アンダー・ワールド・レコード 作:そこら辺のスタンド使い
〇.五パーセントの放課後
春の高専生活は、思っていたよりも忙しかった。
授業。座学。体術。術式制御。報告書。現場研修の振り返り。高専の一日は、普通の高校生が思い描く青春から、だいたい三駅くらい離れた場所にある。
そして俺の場合、そこに追加で真希さんの短棒訓練が入った。
「構えが死にそうな一般人」
真希さんは開口一番、そう言った。
「実際、死にたくない一般人です」
「胸張るな」
訓練場の隅で、俺は真希さんから渡された短い木製の棒を握っていた。武器というより、逃げるための道具。そう説明された時だけ、俺は少しだけ納得できた。
勝てと言われたら無理だ。呪霊を祓えと言われても無理だ。だが、一秒稼げ。距離を作れ。転ばず逃げろ。そう言われたら、まだ訓練する意味がある。
真希さんは俺の前に立ち、訓練用の棒を軽く回した。
「お前に必要なのは勝ち方じゃねえ。死なねえ転び方だ」
「高専、教育方針がサバンナ」
「野生動物は待ってくれねえぞ」
「呪術師も待ってくれませんよね」
「分かってんなら動け」
次の瞬間、真希さんが踏み込んできた。
速い。
俺は床に残る踏み込みの記録を読もうとした。だが、その前に棒が来る。慌てて短棒を上げると、手首に衝撃が走った。
痛い。
俺の短棒は弾かれ、体勢が崩れる。
「遅い」
真希さんの声。
「読んでから動くな。読めるなら、その一拍前から準備しろ」
「それができたら苦労してないんですけど!」
「苦労しろ」
厳しい。
あまりにも端的に厳しい。
俺は転びそうになりながら、どうにか足を踏ん張った。倒れたら倒れたで怒られる。立っていたら立っていたで次が来る。高専の訓練は常に選択肢がろくでもない。
真希さんの棒が横から来る。
俺は短棒で受けようとして、受けきれないと判断した。少しだけ体を引く。棒の軌道をずらす。完全には避けられない。肩に軽く当たった。
「今のは少しマシだ」
「褒められた気がしない」
「褒めてねえ」
「正直」
「事実だ」
最近、本当に周囲が事実で殴ってくる。
何度も打たれ、何度も転び、何度も立つ。真希さんは容赦がないが、無茶はさせない。俺が本当に危ない崩れ方をすると、棒の先で体勢を直す。転ぶ時も、頭を打たないように角度を変えさせる。
怖い。
痛い。
だが、雑ではなかった。
「もう一回」
「今日の俺、もう三回くらい人生終わってるんですけど」
「まだ立ってるだろ」
「立ってるだけで追加されるタイプのメニュー、嫌すぎる」
「口が動くなら体も動く」
「暴論!」
それでも、俺は構え直した。
短棒を握る手に、汗がにじむ。攻撃力は低い。呪霊相手に直接どうこうできるとは思えない。でも、真希さんが言った通り、距離を作る道具にはなる。相手の軌道をずらす。転ばせる。障害物を動かす。一秒稼ぐ。
その一秒が、いつか命綱になるかもしれない。
だから、やるしかない。
訓練が終わった頃には、俺は地面に座り込んでいた。肺が痛い。腕も痛い。自分の体が自分に抗議している。
伏黒が近づいてきて、水のペットボトルを投げてよこした。
「生きてるか」
「辛うじて」
「ならいい」
「基準が雑」
水を飲む。冷たい。生き返る気がする。
伏黒は俺の横に座るでもなく、少し離れたところに立ったまま訓練場を見ていた。距離感が絶妙だった。近すぎず、遠すぎず。必要なら手が届くが、踏み込みすぎない位置。
「まだやるのか」
「やめたい」
「ならやめればいいだろ」
「生存確率が〇.五パーセントくらい上がるらしい」
「何が」
「短棒」
伏黒は一瞬、何とも言えない顔をした。
「……そうか」
「否定しないんだ」
「上がるなら、やる意味はあるだろ」
その返答に、俺は少しだけ黙った。
伏黒は無愛想だ。言葉も少ない。けれど、そういうところで変に茶化さない。俺が情けない理由で動いていても、そこに意味があるなら否定しない。
「伏黒は怖くないのか」
気づいたら、そんなことを聞いていた。
伏黒がこちらを見る。
「何が」
「呪いとか、任務とか、この先とか」
伏黒は少しだけ黙った。
「怖くないわけじゃない」
「意外」
「怖くない奴の方が危ないだろ」
それは、思っていたよりも普通の答えだった。
伏黒恵は、原作の登場人物だ。
十種影法術を使い、呪術師として戦い、虎杖悠仁と出会い、物語の中心に巻き込まれていく人間。
でも今ここにいる伏黒は、怖くないわけじゃない、と普通に言う同年代の少年だった。
俺はペットボトルを握りしめる。
「俺、怖い怖い言いすぎかな」
「言ってるな」
「否定しない」
「でも、怖いって言う割には逃げ切らないだろ」
「逃げたい気持ちと逃げられない現実の間で揺れてる」
「面倒くせえ」
「自覚はある」
伏黒はそれ以上、何も言わなかった。
訓練場の向こうで、パンダ先輩が手を振っている。狗巻先輩もその横にいた。
「おーい、怖がり一年。真希にしごかれて生きてるか」
「怖がり一年って呼び名、定着させないでください」
「怖がりは悪いことじゃないぞ」
パンダ先輩は真面目な声で言った。
「強がって死ぬ奴より、怖がって生きる奴の方が次に繋がる」
「パンダ先輩、急に人生の先輩みたいなこと言わないでください」
「パンダだからな」
「万能理由にしないでください」
狗巻先輩が短く言う。
「しゃけ」
パンダ先輩が頷く。
「同意だってさ」
「ありがたいような、米の具で励まされてるような」
「ツナマヨ」
「追加で励まされた?」
パンダ先輩が笑い、伏黒が小さく息を吐いた。笑った、とまでは言えない。だが、少しだけ空気が緩んだ。
高専は危ない場所だ。
それは変わらない。
けれど、こういう時間もある。訓練でボロボロになって、水をもらい、先輩に茶化され、伏黒と並んで座るでもなく同じ場所にいる。
普通の青春ではない。
でも、何もないよりはずっといい。
その夜。
俺は寮の部屋に戻るなり、机に向かって報告書の下書きを開いた。
今日の訓練内容。
短棒による距離確保。
転倒時の復帰姿勢。
真希さんによる指摘。
伏黒からの水分補給。
最後の項目は報告書に要らない気がする。要らないが、記録としてはありがたかったので、頭の中だけに残しておく。
書きかけの文字が、だんだん霞んでいく。
疲れた。
真希さんの訓練は体に来る。しかも明日からもある。高専生活、始まって早々に人権が薄い。
机の横には、短棒が立てかけてある。引き出しには母親のメモ。机の上には報告書。窓の外には、夜の高専。
「……〇.五パーセントでも、上がれば御の字……」
自分でも何を言っているのか分からない寝言をこぼしながら、俺はそのまま机に突っ伏して眠った。
*
空白の夜
三原透が眠りに落ちてから、しばらくして。
部屋の隅に、薄い影が立ち上がった。
人型の異形。鼻も口もない顔。目元に走る管のような器官。幾何学的な線を刻んだ体。術式「地歴再演」の表層化した端末。
アンダー・ワールドは、眠る術者を見下ろしていた。
『術者、睡眠中』
誰にともなく、そう告げる。
『記録整理ヲ開始』
机の上には、書きかけの報告書がある。短棒訓練。復帰動作。転倒時の呼吸。真希の踏み込み。伏黒の水。パンダの言葉。狗巻の声。
それらはすべて、三原透という術者の中に残った小さな記録だった。
アンダー・ワールドがそれらを浅く整理していた時、窓の外から軽い声がした。
「夜のお散歩、行く?」
アンダー・ワールドは顔を上げた。
窓の外、月明かりの下に、五条悟が立っていた。
目元を布で覆い、黒い服を夜に溶かし、まるでそこに最初からいたような気軽さで。
『術者ハ睡眠中』
「起こさないから大丈夫」
『術者不在デノ長距離移動ハ非推奨』
「僕が補助する。ちょっと見たいものがあってね」
五条は笑っていた。
だが、その笑みの奥にあるものは軽くない。
アンダー・ワールドは数秒、沈黙した。
『目的ヲ提示セヨ』
「君がどこまで読めるのか、確認したい」
『検査ハ日中ニ実施済ミ』
「日中にやりにくい検査もあるんだよ」
五条は窓枠に指を置いた。
部屋の空気が薄く揺れる。結界とも、呪力の膜とも言えるものが、アンダー・ワールドの輪郭をそっと包んだ。術者から完全に切り離すのではない。ただ、眠る透へ負荷をかけないよう、端末の表層だけを持ち上げるような精密な補助。
それは五条悟だからできる、雑に見えて異様に繊細な操作だった。
『術者ヘノ負荷、微小』
「でしょ」
『移動可能時間、限定的』
「十分」
五条は窓の外へ視線を向けた。
「行こうか。昔の話を見に」
夜の高専は静かだった。
昼間の訓練場の騒がしさも、生徒たちの足音もない。木々が風に揺れ、結界の内側に、古い記録だけが眠っている。
五条は歩いた。
アンダー・ワールドはその後ろに、影のように続いた。地面に足音はない。だが、存在の薄い痕跡だけが夜気をかすめる。
やがて、五条は高専の奥まった場所で足を止めた。
今は何もない場所だった。
整えられた地面。夜露を含んだ草。古い建物の影。表面だけ見れば、静かな敷地の一角でしかない。
だが、アンダー・ワールドはそこに沈む記録を感知した。
『古イ記録ガアル』
五条は何も言わない。
『血液。破壊痕。呪力残滓。強烈ナ死ノ予感』
アンダー・ワールドの声が、淡々と夜に落ちる。
『……ダガ、対象ノ一部ガ欠落シテイル』
五条が笑った。
「ここで昔、僕は殺されかけた」
軽い声だった。
まるで、昔転んだ話でもするみたいな調子。
だが、その場所に残る記録は軽くなかった。
アンダー・ワールドは地面へ手を伸ばした。
『読取範囲、周辺二十メートル』
『対象、過去ノ戦闘記録』
『深度、表層』
『術者不在ノタメ、再演深度上昇ハ危険』
「表層でいいよ」
五条の声が静かになる。
「僕が負けたところまで」
アンダー・ワールドの指が地面に触れた。
夜がずれた。
古い空気が、現在の上に重なる。
若い五条悟がいた。
今より少し若く、今より尖り、今よりも世界が自分のものだと疑っていない顔。膨大な呪力。異常なほど精密な術式の流れ。記録の中の五条は、すでに規格外だった。
だが、その背後に、空白があった。
呪力がない。
残穢がない。
術式の気配もない。
それなのに、地面はその男の重さを覚えていた。足が踏んだ圧。空気が裂かれた軌道。刃が走った角度。五条の血が落ちた位置。
『対象、呪力残穢ゼロ』
アンダー・ワールドが告げる。
『再演困難』
『物理痕跡、血液記録、破壊痕、観測者記録ヨリ補完』
『人型ノ空白ヲ検出』
五条は、過去の自分を見ていた。
「そう。空白みたいな男だった」
再演の中で、その空白が動く。
速い。
呪力がないから見えないのではない。記録の上でも、欠けている。世界に触れているはずなのに、呪術の記録からは抜け落ちている。
刃が走った。
若い五条の首元が裂ける。
胴が貫かれる。
血が地面に落ちる。
最強になる前の五条悟が、地面へ倒れる。
アンダー・ワールドはそこで再演を止めた。
『表層再演、終了』
『深度上昇ノ兆候アリ』
『継続ハ非推奨』
「うん。そこまででいい」
五条は過去の自分が倒れた場所を見下ろしていた。
その表情は、笑っているようにも、何も感じていないようにも見えた。目元は布で覆われている。けれど、その奥にあるものが、夜の記録よりもずっと深く沈んでいる気がした。
アンダー・ワールドが言う。
『アノ空白ハ、伏黒恵ノ影ト類似点ガアル』
五条の口元が、わずかに動いた。
『同一デハナイ』
『伏黒恵ノ影ハ、術式トシテ記録ニ残ル』
『ダガ、底ノ無サ。接続先ノ不明瞭サ。覗キ込ム者ヲ引キ込ム性質ニ、類似ヲ検出』
「やっぱり、君もそう見るんだ」
五条の声は穏やかだった。
「この前、三原くんが恵の影を読まずに止めたでしょ。あれ、ただの礼儀だけじゃない気がしてさ」
『読取継続ハ危険ダッタ』
「だろうね」
五条は倒れた過去の自分の記録が消えていくのを見ている。
「君なら、呪力のない相手も読める?」
『条件次第』
アンダー・ワールドは即答した。
『呪力残穢トシテハ読メナイ』
『ダガ、土地、物体、血液、破壊痕、他者ノ観測記録ニ残ル痕跡カラ、空白ノ輪郭ヲ補完可能』
『完全再演ハ困難』
「十分面白い」
『面白サハ評価基準外』
「だろうね」
五条は笑った。
その軽さは、昼間と同じようで少し違った。
「三原くんには言う?」
『術者ノ生存ニ関ワル情報デアレバ、報告対象』
「じゃあ、まだ保留で」
『保留ヲ記録』
「記録しちゃうんだ」
『記録ハ残ル』
五条は肩をすくめた。
「ほんと、君たちらしいね」
しばらく沈黙があった。
夜風が吹く。
古い敗北の記録は、再び地面の奥へ沈んでいく。消えたわけではない。ただ、閉じられただけだ。
五条はふと、アンダー・ワールドを見た。
「君は、三原くんを守るの?」
『術者ノ生存ヲ最優先スル』
「人を助けるより?」
『術者ノ生存ナクシテ、救助行動ハ継続不能』
五条は少し黙った。
夜風が、布で覆われた目元の白をかすかに揺らす。
「そっか。……それでいいよ」
その声は、いつもの軽さより少しだけ低かった。
「僕の周りにはさ、自分の命を天秤の皿から勝手に降ろしちゃう馬鹿が多すぎるからね」
布の奥で、五条が目を細めた気がした。
それが誰のことを指しているのか、アンダー・ワールドには判断できない。
ただ、その言葉には、すでに失われた誰かの記録と、まだ失われていない誰かへの祈りが混じっていた。
『合理的判断ト認識』
「うん。合理的ってことでいいよ」
五条は小さく息を吐いた。
「でもあの子、見捨てるの下手だよね」
『認識シテイル』
「苦労するよ」
『既ニ、苦労シテイル』
今度こそ、五条は声を出して笑った。
「じゃあ、あの子が過去に飲まれそうになったら、ちゃんと引っ張り戻して」
『努力スル』
「努力?」
『術者ノ意思決定ガ、度々予測ヲ逸脱スル』
「あはは。分かる」
五条はもう一度、その場所を見た。
かつて伏黒甚爾という男が、五条悟を殺しかけた場所。
呪力の記録に残らない空白が、最強になる前の少年を地面に落とした場所。
「今日はありがとう」
『記録検査ノ一環ト判断』
「うん。そういうことにしとこう」
五条は軽く手を振った。
帰路は一瞬だった。
アンダー・ワールドの輪郭は、五条の補助によって再び寮の部屋へ戻される。眠る透は、机に突っ伏したままだった。呼吸は浅く、だが安定している。
部屋の中には、変わらず短棒が立てかけられている。
母親のメモが引き出しにしまわれ、報告書は途中で止まり、窓の外には春の夜がある。
アンダー・ワールドは机の横の短棒を見た。
『推定生存確率上昇、〇.五パーセント』
眠っている透が、小さく寝言をこぼす。
「……誤差でも、上がれば……御の字……」
アンダー・ワールドは、しばらく術者を見下ろしていた。
『記録シタ』
その夜、三原透は知らない。
自分の術式が、自分の眠っている間に、五条悟と共に最強の敗北の記録を見ていたことを。
呪力を持たない空白の男の輪郭を、地面と血と破壊痕から読み取っていたことを。
ただ翌朝、机の横に立てかけた短棒だけが、昨日より少しだけ手に馴染む気がした。