共有メール。

 

淡々と処理を進めていると、缶コーヒーが置かれる。

 

「今日はまだ残るだろ?」

 

男だった。

前と同じブラック。

 

「覚えていたのか。」

「もう何回目だと思ってるんだ。」

 

それだけのやり取り。

 

だが、以前より間が短い。

言葉を探さなくなっている。

 

しばらくして、男が自席から声を投げる。

 

「来週の資料、先に確認するか?」

「ああ。送ってくれ。」

「今出す。」

 

すぐにデータが届く。

エアグルーヴは開き、目を通す。

 

「構成は悪くない。」

「珍しいな。」

「ただ、中盤が弱い。」

「やっぱり来たか。」

 

小さな笑い。

エアグルーヴは、視線を画面へ戻す。

 

「理由付けを増やせ。」

「了解。」

 

少し経ってから、男がまた口を開く。

 

「そういえば、この前言ってた店、別の椅子入れたらしいぞ。」

「改善したのか。」

「……っ。そこ反応するんだな。」

 

フロアの空気は静かだった。

キーボードの音。

遠くの話し声。

 

その中で、会話だけが途切れずに残る。

 

 

帰り道。

駅へ向かいながら、男がふと隣を見る。

 

「なんか、不思議だな。」

「何がだ?」

「お前と、こうなると思ってなかった。」

 

エアグルーヴは、一瞬だけ視線を落とす。

 

自分でも思っていなかった。

 

もっと早く戻していた距離。

終わらせていた時間。

 

だが、今は違う。

 

隣にいる。

それを、自分で選んでいる。

 

男が続ける。

 

「でも、無理してる感じはしない。」

「……ああ。」

 

事実だった。

 

この関係を戻す理由は、見当たらなかった。

隣にいる時間も、もう馴染んでいた。

 

だからこそ。

 

まだ、見えていなかった。

 

自分の内側だけが、妙に静かなことに。

 

 

************

 

 

週末。

昼過ぎ。

 

駅前で待ち合わせる。

 

男は先に来ていた。

 

「珍しいな。」

 

エアグルーヴが言うと、男が少し笑う。

 

「今日は余裕持って出た。」

 

エアグルーヴは、そのまま隣へ並ぶ。

 

仕事の延長ではない予定。

用件だけでは終わらない時間。

 

今は、それを不自然だと思わない。

 

 

店へ入る。

 

昼食を取りながら、他愛ない話が続く。

 

最近の案件。

社内の人間。

 

そんな話。

 

男が呆れたように言う。

 

「お前、本当に容赦ないよな。」

「必要な判断だ。」

「はいはい。」

 

エアグルーヴは小さく息を吐く。

その反応にも慣れてきていた。

 

 

食事を終え、外へ出る。

人混みの中を並んで歩く。

 

男が、ふとエアグルーヴの手首を引く。

横から人が流れてきていた。

 

「悪い。」

 

すぐに離れる。

エアグルーヴは視線だけを向ける。

 

「いや。」

 

歩きながら、ふと思う。

 

これまでなら、もっと意識していたかもしれない。

 

触れられたこと。

距離が近いこと。

 

だが今は、過剰に反応することもない。

落ち着いている。

 

それでいいはずだ。

 

 

夕方。

駅までの道。

 

信号待ちで、男が言う。

 

「最近、お前から連絡来るようになったよな。」

「そうだったか?」

「前は、必要事項だけだった。」

 

否定できない。

 

今は、資料とは関係ない話も少し増えている。

 

食事の店。

遅くなる連絡。

 

そういうやり取りが、いつの間にか日常に混ざっていた。

 

「まあ、ちょっと嬉しい。」

 

男が軽く言う。

押しつける響きはない。

 

エアグルーヴは何も返さない。

だが、拒む気にもならなかった。

 

 

別れ際。

 

「また来週な。」

「ああ。」

 

男が、手を上げて離れていく。

 

エアグルーヴはその背中を見送り、

ゆっくり歩き出す。

 

胸が高鳴っているわけではない。

離れ難さがあるわけでもない。

 

だが、一緒にいた時間を、悪くないと思っている。

 

会話は続く。

沈黙も苦にならない。

隣にいることも、もう自然だった。

 

それで、十分なのではないか。

 

エアグルーヴは、浅く息を吐く。

 

夜風は穏やかだった。

 

 

************

 

 

夜。

仕事帰り。

 

男と歩く。

 

今日の会議。

修正された資料。

来週の予定。

 

そんな話を続けながら、ゆっくり歩く。

 

関係は穏やかだった。

 

距離を戻そうとすることもない。

 

男も、急かさない。

互いに自然な速度で隣にいる。

 

それで成立していた。

 

 

横断歩道。

信号が変わり、人の流れが動き出す。

 

男の手が、軽くエアグルーヴの手へ触れる。

 

繋ぐ、というほど強くはない。

離れないように引く、短い接触。

 

エアグルーヴは拒まない。

そのまま数歩進む。

 

そこで気づく。

 

自分からは、触れていない。

男の指先だけが、そこにある。

 

エアグルーヴは、わずかに視線を落とす。

 

嫌ではない。

不快でもない。

触れられることに抵抗はない。

 

それでも。

 

“触れたい”が、ない。

 

数秒後、男の手が離れる。

 

「悪い、人多かった。」

「……大丈夫だ。」

 

会話は、その後も普通に続く。

 

だが、小さな違和感だけが残る。

 

 

************

 

 

別の日。

 

男の部屋。

 

ソファへ並んで座り、遅い時間の映画を流していた。

 

内容は、半分も頭に入っていない。

 

男が隣で笑う。

エアグルーヴも、姿勢がわずかに沈む。

 

落ち着いていた。

 

男の肩が軽く触れる。

エアグルーヴも避けない。

 

そのまま時間が過ぎる。

 

ふと、思考が止まる。

 

(……静かだ)

 

気まずさもない。

穏やかで、落ち着いている。

 

関係は整っている。

 

それでも。

 

どこか、自分が動いていない。

 

心が静かなまま、変わらない。

 

男は、和やかに笑っている。

エアグルーヴは、その横顔を見ながら思う。

 

(……恋愛とは、こういうものなのかもしれない)

 

熱が全てではない。

落ち着いた関係というものもある。

 

成立しているなら、それでいい。

そう考える。

 

 

 

自分の家に帰宅した後。

 

部屋には物音がない。

 

鞄を置き、上着を脱ぐ。

 

手元の動きが止まる。

 

“余韻”が、薄い。

 

楽しくなかったわけではない。

時間は穏やかだった。

 

だが。

 

ひとりへ戻った瞬間、感情まで静かに戻る。

 

残っているのは、

“問題はない”という認識だけだった。

 

お風呂に入り、エアグルーヴはソファへ腰を下ろす。

 

動かない。

 

テーブルには、途中まで飲んだ水。

 

頭の中には、今日の時間が残っている。

 

並んで座ったこと。

触れられた距離。

笑っていた声。

穏やかな空気。

 

嫌ではなかった。

むしろ、落ち着いていた。

 

一緒にいることを、負担だと思ったことはない。

 

会話も続く。

沈黙も苦にならない。

関係は穏やかだった。

 

今の距離を、戻したいとも思わない。

 

エアグルーヴは、ゆっくり目を閉じる。

 

動かない。

自分の内側だけが。

 

相手は、違う。

 

触れる時。

言葉を返す時。

少し嬉しそうに笑う時。

 

ちゃんと、こちらを見ている。

 

この関係を、喜んでいる。

 

それが分かる。

分かってしまう。

 

だから余計に、胸の奥が重く沈む。

 

エアグルーヴは指先へ視線を落とす。

 

以前、触れられた手。

 

拒まなかった。

不快でもなかった。

 

しかし。

 

自分から触れたいとは、思わなかった。

 

そこへ行く感情が、動かない。

凪いだまま。

 

(……向き合っている)

 

逃げていない。

曖昧にもしていない。

 

関係を続けることも、自分で選んだ。

相手を大事に思っていないわけでもない。

 

それでも、何かが決定的に足りない。

 

違う、と切り捨てたいわけではない。

そんな簡単な話ではない。

 

一緒にいる時間は、ちゃんと心地いい。

穏やかで、無理もない。

 

なのに、相手が向けてくるものと、

自分の内側の温度が揃わない。

 

返せていない。

 

その違和感だけが、少しずつ積もっていく。

 

エアグルーヴは、背もたれへ体重を預ける。

 

視界の先。

暗い窓ガラスに、自分の姿が映っていた。

 

感情がないわけではない。

 

ただ――

 

静かすぎる。

崩れない。

熱が動かない。

 

そこまで考えて、思考が止まる。

 

銀色が、胸の奥を掠めた。

 

だが、エアグルーヴはそこへ踏み込まない。

 

まだ早い。

変わるかもしれない。

 

これから、もっと深くなるのかもしれない。

そうでなければならない。

 

静かな部屋で、その考えだけが長く残った。

 

 

************

 

 

休日。

昼過ぎ。

 

エアグルーヴは駅前の店を見上げる。

以前、男が「気になる」と言っていた場所だった。

 

混みすぎているわけでもない。

騒がしすぎもしない。

入るには丁度いい。

 

エアグルーヴは数秒考え、携帯を取り出す。

 

『今日、空いているなら行くか?』

 

数分後。

 

『今ちょうど終わった。行く。』

 

返信は早かった。

エアグルーヴは画面を閉じる。

 

胸は静かなままだった。

 

 

店内。

 

男は、少し驚いたように笑った。

 

「珍しいな。お前から誘うの。」

「そうか?」

「そうだろ。」

 

向かいへ座る。

注文を待つ間、男はどこか嬉しそうだった。

 

(……喜んでいる)

 

それが分かる。

 

自分から誘ったこと。

時間を作ったこと。

ちゃんと関係を続けようとしていること。

 

そういうものが、相手へ届いている。

 

指先へ意識が落ちる。

 

間違ってはいない。

向き合っている。

 

 

食事を終えた後。

並んで歩く。

 

仕事の愚痴。

最近増えた会議。

小さな失敗談。

 

会話は続く。

 

ふと、男が笑いながら、

エアグルーヴの袖を軽く引いた。

 

「聞いてるか?」

「聞いている。」

「怪しいな。」

 

エアグルーヴは小さく息を吐き、

そのまま男の手へ触れる。

 

指先を軽く重ねる。

 

男が少しだけ目を見開く。

すぐに、嬉しそうに笑った。

 

エアグルーヴも、口元をわずかに緩める。

 

そうするべきだと思った。

 

(……っ!)

 

思考が止まる。

 

今――

 

なんで笑った?

 

恋人だから、笑い返した。

いや、笑い返すべきだと思った。

 

触れた。

自分から。

 

恋人として、正しい行動だった。

 

嫌ではない。

触れることに抵抗もない。

 

だが――

 

“触れたかった”わけではない。

 

(……違う)

 

エアグルーヴは指先へ力を入れたまま、表情を崩さない。

 

男は、そのまま話を続けている。

嬉しそうだった。

 

指先の感覚だけが残る。

 

(自分で選んだ)

 

向き合うと決めた。

そのつもりだった。

 

なのに。

 

気づけば、"そうするべき"が、先にある。

 

意識して触れている。

考えて言葉を返している。

関係を続けようとしている。

 

その感覚が、胸の奥へ静かに刺さる。

 

返せていない。

同じ場所へ立てていない。

 

足が一瞬、止まりかける。

 

今まで疑わなかったものが、静かにずれた気がした。

 

男は気づいていない。

ただ、隣で嬉しそうに歩いている。

 

触れているはずの手が、ひどく冷たかった。

 

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