アンダー・ワールド・レコード 作:そこら辺のスタンド使い
新幹線の窓の外を、知らない景色が流れていく。
東京から仙台へ向かう車内は、思っていたより静かだった。伊地知さんは通路側の席で資料を確認している。伏黒は隣で、渡されたファイルを黙って読んでいた。
俺だけが、ずっと落ち着かなかった。
膝の上で指を組み、ほどき、また組む。鞄の中には真希さんから渡された短棒が入っている。たった〇・五パーセントの生存率上昇。それでも今は、その重みを何度も確認したくなった。
杉沢第三高校。
資料に書かれていた文字が、まだ目の奥に残っている。
百葉箱。封印の札。オカルト研究会。夜の学校。宿儺の指。虎杖悠仁。
頭の中で知っている場面が何度もめくれる。何度めくっても、結末は変わらない。少年が呪いを飲み込む。両面宿儺が受肉する。そこから物語が、本格的に動き出す。
知っている。
だが、知っているからといって止められるとは限らない。
『呼吸ガ浅イ』
頭の奥で、アンダー・ワールドの声がした。
『コノままデハ、判断ガ鈍ル』
「分かってる」
声に出さないよう、口の中で小さく返す。
『三原透。今は、まだ車内ダ』
その言葉に、俺は窓の外から視線を戻した。
今は、まだ車内。
まだ夜の校舎ではない。まだ悲鳴は聞こえない。まだ指は飲み込まれていない。
そう確認するだけで、少しだけ呼吸が戻る。
伏黒が資料から目を上げた。
「顔色悪いぞ」
「元から悪い」
「そういう誤魔化しはいい」
正論だった。
俺は小さく息を吐く。
「嫌な予感が強くなってるだけ」
「現場に着く前からか」
「できれば外れてほしい」
伏黒はそれ以上、茶化さなかった。ただ、資料を閉じて言う。
「お前の言ったことは覚えてる。一般人優先。呪物は放置しない。単独行動しない」
「ありがとう」
「礼を言うのは終わってからにしろ」
それも正論だった。
仙台に着いた。
駅の外は、東京より少し空が広く感じた。人の流れ。バスの音。道路の熱。普通の地方都市の、普通の昼間。
この場所に、これから特級呪物の気配が重なる。
そう考えただけで、胃の奥が重くなった。
伊地知さんの案内で、俺たちは杉沢第三高校へ向かった。
昼間の高校は、あまりにも普通だった。
グラウンドから部活の声が聞こえる。校舎の窓には反射した空が映っている。廊下には掲示物が貼られ、下駄箱には靴が並び、どこかから生徒の笑い声がする。
普通の学校。
俺が行けなかった場所。
そして、今から呪いに巻き込まれる場所。
高専の記録は濃く、重く、訓練と戦いの匂いがした。だが、この学校にあるのはもっと柔らかい記録だった。授業中の眠気。部活帰りの汗。廊下でふざける足音。試験前の焦り。誰かを呼ぶ声。
その普通さが、逆に苦しかった。
「三原さん、大丈夫ですか」
伊地知さんが小声で聞く。
「大丈夫ではないですが、歩けます」
「異変があればすぐに」
「はい」
まず向かったのは、特級呪物が保管されていたはずの百葉箱だった。
古びた箱。校舎の片隅。普通の生徒なら、気にも留めないような場所。
伏黒が箱を開ける。
中は空だった。
「ない」
短い声だった。
背中に冷たい汗が落ちる。
知っていた。
知っていたはずなのに、実際に空の箱を見ると、心臓が嫌な沈み方をした。
俺は百葉箱の前にしゃがんだ。手を伸ばす前に、口に出す。
「対象、百葉箱周辺。時間は過去一週間。深度は表層。特級呪物本体の記録は追わない」
伏黒が横で周囲を警戒する。伊地知さんが少し離れた位置でメモを取る。
俺は百葉箱の縁に触れた。
冷たい。
古い木の手触り。
次の瞬間、箱の内側から、底のない時間が這い上がってくる。
古い。
ただ古いのではない。
乾いた血。腐った封印。人の祈り。人の恐怖。長い長い時間の底で、何かが笑っているような気配。
『奥ヲ見ルナ』
アンダー・ワールドの声が、鋭く響いた。
『箱ノ外側ダケヲ読メ』
『中身ノ記録ニ触レレバ、引キズラレル』
「分かってる」
俺は奥へ行こうとする意識を、無理やり百葉箱の表面に戻した。
箱を開けた手。
包みに触れた指。
男子生徒。
足取りが軽い。重心がぶれない。何気ない動作の中に、普通の高校生とは思えない身体能力がある。高専の人間とも違う。呪力で強化された動きではない。もっと自然で、最初からそういう体として作られているような動き。
『足運ビガ普通デハナイ』
『一般ノ高校生トシテハ、身体能力ガ高スギル』
知ってる。
口には出さない。
俺は手を離し、息を吐いた。
「男子生徒が持ち出しています。たぶん運動部並み、いや、それ以上に身体能力が高い。足跡は校舎内、それから外へ」
伏黒が顔をしかめる。
「呪物はそいつが持ってるのか」
「たぶん、今は違う」
「どういう意味だ」
俺は百葉箱の内側をもう一度だけ浅く見る。深くは見ない。指の記録には触れない。
「箱を持った記録と、中身を持った記録がずれてる。包みを持ち出したのはその男子生徒。でも、その後、別の誰かに渡ってる可能性が高い」
「場所は」
「校舎内。……部室棟か、特別教室の方」
それだけ言うと、俺は立ち上がった。膝が少し重い。
伏黒はすぐに動いた。
「行くぞ」
向かった先は、オカルト研究会の部室だった。
扉の前に立った時点で、俺は少しだけ息を止めた。
ここだ。
漫画の中で見た名前。原作第一話の中で、どこか呑気で、だからこそ恐ろしかった場所。
部室の中は、普通の学生の遊び場だった。
怪談本。心霊写真の切り抜き。こっくりさんに使ったらしい紙。古びた小物。机の上に散らかった菓子の袋。安っぽいオカルト趣味の記録が、薄く部屋に残っている。
普段なら、少し突っ込めたかもしれない。
だが、今は笑えなかった。
俺は机に触れる前に、範囲を宣言する。
「対象、この机と周辺。時間は過去三日。深度は表層。特級呪物本体の記録には触れない」
机に触れる。
生徒二人の声。
興奮。
好奇心。
怖がりながらも、怖いものを見たいという浅い熱。
包みを見つめる視線。
夜。
封印。
剥がしてみよう、という言葉。
俺はすぐに手を離した。
「先輩二人が持っています。今夜、封印を剥がすつもりです」
伊地知さんの顔色が変わる。
伏黒が即座に聞く。
「名前は」
俺は首を振った。
「そこまでは読めない。部室の記録が混ざってる。顔も曖昧です」
「正確な時刻は」
「不明。ただ、放課後以降。夜に校舎へ戻るつもりだった」
伏黒は短く息を吐き、伊地知さんを見た。
「持ち出した男子生徒の身元は」
「確認します」
伊地知さんはすぐに連絡を取った。学校側、補助監督側の情報網、そしてこの学校の記録。しばらくして、伊地知さんがこちらを見る。
「虎杖悠仁。現在は市内の病院にいるようです」
その名前に、喉の奥が詰まった。
来た。
ついに、口に出された。
「そいつなら、先輩たちの名前や連絡先を知ってる可能性が高い」
伏黒の判断は早かった。
「今すぐ確認する。先輩たちを直接止める手がかりがいる」
合理的だった。
今すぐ学校に張り込むより、先輩二人の所在を特定する。指を持ち出した本人なら、部員の名前も、連絡先も、行動予定も知っている可能性がある。
だから病院へ向かう。
原作で知っている流れと、俺たちの調査で得た情報が、少し違う順番で繋がっていく。
それが怖かった。
知っている道を歩いているはずなのに、足元の石の位置が違う。
俺たちは、病院へ向かった。
虎杖悠仁がそこにいることを、俺は知っていた。
だが病院の入口に立つと、足が少し止まった。
病院は、記録が濃い場所だ。生と死が近い。痛み、不安、安堵、別れ。壁も床も手すりも、触れれば何かを拾ってしまう気がした。
そして今日は、虎杖の祖父が亡くなった日だ。
俺は手すりから手を離した。
読むな。
ここは読むべき場所ではない。
他人の家族の死を、勝手に覗くな。
伏黒が先に進む。俺はなるべく何にも触れないように、その後ろを歩いた。
病室近くの廊下で、虎杖悠仁に会った。
思っていたより普通の少年だった。
ピンクがかった髪。人懐っこそうな顔。だが、立ち方がおかしい。体の軸が異様に安定している。病院の廊下でただ立っているだけなのに、いつでも走れるような体の作りをしている。
この少年が、宿儺の器になる。
そう思った瞬間、喉が乾いた。
だが、目の前の彼はまだ何も知らない。
祖父を亡くしたばかりの、ただの高校生だった。
伏黒が声をかける。
「虎杖悠仁だな」
「そうだけど。誰?」
警戒はある。だが、怯えてはいない。
伏黒は単刀直入に言った。
「お前が持ち出した包みについて話がある」
虎杖は眉をひそめた。
「ああ、あれか。でも俺、持ってないぞ」
空気が落ちた。
伏黒の顔が険しくなる。
「どこにある」
「先輩たちが持ってる。今夜、学校で封印を剥がすって言ってたけど」
分かっていた。
分かっていたのに、胸の奥が冷えた。
間に合っていない。
いや、まだ完全には遅くない。
でも、流れはもう始まっている。
伏黒が短く言った。
「先輩の名前と連絡先を教えろ」
虎杖はただならぬ気配を感じたのか、すぐに答えた。伊地知さんがその場で連絡を試みる。だが、つながらない。学校側にも確認が飛ぶ。二人はもう、校内に戻っている可能性が高かった。
伏黒が動く。
「学校へ戻る」
虎杖も顔色を変えた。
「先輩たち、危ないのか」
「危ない。お前は来るな」
「行く」
伏黒の声が低くなる。
「お前は一般人だ。来ても邪魔になる」
「俺が持ってきたせいで先輩が危ないなら、行く」
虎杖の声には迷いがなかった。
その迷いのなさが、怖かった。
自分の命を勘定から外す人間。
俺は虎杖を見た。
「来るなら――」
言いかけた瞬間、伏黒が俺を睨んだ。
「来させるな」
低い声だった。
「こいつは一般人だ。巻き込まない」
正しい。
あまりにも正しい。
だから俺は、それ以上言えなかった。
俺は虎杖が来ることを知っている。来るなと言われて、来ないでいられる人間なら、俺はこの少年の名前を前世で覚えていない。
でも、伏黒の言葉を否定することはできない。
一般人を危険に近づけない。
それは呪術師として、当たり前の正しさだった。
伏黒は虎杖に背を向ける。
「ここにいろ」
虎杖は何か言い返そうとしたが、伏黒の表情を見て口を閉じた。
俺たちは病院を出た。
夜の杉沢第三高校は、昼間とは別の場所だった。
校門を越えた瞬間、空気が変わる。昼に聞こえていた部活の声も、廊下のざわめきも消えている。普通の学校の記録が、夜の静けさの下で薄く震えていた。
その下から、呪いの気配が浮いてくる。
伏黒が先行する。
俺は必死で走った。
息が切れる。足が重い。鞄の中の短棒が揺れる。階段の手すりに触れそうになり、触れないように体をずらす。今は余計な記録を読むな。必要なものだけ拾え。
『校舎ノ中デ、呪力ガ増エテイル』
アンダー・ワールドの声がする。
『上階ニ、一般人ガ二人イル』
『複数ノ呪霊ガ、ソコヘ向カッテイル』
「場所は」
『北側ノ階段。三階。イヤ、さらに上ダ』
伏黒がこちらを振り返る。
「分かるのか」
「上階。一般人二人。呪霊が向かってる」
「急ぐぞ」
分かっている。
分かっているが、体が追いつかない。
夜の校舎が揺れる。
窓ガラスが震えた。
遠くから悲鳴が聞こえた。
その瞬間、俺の知っている漫画の場面が、現実の音と匂いを持った。
インクではない。
ページではない。
人の悲鳴だ。
床を蹴る足音だ。
埃と、呪いと、夜の学校の臭いだ。
「三原透、十五歳。ここは杉沢第三高校。これは俺の体」
俺は走りながら唱えた。
過去ではない。
記録でもない。
これは今だ。
上階で、何かが壁に叩きつけられる音がした。
伏黒が走る。
俺は息を切らして、その後を追う。
その時だった。
背後で、窓ガラスが派手に割れる音がした。
ありえない速度で、誰かが校舎の外から飛び込んでくる。
振り返らなくても分かった。
来るなと言われて、来ないでいられる人間なら。
たぶん、俺は虎杖悠仁という名前を覚えていない。
俺の知っている第一話が、俺の知らない速度で始まった。