デビュー戦。
大きな歓声もない。
どこか空いた空気。
ゲート前に立つ。
エクリプスセレナは、
いつも通り無表情だった。
緊張はない。
高揚もない。
「……やるだけだ。」
スタートの合図。
一斉に飛び出す脚音。
セレナは無駄なく前へ出る。
展開は甘くない。
位置取りが遅れる。
しかし、焦らない。
「……まだ。」
冷静に、隙を探す。
だが――、直線。
前との差は埋まらない。
「……届かないか。」
結果は、6着。
勝者の名前が呼ばれる。
それ以外は、すぐに流れていく。
セレナは足を止めない。
評価も、視線も、関係ない。
「……こんなものか。」
通路へ向かう、そのとき。
「セレナーー!!」
不意に、声。
足が止まる。
こんな順位で、
名前を呼ばれる理由がない。
ゆっくり振り返る。
観客席の端。
車いすの少年が、
身を乗り出して手を振っている。
「セレナ!すごかった!!」
距離がある。
それでも、声ははっきり届く。
「……6着だろ。」
思わず、返す。
「関係ない!かっこよかった!!」
風が抜ける。
その場の誰も、セレナの名前を呼ばない。
でも、その少年だけが、何度も。
「セレナーー!!また走って!!」
胸の奥に、何かが残る。
評価じゃない。
順位でもない。
ただ、“名前”。
セレナは、観客席に近づく。
「……お前。」
少年がぱっと顔を上げる。
「名前はいい。呼ぶ必要はない。」
ぶっきらぼうに言う。
声は少しだけ低い。
「え、でも……応援したくて……。」
「……好きにしろ。」
視線を外す。
足は止まったまま。
「……来るのか、次も。」
ぽつり、と。
少年は力強くうなずく。
「うん!絶対!」
「……じゃあ。
……次は、前にいる。」
少年の顔が、一気に明るくなる。
「ほんとに!?」
「さあな。」
歩き出す。
だが、数歩進んでから。
「お前が見てるなら、負ける気はない。」
少年の声が、背中に届く。
「見る!絶対見る!!」
セレナは振り返らない。
ただ、わずかに口元が緩む。
**********
地方の病院。
白い廊下。
静かな機械音と、規則正しい足音。
「……入るぞ。」
短く言って、扉を開ける。
「あっ……!」
ベッドの上の少年が、ぱっと顔を上げる。
「セレナ!」
「騒ぐな。響くだろ。」
そっけない言い方。
しかし、前より少しだけ声がやわらかい。
「来てくれたんだ……。」
「近くに用があった。」
嘘ではない。
少年は嬉しそうに笑う。
「レース見たよ!この前の!」
「そうか。」
「すっごく速かった!ほんとうに“前で走ってた”!」
「……言ってない。」
「言ってたよ!“前で走る”って!」
「……勝手に解釈するな。」
否定はしない。
少年は少し息を整える。
それに気づいて、
セレナの視線がわずかに動く。
「……無理するな。」
「え?」
「息、上がってる。少し黙ってろ。」
ベッドの横の椅子に座る。
数分後。
少年がゆっくり口を開く。
「ねえ、セレナ?」
「何だ。」
「また、レース出る?」
「出る。」
「じゃあさ……。」
少年は躊躇いがちに口にする。
「その時も、見ていい?」
「……好きにしろ。」
ぶっきらぼうに返す。
でも、そのあと。
「どうせ、見るんだろ。」
「うん!」
少年が笑う。
その顔を見て、ほんの一瞬だけ、
セレナの表情が緩む。
気づかれないくらい、わずかに。
「……なら、ちゃんと見ろ。途中で目を逸らすな。」
「逸らさない!」
「……そうか。」
そして、言葉がこぼれる。
「お前が見てるなら、負ける気はない。」
「……うん!」
小さく、でも確かに。
帰り際。
扉の前で、セレナは一度だけ振り返る。
少年は手を振っている。
「……また来る。」
「待ってる!」
セレナは軽くうなずく。
そして、扉を閉める。
**********
病室のテレビには、レース中継。
実況の声。
観客の歓声。
ベッドの上で、
少年が身を乗り出す。
「今日のレース、セレナ出るよね!?」
その隣で、母親がリモコンを握りしめている。
「ええ、出るって言ってたわね。」
画面に映る出走ウマ娘たち。
その中に――
エクリプスセレナ。
「いた!セレナ!!」
あんなに苦しそうだった呼吸が、
今は少しだけ軽い。
「……本当に好きなのね。」
「うん!セレナ、絶対来るって言ってたし!」
その言葉に、母親は目を伏せる。
「……そう。」
“来る”。
それが難しいことは、分かっている。
それでも、否定はしない。
スタート。
一斉に飛び出す。
「いけ……!」
少年の手が、シーツを握る。
「セレナ……!」
画面の中で、セレナは中団。
無理はしない。
位置はしっかり取る。
直線。
「セレナ!!」
少年の声が、部屋に響く。
セレナが前に出る。
一歩、また一歩。
「いけ……いけ……!」
隣で、母親も無意識に息を止める。
ゴール。
わずかに届かず、2着。
「……あっ。」
少年の声が止まる。
悔しさが、顔に出る。
でも次には、
「……でも、すごかった。
ちゃんと、前で走ってた。」
小さく笑う。
その言葉に、母親は何も言えなくなる。
**********
数日後。
病室の扉が開く。
「……来たぞ。」
変わらない声。
「セレナ!」
少年の顔が一気に明るくなる。
母親が立ち上がる。
「……あなたが。」
セレナは軽く会釈する。
「どうも。」
簡素な挨拶。
それ以上は言わない。
母親は少しだけ戸惑いながらも、
頭を下げる。
「いつも、この子が……お世話になっています。」
「世話はしてない。」
即答。
空気が一瞬止まる。
セレナは続ける。
「勝手に見てるだけだろ。」
「そうだよ!」
母親も、少しだけ表情を緩める。
「……そう、ですね。」
少しして。
少年が眠ったあと。
病室の外。
母親とセレナ、ふたり。
「……あの子、あなたのレースがある日は、本当に元気なんです。」
セレナは壁に寄りかかる。
「そうか。」
「無理をしているのは分かっています。でも……。
楽しみにしているんです。あなたが走ることを…。」
セレナは視線を落とす。
「……なら、勝つ。」
それ以上はない。
けれど、その一言に全部入っている。
母親は、少しだけ目を見開く。
そして、ゆっくりと頭を下げる。
「……ありがとうございます。」
「礼はいらない。わたしが、そうしたいだけだ。」
**********
病室。
カーテンの隙間から入る光が、少し弱い。
モニターの音が、前よりも目立つ。
ベッドの上の少年は、
以前よりも言葉が少ない。
「……明日、レースあるよね。」
かすれた声。
「ある。」
「……出る?」
「出る。」
「……そっか。」
沈黙。
「……見れるかな。」
セレナは、少しだけ視線を落とす。
「見ろ。見れるかじゃない。見るんだろ。」
少年は、弱く笑う。
「……うん。」
その手は、少し震えている。
セレナはそれを見るが、何も言わない。
ただ。
「……遅れるな。スタート、見逃すな。」
少年が小さく笑う。
「うん……。」
母親は、医師と話している。
「……正直に言って、状態は良くありません。」
「……分かっています。
ただ……あの子、楽しみにしているんです。」
「レース、ですか?」
「はい。“セレナが走るから見る”って。」
母親は、小さく笑う。
医師はうなずく。
「……いいことだと思います。」
母親は静かに息を吐く。
「ええ。だから……。
もう少しだけ……、時間をください。」
夜。
少年は眠っている。
セレナは、窓際に立つ。
「……次も出る。勝つ。
だから……、見てろ。」
返事はない。
セレナの言葉だけ、
静かに落ちる。
**********
病室。
昼下がりの柔らかい光。
テーブルの上に、小さな箱。
「……何だ、それ。」
セレナが視線を向ける。
少年が少し照れくさそうに笑う。
「これ、さ……。」
箱を開けると、
中には、小さなピアス。
シンプルな、銀色。
「売店で売ってたんだ。」
「買ったのか。」
「うん。……セレナに、似合うかなって。」
静かになる。
セレナは数秒、何も言わない。
「やっぱり、いらないよね……。」
「……寄こせ。」
少年がぱっと顔を上げる。
「え?」
「どうせ買ったんだろ。使う。」
ぶっきらぼうに。
でも、拒絶じゃない。
少年は慌てて箱ごと渡す。
「う、うん!」
セレナはそれを受け取って、中を見る。
小さく光る銀。
「……軽いな。」
ぽつり。
「走るのに邪魔にならないようにって。」
少し誇らしげに言う。
セレナは一瞬だけ視線を上げる。
「……そうか。」
数秒後。
セレナはピアスを手に取る。
右耳に触れる。
少しだけ、慣れた手つき。
カチ、と小さな音。
少年が目を見開く。
「……つけた。」
「見れば分かるだろ。……どうだ。」
少年は、一瞬言葉を失ってから。
「……めっちゃ似合う!」
笑う。
本気で。
その顔を見て、ほんの一瞬だけ、
セレナの表情が緩む。
「……そうか。」
帰り際。
扉の前で、少年が言う。
「それ、レースでもつけてくれる?」
「……落としたら面倒だろ。」
「落ちないよ!ちゃんとしてるやつだし!」
「……分かった。つける。」
「ほんと!?」
「何回も言わせるな。
どうせ、お前が見るんだろ。
なら、分かるようにしてやる。」
「うん!!」
右耳のピアスは、そのままに。
**********
午後の光が、カーテン越しに柔らかく差し込む。
ベッドの上で、少年がテレビを見ている。
扉が開く。
「……いるか。」
「セレナ!」
セレナは軽く手を上げて、中に入る。
右耳のピアスが、
光を受けて小さく揺れる。
少年の視線がそこに止まる。
「……それ、つけてる。」
「言っただろ。落としてないしな。」
「レースでも見えたよ!」
「そうか。」
そのまま椅子に向かう。
少しして。
セレナがポケットに手を入れる。
「……これ。」
小さく言って、何かを取り出す。
布の切れ端。
深いネイビー。
細いシルバーのライン。
少年が目を丸くする。
「え?何それ?」
「勝負服の一部。予備で余ってたやつだ。
……やる。」
「……いいの?」
「いらないなら戻す。」
即座に引こうとする。
「あ、いる!」
少年は、慌てて受け取る。
大事そうに、両手で。
「……ほんとに?」
「何回言わせる。
どうせ、お前しか持たないだろ。」
少年は布を見つめる。
指でなぞる。
「これ、セレナが着てるやつと同じ?」
「ああ、同じ素材だ。」
「……すごい。
なんか……セレナのレースが、ここにあるみたい。」
その言葉に、セレナの動きが一瞬だけ止まる。
「……言い過ぎだ。」
「これ、宝物にする。」
「……好きにしろ。……なくすなよ。」
ぶっきらぼうに付け足す。
「なくさない、絶対!」
帰り際。
セレナは、扉の前で立ち止まる。
「……それ。レースのとき、持ってろ。
見てる証になるだろ。」
少年の布を握る手が、力がこもる。
「……うん!」
**********
夕方の病室。
光はやわらかいが、どこか薄い。
テレビでは、レース中継が映る。
ベッドの上で、
少年は少しだけ息を整えている。
胸元には、あの布。
指で、無意識になぞる。
「……いるか。」
「セレナ。」
顔が上がるのが、少し遅れる。
セレナは、その違和感に気づいている。
「……見てたか?」
「うん……ちょっとだけ。」
声が、かすれる。
「最初から見ろ。」
いつもの言い方。
「……最近さ。ちょっとだけ、しんどくてさ。
前みたいに、ずっと見てられない時があるんだ。」
軽く言う。
軽く言ってるつもり。
セレナは、ただ、右耳のピアスに触れる。
「……そうか。」
それだけ。
慰めも、否定もない。
「でもさ。」
少年は、布を握り、続ける。
「これ、持ってると……なんか大丈夫な気がする。
セレナ、ちゃんと走ってるし。
……見てるって、分かるから。」
その言葉に、セレナの指が止まる。
でも、顔は変えない。
「ねえ、セレナ?」
「何だ。」
「もしさ……。
もし、途中で見れなくなってもさ。
……走る?」
セレナは、間を置かない。
「走る。変わらない。」
少年は、安心したように笑う。
「……そっか。じゃあさ。」
少しだけ、声が弱くなる。
「最後まで、ちゃんと走ってね。」
セレナは、ゆっくりとベッドに近づく。
少年の手。
布を握っている。
その上に、手を重ねる。
強くは触れない。
ただ、そこにあるだけ。
「……最初から、そのつもりだ。」
「うん。」
帰り際。
扉の前で、セレナが止まる。
「……次も出る。ちゃんと準備しとけ。」
少年は笑う。
「……うん。」
扉が閉まる。
少年は目を閉じ、布を胸に当てる。
「……見てるよ。」
小さく呟く。
**********
数日後のレースの日。
少年の訃報が、母親から伝えられた。
「そうか。」
一言だけ落ちる。
空は晴れている。
ざわめく観客席。
いつもと同じ光景。
でも、ひとつだけ違う。
セレナはゲートに立つ。
迷いはない。
「……いるだろ。」
返事はない。
でも、それでいい。
「……わたしは走る。」
ゴール板を越えた瞬間。
歓声が、遅れて押し寄せる。
名前が呼ばれる。
何度も、何度も。
だが――
セレナは振り返らない。
息は乱れている。
それでも、表情は変わらない。
いつも通り。
ただひとつ。
視線が、空に上がる。
雲ひとつない、青。
「……届いたか。」
誰にも聞こえない声。
右手が、自然に上がる。
右耳。
銀のピアスに触れる。
指先で、確かめるように。
一瞬、目を閉じる。
「……見てるだろ。」
それだけで、十分だった。
関係者が駆け寄る。
「すみません!今のレース――」
「一言お願いします!」
マイク。
カメラ。
光。
セレナは視線を向けない。
歩き続ける。
「コメントを――」
「今回の勝因は――」
「……どいてくれ。」
低く言う。
それだけで、空気が引く。
「急いでる。」
理由は言わない。
説明もしない。
ただ、そのまま通り過ぎる。
**********
静かな式場。
白い花。
抑えた声。
セレナは、
入口で一度だけ立ち止まる。
黒の装い。
右耳のピアスだけが、
小さく光る。
中に入り、まっすぐ進む。
視線が集まろうと、気にしない。
棺の前。
白い布。
静かな顔。
あの布は、胸の上にある。
勝負服の一部。
数秒見つめる。
何も言わない。
何も変わらない。
ただ――
「……来たぞ。」
小さく。
それだけ。
横に、母親。
目は赤いが、姿勢は崩れていない。
「……来てくださって、ありがとうございます。」
静かな声。
セレナは軽くうなずく。
「問題ない。」
「……あの子、最後まで……あなたのレースの話をしていました。」
セレナは、棺から目を離さない。
「……そうか。」
「今日も、走るって……言ってましたよね。
“ちゃんと見てる”って。」
セレナの指が、わずかに動く。
右耳のピアスに触れる。
一瞬。
「……ああ。見てた。」
煙が、細く上がる。
セレナは目を閉じない。
ただ、まっすぐに、
空に昇っていく煙を見つめていた。