理性の外側   作:茶葉坊主

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7.エアグルーヴ/大学生(確信)

 

大学三年目、冬の手前。

空気が少しだけ乾いている。

 

講義棟から出たところで、

エアグルーヴは足を止めた。

 

前を横切った人物に、

視線が一瞬だけ引かれる。

 

歩き方が静かだった。

速くも遅くもない。

 

周囲に合わせているようで、

合わせていない。

 

無駄がない。

 

それだけなら、珍しくはない。

 

だが——

 

エアグルーヴは、

わずかに眉を寄せる。

 

説明がつかない。

 

ただ、一瞬だけ思考が止まる。

 

違和感ではない。

引っかかりに近い。

 

そのまま、相手は通り過ぎる。

 

関わりはない。

それで終わるはずだった。

 

 

**********

 

 

数日後。

同じ講義室。

 

資料を確認しているエアグルーヴの隣に、

誰かが座る。

 

視線を上げる。

——同じ人物だった。

 

特に挨拶もない。

向こうも何も言わない。

 

ただ、ノートを開く。

 

ペンの置き方が、

少しだけ特徴的だった。

 

揃えているわけではない。

だが、乱れてもいない。

 

(……)

 

また、止まる。

今度は、はっきりと。

 

思考が遅れる。

 

原因は分からない。

不快ではない。

 

むしろ——

 

(……説明できないものが混ざっている)

 

その感覚が、先に来る。

 

講義が始まる。

途中、教授が問いを投げる。

 

誰もすぐには答えない。

エアグルーヴは簡潔に答える。

 

そのあと、隣から声が続く。

 

内容は被らない。

補完になっている。

無駄がない。

 

 

**********

 

 

講義が終わる。

 

立ち上がるタイミングが重なる。

どちらも譲らないのにぶつからない。

 

そのまま通路に出る。

 

隣から声が来る。

初めての会話。 

 

「さっきの。助かった。」

「……そうか。」

 

普通なら、それで終わる。

 

だが。

エアグルーヴは、

わずかに足を止める。

 

自分からではない。

 

体が、

ほんのわずかに“遅れる”。

 

(……なんだ)

 

理由を探すが、見つからない。

理屈では拾えないものが混ざっている。

 

言葉が出る。

意図よりも先に。

 

「……なあ。」

「何だ?」

「……いや。」

 

一度、言葉を切る。

そして、そのまま続ける。

 

「名前は?」

 

相手が名前を返す。

 

「そうか。」

 

それで終わる。

 

——だが。

終わらない。

 

 

**********

 

 

その日以降。

隣に座ることが増える。

 

偶然で説明できる範囲。

だが、偏りはある。

 

会話は多くない。

必要なときだけ、言葉を交わす。

 

それで十分なはずだった。

 

 

ある日。

資料をまとめているとき。

相手が言う。

 

「そこ、先にやる。」

「……ああ。」

 

指示ではない。

提案でもない。

 

だが、自然に受け入れている。

 

(……)

 

違和感ではない。

衝突もない。

 

ただ。

「先にやる」という言葉に、

余計な説明がない。

 

それでも、意味が通る。

 

(……引っかからない)

 

思考が、そこで止まる。

これまでと違う。

 

今までは、“合わせる”前提があった。

 

相手の出方を見て、調整する。

関係を成立させるための動き。

 

だが、今は。

 

(……合わせていない)

 

それでも、ずれない。

 

それが、引っかかる。

 

 

**********

 

 

ある帰り道。

 

並んで歩く。

会話はなく、沈黙が続く。

 

普通なら、何かを足す場面。

 

話題。

確認。

埋めるための言葉。

 

だが——

 

(……必要ないな)

 

そのまま、歩く。

何も言わないまま。

 

それでも。

「成立している」

 

その認識が、

初めて“先に来る”。

 

エアグルーヴは、

わずかに視線を横に向ける。

 

相手は前を見ている。

特別なことはしていない。

 

(……なんだ、これは)

 

問いが出る。

 

今までのように、

否定がつかない。

 

「違うはずだ」ではない。

 

「これを、どう扱う」になる。

 

 

 

数日後。

同じ帰り道。

 

エアグルーヴが声をかける。

 

「なあ。」

 

相手が見る。

 

「……何だ?」

 

エアグルーヴは、

一度だけ言葉を選ぶ。

 

「ひとつ、確認したい。」

「確認?」

「ああ。」

 

(検証ではない)

 

その認識が、先にある。

 

「私は、」

 

一拍。

 

「お前といるとき、調整していない。」

 

相手は少しだけ目を細める。

 

「……そうか。」

 

否定も肯定もない。

ただ、受け取る。

 

エアグルーヴは続ける。

 

「それでも、無理がない。」

「……ああ。」

「……今まではなかった。」 

 

沈黙。

 

相手が、わずかに口を開く。

 

「それで、どうする。」

 

エアグルーヴは、即答しない。

だが、迷ってはいない。

 

(これは、“試す”ものじゃない)

 

二人目とも、三人目とも違う。

 

条件でもない。

再現でもない。

比較でもない。

 

ただ——

 

(……選ぶ)

 

初めて、その形で思考が落ちる。

 

「……続ける。」

 

理由は言わない。

説明もない。

 

だが、それで足りている。

 

相手は、少しだけ頷く。

 

「分かった。」

 

それだけ。

 

その瞬間。

 

エアグルーヴの中で、

初めて明確に変わる。

 

——“確かめるための関係”ではない。

——“触れにいく関係”だ。

 

まだ、名前はつかない。

 

まだ、正体も分からない。

 

だが。

 

これまでとは、

明確に違う場所に立っていることだけは、

確定していた。

 

 

**********

 

 

今の関係は、相手の言葉が正確に届く。

言い当てられている。

 

ずれていない。

むしろ、これまでで一番近い。

 

これまでの誰とも違う。

 

言葉にしなくても通じる範囲がある。

こちらの意図を、余計な歪みなく拾ってくる。

 

ただ、並んで歩く。

距離は適切だ。

 

会話の間も、沈黙も、無理がない。

 

(……ここまで来たか)

 

思考の中で、何かが整う。

 

探していた条件。

足りなかった要素。

これまで噛み合わなかった部分。

 

それらが、ほとんど満たされている。

 

(この位置なら)

 

初めて、そう思う。

 

この距離。

この理解。

このやり取り。

 

ここまで揃えば、

成立するはずだ。

 

――そのはずだった。

 

次の瞬間。

相手が、ふとこちらを見る。

 

何も言わない。

ただ、視線だけが向けられる。

 

そこに、余計な意味はない。

評価も、期待も、押しつけもない。

ただ、“見ている”。

 

そのはずなのに。

 

エアグルーヴの中で、

何かが止まる。

 

(……違う)

 

即座に否定が立ち上がる。

だが、それはこれまでのものとは違う。

 

違和感ではない。

迷いでもない。

もう少し、はっきりしている。

 

(……これではない)

 

言葉が、落ちる。

 

満ちる直前だった。

 

条件は揃っている。

理解もずれていない。

距離も、間違っていない。

 

それでも。

“そこ”に届かない。

 

何かが、決定的に足りない。

遅れているわけではない。

不足しているわけでもない。

 

――重ならない。

 

エアグルーヴは、

わずかに息を吐く。

 

視線を落とす。

 

その瞬間。

何の前触れもなく、浮かぶ。

 

右耳。

 

触れた記憶のない位置。

 

(……あ)

 

思考が、止まる。

 

“感覚”ではない。

“印象”でもない。

 

もっと具体的な形で、立ち上がる。

 

言葉にならなかったやり取り。

無理に埋めなかった沈黙。

 

何も求められなかったのに、

どこにもずれていなかった距離。

 

(……見られていた)

 

評価でもなく、

期待でもなく、

ただ、“そのまま”。

 

——それで、成立していた。

 

今、目の前にあるものは、正確だ。

誠実で、近い。

 

だが、違う。

比較するまでもなく、分かる。

 

あのときは、

満たそうとしていなかった。

揃えようともしていなかった。

 

それでも——

何も欠けていなかった。

 

(……これか)

 

静かに、結論が落ちる。

 

探していたものではない。

条件でも、方法でもない。

 

すでに一度だけ、触れていたもの。

 

そして——

 

それ以外では、届かないもの。

 

エアグルーヴは、ゆっくりと顔を上げる。

目の前の相手を見る。

 

正しい。

誠実だ。

 

それでも。

 

「……悪くない。」

 

言葉が出る。

嘘ではない。

 

だが、その先はもう続かない。

 

(……違う)

 

今度は、否定ではない。

すでに、答えを知った上での確認。

 

胸の奥で、ひとつだけ。

位置を持つ。

 

まだ名前にはならない。

 

だが——

そこだけが、ずれていない。

 

もう、戻らない。

 

ここから先は、

“それ”を無視して進むことはできない。

 

 

**********

 

 

関係は、途切れず続いていた。

 

むしろ、これまでで一番、整っている。

 

恋人が言う。

 

「今日、少し寄っていくか?」

「……ああ。」

 

自然な流れ。

拒否する理由はない。

警戒もない。

 

だが――

 

(……分かっている)

 

内側で、静かに落ちている。

 

問題はない。

不足もない。

 

それでも。

 

(ここではない)

 

すでに出ている結論が、消えない。

 

部屋に入り、靴を脱ぐ。

生活の気配。

過不足なく整っている。

 

相手が距離を詰める。

 

急がない。

しかし、止まりもしない。

 

手が触れる。

 

エアグルーヴは、引かない。

 

拒絶はない。

不快でもない。

 

――ここまでは。

 

指先。

手首。

腕。

 

なぞるように、距離が縮まる。

 

(……近い)

 

認識している。

受け入れられる範囲。

 

相手の手が、肩に触れる。

そのまま、引き寄せられる。

 

抵抗はしない。

 

距離が、さらに詰まる。

呼吸が重なる位置。

 

——その瞬間。

 

エアグルーヴの身体が、止まる。

 

完全に。

 

思考ではない。

判断でもない。

 

先に、身体が動かなくなる。

 

(……違う)

 

すでに分かっている。

ここでは、届かない。

 

「……?」

 

相手がわずかに動きを止める。

 

エアグルーヴは、

そのまま固まっている。

 

離れない。

だが、近づかない。

 

どちらにも進めない。

 

理由は、考えるまでもない。

 

――あの位置ではない。

 

相手が、静かに距離を少し戻す。

 

「今、止まったな。」

 

エアグルーヴは答えない。

言葉が、追いつかない。

 

(分かっている)

 

すでに、選んでいる。

それ以外を、受け入れられない。

 

「……問題は、ない。」

 

ようやく出た言葉は、遅い。

 

そして――

自分でも、

それが答えになっていないと分かっている。

 

相手は、わずかに目を細める。

 

「問題がない動きじゃなかっただろ、今の。」

 

否定できない。

エアグルーヴは、視線を落とす。

 

「……遅れただけだ。」

「違うな。

 遅れたんじゃなくて、止まった。」

 

即答だった。

 

エアグルーヴは、反論しない。

できない。

 

事実として、その通りだった。

 

相手が一歩引き、距離が戻る。

 

「……俺じゃないんだな。」

 

静かな声。

 

エアグルーヴの中で、何かが揃う。

否定は――立ち上がらない。

 

(……違う)

 

もう一度、同じ感覚が落ちる。

今度は迷いがない。

 

“この相手”ではない、ではない。

――あのときと、同じ場所に立てない。

 

「……。」

 

何も言えない。

 

言えば、すべてが確定する。

だが、もう分かっている。

 

相手は、それを見ている。

 

「ちゃんと向き合ってくれてたのも分かる。

 無理してないのも分かる。

 ……だから余計に、分かる。」

 

エアグルーヴは、視線を上げる。

 

身体が、先に拒否した。

理屈を通さずに。

 

「……すまない。」

 

判断ではない。

結論でもない。

 

遅れて浮かんだ、

感情に近いもの。

 

相手は、少しだけ笑う。

 

「謝る話じゃない。」

 

そして、距離を取る。

今度は戻らない距離。

 

「ここまで来て、それなら。」

 

短く息を吐く。

 

「無理だろ。」

 

エアグルーヴは、何も言えない。

言葉が、もう役に立たない。

 

何が足りないかではない。

“どこでしか成立しないのか”。

 

それだけが、残る。

 

相手は、それ以上何も言わない。

静かに、終わっている。

 

エアグルーヴは、

その場に立ったまま、

動けない。

 

身体の奥に残っている感覚。

止まった位置。

 

(……ここではない)

 

変わらない。

覆らない。

 

エアグルーヴは、

ゆっくりと息を吐く。

 

「……帰る。」

 

相手は、止めない。

 

「ああ。」

 

それだけだった。

 

エアグルーヴは視線を上げないまま、

歩き出す。

 

ドアを開ける。

外の空気。

 

振り返らない。

 

——もう、確かめる必要がない。

 

ドアが閉まる。

それで終わる。

 

 

夜の街を歩きながら。

エアグルーヴは、理解している。

 

足りないのではない。

そこにしかないものがある。

 

あのとき、ずれなかった位置。

 

——あそこ以外では、重ならない。

 

 

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