今月は素晴らしいものになるはずだった。
小鳥遊ホシノを手に入れ、神秘についての研究が大幅に進む。
やりたいことが多すぎた。うれしい悲鳴というやつだ。
しかしそのつかの間の夢は完膚なきまでに粉砕された。
この、先ほど部屋に招き入れた者の手によって。
黒のストレートヘア、緑がかった瞳、ニヤニヤと歪んだ口元、整った顔立ち。
見間違えるはずもない。
”久しぶり、黒服”
”…お久しぶりです 先輩”
少し前から胸騒ぎはしていた。小鳥遊ホシノとの契約を取り決めたあの時からずっとだ。
だがあまり気にしてはいなかった。
予想される不穏分子は全て簡単に対処できるものであり、
唯一の懸念点である彼女も今回出てくる確率は限りなく少なかったからだ。
だってそうだろう。彼女が出戻ったことは聞いていたがアビドスと関わり合いになっているとは思わないだろう。
しかし今日になってその胸騒ぎが最高潮に達していた。
何も心配などいらない。彼女は何も介入してこない。そう思っても胸の中の疑念は増すばかりだった。
そして先ほど、来客があった。
何のアポイントメントも取らずに来たという点でもしやと思ったがただの嫌な妄想として切り捨てた。
しかし、通路に響く足音も、ノックの調子も、すべてが彼女のものとしか考えられなかった。
それでも偶々似ているだけの他人の空似であるという一縷の望みにかけ、入室の許可を出した。
しかし、世界は非情だった。
目の錯覚を期待したがやはり疑うべくもない。
この人は間違いなくシャーレの先生、そして私の先輩だ。
「・・・お茶でも淹れましょうか?」
”お願い、あっまいのね。スティックシュガー3本くらい入れたやつ”
観念しお茶の準備をした。本来私はあまり紅茶は飲まないのだが
6年前までは先輩が不定期に「お茶出して」と襲来することがあったので今でも常備してある。
その時間で自分の研究の助言をしてくれたりすることもあり、
まんざらデメリットしかないというわけではなかった。しかし煩わしいものは煩わしいのだ。
ご要望通り温かいお茶にこれでもかと砂糖を入れティースプーンとともに提供する。
”うむ、苦しゅうない”
言うなりティーカップに口をつけ、そのまま一気に飲み下した。
”あー、懐かしい。戻って来たって感じするね。もう一杯頂戴”
呆れながら立ち上がり先ほどと同じようにお茶を淹れる。
今度はいきなり飲み干すということはせず、常識的な範囲で口に含んでいる。
”それじゃあ本題に入る前に質問コーナーといこうか
色々気になることあるでしょ?どこ行ってたのかとか”
「まあ、はい」
”何よその微妙な反応。私の機嫌がいいうちに好感度上げときなさい。大変なことになるわよ”
「わかりましたよ。どこ行ってたんですか?こんな6年も」
”いやあね、外で教員免許取ってた”
「え」
”え ってそんな意外?”
「先輩が免許とか気にするタイプとは思ってなくて」
”まあ主目的は免許じゃなかったけどね。その時私の研究が行き詰ってたから。
キヴォトス外行ったらなんかインスピレーション降ってこないかなって
何の成果もなくても最低でも免許は取れるし。ここで先生やろうとは思ってたから”
「研究がらみですか?」
”元はね。けど外行ってたらちょっと人間に興味出てきて
今はかわいい生徒たちに囲まれながら毎日アハハのウフフよ”
「よかったですね」
”相変わらず淡白だね”
「先輩がくどいんですよ」
”ま それは置いといて、本題に入ろうか”
先輩の眼光が鋭くなる。
先輩がここに来た理由はあらかた予想はついている。
しかし、今回に関しては私に利がある。
先輩は確かに突飛がないが、議論となればしっかりと公平に物事を考える。
今の私の手札相手には無茶は言えないだろう。
”小鳥遊ホシノの身柄を引き渡せ”
予想通り、すかさず先ほど考えたセリフを並べる。
「その件ですが、本人の同意は得ていますよ。すでに本人と私たちの間に契約は成立しています。
もう小鳥遊ホシノはあなたの生徒じゃないんですよ。
いくら先輩といえど、自分の生徒でもない子の決めたことに口を出すのは無粋というものでしょう」
会心の出来だった。契約、この意味は先輩ならわかるはずだ。
何度も何度も契約について私に言って聞かせてきたあなただからこそこれに反論はできないはずだ。
初めて先輩に勝てる…
”なるほど、そっちの言い分はそういうことね”
こちらが心の中でガッツポーズをしようという時にその言葉は放たれた。
どこか面白がっているような、どこか憐れんでいるような、そんな口調だった。
いや、いくら先輩といえどここから崩すなど…思った瞬間に思い出す。昔の自分の負け方を。
その思い出を振り払うように私は言葉を投げた。
「契約でもう決まったことです。あなたが付け入るスキはどこにも」
”ぶふっ”
先輩が噴き出していた。こらえきれなくなったと言わんばかりに肩を震わせ、
涙目になりながら口を手で覆っている。
”ごめんごめん、あまりにも自信満々に喋ってるから、面白くて”
ククっと最後に笑い今度は先輩のターンになった。
”あなたのその理論。表向きは完全無欠だけどさ、こっちから見たらどでかい穴が開いてんだよね”
デジャヴだった。先輩に自分の論理を一笑に付され相手のターンになった時、私は勝てた試しがない。
”だってあなたのその話は契約が成立していることが前提条件でしょ?”
「いえですから契約は成立していて」
”そこに文句言いに来たんだよ”
空気が変わる。
先ほどとは打ってちがい、もうそこには”先輩”はいなかった。
そこにいたのは宝玉を取られた龍、もしくは子を取り戻そうとする虎の姿をとった”先生”だった。
”まず、あの子はまだ私の生徒だ。
待って、言いたいことを代弁してあげる「退部届にサインしたじゃないか」
とかでしょ? 勘違いも甚だしいよ。あんな紙切れで退学だとか退部だとか決めれる訳ないじゃん
顧問である私がソレを承認していないんだから”
「…」
”教えたはずだよ、後輩君。
契約書の内容はその場その場で変わることがある。だから早とちることはないようにね て”
全身から汗が噴き出す。
忘れていた感覚が甦ってくる。
穴とすら思っていなかった穴を無理やり広げ、そこを遠慮なく突いてくる。
あの時も、あの時も、こうやって私は負かされてきたのだ。
やはり、先輩が絡むと碌なことにならない。
ネクタイを掴まれ、ぐいと掴み寄せられる。
”盗みだろうが詐欺だろうが人殺しだろうが、私の視界に入らなければどうだっていい。
けどね、私のモノに手を出すってことだけは許さない。私のモノに手を出すな”