講義棟から少し離れた中庭は、
ひとが少なかった。
風が抜けて、音だけが残る。
ベンチには、スズカとエアグルーヴ。
「……終わったのね。」
「ああ。」
エアグルーヴは短く答える。
「高瀬と、別れた。」
言葉にためらいはない。
ただ、どこかで確かめるように口にしている。
「…あなたから?」
「そうだ。」
「……理由は?」
「このまま関係を続けるのは、
……誠実ではないと思った。」
以前と大きくは変わらない説明。
ただ、わずかに余白が残る。
「……そっか。」
風が通り過ぎる。
「ねえ。」
スズカの声の温度が、少し変わる。
「好きだった?」
(好き)
言葉の意味は分かる。
定義も、理解できないものではない。
だが――
思考が、わずかに止まる。
これまでのやり取り。
並んで歩いた時間。
交わした言葉。
関係の流れ。
どれも整理はできている。
破綻はなかった。
不誠実でもなかった。
それでも――
「……判断が、ついていない。」
「判断?」
「ああ。」
エアグルーヴは言葉を選ぶ。
「関係としては成立していたと思う。
相手にも問題はなかった。
ただ………
その感情を、“好き”と断定できるかどうかは、
まだ分からない。」
スズカは空を見上げる。
「そっか。でも、一緒にいたんでしょう?」
「ああ。」
「選んでたんでしょう?」
その問いに、
エアグルーヴは少しだけ遅れて答える。
「……結果としては、そうなる。」
「意図的ではなかったの?」
(意図)
(選択)
(優先)
頭の中では整理できる。
だが、それをそのまま“好き”と結びつけることに、
わずかな躊躇がある。
「……そこは、まだ整理しきれていない、な。」
「あなたらしいね。」
責めるでもなく、
受け取るだけの声。
柔らかく続ける。
「でも、分からなくても、そばにいることって、あると思うの。」
エアグルーヴは、その言葉をすぐには返さない。
(分からないまま、選ぶ)
これまでの自分の基準にはなかった考え方。
だが、完全に否定できるものでもない。
「……否定はしない。」
ゆっくりと言う。
スズカはそれを聞いて、少しだけ笑う。
「うん、それでいいと思う。」
その言葉は、どこか曖昧だった。
**********
部屋は静かだった。
灯りはつけている。
だが、どこか輪郭が薄い。
エアグルーヴは椅子に腰掛けたまま、
姿勢を保っている。
――好き、とは何だ。
言葉としては単純なはずのものが、
内側に落ちてこない。
高瀬と過ごした時間を思い返す。
会話は成立していた。
価値観も、大きく外れてはいない。
配慮もあった。
距離も適切だった。
一般的には、良い関係だったはずだ。
……悪くはなかった。
むしろ、その状態で問題ないと思っていた。
それでも。
ふとした瞬間に、思考が止まる。
何気ない会話の途中。
視線が合ったとき。
触れられて、離れたあと。
(……今のは)
一拍遅れて、確認が入る。
正しい。
間違っていない。
不快でもない。
それで終わる。
胸の奥で、何かが動くことはない。
(……違う、のか)
その感覚だけが残る。
高瀬は、魅力があった、と思う。
落ち着いていて、誠実で、言葉も選べる。
隣にいることに、不安はなかった。
だが――
「それでいい」と判断している自分と、
その場にいる自分が、わずかに重ならない。
噛み合っていないわけではない。
だが、ぴたりとは合わない。
ほんのわずかに、ずれている。
その差は小さい。
だから、終わらせる理由にはならなかった。
同時に、続ける理由にもならなかった。
――好き、とは何だ。
スズカに言った言葉が、静かに浮かぶ。
誤魔化しではない。
だが、答えでもない。
(……では)
好きとは。
正しさを積み上げれば、
そこに生まれるものなのか。
エアグルーヴは、視線を落とす。
自分の手を見る。
誰かの手を取ったとき、
そこに何を感じるべきだったのか。
あるいは、何を感じていなかったのか。
答えは、まだ出ない。
だが、ひとつだけ分かることがある。
あの違和感は、間違いではなかった。
見過ごしていいものでもなかった。
「それでいい」と言い切るには、
確かに、そこにあった。
静かな部屋の中で、
思考はゆっくりと言葉の外へ沈んでいく。
――否定はしない。
その言葉だけが、残る。
**********
朝は同じ時間に来る。
アラームが鳴る前に目が覚める。
体を起こし、カーテンを開ける。
光が入る。
身支度を整え、いつも通りに家を出る。
何も変わっていない。
駅までの道も、電車も、大学までの距離も、
すべて同じ順序で流れていく。
――高瀬と別れた。
事実としては存在している。
だが、それが日常に影響を及ぼすことはない。
講義を受ける。
隣の席が空いている。
(……空いているな)
それ以上でも、
それ以下でもない。
昼休み。
いつもの場所に座る。
向かいには誰もいない。
会話は元々多くなかった。
だから、減った実感も薄い。
フォークを持つ手を止めることなく、考える。
(……変わらない)
悲しさはない。
寂しさもない。
解放感も、得にはない。
ただ、判断としては適切だったという認識がある。
あのまま続けるのは誠実ではなかった。
それは今でも変わらない。
だから――
「……それでいい。」
小さく、内側で結論づける。
**********
午後の講義へ向かう。
廊下ですれ違う人影に、
ふと視線が向く。
似た背格好。
一瞬だけ、認識する。
それだけで終わる。
違和感も、後悔も、
表には出てこない。
(……正しい)
結論は変わらない。
選択も、過程も、結果も、
整合している。
だから、大きな問題はない。
それでも――
わずかに、空白がある。
何かを失った感覚ではない。
最初からなかったものが、
そのまま残っているような感覚。
埋める必要も、急ぐ理由もない。
エアグルーヴは歩みを止めず、
そのまま教室の扉に手をかける。
日常は続く。
ほとんど何も変わらないまま、
それでもわずかに、
同じではない状態で。