理性の外側   作:茶葉坊主

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3.エアグルーヴ/大学生(成立)

 

講義室は、ほぼ埋まっていた。

 

開始まで数分。

ざわめきはあるが、騒がしさはない。

 

エアグルーヴがいつも座る席は、

すでに埋まっていた。

 

一瞬だけ考え、

中央寄りの別の席に向かう。

 

隣の席に鞄が置かれていた。

声をかける前に、相手が気づく。

 

「使いますか?」

「ああ。」

 

鞄はすぐに持ち上げられた。

 

エアグルーヴは座り、ノートを開く。

ペンを置く位置も、いつも通りだ。

開始時刻ちょうどに、教授が入ってくる。

 

講義が始まり、確認の問いが投げられる。

基礎的な内容だが、反応は鈍い。

 

エアグルーヴはそのまま答える。

簡潔に、必要な範囲だけ。

 

少し遅れて、隣からも声が出る。

補足として。

内容は重ならない。

 

教授が頷く。

 

「いいね。整理できている。」

 

講義終了と同時に、空気が緩む。

 

「さっきの、助かりました。」

 

隣から声がかかる。

抑えた調子、過不足がない。

 

「そうか。」

「自分だと、少し遠回りになっていたので。」

「要点だけ拾えばいい。」

「……そうですね。」

 

間が一つ入る。

 

「でも、分かりやすかったです。」

「必要なことを言っただけだ。」

 

簡潔に終わらせ、互いに立ち上がる。

 

通路に出るタイミングも、ぶつからない。

相手が半歩だけ引く。

 

エアグルーヴはそのまま前に出る。

教室の外で、人の流れに混ざる。

 

名前は知らない。

知る必要も、今はない。

――ただ、次の講義でも同じ姿を見ることになる。

 

そのときも、同じように席を空けた。

同じように、無駄がなかった。

それだけのことだった。

 

 

**********

 

 

同じ講義が、何度か続いていた。

席を決めているわけではないが、

隣になることが多い。

 

その日も、講義の終わりに課題が出された。

次回までに提出。

 

周囲で小さなざわめきが起きる。

 

「提出は紙か、データか。」

 

エアグルーヴは資料を見直すが、記載がない。

 

隣から声が出る。

 

「さっき、後半で言ってました。データ提出です。」

「そうか。」

「学内のポータルから。締切は来週の同じ時間まで。」

 

無駄がない。

 

「ありがとう。助かる。」

「いえ。」

 

前の席の学生が振り返る。

 

「ごめん、今のってどこから出すんだっけ?」

「学内ポータルだ。」

「科目ごとのページから提出できます。」

 

エアグルーヴが答え、

隣が続ける。

 

「あー、サンキュー。えっと…。

 …あれ、名前なんだっけ?」

「……エアグルーヴだ。」

「…高瀬です。」

「そっかそっかぁ!二人ともサンキュー!」

 

前の学生はそれだけ言って、前に向き直る。

 

「名前、知らなかったな。」

 

高瀬が言う。

独り言に近い。

 

「必要がなかった。」

「確かに。」

 

二人は立ち上がり、教室の外へ出る。

学生の流れに乗りながら、並ぶ形になる。

 

「高瀬です。」

 

高瀬が、改めて言う。

 

「ああ。エアグルーヴだ。」

 

それ以上は続かない。

 

――名前が分かったところで、

関係は何も変わらなかった。

 

 

**********

 

 

いつもの講義室。

 

席はすでに固定されておらず、

エアグルーヴは空いた位置に座る。

 

隣に高瀬がいることが日常となった。

 

「僕の方で構成整理を進めておきます。」

「了解した。」

 

作業は即座に始まり、

分担も説明も不要だった。

進行は正確で、崩れはない。

 

「ここ、先にまとめておきますね。」

「頼んだ。」

 

短いやり取りで、作業は進んでいく。

 

講義後、課題は自然に分担される。

役割は固定され、説明も最小限で済む。

 

「ここは一度分けます。」

「任せる。」

 

関係は崩れないまま、

作業は正確に進んでいく。

 

同じ時間を積み上げていく。

 

 

**********

 

 

ある日の講義終わり。

教室の人影はまばらになっていた。

 

窓際の光だけが残り、

机の上に斜めの影を落としている。

 

エアグルーヴが資料を片付けていると、

背後から声がかかる。

 

「少し、いいですか。」

 

高瀬だった。

普段と変わらない距離。

変わらない姿勢。

 

「……何だ。」

 

「単刀直入に言います。……付き合ってほしいです。

 一緒にいる時間が増えて、作業でも、それ以外でも、

 あなたと組むことが自然になっていました。

 その状態を、曖昧なままにしたくないと思いました。」

 

エアグルーヴはすぐには返さない。

 

“交際”という言葉の意味が、

頭の中で一度だけ反響する。

 

(……そういう意味になるのか)

 

「……理由は、わかった。」

「はい。」

 

沈黙が落ちる。

 

エアグルーヴは整理する。

関係性の変化としては自然。

 

過程にも不自然さはない。

拒否すべき要素は見当たらない。

 

ただ、その判断の下に、

わずかな引っかかりが残る。

 

(これでいいのか、という問いではないが……)

 

「……構わない。」

 

高瀬は表情を変えないまま、

息を吐く。

 

「ありがとうございます。」

 

関係は静かに更新された。

会話の速度も、距離も、大きくは変わらない。

 

それでもエアグルーヴは、

その変化を確かに認識していた。

 

同時に、

説明のつかない微かな違和感も残っている。

 

 

**********

 

 

交際が始まっても、

生活の流れは大きくは変わらなかった。

 

講義、課題、図書館。

そこに高瀬が加わる形になるだけ。

 

「今日、少し時間ある?」

「……ああ、問題ない。」

 

並んで歩くときも距離は変わらない。

近すぎることも、離れすぎることもない。

 

「昼、どうする?」

「学食でいい。」

「了解。」

 

やり取りは以前と同じ密度で成立している。

違うのは関係の名前だけだ。

 

恋人としてどう振る舞うべきか、

エアグルーヴに迷いはない。

 

求められた役割に対して、

過不足なく応える。

 

だが時折、高瀬の言葉の後に、

ほんのわずか遅れて考えが追いつくことがある。

 

「無理はしてない?」

「……していない。」

「なら、いいか。」

「…そうだな。」

 

短いやり取りの中に、

以前よりも少しだけ“余白”が混ざっている。

 

だが高瀬は、その均一さに違和感を覚え始めていた。

 

「……エアグルーヴは、こういうの慣れてるの?」

 

帰り道、不意にそう聞かれる。

 

「何がだ?」

「距離感とか……そういうの。」

 

エアグルーヴは少しだけ考える。

 

「慣れている、という感覚はないな。

 ……ただ、今のところは問題はない。」

「そっか。」

 

間違っているわけではない。

不誠実でもない。

 

それでも、

高瀬の中には説明しづらい感覚が残る。

 

(同じ温度のまま、動いていない)

 

近づいているはずなのに、変化が見えない。

 

誠実なやり取り。

安定した関係。

適切な距離。

 

――ちゃんと恋人になっているはずなのに

 

そのはずなのに、距離が近づく実感が、どこにもなかった。

 

 

**********

 

 

ある日、講義の帰り道。

 

「エアグルーヴ、少しいい?」

「ああ。どうした。」

 

高瀬は一瞬だけ間を置いた。

 

「最近、少しだけ……違和感がある。」

 

曖昧な言葉だったが、核は明確だった。

 

「……どんなだ?」

「うまく言葉にできないんだけど……、

 関係はちゃんと進んでると思う。

 恋人としても、間違ってないと思う。

 でも……エアグルーヴが、あまり変わらない気がして。」

 

エアグルーヴの思考が深くなる。

 

関係の変化は理解している。

やり取りも崩れていない。

 

「具体的には、何が問題だ。」

「問題というほどじゃない。」

 

高瀬は言葉を選ぶ。

 

「ただ……揺れがないというか。」

「揺れ?」

「言い方とか、間とか、そういう小さな違いがあまりない。」

 

エアグルーヴはすぐには否定はしない。

 

「……意図して、揺れを抑えている。」

「抑えてる?」

「対応に、ばらつきが出ないようにしている。

 ……その方が正確だと思っていた。」

「それは……僕に対しても?」

「……ああ、同じだ。」

 

高瀬は視線を落とす。

 

「それが悪いとは思わない。

 でも……関係って、少し揺れるものだと思ってた。

 今は、同じ場所にいるみたいに感じる。」

 

エアグルーヴはすぐに答えない。

 

(揺れ)

 

その言葉の意味が、

少しだけ内部で引っかかる。

 

「……努力はしてみる。」

 

高瀬は小さく息を吐いた。

安心とも違う、整理しきれない表情だった。

 

関係は続いている。

崩れてはいない。

 

ただ、“一致していない部分”は消えていない。

それだけが静かに残り続けていた。

 

 

**********

 

 

大学生活の中で、

ふたりの関係は、すでに一定の形を持っていた。

 

恋人という言葉も、日常の中に定着していた。

 

その日の夜も、特別な出来事のない帰り道だった。

講義の後、いつも通り一緒に駅へ向かう。

 

何度も通った道で、足並みも自然と揃っている。

距離も、変わらず一定のままだった。

 

だが、その日は高瀬の歩調が緩む。

 

流れから、ほんの少し外れている。

エアグルーヴは横目でそれを捉える。

 

「…どうした?」

「少しだけ、時間がほしい。」

 

エアグルーヴは足を止める。

 

「……ああ、構わない。」

 

そう答えてからも、高瀬はすぐに話し出さなかった。

言葉を選んでいるような沈黙が続く。

 

やがて――

 

「……エアグルーヴ。」

 

呼び方は同じだったが、

声の重さが違っていた。

 

「僕は、今の関係を続けたいと思っている。」

 

エアグルーヴはすぐには返さない。

否定する理由はない。

関係も安定している。

 

「……ああ。」

 

高瀬は小さく頷き、続ける。

 

「その上で……、

 恋人として、もう一段階だけ進めたい。」

「……どういうことだ。」

 

高瀬は一歩近づき、

エアグルーヴの肩にそっと手を置く。

 

そのまま、まっすぐ見つめてくる。

 

その視線には、いつもよりはっきりとした熱があった。

エアグルーヴは、それを正面から受け止める。

 

拒否する理由はない。

関係としても、不自然ではない。

 

(そういう段階では、あるのだろう)

 

一拍、わずかに遅れてから。

 

「……ああ…構わない。」

 

そう答える。

 

高瀬は、小さく息を吐いた。

張り詰めていたものが、少しだけほどける。

 

距離が、ゆっくりと縮まる。

 

エアグルーヴは動かない。

 

視線も逸らさないまま、

ただ受け止める。

 

唇が触れる。

 

短い接触だった。

一瞬で、強さも、深さもない。

 

ただ――

 

(………)

 

ほんのわずかに、

想定と一致しきらない感覚が残る。

 

驚きではない。

 

だが、完全に“予定通り”とも言い切れない。

それでも、言葉にはならない。

 

離れたあと、

高瀬はすぐには顔を上げなかった。

 

数秒の沈黙。

 

「……ありがとう。」

 

エアグルーヴは、

その言葉を一度受け止めてから、

 

「……問題は、ない。」

 

わずかに間を置いて、そう返す。

高瀬は小さく頷く。

 

その表情は、安心にも見えるし、

どこかまだ残っているようにも見えた。

 

 

**********

 

 

講義の合間、構内の通路はゆるやかにひとが流れていた。

エアグルーヴは資料を手にしたまま、足を止める。

 

視線の先に、スズカがいた。

 

「久しぶりね。」

「そうだな。」

「最近はどう?」

「特に問題はないな。」

「そう。」

 

風が抜ける。

 

「恋人さんとは?」

 

その言葉で、

エアグルーヴの歩調がわずかに遅れる。

 

「……問題はない。」

「そっか。」

 

スズカはそれ以上踏み込まない。

 

「でも……、

 なんだか、あまり楽しそうには見えないかな。」

 

エアグルーヴはすぐに答えない。

“楽しさ”という基準は、そもそも明確ではない。

 

「感情としての評価は、まだうまく扱えていない、な。」

「……うん。でもね、」

 

スズカは静かに続ける。

 

「少し遠い感じがするの。」

 

(遠い)

 

距離ではない。

しかし、その言葉を完全には否定できない。

 

「……そう見えるのか。」

「うん。」

 

短い沈黙。

会話はそこで終わる。

 

だが、その“遠さ”という言葉だけが、

後に残った。

 

 

**********

 

 

帰宅後。

明かりの下で、エアグルーヴは立ち止まる。

 

(遠い)

 

関係は成立している。

崩れてはいない。

 

それでも、

その言葉は整理しきれないままだった。

 

(問題はないはずだ)

 

そう結論は出る。

だが、その結論は以前より少しだけ弱い。

 

「遠い」

 

その単語だけが、

他の情報と結びつかないまま残っている。

 

(距離は適切だ)

 

物理的距離ではない。

会話の頻度でもない。

関係性の定義でもない。

 

すべては以前よりむしろ整っている。

 

それなのに、スズカが言った「遠い」は、

整合しない場所に置かれている。

 

(ズレ)

 

それは以前から存在していた。

 

しかしスズカの言葉の後では、別の形に見えている。

“遠さ”という言葉に近い形で。

 

 

**********

 

 

休日の街は、

買い物客と観光客でゆるく混ざっていた。

 

その中を、

エアグルーヴと高瀬は並んで歩いていた。

 

「予定は特にないね。」

「……そうだな。」

 

しばらく歩いたあと、雑貨店の前で足が止まる。

 

「ここ、少し入ってもいい?」

「ああ、構わない。」

 

店内は静かで、手作りの小物が並んでいる。

 

エアグルーヴは棚を見渡し、高瀬は少し遅れて歩く。

その途中で、小さな木製の鳥を手に取った。

 

「これ、どう思う?」

 

「……実用性はない。

 ……でも、悪くないと思う。」

 

高瀬は少し笑う。

 

「いや、そうじゃなくて。

 好きかどうか、って話。」

 

好き。

 

その言葉を、

エアグルーヴは遅れて受け取る。

 

「……嫌いではない。」

「そっか。」

 

高瀬はそれを聞いて、そっと戻した。

 

 

店を出ると、外の光は少し柔らかくなっていた。

カフェに入る。

 

「こういう時間、落ち着くね。」

「…休息としては、いい時間だな。」

「やっぱりそこなんだね。」

「どこだ?」

「“感じてるかどうか”の違い。」

 

エアグルーヴは少し黙る。

 

「……そういうことは、

 あまり意識してこなかった、な。」

「うん。」

 

高瀬は小さく頷く。

 

「僕は、今の時間をちゃんと“感じてる”。

 エアグルーヴはさ、同じ時間でも、

 “気持ち”の話、あんまりしないよね。」

 

同じ場所にいる。

同じものを見ている。

 

それなのに、

同じものが見えていない。

 

それが――少し残る。

 

 

**********

 

 

あれから一か月が過ぎていた。

変化は大きくない。

 

ただ、埋まらないものだけが残っている。

 

駅へ向かう帰り道。

 

「最近さ、このままでいいのかなって思うことがあるんだ。」

「……何がだ。」

「距離とか、関係とか。」

 

曖昧な言い方だったが、

指しているものは明確だった。

 

エアグルーヴは一度だけ呼吸を整える。

 

「高瀬。

 ……一度、整理したい。」

「整理?」

「関係について……だ。」

 

高瀬は少しだけ固まる。

 

「続けるのは難しいってこと?」

「続けることはできると思う。

 …ただ、このままでは……少し、誠実ではない気がする。

 ……嫌いになったわけではない。」

「どっちが悪いとかじゃないんだね。」

「ない。」

 

即答だった。

その速さだけが、現実だった。

 

高瀬は静かに笑う。

 

「そっか……。分かった。」

 

ふたりの関係は壊れていない。

 

ただ最初から、同じ形ではなかった。

 

その事実だけが、最後まで残った。

 

 

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