アンダー・ワールド・レコード 作:そこら辺のスタンド使い
俺、三原 透が、自分は一度死んでいるらしいと気づいたのは、四歳の冬だった。
それ以前から、妙な夢は何度も見ていた。知らない部屋。知らない家族。今よりずっと大きな自分の手。学校に通い、働き、休日には漫画を読み、夜更かしをして翌朝に後悔する人生。
夢の中の俺には、三原透ではない別の名前があった。けれど目を覚ませば、ほとんど忘れてしまう。だから俺は、少し変わった夢なのだと思っていた。四歳の俺にとっては、自分に前世があると考えるより、その方がよほど自然だったのだ。
それが全部ひっくり返ったのは、風邪で高熱を出した夜だった。
汗で濡れた布団の中で、なぜか俺は知らない住所を口にした。今住んでいる家ではない。行ったこともない町にある、存在するかどうかすら分からない建物。その部屋番号まで、俺は知っていた。
そこから先は、壊れた堤防のようなものだった。
別の名前で呼ばれていたこと。学校を卒業したこと。働いていたこと。いろいろな漫画やアニメを見ていたこと。そして、その人生がすでに終わっていること。
大量の記憶が一気に押し寄せ、俺は泣いた。
何が悲しかったのか、自分でも分からない。前の人生が終わったことか。前の家族にはもう会えないことか。それとも、今まで自分だけのものだと思っていた頭の中に、知らない大人の人生が丸ごと入っていたことか。
今の母親は、熱に浮かされて怖い夢でも見たのだと思ったらしい。
「大丈夫よ、透。お母さん、ここにいるからね」
そう言って、一晩中俺の背中を撫でてくれた。その手があまりにも温かかったから、俺は余計に何も言えなかった。
――あなたの息子は今、前世を思い出しました。
そんな報告を四歳児から受けて、困らない親はいない。だから俺は黙った。黙ったまま、二年かけて受け入れた。
自分は一度死んで、別の時代の日本に生まれ直したらしい。
理由は不明。神様との面会もなし。特典の説明も、世界観のチュートリアルもなし。気づけば始まっていた、二周目の人生。
それでも最初のうちは、少し得をしたような気分だった。
前世の知識がある。読み書きも計算も、人より早く覚えられる。両親は優しいし、家は裕福とまではいかなくても平和だ。今度こそ勉強を頑張れば、わりといい人生を送れるかもしれない。
今度は積みゲーを増やさない。夏休みの宿題は七月中に終わらせる。健康診断の結果から目を逸らさない。
俺はそんな、二周目にしては妙にみみっちい人生設計を立てていた。
六歳の春までは。
きっかけは、一枚のチラシだった。
その日、母親は買い物から帰ってくると、食料品の袋と一緒に何枚かのチラシを食卓へ置いた。スーパーの特売。近所にできた英会話教室。怪しげな健康食品。
その中に、一枚だけ妙に上等な紙が混ざっていた。白を基調にした、宗教団体らしき集会の案内だった。
「お母さん、これ何?」
「ああ、駅前でもらったの。最近あそこにいるのよ。相談すれば、悪いものを祓ってくれるんですって」
母親はまるで信じていない様子で笑った。
「透も知らない人から物をもらっちゃ駄目よ」
「うん」
俺は適当に返事をしながら、チラシを手に取った。
人生相談。心身の不調。家庭や仕事の悩み。科学では説明のつかない現象にも対応します。
そこまでは、よくある胡散臭い文句だった。前世でも似たような広告は何度か見たことがある。俺はさっさと食卓へ戻そうとした。
そのとき、下部に印刷された名前が目に入った。
夏油傑。
指が止まった。
「……え?」
「どうしたの?」
「この人、偉い人?」
チラシには、黒髪を後ろでまとめた若い男の写真が載っていた。穏やかな笑み。細い目。僧衣のような服。
前世の記憶だけを頼りにしても、見間違えようのない姿だった。
「さあ。代表の人じゃない? 若いのに立派そうね」
立派。
その評価だけは断固として訂正したかった。しかし六歳児が突然「そいつは最悪の呪詛師だ」と主張する方が、よほど怪しい。
待て。落ち着け。
夏油傑という名前が珍しいからといって、同姓同名が絶対にいないとは限らない。髪型が似ているだけかもしれない。変な宗教団体の代表をしているのも偶然だ。
……偶然が三回ほど徒党を組んで殴りかかってきている気はするが、まだ耐えられる。
ここが『呪術廻戦』の世界だと決まったわけではない。
俺はチラシを部屋へ持ち帰り、子供向けに制限された端末で名前を調べた。
大した情報は出てこなかった。悩みを取り除く。目に見えないものを祓う。不思議な力で救われたと語る信者たち。
胡散臭い。だが、まだ普通の胡散臭さだった。
俺はさらに調べた。正確には、六歳児が検索しても怒られなさそうな言葉を必死に選びながら調べた。
すると、地域の噂を書き込む古い掲示板に行き着いた。そこには、件の団体について妙な書き込みが残っていた。
相談に訪れた人が、何も話していないのに家の中の異変を言い当てられた。祓いを受けてから、毎晩聞こえていた足音が消えた。誰もいない場所へ向かって、教祖が話しかけていた。
話だけなら、信者による宣伝で済む。だが、一つだけ気になる書き込みがあった。
『あそこ、本当に何かいる。先生の後ろに、変な化け物が立ってた』
投稿者は、ひどく怯えていた。冗談として書いた文章には見えなかった。
俺は端末を閉じた。心臓がうるさかった。
まだだ。まだ偶然かもしれない。
そう思おうとした。しかし、いったん気づいてしまうと、それまで無関係だと思っていた情報まで別の形に見え始めた。
近隣で増えている、原因不明の失踪。人だけが消えた廃屋。集団で体調を崩した学校。取り壊しの決まった建物にまつわる都市伝説。
前世なら、よくある地方ニュースや怪談として聞き流していただろう。だが、夏油傑の名前を知ったあとでは無理だった。
偶然。事故。作り話。
その裏側に、人間には見えない何かがいるのではないか。
俺は恐る恐る、自分の記憶を掘り返した。
夏油傑。呪霊操術。最悪の呪詛師。そして、人間の負の感情から生まれる怪物――呪霊。
翌朝には、俺は完全に認めざるを得なくなっていた。
ここは、ただの現代日本ではない。
『呪術廻戦』の世界だ。
「よりによって……!」
布団の中で頭を抱えた。
選択肢があったなら、もっと他にあったはずだ。日常系。料理漫画。敵が出ても、だいたいカードゲームやスポーツで決着する世界。
それなのに、なぜよりによって『呪術廻戦』なのか。
少年漫画の皮を被った、一般人にも術師にも等しく厳しい世界である。しかも、知っているからといって安全になるわけではない。むしろ危険な出来事を先に知っている分、余計に怖い。
ネタバレを握ったままジェットコースターに乗せられるようなものだ。しかもそのジェットコースター、たまにレールが消える。
その日から俺の、幼児らしからぬ必死の生存戦略が始まった。
薄暗い路地には近づかない。学校の怪談には首を突っ込まない。夜の病院、閉鎖された地下道、誰も使っていない公衆トイレなど、絶対に近寄らない。
空気が妙に重い場所や、見えてはいけない気配を感じる場所からは即座に逃げる。もし紫色の変なモヤ――たぶん帳のようなものが見えたら、靴を脱ぎ捨ててでも逃げる。
「五条悟がいるから大丈夫」などという考えは甘えだ。
あの人は現代最強の呪術師だが、一般人モブAである俺専用のセコムではない。そもそも五条悟がいる世界で、この治安なのだ。もうその時点で終わっている。
モブにはモブの、泥臭い生き残り方が必要だった。
だからこそ、俺は考えた。
転生者。前世の記憶あり。原作知識あり。
ここまでお膳立てが揃っているなら、普通は何かあるはずだ。神様からの手土産。最低限の保証。
チートとは言わない。無双がしたいわけでもない。ただ、画面外でいつの間にか呪霊に潰されないために、生存率が五……いや、四割くらい上がる何かが欲しい。
俺は自室の真ん中で正座し、両手を膝に置いて目を閉じた。傍から見れば、昼寝のタイミングを逃してフリーズしている幼児である。しかし、こちらは一世一代の真剣勝負だった。命がかかっている。
「来い……俺の術式……!」
何をどうすれば術式が出るのかは知らない。作中でも、そこまで細かく説明されていなかった気がする。
「贅沢は言わない。せめて死亡フラグを回避できるやつ……!」
部屋は静まり返っていた。遠くの台所から、母親が食器を洗う音が聞こえる。壁時計の秒針が、一定の間隔で時を刻んでいる。
何も起きない。
いや、そりゃそうだ。術式が少年漫画的な気合いで発現するなら、呪術高専なんていらない。
俺はもともと一般人なのだろう。前世の記憶が戻ったのも、単なる事故。作品世界へ転生したからといって、都合よく能力までもらえるとは限らない。
そう諦めかけた瞬間だった。
床板が、ぎしり、と重く鳴った。
俺は目を開けた。
部屋の空気が変わっていた。気圧が急激に下がったように、耳の奥が痛む。湿っているわけではないのに、地面の底から泥のような何かがせり上がってくる。
そんな不気味な圧迫感があった。
何かがいる。すぐ後ろに。
俺は、錆びついた人形のようにゆっくりと振り返った。
そこに、人の形をした異形が立っていた。
人間ではない。かといって、想像していた呪霊のおぞましさとも少し違う。機械のようでもあり、有機的な生物のようでもある。目元にはパイプ状の器官が取り付けられ、顔には鼻も口もない。
表情を作るための部位が存在しないのに、なぜかこちらを見ていると分かる。全身には幾何学的な線が走り、右胸には星のような紋様が刻まれている。
見覚えがあった。
ありすぎた。
三秒後、俺は両手で顔を覆った。
「アンダー・ワールドじゃねえか!」
ジョジョ第六部の。敵スタンドの。よりによってドナテロ・ヴェルサスの。
異形は何も答えなかった。目がどこにあるのかも分からないのに、確実に見つめられている感覚だけが肌を刺した。
「待て、落ち着け俺。アンダー・ワールドってことは、能力も分かる。射程距離内の大地を掘ることで、本体が求める過去の出来事を掘り起こす能力だ。つまり、この世界でも土地の記録を利用できる」
強い。これは強いぞ。
タイマン向きかはともかく、事件の回避や調査には使える。呪術師としての生存ルート。あるいは補助監督のエース。
待てよ。補助監督も普通に死ぬ世界だった。
それでも無能力よりはずっといい。
「これなら、画面外で死ぬモブから、画面の端で名前が出る脇役くらいには――」
『ソレは違ウ』
「喋った! しかも否定から入った!」
声は耳から聞こえたのではなかった。頭の奥の暗闇へ、直接文字が浮かび上がってくるような奇妙な感覚だった。
『私ハ、アンダー・ワールドデハナイ』
「いや、見た目が完全にアンダー・ワールドなんだよ! 俺が前世でジョジョを読んでなかったら泣いてるぞ!」
『お前ガ、ソウ認識シタ。ダカラ、私ハソノ形ヲ取ッタ』
「俺の前世知識が余計な悪さをしてる……!」
つまり、こいつは本物のスタンドではない。
俺に宿った何らかの術式が、俺にとって理解しやすい姿を得るため、前世の記憶からアンダー・ワールドの形を借りた。そういうことらしい。
もっと他にあっただろう。ハーヴェストとか、パール・ジャムとか。せめて生存に優しくて、実用的なやつを選んでほしかった。
「じゃあ能力は? 大地を掘って、過去を出すんじゃないのか?」
『違ウ』
「二回目!」
『私ハ、大地ヲ掘削シナイ。土地、建物、物体ニ残ッタ“記録”ヲ読ム』
「記録?」
『呪力ノ残滓。感情ノ沈殿。起キタ事実ノ痕跡。ソレラヲ読ミ、条件次第デ再ビ現ス』
「……見た目はジョジョのアンダー・ワールドっぽいけど、中身は呪術廻戦世界に合わせて変わってるってこと?」
『近イ』
「近いのかよ」
『ダガ、同ジデハナイ』
俺は少しだけ安心し、それと同じくらい絶望した。安心したのは、生き残るための術式が本当にあったこと。絶望したのは、その仕様が想像よりずっと面倒そうだったことだ。
「過去の飛行機事故とか、そういう大事件の記録も再現できるのか?」
『条件ガ要ル』
「だよなあ!」
『ソノ場所ニ、記録ガ残ッテイル必要ガアル。記録ガ薄ケレバ読メナイ。壊レテイレバ歪ム。術者ノ呪力ガ足リナケレバ、現セナイ』
「ちゃんと世界観に合わせた制限がある……!」
『当然ダ』
「そこは転生者に優しく、ガバガバ調整でもいいんだぞ」
『存在シナイ過去ハ、現セナイ』
「今は能力じゃなくて、俺に都合のいい未来の話をしてるんだよ」
『ココハ、夢ノ世界デハナイ』
「知ってるよ! だから六歳にして人生に絶望してるんだよ!」
廊下の向こうから、パタパタとスリッパの音が近づいてきた。
「透? どうしたの?」
まずい。六歳児が部屋で一人、架空の能力設定に向かって絶叫している。客観的に見てかなり危ない。
「な、なんでもない! ちょっと自分の将来のキャリアプランについて考えてただけ!」
「……早いわねえ。もう就活?」
お母さん、六歳児の就活は早すぎる。
母親はクスリと笑うと、階下へ戻っていった。よかった。まだギリギリ、「子供の微笑ましい奇行」で通っている。
俺は小声に戻り、背後の異形を睨んだ。
「それで、お前の名前は?」
『地歴再演』
「めちゃくちゃ呪術の術式名じゃん」
『ソレガ、私ノ本質ダ』
「読み方は?」
『チレキサイエン』
「俺としては、アンダー・ワールドって呼びたいんだけど」
『好きニ呼ベ』
「あ、そこはいいんだ。呼んだら反応する?」
『スル』
「じゃあアンダー・ワールドで」
『了解シタ』
思ったより柔軟だった。
俺は深呼吸し、汗ばんだ手のひらを自室の床へ置いた。
地面に残った記録。呪力の残滓。感情の沈殿。起きた事実の痕跡。言葉にすると、やたら格好いい。
これで少しでも呪術的なものが見えれば、俺の生存確率は上がる。
「アンダー・ワールド。この部屋の過去を検索しろ」
『検索スル』
床板の木目が、陽炎のように揺らいだ。部屋の空気が薄く震える。
何かが来る。俺の術式の初発動。記念すべき第一歩。
ここから俺の、泥臭くも輝かしい呪術人生が――
『三日前、お前ハ、高級プリンヲ床ニ落トシタ』
「うん……」
目の前に、薄い映像が浮かんだ。プリンを落とした六歳児が、慌てて辺りを見回している。過去の俺だった。
『三秒間、迷ッタ』
「迷ってない。安全確認をしてた」
『ソノ後、三分ルールト言イ訳シテ食ベタ』
「床は掃除してあったから」
『母親ニハ、黙ッテイル』
「術式の試運転で持ち主の罪を暴くな」
映像が切り替わった。今度は、母親が掃除機をかけている。
『五日前、母親ガ、お前ノ隠シタ玩具ヲ掃除機デ吸イ込ンダ』
「あれ、やっぱりお母さんだったのか」
『強イ怒リガ発生シタ』
「もっとこう……呪術的な記録はないの?」
『ナイ』
「即答!」
『コノ家ハ、極メテ平和ダ』
「術式の試運転としては、盛り上がりに欠けて最悪なんだよ!」
俺は床に突っ伏した。背後のアンダー・ワールドは、相変わらず無表情に佇んでいる。
『平和ハ、良イ記録ダ』
「……まあ、それはそうだな」
ふっと肩の力が抜けた。
顔を上げると、開いた窓の向こうに夕暮れの住宅街が見えた。見慣れた家々。帰宅する人。遠くで遊ぶ子供たち。何の変哲もない、オレンジ色の景色。
少なくとも今この瞬間、俺の家は安全なのだ。
『呪術廻戦』の世界でも、すべての場所で毎日人が死んでいるわけではない。危険な場所を避け、原作の出来事に関わらず、能力を隠していればいい。
幸い、虎杖悠仁たちもまだ子供のはずだ。本編が始まるまでには、十年近くある。
準備する時間は十分に――
『警告スル』
アンダー・ワールドが、窓の外へ顔を向けた。
『アソコニ、古イ記録ガアル』
「どこ?」
問い返してから、俺は後悔した。
道の向こうに、フェンスで囲まれた古い空き地がある。そこだけが、妙に暗く見えた。
夕陽の影ではない。まるでその場所だけが世界の光を吸い込み、どす黒い何かを底へ溜め込んでいるようだった。
今まで、あんなふうに見えたことはない。術式が目覚めたから分かるようになったのだ。
知らないままでよかったものが。
『ドス黒イ感情ノ、澱ミ』
「それって、俺が求めてたような呪術的なやつ?」
『恐ラク』
「……今のは聞かなかったことにしよう」
俺は静かに窓を閉め、カーテンまできっちり引いた。
「薄暗い空き地があった。それだけだ。古い記録も、感情の澱みも、何もなかった。いいな?」
『既ニ認識シタ』
「六歳児の現実逃避に正論を返すな」
『危険ノ可能性ガアル』
「だったら、なおさら近づかない。これは逃げじゃない。戦略的撤退だ」
『マダ、戦ッテイナイ』
「細かい!」
声を抑えてツッコミながらも、冷や汗は止まらなかった。
見てしまった。気づいてしまった。
この世界では、怪しいものに気づける人間が、無関係のまま平和に生きられるとは限らない。しかも俺の術式は、隠れているものをわざわざ掘り起こすための能力らしい。
生き残るために欲しがった力が、俺を事件の方へ引っ張ろうとしている。
設計者がいるなら、性格が悪すぎる。
六歳の俺は、その日、人生で初めて本気でこの世界を呪った。
やっぱり、『呪術廻戦』の世界は最悪だ。