理性の外側   作:茶葉坊主

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8.エアグルーヴ/大学生(定点)

 

大学の外、カフェの一角。

 

テーブルの上に資料が広がっているが、

誰も手をつけていない。

 

ルドルフとブライアン。

そして、その向かいにエアグルーヴが座っている。

 

「……区切りはついたのかい。」

 

ルドルフが、静かに口を開く。

 

「ああ。」

 

少しの間。

ブライアンが、ゆるく息を吐く。

 

「……今回は、長かったな。」

「……そうだな。」

 

エアグルーヴも否定しない。

 

「どうだった?」

 

ルドルフの声は、低いが柔らかい。

エアグルーヴは、すぐには答えない。

 

「……違った。」

「これまでとは?」

「……ああ。」

 

視線を落としたまま、続ける。

 

「近かった。一番、近かったと思う。

 距離も、理解も……精度も。」

 

言葉を選びながら。

 

「でも、」

 

小さく途切れる。

 

「……届かなかった。」

 

ブライアンが、少しだけ顔を上げる。

 

「届かない、か。」

「ああ。」

 

エアグルーヴは続ける。

 

「揃っているのに、そこで止まる。

 ……いや。」

 

わずかに首を振る。

 

「止まった、だな。」

 

自分で言い直す。

 

ブライアンが、小さく頷く。

 

「お前の方が、か。」

「……ああ。」

 

迷いはない。

 

ルドルフは、少しだけ視線を和らげる。

 

「そこまで分かっているなら、十分だね。」

 

エアグルーヴは、息を吐く。

 

「……原因も、分かっている。」

「聞かせてくれるかな?」

「……相手に原因はない。私の中に、基準がある。

 無意識に、それで見ている。

 ……そこに届かないと、通らない。」

 

ブライアンが眉を上げる。

 

「厳しいな……。自覚は?」

「ある。」

 

ルドルフが、静かに続ける。

 

「その“基準”は、どういうものだい。」

「……認識、だ。」

「認識?」

 

ブライアンが繰り返す。

 

「ああ。」

 

エアグルーヴは、ゆっくり頷く。

 

「評価でもない。理解でもない。

 ……そのまま、見られていた。」

 

言葉が、少しだけ柔らぐ。

 

「無理に合わせていないのに、ずれなかった。

 何もしていないのに、成立していた。」

 

そこで、少しだけ沈黙が落ちる。

 

「……なるほど。」

 

ルドルフの納得に近い声。

 

ブライアンも頷く。

 

「それは、他で埋まる類のものじゃなさそうだ。」

「ああ。再現は、できない。」

 

ルドルフは、静かに問いかける。

 

「では、どうする?」

 

エアグルーヴは答える。

 

「……続ける理由はない。」

 

ブライアンが、横から軽く返す。

 

「“普通”なら、な。」

 

その口元は緩んでいる。

 

ルドルフが続ける。

 

「だが、君はそこに収まらない。」

 

決めつけではない。

理解として置く。

 

「……ああ。

 分かっているなら、尚更だ。

 止まる理由にはならない。」

 

ブライアンが笑う。

 

「言うと思った。で、どうやる?」

 

エアグルーヴは、息をひとつ吐く。

 

「これまでは、外を見ていた。

 相手や条件を変えて、確かめていた。

 でも、違った。」

 

視線を落とす。

 

「止まるのは、いつも同じ場所だ。

 ……なら、見るべきはそこだ。」

 

ルドルフが、静かに頷く。

 

「内側、か。」

「ああ。

 どこで止めているのか。

 どこから先に入れないのか。」

 

ブライアンが腕を組む。

 

「地道だな。」

 

エアグルーヴは即答する。

 

「構わない。それしか残っていない。」

 

ルドルフが柔らかく言う。

 

「焦る必要もない。」

 

エアグルーヴは、わずかに目を細める。

 

「……ああ。」

 

ブライアンが続ける。

 

「見つかる保証はないが。」

「分かっている。」

「それでも、やるんだろ?」

 

エアグルーヴは、迷わない。

静かに、はっきりと。

 

「やる。」

 

少しの間。

ルドルフが、穏やかに頷く。

 

「なら、それでいい。」

 

ブライアンも、軽く肩をすくめる。

 

「付き合うぞ、必要なら。」

 

エアグルーヴは、視線を上げる。

驚きではない。

 

だが、少しだけ予想外。

 

「……頼むかもしれない。」

「ああ。」

 

ブライアンは短く返す。

 

空気が、少しだけ軽くなる。

エアグルーヴは、静かに息を吐く。

 

(届かない)

 

その事実は変わらない。

 

(それでも)

 

ほんのわずかに。

 

ひとりではない、という実感が残る。

 

「……行く。」

 

エアグルーヴは立ち上がる。

 

ルドルフが軽く頷く。

 

「気をつけて。」

 

エアグルーヴは、振り返らない。

だが、足取りはわずかに軽い。

 

終わりではない。

 

ここから先は――

 

“分かった上で進む”だけだ。

 

 

**********

 

 

エアグルーヴが席を立ったあと、

しばらく二人は動かなかった。

 

テーブルの上の資料は、そのまま。

 

ルドルフはカップに手を添える。

中身は、もうすっかり冷めていた。

 

「……変わってきたね。」

 

独り言のように、やわらかく落とす。

ブライアンが横で肩をすくめる。

 

「前からだろ。」

「そうだね。」

 

ルドルフは小さく笑う。

否定はしない。

 

「ただ――向きが変わった。」

 

言葉を選びながら、続ける。

 

「これまでは、外を見ていた。

 相手や条件を変えて、確かめていた。

 どうすれば成立するか、をね。」

 

ブライアンが頷く。

 

「今は違う、と。」

「ああ。」

 

ルドルフは静かに視線を落とす。

 

「自分の中で、どこで止まるのか。

 どこまでなら通るのか。

 それを見ようとしている。」

「…大変だな。」

「そうだね。」

 

否定しない。

だが、その声に重さはなかった。

 

「でも、彼女にはその方が合っている。」

 

穏やかに、そう置く。

 

「外をいくら整えても、

 届かないものがあると分かっているから。」

 

ブライアンが小さく息を吐く。

 

「面倒な領域に入ったな。」

 

ルドルフはカップを持ち上げる。

 

「そうかもしれないね。

 けれど――、

 一度でも“そこ”に触れてしまったなら、

 他では納得できないのも、無理はない。」

 

ブライアンが視線を向ける。

 

「“そこ”ってやつか。」

「うん。」

 

ルドルフはわずかに目を細める。

 

「評価でも、理解でもない。

 ただ、そのまま捉えられている感覚。」

 

言葉にすると単純だが、

実際にはそう簡単なものではない。

 

「彼女は、それを知ってしまっている。」

 

静かに、事実として置く。

ブライアンは腕を組む。

 

「厄介だな。」

「そうだね。でも、悪いことじゃない。」

 

ルドルフはやわらかく笑う。

 

断定ではない。

だが、迷いもない。

 

「遠回りに見えても、彼女にとっては必要な過程だろう。」

 

テーブルの上に視線を戻す。

 

整っていたはずの関係を、自分で手放した。

 

それでも、立ち止まらない。

 

「無理に形を決めないでいられるのは、強さだよ。」

「甘くないか?」

「そうかな?」

 

ルドルフは、穏やかに首を傾げる。

 

「崩れない前提があるから、言えることでもあるけれどね。

 彼女は、自分で止まった理由を見失っていない。

 だから、逸れない。」

 

ブライアンは少しだけ間を置いて言う。

 

「で。見つかるのか、それ。」

 

ルドルフはすぐには答えない。

 

カップの中を一度だけ見て、静かに戻す。

 

「さあね。ただ――」

 

視線をわずかに上げる。

 

「見つけにいくと決めている以上、

 途中で目を逸らすことはないだろうね。」

 

それだけで十分だった。

 

ブライアンが肩をすくめる。

 

「まあ、あいつらしいか。」

 

ルドルフは頷く。

 

「うん。だから、今はそれでいい。」

 

ルドルフはそのまま、カップに口をつけた。

冷めたままの温度が、静かに残る。

 

それでも――

 

不思議と、悪くはなかった。

 

 

**********

 

 

エアグルーヴは、部屋に戻る。

 

鍵を置く音が、小さく響く。

それだけで、静かになる。

 

靴を脱ぎ、奥に入る。

灯りをつける。

 

いつもと同じ動き。

 

椅子に腰を下ろす。

そのまま、少しだけ時間が過ぎる。

 

ふと。

意識が、引っかかる。

 

(……)

 

思い出そうとする。

 

中庭。

光。

風。

立っていた位置。

 

それだけだ。

 

輪郭は、曖昧だ。

表情も、はっきりしない。

何をしていたのかも、思い出せない。

 

ただ。

 

(……視線)

 

そこだけが残る。

 

一瞬。

 

長くも、短くもない。

時間の長さも、分からない。

 

何もしていない。

合わせてもいない。

意識すら、していなかったはずだ。

 

それでも。

 

(……ずれていなかった)

 

そこだけが、消えない。

 

理由は出てこない。

どうしてそうなったのかも、分からない。

 

思い出そうとするほど、輪郭は崩れる。

残るのは、位置だけだ。

 

(……一度だけだ)

 

他には、何もない。

それ以上は、要らない。

 

椅子から、動かない。

思考は、もう進まない。

 

(――あそこ以外では、重ならない)

 

それだけが、静かに残る。

 

 

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