アンダー・ワールド・レコード 作:そこら辺のスタンド使い
高専に入学してから、少しだけ生活のリズムができてきた。
朝起きる。飯を食べる。授業を受ける。走る。転ぶ。真希さんに短棒でしごかれる。伏黒と情報伝達訓練をする。伊地知さんに報告書を赤入れされる。家入さんに「顔色悪いね」と淡々と言われる。五条先生に雑な無茶振りをされる。
普通の高校生活ではない。
それでも、人間はだいたいの環境に慣れるらしい。
俺はパンダ先輩が廊下を歩いていても驚かなくなった。狗巻先輩の「しゃけ」と「おかか」の雰囲気も、少しだけ分かるようになってきた。伏黒が無言で水を渡してくる時は、だいたい俺の顔色が悪い。真希さんが「今日は軽めにする」と言った日は、普通に重い。
その日の午前、俺は伊地知さんに呼び出された。
場所は資料室の一角。机の上には薄いファイルが置かれている。伏黒もいた。五条先生は窓際で、菓子の袋を開けている。
関係ない顔をしているが、関係ない人間がいる場所ではない。
「三原さん、本日は次の研修について説明します」
伊地知さんはいつも通り丁寧だった。
ただ、声が少し硬い。
俺はその時点で嫌な予感がした。
「……研修、ですか」
「はい。今回は、特級呪物の回収補助です」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
特級呪物。
その単語だけで、喉が乾いた。
五条先生が軽い声で言う。
「大丈夫。封印されてるやつだから」
封印。
その言葉が、やけに薄く聞こえた。
「封印が無事なら、ですよね」
「三原くん、悲観的だなあ」
「生存戦略です」
そう答えた声が、自分でも少し硬かった。
伊地知さんがファイルを開く。
「回収対象は、長期にわたり保管されていた特級呪物です。所在確認の結果、宮城県内の高校に保管されている可能性が高いと判明しました。伏黒さんが主担当として回収に向かいます。三原さんには、保管場所周辺の記録確認、移動経路の補助をお願いします」
俺は机の上の資料を見た。
地名。
学校名。
宮城県仙台市。
杉沢第三高校。
指先が冷えた。
胃の底が、ひっくり返るように重くなる。
杉沢第三高校。
文字を見ただけで、喉が塞がった。
頭の中で、知っているはずの場面が勝手にめくれる。百葉箱。封印の札。夜の校舎。呪いの気配。オカルト研究会。呪いを食う少年。
まずい。
ここから先は、俺が知っている物語だ。
そして、知っているからといって止められるとは限らない。
「三原?」
伏黒の声がした。
遠かった。
俺は息を吸おうとして、うまく吸えなかった。胸の奥で心臓が暴れている。資料の文字が、妙にくっきり見える。杉沢第三高校。その七文字が、紙の上ではなく、俺の額の内側に貼りついたみたいだった。
落ち着け。
固有名詞を漏らすな。
言っていい情報と、言ってはいけない情報を分けろ。
数秒遅れて、ようやく伊地知さんに教わった整理が頭の中で動き始める。
事実。
資料に杉沢第三高校と書かれている。
推測。
原作開始地点である可能性が極めて高い。
不明。
俺が介入しても同じことが起きるのか。
危険。
虎杖悠仁が、宿儺の指を食う。
俺は膝の上で拳を握った。
「……嫌な予感がする場所です」
五条先生がこちらを見る。
目元は布で覆われている。なのに、視線が来たのが分かった。
「知ってる場所?」
「いえ」
これは嘘だ。
だが、俺は続けた。
「資料を見た瞬間、変な感じがしました。まだ読んでません。だから根拠はありません。でも、嫌な予感がします」
嘘ではない部分だけを前に出す。
五条先生は少しだけ笑った。
「ふうん」
その一音が怖い。
聞き流された感じがまったくしない。
伏黒が資料を手に取る。
「俺が回収すればいいんですよね」
「そう。封印状態なら難しい任務じゃないよ」
五条先生が言う。
俺は思わず口を挟んだ。
「五条先生は行かないんですか」
「僕は別件」
「特級呪物ですよね」
「封印されてるからね」
「だから、その封印が」
「三原くん」
五条先生の声は軽かった。
だが、少しだけ制止の色があった。
「嫌な予感がするなら、恵にちゃんと言っときな」
それ以上は言うな。
そう言われた気がした。
俺は口を閉じた。
五条先生は、俺が何かを知っていることに気づいている。だが、今ここで無理に吐かせるつもりはないらしい。ありがたいのか、怖いのか分からない。
説明が終わったあと、俺は伏黒を廊下に呼び止めた。
「伏黒」
「何だ」
「現場で、一般人が特級呪物に触ってる可能性を想定して動いてほしい」
伏黒の眉が少し動いた。
「普通は触れない」
「普通じゃないから俺たちが行くんだろ」
「……何か読んだのか」
「まだ読んでない」
「なら、何でそこまで言う」
俺は言葉を選んだ。
全部は言えない。
俺は虎杖悠仁を知っている。宿儺の指を知っている。これから何が起きるか、ある程度知っている。だが、それを説明する方法がない。説明すれば、俺自身の秘密に踏み込むことになる。
それに、知っているからといって、本当に止められるのかも分からない。
だから、必要な警戒だけを渡す。
「俺の嫌な予感は、外れてほしい時ほど当たる」
伏黒は俺を見ていた。
俺は続ける。
「一般人優先で見てほしい。あと、呪物は絶対に放置しない。封印が無事かどうか、見た目だけで判断しない。もしなくなってたら、すぐ共有して。単独で深追いしない」
「お前も単独行動するなよ」
「俺?」
「人のこと言えるほど落ち着いてないだろ」
正論だった。
「じゃあ、お互い単独行動禁止で」
「足手まといになるなら置いていく」
「分かってる。でも、俺がいれば足跡は追える。逃げ道も読める。一般人がどこへ行ったかも分かるかもしれない」
伏黒は数秒考えた。
「なら置いていかない」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
「ありがとう」
「まだ何もしてない」
「先払い」
伏黒は少しだけ眉をひそめたが、それ以上は言わなかった。
午後、出発前に資料の確認をした。
宿儺の指そのものに触れるのは論外だった。そもそも現物はまだ現地にあるはずだ。俺の前にあるのは、保管記録の写しと古い封印札の写真だけ。
それでも嫌だった。
紙越しの写真越しなのに、指先を近づけただけで空気が変わる。
『警告』
アンダー・ワールドの声が、いつもより早かった。
『記録、極メテ古イ』
『呪力残穢、濃度異常』
『対象、指。王ノ断片』
『読取継続ハ危険』
触れていない。
まだ触れていないのに、頭の奥で乾いた笑い声のような残響がした。
血の匂い。
古い木。
腐った封印。
四本の腕の影。
切断された視界。
俺は即座に手を引いた。
「読まない。これは読まない」
伏黒がこちらを見る。
「顔色悪いぞ」
「特級呪物って、資料越しでも最悪なんだな」
「だから行くんだろ」
「行きたくない」
「だろうな」
否定しない伏黒の優しさが、最近少し分かってきた。
出発前、訓練場の近くで二年生たちに会った。
真希さんは俺の持っている短棒を見て、顎で示した。
「持ってけ」
「これですか」
「使わずに済むならそれでいい」
俺は短棒を鞄に差し込んだ。
パンダ先輩が大きな手を振る。
「怖がり一年、初遠征か」
「できれば最後の遠征にしたいです」
「生還を土産にしろよ」
「それなら持ち帰れるよう努力します」
狗巻先輩が短く言った。
「しゃけ」
俺は一拍置いて、頷く。
「……無事に帰れ、ですか」
パンダ先輩が少し笑った。
「半分正解。無事に帰ってこい、あと無茶するな、くらいだな」
「ニュアンスが増えた」
「棘語は文脈が大事だからな」
狗巻先輩が親指を立てた。
「ツナマヨ」
「それは……たぶん、頑張れ寄り」
「まあ正解」
少しだけ、肩の力が抜けた。
本当に少しだけだ。
だが、その少しがありがたかった。
夕方、俺たちは駅のホームにいた。
伊地知さんが切符を確認し、伏黒が資料を鞄にしまう。行き先表示には、仙台の文字。
俺はホームに滑り込んでくる新幹線を見ていた。
ついに来た。
物語の第一話。
俺が知っている中で、最初の大きな分岐点。
この先で、少年が呪いを飲み込む。
俺はそれを止めたいのか。
止めていいのか。
止められるのか。
何一つ分からない。
『生存戦略ヲ確認スルカ』
アンダー・ワールドが言った。
俺は短く答える。
「確認しろ」
『一、伏黒恵ト離レナイ』
『二、一般人ノ避難ヲ優先』
『三、特級呪物ニ直接触レナイ』
『四、五条悟ヲ早期ニ呼ブ』
『五、危険時ハ逃走』
「最後だけはいつも通りだな」
『最重要項目ダ』
「知ってる」
新幹線の扉が開く。
伏黒が先に乗り込み、こちらを振り返った。
「行くぞ」
「うん」
俺は鞄の中の短棒の重みを確認した。
〇.五パーセント。
誤差みたいな数字。
それでも、ゼロではない。