理性の外側   作:茶葉坊主

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4.エアグルーヴ/大学生(空白)

 

講義棟から少し離れた中庭は、

ひとが少なかった。

 

風が抜けて、音だけが残る。

ベンチには、スズカとエアグルーヴ。

 

「……終わったのね。」

「ああ。」

 

エアグルーヴは短く答える。

 

「高瀬と、別れた。」

 

言葉にためらいはない。

 

ただ、どこかで確かめるように口にしている。

 

「…あなたから?」

「そうだ。」

「……理由は?」

「このまま関係を続けるのは、

 ……誠実ではないと思った。」

 

以前と大きくは変わらない説明。

ただ、わずかに余白が残る。

 

「……そっか。」

 

風が通り過ぎる。

 

「ねえ。」

 

スズカの声の温度が、少し変わる。

 

「好きだった?」

 

(好き)

 

言葉の意味は分かる。

定義も、理解できないものではない。

 

だが――

 

思考が、わずかに止まる。

 

これまでのやり取り。

並んで歩いた時間。

交わした言葉。

関係の流れ。

 

どれも整理はできている。

破綻はなかった。

不誠実でもなかった。

 

それでも――

 

「……判断が、ついていない。」

「判断?」

「ああ。」

 

エアグルーヴは言葉を選ぶ。

 

「関係としては成立していたと思う。

 相手にも問題はなかった。

 ただ………

 その感情を、“好き”と断定できるかどうかは、

 まだ分からない。」

 

スズカは空を見上げる。

 

「そっか。でも、一緒にいたんでしょう?」

「ああ。」

「選んでたんでしょう?」

 

その問いに、

エアグルーヴは少しだけ遅れて答える。

 

「……結果としては、そうなる。」

「意図的ではなかったの?」

 

(意図)

(選択)

(優先)

 

頭の中では整理できる。

 

だが、それをそのまま“好き”と結びつけることに、

わずかな躊躇がある。

 

「……そこは、まだ整理しきれていない、な。」

「あなたらしいね。」

 

責めるでもなく、

受け取るだけの声。

 

柔らかく続ける。

 

「でも、分からなくても、そばにいることって、あると思うの。」

 

エアグルーヴは、その言葉をすぐには返さない。

 

(分からないまま、選ぶ)

 

これまでの自分の基準にはなかった考え方。

だが、完全に否定できるものでもない。

 

「……否定はしない。」

 

ゆっくりと言う。

スズカはそれを聞いて、少しだけ笑う。

 

「うん、それでいいと思う。」

 

その言葉は、どこか曖昧だった。

 

 

**********

 

 

部屋は静かだった。

 

灯りはつけている。

だが、どこか輪郭が薄い。

 

エアグルーヴは椅子に腰掛けたまま、

姿勢を保っている。

 

――好き、とは何だ。

 

言葉としては単純なはずのものが、

内側に落ちてこない。

 

高瀬と過ごした時間を思い返す。

 

会話は成立していた。

価値観も、大きく外れてはいない。

配慮もあった。

距離も適切だった。

 

一般的には、良い関係だったはずだ。

 

……悪くはなかった。

むしろ、その状態で問題ないと思っていた。

 

それでも。

 

ふとした瞬間に、思考が止まる。

 

何気ない会話の途中。

視線が合ったとき。

触れられて、離れたあと。

 

(……今のは)

 

一拍遅れて、確認が入る。

 

正しい。

間違っていない。

不快でもない。

 

それで終わる。

 

胸の奥で、何かが動くことはない。

 

(……違う、のか)

 

その感覚だけが残る。

 

高瀬は、魅力があった、と思う。

落ち着いていて、誠実で、言葉も選べる。

 

隣にいることに、不安はなかった。

 

だが――

「それでいい」と判断している自分と、

その場にいる自分が、わずかに重ならない。

 

噛み合っていないわけではない。

だが、ぴたりとは合わない。

 

ほんのわずかに、ずれている。

 

その差は小さい。

 

だから、終わらせる理由にはならなかった。

同時に、続ける理由にもならなかった。

 

――好き、とは何だ。

 

スズカに言った言葉が、静かに浮かぶ。

 

誤魔化しではない。

だが、答えでもない。

 

(……では)

 

好きとは。

 

正しさを積み上げれば、

そこに生まれるものなのか。

 

エアグルーヴは、視線を落とす。

 

自分の手を見る。

 

誰かの手を取ったとき、

そこに何を感じるべきだったのか。

 

あるいは、何を感じていなかったのか。

 

答えは、まだ出ない。

 

だが、ひとつだけ分かることがある。

 

あの違和感は、間違いではなかった。

見過ごしていいものでもなかった。

 

「それでいい」と言い切るには、

確かに、そこにあった。

 

静かな部屋の中で、

思考はゆっくりと言葉の外へ沈んでいく。

 

――否定はしない。

 

その言葉だけが、残る。

 

 

**********

 

 

朝は同じ時間に来る。

 

アラームが鳴る前に目が覚める。

体を起こし、カーテンを開ける。

 

光が入る。

 

身支度を整え、いつも通りに家を出る。

何も変わっていない。

 

駅までの道も、電車も、大学までの距離も、

すべて同じ順序で流れていく。

 

――高瀬と別れた。

 

事実としては存在している。

だが、それが日常に影響を及ぼすことはない。

 

講義を受ける。

隣の席が空いている。

 

(……空いているな)

 

それ以上でも、

それ以下でもない。

 

 

昼休み。

いつもの場所に座る。

向かいには誰もいない。

 

会話は元々多くなかった。

だから、減った実感も薄い。

 

フォークを持つ手を止めることなく、考える。

 

(……変わらない)

 

悲しさはない。

寂しさもない。

解放感も、得にはない。

 

ただ、判断としては適切だったという認識がある。

 

あのまま続けるのは誠実ではなかった。

それは今でも変わらない。

 

だから――

 

「……それでいい。」

 

小さく、内側で結論づける。

 

 

**********

 

 

午後の講義へ向かう。

 

廊下ですれ違う人影に、

ふと視線が向く。

似た背格好。

 

一瞬だけ、認識する。

それだけで終わる。

 

違和感も、後悔も、

表には出てこない。

 

(……正しい)

 

結論は変わらない。

選択も、過程も、結果も、

整合している。

 

だから、大きな問題はない。

 

それでも――

わずかに、空白がある。

 

何かを失った感覚ではない。

 

最初からなかったものが、

そのまま残っているような感覚。

 

埋める必要も、急ぐ理由もない。

 

エアグルーヴは歩みを止めず、

そのまま教室の扉に手をかける。

 

日常は続く。

 

ほとんど何も変わらないまま、

それでもわずかに、

同じではない状態で。

 

 

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