理性の外側   作:茶葉坊主

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9.セレナ/トレセン学園(右耳)

 

デビュー戦。

 

大きな歓声もない。

どこか空いた空気。

 

ゲート前に立つ。

 

エクリプスセレナは、

いつも通り無表情だった。

 

緊張はない。

高揚もない。

 

「……やるだけだ。」

 

スタートの合図。

 

一斉に飛び出す脚音。

セレナは無駄なく前へ出る。

 

展開は甘くない。

位置取りが遅れる。

しかし、焦らない。

 

「……まだ。」

 

冷静に、隙を探す。

 

だが――、直線。

前との差は埋まらない。

 

「……届かないか。」

 

結果は、6着。

 

勝者の名前が呼ばれる。

それ以外は、すぐに流れていく。

 

セレナは足を止めない。

評価も、視線も、関係ない。

 

「……こんなものか。」

 

通路へ向かう、そのとき。

 

「セレナーー!!」

 

不意に、声。

足が止まる。

 

こんな順位で、

名前を呼ばれる理由がない。

 

ゆっくり振り返る。

観客席の端。

 

車いすの少年が、

身を乗り出して手を振っている。

 

「セレナ!すごかった!!」

 

距離がある。

それでも、声ははっきり届く。

 

「……6着だろ。」

 

思わず、返す。

 

「関係ない!かっこよかった!!」

 

風が抜ける。

 

その場の誰も、セレナの名前を呼ばない。

でも、その少年だけが、何度も。

 

「セレナーー!!また走って!!」

 

胸の奥に、何かが残る。

 

評価じゃない。

順位でもない。

ただ、“名前”。

 

セレナは、観客席に近づく。

 

「……お前。」

 

少年がぱっと顔を上げる。

 

「名前はいい。呼ぶ必要はない。」

 

ぶっきらぼうに言う。

声は少しだけ低い。

 

「え、でも……応援したくて……。」

「……好きにしろ。」

 

視線を外す。

足は止まったまま。

 

「……来るのか、次も。」

 

ぽつり、と。

少年は力強くうなずく。

 

「うん!絶対!」

「……じゃあ。

 ……次は、前にいる。」

 

少年の顔が、一気に明るくなる。

 

「ほんとに!?」

「さあな。」

 

歩き出す。

だが、数歩進んでから。

 

「お前が見てるなら、負ける気はない。」

 

少年の声が、背中に届く。

 

「見る!絶対見る!!」

 

セレナは振り返らない。

 

ただ、わずかに口元が緩む。

 

 

**********

 

 

地方の病院。

 

白い廊下。

 

静かな機械音と、規則正しい足音。

 

「……入るぞ。」

 

短く言って、扉を開ける。

 

「あっ……!」

 

ベッドの上の少年が、ぱっと顔を上げる。

 

「セレナ!」

「騒ぐな。響くだろ。」

 

そっけない言い方。

しかし、前より少しだけ声がやわらかい。

 

「来てくれたんだ……。」

「近くに用があった。」

 

嘘ではない。

 

少年は嬉しそうに笑う。

 

「レース見たよ!この前の!」

「そうか。」

「すっごく速かった!ほんとうに“前で走ってた”!」

「……言ってない。」

「言ってたよ!“前で走る”って!」

「……勝手に解釈するな。」

 

否定はしない。

 

少年は少し息を整える。

 

それに気づいて、

セレナの視線がわずかに動く。

 

「……無理するな。」

「え?」

「息、上がってる。少し黙ってろ。」

 

ベッドの横の椅子に座る。

 

数分後。

少年がゆっくり口を開く。

 

「ねえ、セレナ?」

「何だ。」

「また、レース出る?」

「出る。」

「じゃあさ……。」

 

少年は躊躇いがちに口にする。

 

「その時も、見ていい?」

「……好きにしろ。」

 

ぶっきらぼうに返す。

でも、そのあと。

 

「どうせ、見るんだろ。」

「うん!」

 

少年が笑う。

 

その顔を見て、ほんの一瞬だけ、

セレナの表情が緩む。

 

気づかれないくらい、わずかに。

 

「……なら、ちゃんと見ろ。途中で目を逸らすな。」

「逸らさない!」

「……そうか。」

 

そして、言葉がこぼれる。

 

「お前が見てるなら、負ける気はない。」

「……うん!」

 

小さく、でも確かに。

 

 

帰り際。

 

扉の前で、セレナは一度だけ振り返る。

少年は手を振っている。

 

「……また来る。」

「待ってる!」

 

セレナは軽くうなずく。

そして、扉を閉める。

 

 

**********

 

 

病室のテレビには、レース中継。

 

実況の声。

観客の歓声。

 

ベッドの上で、

少年が身を乗り出す。

 

「今日のレース、セレナ出るよね!?」

 

その隣で、母親がリモコンを握りしめている。

 

「ええ、出るって言ってたわね。」

 

画面に映る出走ウマ娘たち。

 

その中に――

エクリプスセレナ。

 

「いた!セレナ!!」

 

あんなに苦しそうだった呼吸が、

今は少しだけ軽い。

 

「……本当に好きなのね。」

「うん!セレナ、絶対来るって言ってたし!」

 

その言葉に、母親は目を伏せる。

 

「……そう。」

 

“来る”。

それが難しいことは、分かっている。

それでも、否定はしない。

 

 

スタート。

一斉に飛び出す。

 

「いけ……!」

 

少年の手が、シーツを握る。

 

「セレナ……!」

 

画面の中で、セレナは中団。

無理はしない。

位置はしっかり取る。

 

直線。

 

「セレナ!!」

 

少年の声が、部屋に響く。

 

セレナが前に出る。

一歩、また一歩。

 

「いけ……いけ……!」

 

隣で、母親も無意識に息を止める。

 

ゴール。

わずかに届かず、2着。

 

「……あっ。」

 

少年の声が止まる。

悔しさが、顔に出る。

 

でも次には、

 

「……でも、すごかった。

 ちゃんと、前で走ってた。」

 

小さく笑う。

 

その言葉に、母親は何も言えなくなる。

 

 

**********

 

 

数日後。

 

病室の扉が開く。

 

「……来たぞ。」

 

変わらない声。

 

「セレナ!」

 

少年の顔が一気に明るくなる。

 

母親が立ち上がる。

 

「……あなたが。」

 

セレナは軽く会釈する。

 

「どうも。」

 

簡素な挨拶。

それ以上は言わない。

 

母親は少しだけ戸惑いながらも、

頭を下げる。

 

「いつも、この子が……お世話になっています。」

「世話はしてない。」

 

即答。

空気が一瞬止まる。

 

セレナは続ける。

 

「勝手に見てるだけだろ。」

「そうだよ!」

 

母親も、少しだけ表情を緩める。

 

「……そう、ですね。」

 

 

少しして。

少年が眠ったあと。

 

病室の外。

母親とセレナ、ふたり。

 

「……あの子、あなたのレースがある日は、本当に元気なんです。」

 

セレナは壁に寄りかかる。

 

「そうか。」

 

「無理をしているのは分かっています。でも……。

 楽しみにしているんです。あなたが走ることを…。」

 

セレナは視線を落とす。

 

「……なら、勝つ。」

 

それ以上はない。

けれど、その一言に全部入っている。

 

母親は、少しだけ目を見開く。

そして、ゆっくりと頭を下げる。

 

「……ありがとうございます。」

「礼はいらない。わたしが、そうしたいだけだ。」

 

 

**********

 

 

病室。

 

カーテンの隙間から入る光が、少し弱い。

モニターの音が、前よりも目立つ。

 

ベッドの上の少年は、

以前よりも言葉が少ない。

 

「……明日、レースあるよね。」

 

かすれた声。

 

「ある。」

「……出る?」

「出る。」

「……そっか。」

 

沈黙。

 

「……見れるかな。」

 

セレナは、少しだけ視線を落とす。

 

「見ろ。見れるかじゃない。見るんだろ。」

 

少年は、弱く笑う。

 

「……うん。」

 

その手は、少し震えている。

セレナはそれを見るが、何も言わない。

 

ただ。

 

「……遅れるな。スタート、見逃すな。」

 

少年が小さく笑う。

 

「うん……。」

 

 

母親は、医師と話している。

 

「……正直に言って、状態は良くありません。」

「……分かっています。

 ただ……あの子、楽しみにしているんです。」

「レース、ですか?」

「はい。“セレナが走るから見る”って。」

 

母親は、小さく笑う。

医師はうなずく。

 

「……いいことだと思います。」

 

母親は静かに息を吐く。

 

「ええ。だから……。

 もう少しだけ……、時間をください。」

 

 

夜。

 

少年は眠っている。

セレナは、窓際に立つ。

 

「……次も出る。勝つ。

 だから……、見てろ。」

 

返事はない。

 

セレナの言葉だけ、

静かに落ちる。

 

 

**********

 

 

病室。

昼下がりの柔らかい光。

 

テーブルの上に、小さな箱。

 

「……何だ、それ。」

 

セレナが視線を向ける。

 

少年が少し照れくさそうに笑う。

 

「これ、さ……。」

 

箱を開けると、

中には、小さなピアス。

 

シンプルな、銀色。

 

「売店で売ってたんだ。」

「買ったのか。」

「うん。……セレナに、似合うかなって。」

 

静かになる。

セレナは数秒、何も言わない。

 

「やっぱり、いらないよね……。」

「……寄こせ。」

 

少年がぱっと顔を上げる。

 

「え?」

「どうせ買ったんだろ。使う。」

 

ぶっきらぼうに。

でも、拒絶じゃない。

 

少年は慌てて箱ごと渡す。

 

「う、うん!」

 

セレナはそれを受け取って、中を見る。

 

小さく光る銀。

 

「……軽いな。」

 

ぽつり。

 

「走るのに邪魔にならないようにって。」

 

少し誇らしげに言う。

セレナは一瞬だけ視線を上げる。

 

「……そうか。」

 

数秒後。

セレナはピアスを手に取る。

 

右耳に触れる。

少しだけ、慣れた手つき。

 

カチ、と小さな音。

 

少年が目を見開く。

 

「……つけた。」

「見れば分かるだろ。……どうだ。」

 

少年は、一瞬言葉を失ってから。

 

「……めっちゃ似合う!」

 

笑う。

本気で。

 

その顔を見て、ほんの一瞬だけ、

セレナの表情が緩む。

 

「……そうか。」

 

 

帰り際。

扉の前で、少年が言う。

 

「それ、レースでもつけてくれる?」

「……落としたら面倒だろ。」

「落ちないよ!ちゃんとしてるやつだし!」

「……分かった。つける。」

「ほんと!?」

「何回も言わせるな。

 どうせ、お前が見るんだろ。

 なら、分かるようにしてやる。」

「うん!!」

 

右耳のピアスは、そのままに。

 

 

**********

 

 

午後の光が、カーテン越しに柔らかく差し込む。

 

ベッドの上で、少年がテレビを見ている。

 

扉が開く。

 

「……いるか。」

「セレナ!」

 

セレナは軽く手を上げて、中に入る。

 

右耳のピアスが、

光を受けて小さく揺れる。

 

少年の視線がそこに止まる。

 

「……それ、つけてる。」

「言っただろ。落としてないしな。」

「レースでも見えたよ!」

「そうか。」

 

そのまま椅子に向かう。

 

少しして。

セレナがポケットに手を入れる。

 

「……これ。」

 

小さく言って、何かを取り出す。

 

布の切れ端。

深いネイビー。

細いシルバーのライン。

 

少年が目を丸くする。

 

「え?何それ?」

「勝負服の一部。予備で余ってたやつだ。

 ……やる。」

「……いいの?」

「いらないなら戻す。」

 

即座に引こうとする。

 

「あ、いる!」

 

少年は、慌てて受け取る。

大事そうに、両手で。

 

「……ほんとに?」

「何回言わせる。

 どうせ、お前しか持たないだろ。」

 

少年は布を見つめる。

指でなぞる。

 

「これ、セレナが着てるやつと同じ?」

「ああ、同じ素材だ。」

「……すごい。

 なんか……セレナのレースが、ここにあるみたい。」

 

その言葉に、セレナの動きが一瞬だけ止まる。

 

「……言い過ぎだ。」

「これ、宝物にする。」

「……好きにしろ。……なくすなよ。」

 

ぶっきらぼうに付け足す。

 

「なくさない、絶対!」

 

 

帰り際。

セレナは、扉の前で立ち止まる。

 

「……それ。レースのとき、持ってろ。

 見てる証になるだろ。」

 

少年の布を握る手が、力がこもる。

 

「……うん!」

 

 

**********

 

 

夕方の病室。

 

光はやわらかいが、どこか薄い。

 

テレビでは、レース中継が映る。

 

ベッドの上で、

少年は少しだけ息を整えている。

 

胸元には、あの布。

指で、無意識になぞる。

 

「……いるか。」

「セレナ。」

 

顔が上がるのが、少し遅れる。

 

セレナは、その違和感に気づいている。

 

「……見てたか?」

「うん……ちょっとだけ。」

 

声が、かすれる。

 

「最初から見ろ。」

 

いつもの言い方。

 

「……最近さ。ちょっとだけ、しんどくてさ。

 前みたいに、ずっと見てられない時があるんだ。」

 

軽く言う。

軽く言ってるつもり。

 

セレナは、ただ、右耳のピアスに触れる。

 

「……そうか。」

 

それだけ。

慰めも、否定もない。

 

「でもさ。」

 

少年は、布を握り、続ける。

 

「これ、持ってると……なんか大丈夫な気がする。

 セレナ、ちゃんと走ってるし。

 ……見てるって、分かるから。」

 

その言葉に、セレナの指が止まる。

でも、顔は変えない。

 

「ねえ、セレナ?」

「何だ。」

「もしさ……。

 もし、途中で見れなくなってもさ。

 ……走る?」

 

セレナは、間を置かない。

 

「走る。変わらない。」

 

少年は、安心したように笑う。

 

「……そっか。じゃあさ。」

 

少しだけ、声が弱くなる。

 

「最後まで、ちゃんと走ってね。」

 

セレナは、ゆっくりとベッドに近づく。

 

少年の手。

布を握っている。

 

その上に、手を重ねる。

 

強くは触れない。

ただ、そこにあるだけ。

 

「……最初から、そのつもりだ。」

「うん。」

 

 

帰り際。

扉の前で、セレナが止まる。

 

「……次も出る。ちゃんと準備しとけ。」

 

少年は笑う。

 

「……うん。」

 

扉が閉まる。

 

少年は目を閉じ、布を胸に当てる。

 

「……見てるよ。」

 

小さく呟く。

 

 

**********

 

 

数日後のレースの日。

 

少年の訃報が、母親から伝えられた。

 

「そうか。」

 

一言だけ落ちる。

 

 

空は晴れている。

 

ざわめく観客席。

いつもと同じ光景。

 

でも、ひとつだけ違う。

 

セレナはゲートに立つ。

迷いはない。

 

「……いるだろ。」

 

返事はない。

でも、それでいい。

 

「……わたしは走る。」

 

 

ゴール板を越えた瞬間。

歓声が、遅れて押し寄せる。

 

名前が呼ばれる。

何度も、何度も。

 

だが――

セレナは振り返らない。

 

息は乱れている。

それでも、表情は変わらない。

いつも通り。

 

ただひとつ。

 

視線が、空に上がる。

雲ひとつない、青。

 

「……届いたか。」

 

誰にも聞こえない声。

右手が、自然に上がる。

 

右耳。

 

銀のピアスに触れる。

指先で、確かめるように。

 

一瞬、目を閉じる。

 

「……見てるだろ。」

 

それだけで、十分だった。

 

 

関係者が駆け寄る。

 

「すみません!今のレース――」

「一言お願いします!」

 

マイク。

カメラ。

光。

 

セレナは視線を向けない。

歩き続ける。

 

「コメントを――」

「今回の勝因は――」

 

「……どいてくれ。」

 

低く言う。

それだけで、空気が引く。

 

「急いでる。」

 

理由は言わない。

説明もしない。

 

ただ、そのまま通り過ぎる。

 

 

**********

 

 

静かな式場。

白い花。

抑えた声。

 

セレナは、

入口で一度だけ立ち止まる。

 

黒の装い。

 

右耳のピアスだけが、

小さく光る。

 

中に入り、まっすぐ進む。

視線が集まろうと、気にしない。

 

棺の前。

白い布。

静かな顔。

 

あの布は、胸の上にある。

勝負服の一部。

 

数秒見つめる。

 

何も言わない。

何も変わらない。

 

ただ――

 

「……来たぞ。」

 

小さく。

それだけ。

 

横に、母親。

目は赤いが、姿勢は崩れていない。

 

「……来てくださって、ありがとうございます。」

 

静かな声。

 

セレナは軽くうなずく。

 

「問題ない。」

「……あの子、最後まで……あなたのレースの話をしていました。」

 

セレナは、棺から目を離さない。

 

「……そうか。」

「今日も、走るって……言ってましたよね。

 “ちゃんと見てる”って。」

 

セレナの指が、わずかに動く。

右耳のピアスに触れる。

 

一瞬。

 

「……ああ。見てた。」

 

 

煙が、細く上がる。

セレナは目を閉じない。

 

ただ、まっすぐに、

空に昇っていく煙を見つめていた。

 

 

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