アンダー・ワールド・レコード 作:そこら辺のスタンド使い
春になった。
桜が咲いて、テレビでは新生活特集が流れ、駅前には真新しい制服の学生たちが増えた。世間一般で言えば、希望に満ちた季節である。
俺にとっては、執行日だった。
「忘れ物ない?」
母親が玄関で、俺の荷物を何度目か確認している。着替え、洗面道具、教科書代わりの資料、常備薬、タオル、そしてなぜか大量の菓子。俺が気づかないうちに、鞄の隙間という隙間へ詰め込まれていた。
「母さん、俺は遠足に行く小学生じゃないんだけど」
「寮生活でしょう。足りないよりいいじゃない」
「高専で最初に学ぶのが、菓子の密輸になりそう」
「ちゃんと分けなさい」
分ける相手がいるかどうかは、まだ分からない。
今日から、俺は正式に東京高専の一年になる。
ついこの間まで、見学者だの研修生だの候補だの、曖昧な立場だった。だが今日からは違う。寮に入り、授業を受け、訓練を受け、必要なら現場にも出る。
つまり、退路がまた一つ減った。
母親は俺の制服の襟元を直しながら、ふと手を止めた。
「嫌になったら、帰ってきていいからね」
その声が、いつもより少しだけ柔らかかった。
俺は軽口を返そうとして、一瞬だけ迷った。
この家に残る平和な記録。朝の味噌汁の匂い。床に落とした高級プリン。掃除機に吸い込まれた玩具。そういうものを置いて、俺はこれから呪術の世界へ行く。
普通の高校生活ではない。
部活も、文化祭も、進路相談も、たぶん俺が前世で知っていたものとは違う。だが、母親をこちら側から遠ざけるには、俺自身が向こう側へ行くしかなかった。
「うん。まあ、嫌にはなると思う」
「そこは否定しなさい」
「嘘はよくないかなって」
母親は呆れたように笑った。
その笑顔を見て、少しだけ胸が痛くなった。
「無理しすぎないこと。ちゃんと食べること。困ったら連絡すること」
「了解」
「あと、危ないことはしないこと」
それは無理かもしれない。
だが、そこは言わなかった。
「できるだけ」
母親は俺の返答に不満そうだったが、最後には小さく頷いた。
俺は玄関を出る。
春の風が吹いていた。普通の、穏やかな朝だった。
だからこそ、俺は心の中で呟いた。
やっぱり、普通の高校に行きたかったな。
東京高専の門の前には、予想通り五条悟がいた。
白い髪。目元の布。黒い服。春の穏やかな空気を、本人の軽さだけで妙なものに変えている。
「入学おめでとう、三原くん」
「逃亡失敗おめでとう、の間違いでは?」
「ものは言いようだね」
「否定してくださいよ」
五条先生は楽しそうに笑う。
その横に、伏黒が立っていた。黒い制服姿で、いつも通り少し面倒くさそうな顔をしている。
「おはよう」
「おはよう」
短い挨拶。
数週間前の初対面に比べれば、だいぶ自然に声が出るようになった。伏黒恵。原作主要人物。十種影法術の使い手。そういう情報は、今も俺の頭の中にある。
だが今、目の前にいるのは、俺と同じ一年生になる少年だった。
五条先生が軽い声で言う。
「今年の一年は、今のところ二人だけだから仲良くね」
今のところ。
その言葉に、胃の奥が冷えた。
まだ二人。
その“まだ”が怖い。
俺は知っている。この空席は、いずれ埋まる。呪いを飲み込む少年が来る。釘と金槌を持った少女も来る。そして物語は、本格的に動き出す。
「どうした?」
伏黒がこちらを見る。
「いや、一年が二人だけって、少ないなと思って」
「高専なら珍しくない」
「普通の学校基準を持ち込んだ俺が悪かった」
五条先生は「じゃ、行こうか」と言って歩き出した。
入学式と呼べるほど大げさなものはなかった。
小さな部屋に通され、そこに夜蛾さんがいた。相変わらず厳つい。春になっても厳つい。季節に左右されない厳つさだった。
「三原透、伏黒恵。本日より、東京校の一年として正式に扱う」
夜蛾さんの声は低く、重い。
「ここで学ぶのは、呪いの祓い方だけではない。生き残る方法、仲間を死なせない方法、自分の弱さを見誤らない方法だ」
自分の弱さを見誤らない。
その言葉が、まっすぐ刺さった。
俺は強くない。術式は便利かもしれないが、制御はまだ未熟。身体能力も、一般人として鍛えただけ。呪術師として見れば、足りないところばかりだ。
だからこそ、ここにいる。
弱さを知らないまま死なないために。
夜蛾さんは俺たちを見て、短く言った。
「覚悟が綺麗である必要はない。だが、嘘をつくな。自分にも、仲間にもだ」
「はい」
伏黒と声が重なった。
その後、五条先生が手を叩いた。
「じゃ、堅い話はここまで。先輩たちを紹介しよう」
嫌な予感がした。
五条悟が楽しそうな時は、だいたい誰かが被害に遭う。
部屋の扉が開く。
まず入ってきたのは、眼鏡をかけた女子生徒だった。短く整えた髪。背筋の伸びた立ち姿。手には訓練用らしき武器。こちらを見る目は鋭い。
禪院真希。
知っている名前だ。
次に、口元を覆った男子生徒。静かな目で、こちらを観察している。
狗巻棘。
そして最後に、パンダが入ってきた。
パンダだった。
いや、説明になっていない。でもパンダだった。二足歩行で入ってきて、普通にこちらを見ている。知識として知っていても、実物の破壊力はすごい。
俺は数秒、固まった。
「……パンダ」
「そう、パンダだ。疑問形じゃなくて断定でいいぞ」
「自己紹介が成立してる……」
「慣れろ、新入り」
パンダが普通に喋った。
真希さんが横から言う。
「そこに引っかかってたら高専じゃやってけねえぞ」
「すみません。高専の基準がまだ体に入ってなくて」
「そのうち嫌でも入る」
嫌だな、その予告。
狗巻先輩が片手を上げた。
「しゃけ」
パンダが通訳する。
「よろしくってさ」
「三原透です。よろしくお願いします」
俺は頭を下げる。
知っている。
全員知っている。
名前も、術式も、これから先に待っているものも、ある程度は知っている。
だが、今ここにいる先輩たちは、漫画のコマの中の人物ではない。目の前で呼吸して、俺を見て、俺の反応を測っている人間たちだった。
そう思うと、知識だけで分かった気になるのが、急に怖くなる。
五条先生は満足そうに頷いた。
「はい、顔合わせ終了。じゃあ歓迎訓練しようか」
「歓迎の意味を辞書で引き直してください」
俺は即座に言った。
真希さんが口の端を上げる。
「いい反応だな」
「よくない反応だと思います」
「高専式歓迎だ。諦めろ」
悪習では?
訓練場に移動すると、五条先生が内容を説明した。
「今日の目的は戦闘じゃない。避難誘導と情報伝達。訓練場内に避難者タグをいくつか置いてある。三原は記録を読んでタグの位置や危険箇所を伏黒に伝える。伏黒は三原を守りつつタグを回収。二年生は妨害役」
「妨害役」
俺は真希さんたちを見る。
真希さんが訓練用の棒を肩に担いでいる。
パンダ先輩が手を振っている。
狗巻先輩が静かに立っている。
どう見ても妨害の質が高い。
「俺、初日なんですけど」
「初日だから歓迎してるんだよ」
「呪術界の歓迎、殺意と距離が近い」
伏黒が横でため息をつく。
「やるしかないだろ」
「慣れてるね」
「慣れたくて慣れたわけじゃない」
心からの声だった。
訓練が始まった。
俺と伏黒は、訓練場の端からスタートする。室内には壁や柱、仮設の通路、障害物がいくつも置かれている。タグはそのどこかに隠されているらしい。
俺は床に手をつく前に、口に出した。
「読取範囲、半径十メートル。対象は避難者タグ周辺の接触記録と、直近五分以内の通過記録。深度は表層。二年生の私的記録と術式の深部は読まない」
「長い」
伏黒が言った。
「宣言は大事なんだよ」
「現場ならその間に殴られる」
それはそう。
俺は床に触れた。
記録が開く。
足音。重い足音。軽い足音。誰かが壁に触れた感触。床を擦る靴底。タグを置いた手。訓練場に残る古い記録が混ざりかけるが、浅く、浅く、今だけを拾う。
「事実。三分以内に右通路を重い足音が通過。たぶんパンダ先輩。推測、正面は塞がれてる。左階段付近にタグ反応あり。不明、真希先輩の現在位置」
「短く」
伏黒が即座に言う。
「右、パンダ。正面危険。左階段にタグ。真希先輩不明」
「それでいい」
伏黒はすぐに動いた。
俺も遅れないように走る。伏黒は速い。無駄が少ない。俺は必死でついていく。筋トレをしていてよかった。していなかったら、この時点で肺が終わっている。
左階段の下に、一つ目のタグがあった。
伏黒が回収する。
その瞬間、右の通路からパンダ先輩が現れた。
「お、やるな」
「出た!」
「パンダは出るものだ」
意味が分からない。
伏黒が俺の前に出る。パンダ先輩は本気ではないのだろうが、それでも圧がある。大きい。壁が動いているみたいだ。
「三原、次」
伏黒が言う。
俺は床に手をつき、最小限だけ読む。
「左奥、軽い足音。狗巻先輩。声は出してない。右に抜け道」
「行くぞ」
俺たちは右へ走る。
その先で、狗巻先輩が静かに立っていた。
「しゃけ」
俺は身構えた。
だが、狗巻先輩は俺たちの足元を指した。見ると、床に細いワイヤーのようなものが張られている。訓練用の罠だ。
パンダ先輩が遠くから言う。
「そこ危ないってさ」
「ありがとうございます!」
「しゃけ」
伏黒がワイヤーを避け、俺もそれに続く。
狗巻先輩は多くを喋らない。だが、周囲をよく見ている。妨害役のはずなのに、危険なところはちゃんと知らせてくる。この距離感も高専らしいのかもしれない。
二つ目のタグを回収したところで、空気が変わった。
床の記録が、急に鋭くなる。
踏み込み。
体重移動。
訓練用の棒が空を切る気配。
俺は反射的に叫んだ。
「伏黒、下がっ――」
言い切る前に、横から真希さんが来た。
速い。
俺は床から拾った直近の踏み込みの記録で、辛うじて体をひねった。訓練用の棒が、さっきまで俺の肩があった場所を通る。
避けられた。
いや、半分は読まされて避けた。
真希さんの目が細くなる。
「今のは読んだな」
「はい」
「悪くねぇ」
褒められた。
そう思った瞬間、足を払われた。
視界が回る。
背中が床に落ちる。
「でも次は、読んでから動くんじゃ遅い」
「言ったそばから!」
「現場は待ってくれねえからな」
真希さんは俺の首元すれすれに棒を止めていた。
制圧。
あまりにも綺麗な制圧だった。
「三原」
伏黒がこちらへ来ようとするが、その前にパンダ先輩が通路を塞ぐ。
「おっと、伏黒はこっち」
「邪魔です」
「妨害役だからな」
俺は床に転がったまま、息を吸った。
痛い。
でも今の痛みは俺のものだ。再演ではない。
「三原透、十五歳。ここは東京高専。これは俺の体」
小声で確認する。
真希さんが少しだけ眉を上げた。
「それが復帰の合図か」
「はい。過去の記録に引っ張られた時の」
「なら癖にしとけ。倒れた時ほど、自分の状態を確認しろ」
厳しい。
でも、正しい。
真希さんは棒を引いた。
「立てるか」
「立てます」
俺は立ち上がる。膝が少し笑っていたが、立てた。
訓練は続いた。
俺たちは全てのタグを回収することはできなかった。途中でパンダ先輩に通路を塞がれ、真希さんに追い詰められ、狗巻先輩の合図に助けられたり、逆にタイミングをずらされたりした。
俺は何度も床を読んだ。
そのたびに、情報を短くする。
「右、パンダ。左、安全」
「前、真希先輩。伏せて」
「タグ、柱裏。狗巻先輩近い」
報告書の書き方とは違う。
だが、根っこは同じだった。
事実、推測、不明点。
それを一瞬で分けて、必要なものだけ渡す。
長くて正確な報告は、机の上で役に立つ。現場では、短くて動ける情報が必要になる。
終盤、俺は一度だけ、訓練場の古い記録に引っ張られかけた。
誰かがここで倒れた記録。悔しさ。息の苦しさ。立ち上がれない焦り。足元から絡みつくように上がってくる。
だが、今回はすぐに切れた。
「対象外。切る」
『了解。混線記録ヲ遮断』
アンダー・ワールドの声と同時に、視界の端で過去の映像が閉じる。
よし。
少しずつだが、できるようになっている。
最後のタグを目前にしたところで、真希さんの棒が俺たちの進路を塞いだ。
伏黒が構える。
俺は床を読む。
重い足音、背後。パンダ先輩。
左、狗巻先輩。
正面、真希さん。
詰みである。
「伏黒」
「何だ」
「事実、囲まれた」
「見れば分かる」
「推測、無理」
「それも分かる」
「不明、五条先生の良心」
「最初から存在しない」
ひどいが同意だった。
五条先生の声が響く。
「はい、そこまで」
訓練終了。
俺はその場に座り込んだ。肺が痛い。足も痛い。高専の歓迎訓練、やはり歓迎という言葉の意味を見失っている。
五条先生は楽しそうに近づいてきた。
「結果は、タグ五つ中三つ回収。初回なら上出来じゃない?」
「上出来の基準が分からないです」
真希さんが棒を肩に担ぐ。
「戦闘は論外」
「はい」
即答した。
「でも、情報を出すのは思ったより速い。現場で守る価値はある」
言い方。
言い方はきつい。
だが、評価されているのは分かった。
「ありがとうございます」
「勘違いすんなよ。守る価値があるってだけだ。守られっぱなしで済むと思うな」
「はい」
パンダ先輩がうんうんと頷く。
「伏黒との相性は悪くないな。三原が情報を出して、伏黒が動く。役割がはっきりしてる」
狗巻先輩が短く言う。
「しゃけ」
「同意、だそうだ」
伏黒は少し黙ってから、ぼそっと言った。
「指示は分かりやすかった」
俺は思わず伏黒を見た。
「褒めた?」
「事実を言っただけだ」
「みんな事実で殴ったり撫でたりしてくる」
伏黒は意味が分からない、という顔をした。
俺としても、かなり意味が分からない。
訓練後、真希さんが俺に短い棒を投げてよこした。慌てて受け取る。木製の、訓練用らしき短い棒だった。
「お前、最低限これ持て」
「武器ですか」
「逃げるための道具だ」
その言い方に、少しだけ目を上げた。
真希さんは続ける。
「祓えなくても、距離を作るくらいはできるようになれ。転ばせる、弾く、相手の動きを止める。殴り勝つ必要はねえ。でも、何もできないのは駄目だ」
戦うための武器ではない。
逃げるための道具。
それなら、覚えられる気がした。
「なら、覚えます」
真希さんは満足したように鼻を鳴らした。
「明日から見る。泣くなよ」
「泣く前提なんですか」
「泣きそうな顔してる」
しているかもしれない。
だが、逃げるためならやるしかない。
その日の夕方、俺は割り当てられた寮の部屋に荷物を置いた。
普通の部屋だった。机、ベッド、棚。窓の外には高専の敷地が見える。普通の寮室に見えるのに、壁や床には薄く記録が残っている。以前ここを使っていた誰かの生活。夜更かし。ため息。笑い声。静かな朝。
俺はあえて深く読まなかった。
荷物の端に、真希さんから渡された短い棒があった。
俺はそれを机の上に置き、指先で軽く触れる。
「アンダー・ワールド。これ、どう思う」
『接触対象、訓練用木製短棒』
「うん」
『攻撃力、極小』
「知ってる」
『対呪霊戦闘ニオケル直接的有効性、低』
「そこまで言う?」
『逃走時ノ距離確保、転倒誘発、障害物操作ニ使用可能』
「お」
『推定生存確率上昇、〇.三パーセント』
「低いな」
『ゼロデハナイ』
俺は少し笑った。
「〇.三パーセントでも上がるなら、御の字だな」
『同意スル』
そういう小さな数字を拾い集めてきた九年間だった。
俺はその棒を、机の横に立てかけた。
荷物を片づけていると、鞄の奥から小さな包みが出てきた。母親が入れた菓子と、折りたたまれたメモ。
ちゃんと食べること。
無理しすぎないこと。
帰りたくなったら連絡すること。
短い文字だった。
俺はしばらく、その紙を見ていた。
胸の奥が、少しだけ痛い。
『入学記録、確定』
アンダー・ワールドが静かに言った。
「保存するなら、平和な記録にしてくれ」
『努力スル』
「努力はするんだ」
『平和ナ記録ハ、良イ記録ダ』
「それは同意」
俺はメモを机の引き出しに入れた。
その時、廊下から五条先生の声がした。
「そうそう、三原くん」
嫌な予感と共に振り返ると、五条先生が扉の隙間から顔を出していた。
「ノックしてください」
「したよ。心の中で」
「音を出してください」
「今年の一年は今のところ二人だけだけど、そのうち増えるかもね」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
増える。
知っている。
この静かな春は、長く続かない。
この空席には、いずれ呪いを飲み込む少年が来る。地方から、釘と金槌を持った少女も来る。そして、俺が知っている物語が本格的に動き出す。
五条先生は俺の反応を見て、少しだけ笑った。
目元は布で覆われている。なのに、その奥から視線が来た気がした。
俺の顔色。息の浅さ。言葉を選ぶ間。たぶん、そういうもの全部を拾っている。
未来を知っていることまでは見えないはずだ。
見えないはずなのに、「何かを知って怯えている」ことだけは、きっと見えている。
「楽しみ?」
「不安です」
「正直でよろしい」
「楽しみって言えるほど肝が太くないので」
目元を覆う布の奥から、すべてを見透かすような視線が、一瞬だけ俺の輪郭をなぞった気がした。
「まあ、君はそのくらいでいいよ」
五条先生はひらひらと手を振って、廊下へ消えていった。
部屋に静けさが戻る。
窓の外では、春の夕方の光が高専の屋根を淡く染めていた。
今はまだ静かだ。
伏黒と二人だけの一年。
二年生の先輩たち。
厳しい学長。
軽すぎる最強。
そして、過去を読み、今にしがみつく俺。
俺はその静けさが、嵐の前の余白でしかないことを知っていた。
それでも今日、俺は正式に東京高専の一年になった。