アンダー・ワールド・レコード   作:そこら辺のスタンド使い

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第十話 二人だけの一年生

 

春になった。

 

桜が咲いて、テレビでは新生活特集が流れ、駅前には真新しい制服の学生たちが増えた。世間一般で言えば、希望に満ちた季節である。

 

俺にとっては、執行日だった。

 

「忘れ物ない?」

 

母親が玄関で、俺の荷物を何度目か確認している。着替え、洗面道具、教科書代わりの資料、常備薬、タオル、そしてなぜか大量の菓子。俺が気づかないうちに、鞄の隙間という隙間へ詰め込まれていた。

 

「母さん、俺は遠足に行く小学生じゃないんだけど」

 

「寮生活でしょう。足りないよりいいじゃない」

 

「高専で最初に学ぶのが、菓子の密輸になりそう」

 

「ちゃんと分けなさい」

 

分ける相手がいるかどうかは、まだ分からない。

 

今日から、俺は正式に東京高専の一年になる。

 

ついこの間まで、見学者だの研修生だの候補だの、曖昧な立場だった。だが今日からは違う。寮に入り、授業を受け、訓練を受け、必要なら現場にも出る。

 

つまり、退路がまた一つ減った。

 

母親は俺の制服の襟元を直しながら、ふと手を止めた。

 

「嫌になったら、帰ってきていいからね」

 

その声が、いつもより少しだけ柔らかかった。

 

俺は軽口を返そうとして、一瞬だけ迷った。

 

この家に残る平和な記録。朝の味噌汁の匂い。床に落とした高級プリン。掃除機に吸い込まれた玩具。そういうものを置いて、俺はこれから呪術の世界へ行く。

 

普通の高校生活ではない。

 

部活も、文化祭も、進路相談も、たぶん俺が前世で知っていたものとは違う。だが、母親をこちら側から遠ざけるには、俺自身が向こう側へ行くしかなかった。

 

「うん。まあ、嫌にはなると思う」

 

「そこは否定しなさい」

 

「嘘はよくないかなって」

 

母親は呆れたように笑った。

 

その笑顔を見て、少しだけ胸が痛くなった。

 

「無理しすぎないこと。ちゃんと食べること。困ったら連絡すること」

 

「了解」

 

「あと、危ないことはしないこと」

 

それは無理かもしれない。

 

だが、そこは言わなかった。

 

「できるだけ」

 

母親は俺の返答に不満そうだったが、最後には小さく頷いた。

 

俺は玄関を出る。

 

春の風が吹いていた。普通の、穏やかな朝だった。

 

だからこそ、俺は心の中で呟いた。

 

やっぱり、普通の高校に行きたかったな。

 

東京高専の門の前には、予想通り五条悟がいた。

 

白い髪。目元の布。黒い服。春の穏やかな空気を、本人の軽さだけで妙なものに変えている。

 

「入学おめでとう、三原くん」

 

「逃亡失敗おめでとう、の間違いでは?」

 

「ものは言いようだね」

 

「否定してくださいよ」

 

五条先生は楽しそうに笑う。

 

その横に、伏黒が立っていた。黒い制服姿で、いつも通り少し面倒くさそうな顔をしている。

 

「おはよう」

 

「おはよう」

 

短い挨拶。

 

数週間前の初対面に比べれば、だいぶ自然に声が出るようになった。伏黒恵。原作主要人物。十種影法術の使い手。そういう情報は、今も俺の頭の中にある。

 

だが今、目の前にいるのは、俺と同じ一年生になる少年だった。

 

五条先生が軽い声で言う。

 

「今年の一年は、今のところ二人だけだから仲良くね」

 

今のところ。

 

その言葉に、胃の奥が冷えた。

 

まだ二人。

 

その“まだ”が怖い。

 

俺は知っている。この空席は、いずれ埋まる。呪いを飲み込む少年が来る。釘と金槌を持った少女も来る。そして物語は、本格的に動き出す。

 

「どうした?」

 

伏黒がこちらを見る。

 

「いや、一年が二人だけって、少ないなと思って」

 

「高専なら珍しくない」

 

「普通の学校基準を持ち込んだ俺が悪かった」

 

五条先生は「じゃ、行こうか」と言って歩き出した。

 

入学式と呼べるほど大げさなものはなかった。

 

小さな部屋に通され、そこに夜蛾さんがいた。相変わらず厳つい。春になっても厳つい。季節に左右されない厳つさだった。

 

「三原透、伏黒恵。本日より、東京校の一年として正式に扱う」

 

夜蛾さんの声は低く、重い。

 

「ここで学ぶのは、呪いの祓い方だけではない。生き残る方法、仲間を死なせない方法、自分の弱さを見誤らない方法だ」

 

自分の弱さを見誤らない。

 

その言葉が、まっすぐ刺さった。

 

俺は強くない。術式は便利かもしれないが、制御はまだ未熟。身体能力も、一般人として鍛えただけ。呪術師として見れば、足りないところばかりだ。

 

だからこそ、ここにいる。

 

弱さを知らないまま死なないために。

 

夜蛾さんは俺たちを見て、短く言った。

 

「覚悟が綺麗である必要はない。だが、嘘をつくな。自分にも、仲間にもだ」

 

「はい」

 

伏黒と声が重なった。

 

その後、五条先生が手を叩いた。

 

「じゃ、堅い話はここまで。先輩たちを紹介しよう」

 

嫌な予感がした。

 

五条悟が楽しそうな時は、だいたい誰かが被害に遭う。

 

部屋の扉が開く。

 

まず入ってきたのは、眼鏡をかけた女子生徒だった。短く整えた髪。背筋の伸びた立ち姿。手には訓練用らしき武器。こちらを見る目は鋭い。

 

禪院真希。

 

知っている名前だ。

 

次に、口元を覆った男子生徒。静かな目で、こちらを観察している。

 

狗巻棘。

 

そして最後に、パンダが入ってきた。

 

パンダだった。

 

いや、説明になっていない。でもパンダだった。二足歩行で入ってきて、普通にこちらを見ている。知識として知っていても、実物の破壊力はすごい。

 

俺は数秒、固まった。

 

「……パンダ」

 

「そう、パンダだ。疑問形じゃなくて断定でいいぞ」

 

「自己紹介が成立してる……」

 

「慣れろ、新入り」

 

パンダが普通に喋った。

 

真希さんが横から言う。

 

「そこに引っかかってたら高専じゃやってけねえぞ」

 

「すみません。高専の基準がまだ体に入ってなくて」

 

「そのうち嫌でも入る」

 

嫌だな、その予告。

 

狗巻先輩が片手を上げた。

 

「しゃけ」

 

パンダが通訳する。

 

「よろしくってさ」

 

「三原透です。よろしくお願いします」

 

俺は頭を下げる。

 

知っている。

 

全員知っている。

 

名前も、術式も、これから先に待っているものも、ある程度は知っている。

 

だが、今ここにいる先輩たちは、漫画のコマの中の人物ではない。目の前で呼吸して、俺を見て、俺の反応を測っている人間たちだった。

 

そう思うと、知識だけで分かった気になるのが、急に怖くなる。

 

五条先生は満足そうに頷いた。

 

「はい、顔合わせ終了。じゃあ歓迎訓練しようか」

 

「歓迎の意味を辞書で引き直してください」

 

俺は即座に言った。

 

真希さんが口の端を上げる。

 

「いい反応だな」

 

「よくない反応だと思います」

 

「高専式歓迎だ。諦めろ」

 

悪習では?

 

訓練場に移動すると、五条先生が内容を説明した。

 

「今日の目的は戦闘じゃない。避難誘導と情報伝達。訓練場内に避難者タグをいくつか置いてある。三原は記録を読んでタグの位置や危険箇所を伏黒に伝える。伏黒は三原を守りつつタグを回収。二年生は妨害役」

 

「妨害役」

 

俺は真希さんたちを見る。

 

真希さんが訓練用の棒を肩に担いでいる。

 

パンダ先輩が手を振っている。

 

狗巻先輩が静かに立っている。

 

どう見ても妨害の質が高い。

 

「俺、初日なんですけど」

 

「初日だから歓迎してるんだよ」

 

「呪術界の歓迎、殺意と距離が近い」

 

伏黒が横でため息をつく。

 

「やるしかないだろ」

 

「慣れてるね」

 

「慣れたくて慣れたわけじゃない」

 

心からの声だった。

 

訓練が始まった。

 

俺と伏黒は、訓練場の端からスタートする。室内には壁や柱、仮設の通路、障害物がいくつも置かれている。タグはそのどこかに隠されているらしい。

 

俺は床に手をつく前に、口に出した。

 

「読取範囲、半径十メートル。対象は避難者タグ周辺の接触記録と、直近五分以内の通過記録。深度は表層。二年生の私的記録と術式の深部は読まない」

 

「長い」

 

伏黒が言った。

 

「宣言は大事なんだよ」

 

「現場ならその間に殴られる」

 

それはそう。

 

俺は床に触れた。

 

記録が開く。

 

足音。重い足音。軽い足音。誰かが壁に触れた感触。床を擦る靴底。タグを置いた手。訓練場に残る古い記録が混ざりかけるが、浅く、浅く、今だけを拾う。

 

「事実。三分以内に右通路を重い足音が通過。たぶんパンダ先輩。推測、正面は塞がれてる。左階段付近にタグ反応あり。不明、真希先輩の現在位置」

 

「短く」

 

伏黒が即座に言う。

 

「右、パンダ。正面危険。左階段にタグ。真希先輩不明」

 

「それでいい」

 

伏黒はすぐに動いた。

 

俺も遅れないように走る。伏黒は速い。無駄が少ない。俺は必死でついていく。筋トレをしていてよかった。していなかったら、この時点で肺が終わっている。

 

左階段の下に、一つ目のタグがあった。

 

伏黒が回収する。

 

その瞬間、右の通路からパンダ先輩が現れた。

 

「お、やるな」

 

「出た!」

 

「パンダは出るものだ」

 

意味が分からない。

 

伏黒が俺の前に出る。パンダ先輩は本気ではないのだろうが、それでも圧がある。大きい。壁が動いているみたいだ。

 

「三原、次」

 

伏黒が言う。

 

俺は床に手をつき、最小限だけ読む。

 

「左奥、軽い足音。狗巻先輩。声は出してない。右に抜け道」

 

「行くぞ」

 

俺たちは右へ走る。

 

その先で、狗巻先輩が静かに立っていた。

 

「しゃけ」

 

俺は身構えた。

 

だが、狗巻先輩は俺たちの足元を指した。見ると、床に細いワイヤーのようなものが張られている。訓練用の罠だ。

 

パンダ先輩が遠くから言う。

 

「そこ危ないってさ」

 

「ありがとうございます!」

 

「しゃけ」

 

伏黒がワイヤーを避け、俺もそれに続く。

 

狗巻先輩は多くを喋らない。だが、周囲をよく見ている。妨害役のはずなのに、危険なところはちゃんと知らせてくる。この距離感も高専らしいのかもしれない。

 

二つ目のタグを回収したところで、空気が変わった。

 

床の記録が、急に鋭くなる。

 

踏み込み。

 

体重移動。

 

訓練用の棒が空を切る気配。

 

俺は反射的に叫んだ。

 

「伏黒、下がっ――」

 

言い切る前に、横から真希さんが来た。

 

速い。

 

俺は床から拾った直近の踏み込みの記録で、辛うじて体をひねった。訓練用の棒が、さっきまで俺の肩があった場所を通る。

 

避けられた。

 

いや、半分は読まされて避けた。

 

真希さんの目が細くなる。

 

「今のは読んだな」

 

「はい」

 

「悪くねぇ」

 

褒められた。

 

そう思った瞬間、足を払われた。

 

視界が回る。

 

背中が床に落ちる。

 

「でも次は、読んでから動くんじゃ遅い」

 

「言ったそばから!」

 

「現場は待ってくれねえからな」

 

真希さんは俺の首元すれすれに棒を止めていた。

 

制圧。

 

あまりにも綺麗な制圧だった。

 

「三原」

 

伏黒がこちらへ来ようとするが、その前にパンダ先輩が通路を塞ぐ。

 

「おっと、伏黒はこっち」

 

「邪魔です」

 

「妨害役だからな」

 

俺は床に転がったまま、息を吸った。

 

痛い。

 

でも今の痛みは俺のものだ。再演ではない。

 

「三原透、十五歳。ここは東京高専。これは俺の体」

 

小声で確認する。

 

真希さんが少しだけ眉を上げた。

 

「それが復帰の合図か」

 

「はい。過去の記録に引っ張られた時の」

 

「なら癖にしとけ。倒れた時ほど、自分の状態を確認しろ」

 

厳しい。

 

でも、正しい。

 

真希さんは棒を引いた。

 

「立てるか」

 

「立てます」

 

俺は立ち上がる。膝が少し笑っていたが、立てた。

 

訓練は続いた。

 

俺たちは全てのタグを回収することはできなかった。途中でパンダ先輩に通路を塞がれ、真希さんに追い詰められ、狗巻先輩の合図に助けられたり、逆にタイミングをずらされたりした。

 

俺は何度も床を読んだ。

 

そのたびに、情報を短くする。

 

「右、パンダ。左、安全」

 

「前、真希先輩。伏せて」

 

「タグ、柱裏。狗巻先輩近い」

 

報告書の書き方とは違う。

 

だが、根っこは同じだった。

 

事実、推測、不明点。

 

それを一瞬で分けて、必要なものだけ渡す。

 

長くて正確な報告は、机の上で役に立つ。現場では、短くて動ける情報が必要になる。

 

終盤、俺は一度だけ、訓練場の古い記録に引っ張られかけた。

 

誰かがここで倒れた記録。悔しさ。息の苦しさ。立ち上がれない焦り。足元から絡みつくように上がってくる。

 

だが、今回はすぐに切れた。

 

「対象外。切る」

 

『了解。混線記録ヲ遮断』

 

アンダー・ワールドの声と同時に、視界の端で過去の映像が閉じる。

 

よし。

 

少しずつだが、できるようになっている。

 

最後のタグを目前にしたところで、真希さんの棒が俺たちの進路を塞いだ。

 

伏黒が構える。

 

俺は床を読む。

 

重い足音、背後。パンダ先輩。

 

左、狗巻先輩。

 

正面、真希さん。

 

詰みである。

 

「伏黒」

 

「何だ」

 

「事実、囲まれた」

 

「見れば分かる」

 

「推測、無理」

 

「それも分かる」

 

「不明、五条先生の良心」

 

「最初から存在しない」

 

ひどいが同意だった。

 

五条先生の声が響く。

 

「はい、そこまで」

 

訓練終了。

 

俺はその場に座り込んだ。肺が痛い。足も痛い。高専の歓迎訓練、やはり歓迎という言葉の意味を見失っている。

 

五条先生は楽しそうに近づいてきた。

 

「結果は、タグ五つ中三つ回収。初回なら上出来じゃない?」

 

「上出来の基準が分からないです」

 

真希さんが棒を肩に担ぐ。

 

「戦闘は論外」

 

「はい」

 

即答した。

 

「でも、情報を出すのは思ったより速い。現場で守る価値はある」

 

言い方。

 

言い方はきつい。

 

だが、評価されているのは分かった。

 

「ありがとうございます」

 

「勘違いすんなよ。守る価値があるってだけだ。守られっぱなしで済むと思うな」

 

「はい」

 

パンダ先輩がうんうんと頷く。

 

「伏黒との相性は悪くないな。三原が情報を出して、伏黒が動く。役割がはっきりしてる」

 

狗巻先輩が短く言う。

 

「しゃけ」

 

「同意、だそうだ」

 

伏黒は少し黙ってから、ぼそっと言った。

 

「指示は分かりやすかった」

 

俺は思わず伏黒を見た。

 

「褒めた?」

 

「事実を言っただけだ」

 

「みんな事実で殴ったり撫でたりしてくる」

 

伏黒は意味が分からない、という顔をした。

 

俺としても、かなり意味が分からない。

 

訓練後、真希さんが俺に短い棒を投げてよこした。慌てて受け取る。木製の、訓練用らしき短い棒だった。

 

「お前、最低限これ持て」

 

「武器ですか」

 

「逃げるための道具だ」

 

その言い方に、少しだけ目を上げた。

 

真希さんは続ける。

 

「祓えなくても、距離を作るくらいはできるようになれ。転ばせる、弾く、相手の動きを止める。殴り勝つ必要はねえ。でも、何もできないのは駄目だ」

 

戦うための武器ではない。

 

逃げるための道具。

 

それなら、覚えられる気がした。

 

「なら、覚えます」

 

真希さんは満足したように鼻を鳴らした。

 

「明日から見る。泣くなよ」

 

「泣く前提なんですか」

 

「泣きそうな顔してる」

 

しているかもしれない。

 

だが、逃げるためならやるしかない。

 

その日の夕方、俺は割り当てられた寮の部屋に荷物を置いた。

 

普通の部屋だった。机、ベッド、棚。窓の外には高専の敷地が見える。普通の寮室に見えるのに、壁や床には薄く記録が残っている。以前ここを使っていた誰かの生活。夜更かし。ため息。笑い声。静かな朝。

 

俺はあえて深く読まなかった。

 

荷物の端に、真希さんから渡された短い棒があった。

 

俺はそれを机の上に置き、指先で軽く触れる。

 

「アンダー・ワールド。これ、どう思う」

 

『接触対象、訓練用木製短棒』

 

「うん」

 

『攻撃力、極小』

 

「知ってる」

 

『対呪霊戦闘ニオケル直接的有効性、低』

 

「そこまで言う?」

 

『逃走時ノ距離確保、転倒誘発、障害物操作ニ使用可能』

 

「お」

 

『推定生存確率上昇、〇.三パーセント』

 

「低いな」

 

『ゼロデハナイ』

 

俺は少し笑った。

 

「〇.三パーセントでも上がるなら、御の字だな」

 

『同意スル』

 

そういう小さな数字を拾い集めてきた九年間だった。

 

俺はその棒を、机の横に立てかけた。

 

荷物を片づけていると、鞄の奥から小さな包みが出てきた。母親が入れた菓子と、折りたたまれたメモ。

 

ちゃんと食べること。

無理しすぎないこと。

帰りたくなったら連絡すること。

 

短い文字だった。

 

俺はしばらく、その紙を見ていた。

 

胸の奥が、少しだけ痛い。

 

『入学記録、確定』

 

アンダー・ワールドが静かに言った。

 

「保存するなら、平和な記録にしてくれ」

 

『努力スル』

 

「努力はするんだ」

 

『平和ナ記録ハ、良イ記録ダ』

 

「それは同意」

 

俺はメモを机の引き出しに入れた。

 

その時、廊下から五条先生の声がした。

 

「そうそう、三原くん」

 

嫌な予感と共に振り返ると、五条先生が扉の隙間から顔を出していた。

 

「ノックしてください」

 

「したよ。心の中で」

 

「音を出してください」

 

「今年の一年は今のところ二人だけだけど、そのうち増えるかもね」

 

心臓が、嫌な跳ね方をした。

 

増える。

 

知っている。

 

この静かな春は、長く続かない。

 

この空席には、いずれ呪いを飲み込む少年が来る。地方から、釘と金槌を持った少女も来る。そして、俺が知っている物語が本格的に動き出す。

 

五条先生は俺の反応を見て、少しだけ笑った。

 

目元は布で覆われている。なのに、その奥から視線が来た気がした。

 

俺の顔色。息の浅さ。言葉を選ぶ間。たぶん、そういうもの全部を拾っている。

 

未来を知っていることまでは見えないはずだ。

 

見えないはずなのに、「何かを知って怯えている」ことだけは、きっと見えている。

 

「楽しみ?」

 

「不安です」

 

「正直でよろしい」

 

「楽しみって言えるほど肝が太くないので」

 

目元を覆う布の奥から、すべてを見透かすような視線が、一瞬だけ俺の輪郭をなぞった気がした。

 

「まあ、君はそのくらいでいいよ」

 

五条先生はひらひらと手を振って、廊下へ消えていった。

 

部屋に静けさが戻る。

 

窓の外では、春の夕方の光が高専の屋根を淡く染めていた。

 

今はまだ静かだ。

 

伏黒と二人だけの一年。

 

二年生の先輩たち。

 

厳しい学長。

 

軽すぎる最強。

 

そして、過去を読み、今にしがみつく俺。

 

俺はその静けさが、嵐の前の余白でしかないことを知っていた。

 

それでも今日、俺は正式に東京高専の一年になった。

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