――――卒業式の前日
校舎はいつもと変わらない。
廊下に差し込む光も、足音の響きも、
日常の延長にある静けさを保っている。
変わったのは、終わりが決まっていることだけだ。
エアグルーヴは資料室から出て、扉を静かに閉めた。
最後の整理も終えた。
引き継ぎは完了している。
残すべきものも、残す必要のないものも、すべて判断した。
手元に残っているのは、進学先の書類だけ。
問題ない。
すべて予定通りだ。
廊下を歩き出すと、
向こうから見慣れた顔が来る。
「終わったのかい、エアグルーヴ。」
声をかけてきたのはルドルフだった。
「ああ。必要な作業はすべて完了した。」
「君らしいな。」
壁にもたれていたブライアンが、
視線だけを寄越す。
「……明日で終わりか。」
「形式上はな。」
窓際には、スズカが立っている。
外を見ていた視線が、わずかにこちらへ向いた。
「……これからも一緒だね。」
「ああ。同じだ。」
それ以上の言葉はない。
確認だけで足りる関係だった。
沈黙が落ちる。
気まずさはない。
ただ、話す必要がないだけだ。
ルドルフが問いかける。
「……問題はなかったかい?」
「問題はない。得るべきものは得た。」
エアグルーヴは簡潔に答える。
ルドルフは何も言わず、
ただ一度だけ頷いた。
エアグルーヴはその場を離れ、
昇降口を抜けて外に出る。
夕方の空気が静かに流れていた。
門の前で、一度だけ立ち止まる。
視線が、無意識に校舎へ向く。
(……誰か)
唐突に浮かんだ感覚に、
思考がわずかに引っかかる。
名前。
思い出せるはずだ。
必要なら、いくらでも辿れる。
「……不要だな。」
それでも、ほんの一瞬だけ、
視界の端に“光”が走る。
銀色の光。
意味を持たないまま、すぐに消える。
校門を出て、影が長く伸びる中、
エアグルーヴは一度も足を止めなかった。
**********
――――大学生、春
入学式は滞りなく終わった。
式典の形式も、挨拶の内容も、
すべて想定の範囲内。
新しい環境に対する高揚も不安も、
エアグルーヴの中には特にない。
ただ、次の段階に進んだという認識だけがある。
構内は広く、ひとも多い。
隣を歩くルドルフが、
周囲のざわめきを一瞥してから口を開く。
「早速、目立っているね。」
「ああ。だが、問題はない。」
エアグルーヴは短く答える。
後ろでブライアンが軽く鼻を鳴らす。
「……好きに見てればいい。」
少し離れた位置を歩いていたスズカが言う。
「……同じだね。」
「何がだ?」
「評価されることが、だよ。」
「……そうだな。
環境が変わっても、大きくは変わらない。」
四人はそのまま構内を抜け、
それぞれの手続きへと散っていく。
エアグルーヴは、
ひとり暮らしの部屋に帰る。
机、椅子、最低限の家具。
配置は無駄がない。
荷解きは既に終わっていた。
段ボールは畳まれている。隅だ。
窓を開け、外の空気を入れる。
(……静かだ。)
学園の寮とは違う静けさ。
目を閉じる。
深く息を吸う。
次に目を開けると、
机に向かい、資料を開く。
履修計画、必要単位、時間配分。
視線を落とし、順調にペンを走らせる。
そのとき、ふと、手が止まる。
ただ、一瞬だけ。
(……)
何かを考えかけて、やめる。
「――問題ない。」
小さく、独り言のように呟く。
窓の外で、風がわずかに鳴る。
それだけだった。
**********
時間割は固まり、
曜日ごとの流れも体に馴染んでくる。
特別なことはないが、崩れることもない。
駅までの道も覚えた。
信号の変わるタイミングや、
人の流れが増える時間帯も分かる。
講義室は、いつも同じあたりに座るようになった
板書は、必要なところだけを抜き出す。
書き写すのではなく、
要点だけを残す癖がついている。
あとで見返したときに、
余計なものが目に入らない。
隣に座る学生とは、
名前を交わす程度の関係がいくつかできた。
「この前の課題、もうやった?」
「いや、今日やる予定だ。」
「さすが、早いね。」
「終わらせておいた方が、後が楽だ。」
そんな会話が、時々ある。
講義中、教授の問いに対して滞りなく答える。
それが何度か続けば、周囲の認識は変わる。
昼休みは、学内で済ませる日と、
外に出る日がある。
ひとりで食べることが多いが、
たまに同じ講義の学生と席を並べることもある。
話題は講義のことや、単位の取り方、教授の癖。
どれも軽いものだ。
笑いが起きることもある。
構内の端で、スズカとすれ違う。
「最近、どう?」
「問題はない。そっちは?」
「同じね。」
少し離れた場所では、
ルドルフが誰かと話しているのが見える。
輪の中心にいるが、
騒がしいわけではない。
帰り道、駅のホームでブライアンを見かけることもある。
同じ車両に乗ることもあれば、乗らない日もある。
「帰りか?」
「ああ。」
それだけのやり取り。
**********
夜。
部屋に戻り明かりをつけると、
朝と同じ空間がそのままある。
鞄を置き、上着を掛ける。
冷蔵庫を開けて、
簡単なものを取り出し、温めて食べる。
食事を終え、軽く片付ける。
シンクはその日のうちに整える。
窓を少し開けると、外の空気が入る。
遠くで車の音がする。
机に向かい、ノートを開く。
今日の内容を軽く見直す。
手が止まることは、ほとんどない。
それでも、何も考えない時間が少しだけ挟まる。
ペンを持ったまま、視線だけが落ちる。
(…………。)
すぐに、次の行へ移る。
ノートを閉じて、一日が終わる。
風呂に入り、明日の準備をして、灯りを落とす。
ベッドに横になると、静けさがそのまま降りてくる。
天井を見て、目を閉じる。
すぐに眠りに落ちる日もあれば、
少しだけ時間がかかる日もある。
どちらでも問題はない。
生活は、順調に進んでいる。
**********
講義と講義の合間、
空き時間の使い方にも無駄がなくなっていく。
図書館の位置、利用しやすい席、
時間帯ごとの混み具合。
一度使えば、それで十分だった。
エアグルーヴは決まった窓際の席を選ぶ。
人の出入りが視界の端に入る位置。
集中を妨げない距離。
資料を広げ、
必要な部分だけに目を通す。
何度か通ううちに、
周囲の利用者も固定されてくる。
互いに干渉はしない。
だが、同じ場所を使うというだけで、
妙な静けさが共有される。
(……悪くない。)
講義終わりに、
話すようになった学生に呼び止められることがある。
「この後、食堂行かない?」
「用事がある。」
「そっかぁ、また今度ね。」
断ることも多いが、
すべてを拒むわけでもない。
同行することもある。
席に着き、食事をとる。
「この教授、課題多くない?」
「内容は妥当だ。量は調整できる。」
「いや、それができるのすごいって。」
エアグルーヴはそれ以上言葉を重ねない。
だが、席を立つタイミングは周囲と大きくはずれない。
関係を広げようとはしない。
だが、閉じもしない。
**********
午後の講義が終わり、
時間に余裕がある日。
珍しく、四人の予定が揃う。
ルドルフが言う。
「少し寄っていくか。」
エアグルーヴは短く頷いた。
大学近くのカフェ。
大通りから少し外れた場所にある、
小さな店だった。
騒がしさはない。
学生の利用もあるが、
長居する者は少ない。
奥の席に座る。
注文を済ませると、すぐに会話は途切れた。
だが、それは学園の頃と同じ種類のものだった。
スズカが窓の外を見ている。
ブライアンは背もたれに体を預け、目を閉じている。
ルドルフはカップに口をつけ、ゆっくりと置く。
エアグルーヴは、特に何もせず、その場にいる。
それだけで成立していた。
「……変わらないな。」
ルドルフが静かに言う。
「何がだ。」
「この距離感だよ。」
エアグルーヴは視線を動かす。
確かに、学園とは環境が違う。
立場も、関係も、周囲の人間も変わった。
だが、この四人に限って言えば――
「必要以上に変える理由がない。」
ブライアンが鼻を鳴らす。
「……だな。」
「安心するね。」
スズカが笑う。
その言葉に、誰も反応しない。
だが、否定もしない。
しばらくして、ルドルフが話を変える。
「講義の方はどうだ?」
「問題はない。想定内だ。」
「君ならそうだろうな。」
「そっちはどうだ?」
「面白いよ。
ひとが多い分、見えるものも増える。」
ブライアンが言う。
「……興味はない。必要なものだけ取ればいい。」
「それも一つの正解だな。」
店を出ると、
夕方の空気に変わっていた。
「では、ここで。」
ルドルフが言う。
「ああ。」
「またな。」
「うん。」
四人は自然に散る。
エアグルーヴは、
駅へ向かって歩き出す。
足取りは変わらない。
生活は順調に進んでいる。
――ただ、ふとした瞬間にだけ、
引っかかるものがある。
名前のない違和感。
形を持たない記憶。
だが、それが問題になることはない。
少なくとも――今はまだ。