講義室は、ほぼ埋まっていた。
開始まで数分。
ざわめきはあるが、騒がしさはない。
エアグルーヴがいつも座る席は、
すでに埋まっていた。
一瞬だけ考え、
中央寄りの別の席に向かう。
隣の席に鞄が置かれていた。
声をかける前に、相手が気づく。
「使いますか?」
「ああ。」
鞄はすぐに持ち上げられた。
エアグルーヴは座り、ノートを開く。
ペンを置く位置も、いつも通りだ。
開始時刻ちょうどに、教授が入ってくる。
講義が始まり、確認の問いが投げられる。
基礎的な内容だが、反応は鈍い。
エアグルーヴはそのまま答える。
簡潔に、必要な範囲だけ。
少し遅れて、隣からも声が出る。
補足として。
内容は重ならない。
教授が頷く。
「いいね。整理できている。」
講義終了と同時に、空気が緩む。
「さっきの、助かりました。」
隣から声がかかる。
抑えた調子、過不足がない。
「そうか。」
「自分だと、少し遠回りになっていたので。」
「要点だけ拾えばいい。」
「……そうですね。」
間が一つ入る。
「でも、分かりやすかったです。」
「必要なことを言っただけだ。」
簡潔に終わらせ、互いに立ち上がる。
通路に出るタイミングも、ぶつからない。
相手が半歩だけ引く。
エアグルーヴはそのまま前に出る。
教室の外で、人の流れに混ざる。
名前は知らない。
知る必要も、今はない。
――ただ、次の講義でも同じ姿を見ることになる。
そのときも、同じように席を空けた。
同じように、無駄がなかった。
それだけのことだった。
**********
同じ講義が、何度か続いていた。
席を決めているわけではないが、
隣になることが多い。
その日も、講義の終わりに課題が出された。
次回までに提出。
周囲で小さなざわめきが起きる。
「提出は紙か、データか。」
エアグルーヴは資料を見直すが、記載がない。
隣から声が出る。
「さっき、後半で言ってました。データ提出です。」
「そうか。」
「学内のポータルから。締切は来週の同じ時間まで。」
無駄がない。
「ありがとう。助かる。」
「いえ。」
前の席の学生が振り返る。
「ごめん、今のってどこから出すんだっけ?」
「学内ポータルだ。」
「科目ごとのページから提出できます。」
エアグルーヴが答え、
隣が続ける。
「あー、サンキュー。えっと…。
…あれ、名前なんだっけ?」
「……エアグルーヴだ。」
「…高瀬です。」
「そっかそっかぁ!二人ともサンキュー!」
前の学生はそれだけ言って、前に向き直る。
「名前、知らなかったな。」
高瀬が言う。
独り言に近い。
「必要がなかった。」
「確かに。」
二人は立ち上がり、教室の外へ出る。
学生の流れに乗りながら、並ぶ形になる。
「高瀬です。」
高瀬が、改めて言う。
「ああ。エアグルーヴだ。」
それ以上は続かない。
――名前が分かったところで、
関係は何も変わらなかった。
**********
いつもの講義室。
席はすでに固定されておらず、
エアグルーヴは空いた位置に座る。
隣に高瀬がいることが日常となった。
「僕の方で構成整理を進めておきます。」
「了解した。」
作業は即座に始まり、
分担も説明も不要だった。
進行は正確で、崩れはない。
「ここ、先にまとめておきますね。」
「頼んだ。」
短いやり取りで、作業は進んでいく。
講義後、課題は自然に分担される。
役割は固定され、説明も最小限で済む。
「ここは一度分けます。」
「任せる。」
関係は崩れないまま、
作業は正確に進んでいく。
同じ時間を積み上げていく。
**********
ある日の講義終わり。
教室の人影はまばらになっていた。
窓際の光だけが残り、
机の上に斜めの影を落としている。
エアグルーヴが資料を片付けていると、
背後から声がかかる。
「少し、いいですか。」
高瀬だった。
普段と変わらない距離。
変わらない姿勢。
「……何だ。」
「単刀直入に言います。……付き合ってほしいです。
一緒にいる時間が増えて、作業でも、それ以外でも、
あなたと組むことが自然になっていました。
その状態を、曖昧なままにしたくないと思いました。」
エアグルーヴはすぐには返さない。
“交際”という言葉の意味が、
頭の中で一度だけ反響する。
(……そういう意味になるのか)
「……理由は、わかった。」
「はい。」
沈黙が落ちる。
エアグルーヴは整理する。
関係性の変化としては自然。
過程にも不自然さはない。
拒否すべき要素は見当たらない。
ただ、その判断の下に、
わずかな引っかかりが残る。
(これでいいのか、という問いではないが……)
「……構わない。」
高瀬は表情を変えないまま、
息を吐く。
「ありがとうございます。」
関係は静かに更新された。
会話の速度も、距離も、大きくは変わらない。
それでもエアグルーヴは、
その変化を確かに認識していた。
同時に、
説明のつかない微かな違和感も残っている。
**********
交際が始まっても、
生活の流れは大きくは変わらなかった。
講義、課題、図書館。
そこに高瀬が加わる形になるだけ。
「今日、少し時間ある?」
「……ああ、問題ない。」
並んで歩くときも距離は変わらない。
近すぎることも、離れすぎることもない。
「昼、どうする?」
「学食でいい。」
「了解。」
やり取りは以前と同じ密度で成立している。
違うのは関係の名前だけだ。
恋人としてどう振る舞うべきか、
エアグルーヴに迷いはない。
求められた役割に対して、
過不足なく応える。
だが時折、高瀬の言葉の後に、
ほんのわずか遅れて考えが追いつくことがある。
「無理はしてない?」
「……していない。」
「なら、いいか。」
「…そうだな。」
短いやり取りの中に、
以前よりも少しだけ“余白”が混ざっている。
だが高瀬は、その均一さに違和感を覚え始めていた。
「……エアグルーヴは、こういうの慣れてるの?」
帰り道、不意にそう聞かれる。
「何がだ?」
「距離感とか……そういうの。」
エアグルーヴは少しだけ考える。
「慣れている、という感覚はないな。
……ただ、今のところは問題はない。」
「そっか。」
間違っているわけではない。
不誠実でもない。
それでも、
高瀬の中には説明しづらい感覚が残る。
(同じ温度のまま、動いていない)
近づいているはずなのに、変化が見えない。
誠実なやり取り。
安定した関係。
適切な距離。
――ちゃんと恋人になっているはずなのに
そのはずなのに、距離が近づく実感が、どこにもなかった。
**********
ある日、講義の帰り道。
「エアグルーヴ、少しいい?」
「ああ。どうした。」
高瀬は一瞬だけ間を置いた。
「最近、少しだけ……違和感がある。」
曖昧な言葉だったが、核は明確だった。
「……どんなだ?」
「うまく言葉にできないんだけど……、
関係はちゃんと進んでると思う。
恋人としても、間違ってないと思う。
でも……エアグルーヴが、あまり変わらない気がして。」
エアグルーヴの思考が深くなる。
関係の変化は理解している。
やり取りも崩れていない。
「具体的には、何が問題だ。」
「問題というほどじゃない。」
高瀬は言葉を選ぶ。
「ただ……揺れがないというか。」
「揺れ?」
「言い方とか、間とか、そういう小さな違いがあまりない。」
エアグルーヴはすぐには否定はしない。
「……意図して、揺れを抑えている。」
「抑えてる?」
「対応に、ばらつきが出ないようにしている。
……その方が正確だと思っていた。」
「それは……僕に対しても?」
「……ああ、同じだ。」
高瀬は視線を落とす。
「それが悪いとは思わない。
でも……関係って、少し揺れるものだと思ってた。
今は、同じ場所にいるみたいに感じる。」
エアグルーヴはすぐに答えない。
(揺れ)
その言葉の意味が、
少しだけ内部で引っかかる。
「……努力はしてみる。」
高瀬は小さく息を吐いた。
安心とも違う、整理しきれない表情だった。
関係は続いている。
崩れてはいない。
ただ、“一致していない部分”は消えていない。
それだけが静かに残り続けていた。
**********
大学生活の中で、
ふたりの関係は、すでに一定の形を持っていた。
恋人という言葉も、日常の中に定着していた。
その日の夜も、特別な出来事のない帰り道だった。
講義の後、いつも通り一緒に駅へ向かう。
何度も通った道で、足並みも自然と揃っている。
距離も、変わらず一定のままだった。
だが、その日は高瀬の歩調が緩む。
流れから、ほんの少し外れている。
エアグルーヴは横目でそれを捉える。
「…どうした?」
「少しだけ、時間がほしい。」
エアグルーヴは足を止める。
「……ああ、構わない。」
そう答えてからも、高瀬はすぐに話し出さなかった。
言葉を選んでいるような沈黙が続く。
やがて――
「……エアグルーヴ。」
呼び方は同じだったが、
声の重さが違っていた。
「僕は、今の関係を続けたいと思っている。」
エアグルーヴはすぐには返さない。
否定する理由はない。
関係も安定している。
「……ああ。」
高瀬は小さく頷き、続ける。
「その上で……、
恋人として、もう一段階だけ進めたい。」
「……どういうことだ。」
高瀬は一歩近づき、
エアグルーヴの肩にそっと手を置く。
そのまま、まっすぐ見つめてくる。
その視線には、いつもよりはっきりとした熱があった。
エアグルーヴは、それを正面から受け止める。
拒否する理由はない。
関係としても、不自然ではない。
(そういう段階では、あるのだろう)
一拍、わずかに遅れてから。
「……ああ…構わない。」
そう答える。
高瀬は、小さく息を吐いた。
張り詰めていたものが、少しだけほどける。
距離が、ゆっくりと縮まる。
エアグルーヴは動かない。
視線も逸らさないまま、
ただ受け止める。
唇が触れる。
短い接触だった。
一瞬で、強さも、深さもない。
ただ――
(………)
ほんのわずかに、
想定と一致しきらない感覚が残る。
驚きではない。
だが、完全に“予定通り”とも言い切れない。
それでも、言葉にはならない。
離れたあと、
高瀬はすぐには顔を上げなかった。
数秒の沈黙。
「……ありがとう。」
エアグルーヴは、
その言葉を一度受け止めてから、
「……問題は、ない。」
わずかに間を置いて、そう返す。
高瀬は小さく頷く。
その表情は、安心にも見えるし、
どこかまだ残っているようにも見えた。
**********
講義の合間、構内の通路はゆるやかにひとが流れていた。
エアグルーヴは資料を手にしたまま、足を止める。
視線の先に、スズカがいた。
「久しぶりね。」
「そうだな。」
「最近はどう?」
「特に問題はないな。」
「そう。」
風が抜ける。
「恋人さんとは?」
その言葉で、
エアグルーヴの歩調がわずかに遅れる。
「……問題はない。」
「そっか。」
スズカはそれ以上踏み込まない。
「でも……、
なんだか、あまり楽しそうには見えないかな。」
エアグルーヴはすぐに答えない。
“楽しさ”という基準は、そもそも明確ではない。
「感情としての評価は、まだうまく扱えていない、な。」
「……うん。でもね、」
スズカは静かに続ける。
「少し遠い感じがするの。」
(遠い)
距離ではない。
しかし、その言葉を完全には否定できない。
「……そう見えるのか。」
「うん。」
短い沈黙。
会話はそこで終わる。
だが、その“遠さ”という言葉だけが、
後に残った。
**********
帰宅後。
明かりの下で、エアグルーヴは立ち止まる。
(遠い)
関係は成立している。
崩れてはいない。
それでも、
その言葉は整理しきれないままだった。
(問題はないはずだ)
そう結論は出る。
だが、その結論は以前より少しだけ弱い。
「遠い」
その単語だけが、
他の情報と結びつかないまま残っている。
(距離は適切だ)
物理的距離ではない。
会話の頻度でもない。
関係性の定義でもない。
すべては以前よりむしろ整っている。
それなのに、スズカが言った「遠い」は、
整合しない場所に置かれている。
(ズレ)
それは以前から存在していた。
しかしスズカの言葉の後では、別の形に見えている。
“遠さ”という言葉に近い形で。
**********
休日の街は、
買い物客と観光客でゆるく混ざっていた。
その中を、
エアグルーヴと高瀬は並んで歩いていた。
「予定は特にないね。」
「……そうだな。」
しばらく歩いたあと、雑貨店の前で足が止まる。
「ここ、少し入ってもいい?」
「ああ、構わない。」
店内は静かで、手作りの小物が並んでいる。
エアグルーヴは棚を見渡し、高瀬は少し遅れて歩く。
その途中で、小さな木製の鳥を手に取った。
「これ、どう思う?」
「……実用性はない。
……でも、悪くないと思う。」
高瀬は少し笑う。
「いや、そうじゃなくて。
好きかどうか、って話。」
好き。
その言葉を、
エアグルーヴは遅れて受け取る。
「……嫌いではない。」
「そっか。」
高瀬はそれを聞いて、そっと戻した。
店を出ると、外の光は少し柔らかくなっていた。
カフェに入る。
「こういう時間、落ち着くね。」
「…休息としては、いい時間だな。」
「やっぱりそこなんだね。」
「どこだ?」
「“感じてるかどうか”の違い。」
エアグルーヴは少し黙る。
「……そういうことは、
あまり意識してこなかった、な。」
「うん。」
高瀬は小さく頷く。
「僕は、今の時間をちゃんと“感じてる”。
エアグルーヴはさ、同じ時間でも、
“気持ち”の話、あんまりしないよね。」
同じ場所にいる。
同じものを見ている。
それなのに、
同じものが見えていない。
それが――少し残る。
**********
あれから一か月が過ぎていた。
変化は大きくない。
ただ、埋まらないものだけが残っている。
駅へ向かう帰り道。
「最近さ、このままでいいのかなって思うことがあるんだ。」
「……何がだ。」
「距離とか、関係とか。」
曖昧な言い方だったが、
指しているものは明確だった。
エアグルーヴは一度だけ呼吸を整える。
「高瀬。
……一度、整理したい。」
「整理?」
「関係について……だ。」
高瀬は少しだけ固まる。
「続けるのは難しいってこと?」
「続けることはできると思う。
…ただ、このままでは……少し、誠実ではない気がする。
……嫌いになったわけではない。」
「どっちが悪いとかじゃないんだね。」
「ない。」
即答だった。
その速さだけが、現実だった。
高瀬は静かに笑う。
「そっか……。分かった。」
ふたりの関係は壊れていない。
ただ最初から、同じ形ではなかった。
その事実だけが、最後まで残った。