アンダー・ワールド・レコード   作:そこら辺のスタンド使い

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第十二話 空の百葉箱

 

新幹線の窓の外を、知らない景色が流れていく。

 

東京から仙台へ向かう車内は、思っていたより静かだった。伊地知さんは通路側の席で資料を確認している。伏黒は隣で、渡されたファイルを黙って読んでいた。

 

俺だけが、ずっと落ち着かなかった。

 

膝の上で指を組み、ほどき、また組む。鞄の中には真希さんから渡された短棒が入っている。たった〇・五パーセントの生存率上昇。それでも今は、その重みを何度も確認したくなった。

 

杉沢第三高校。

 

資料に書かれていた文字が、まだ目の奥に残っている。

 

百葉箱。封印の札。オカルト研究会。夜の学校。宿儺の指。虎杖悠仁。

 

頭の中で知っている場面が何度もめくれる。何度めくっても、結末は変わらない。少年が呪いを飲み込む。両面宿儺が受肉する。そこから物語が、本格的に動き出す。

 

知っている。

 

だが、知っているからといって止められるとは限らない。

 

『呼吸ガ浅イ』

 

頭の奥で、アンダー・ワールドの声がした。

 

『コノままデハ、判断ガ鈍ル』

 

「分かってる」

 

声に出さないよう、口の中で小さく返す。

 

『三原透。今は、まだ車内ダ』

 

その言葉に、俺は窓の外から視線を戻した。

 

今は、まだ車内。

 

まだ夜の校舎ではない。まだ悲鳴は聞こえない。まだ指は飲み込まれていない。

 

そう確認するだけで、少しだけ呼吸が戻る。

 

伏黒が資料から目を上げた。

 

「顔色悪いぞ」

 

「元から悪い」

 

「そういう誤魔化しはいい」

 

正論だった。

 

俺は小さく息を吐く。

 

「嫌な予感が強くなってるだけ」

 

「現場に着く前からか」

 

「できれば外れてほしい」

 

伏黒はそれ以上、茶化さなかった。ただ、資料を閉じて言う。

 

「お前の言ったことは覚えてる。一般人優先。呪物は放置しない。単独行動しない」

 

「ありがとう」

 

「礼を言うのは終わってからにしろ」

 

それも正論だった。

 

仙台に着いた。

 

駅の外は、東京より少し空が広く感じた。人の流れ。バスの音。道路の熱。普通の地方都市の、普通の昼間。

 

この場所に、これから特級呪物の気配が重なる。

 

そう考えただけで、胃の奥が重くなった。

 

伊地知さんの案内で、俺たちは杉沢第三高校へ向かった。

 

昼間の高校は、あまりにも普通だった。

 

グラウンドから部活の声が聞こえる。校舎の窓には反射した空が映っている。廊下には掲示物が貼られ、下駄箱には靴が並び、どこかから生徒の笑い声がする。

 

普通の学校。

 

俺が行けなかった場所。

 

そして、今から呪いに巻き込まれる場所。

 

高専の記録は濃く、重く、訓練と戦いの匂いがした。だが、この学校にあるのはもっと柔らかい記録だった。授業中の眠気。部活帰りの汗。廊下でふざける足音。試験前の焦り。誰かを呼ぶ声。

 

その普通さが、逆に苦しかった。

 

「三原さん、大丈夫ですか」

 

伊地知さんが小声で聞く。

 

「大丈夫ではないですが、歩けます」

 

「異変があればすぐに」

 

「はい」

 

まず向かったのは、特級呪物が保管されていたはずの百葉箱だった。

 

古びた箱。校舎の片隅。普通の生徒なら、気にも留めないような場所。

 

伏黒が箱を開ける。

 

中は空だった。

 

「ない」

 

短い声だった。

 

背中に冷たい汗が落ちる。

 

知っていた。

 

知っていたはずなのに、実際に空の箱を見ると、心臓が嫌な沈み方をした。

 

俺は百葉箱の前にしゃがんだ。手を伸ばす前に、口に出す。

 

「対象、百葉箱周辺。時間は過去一週間。深度は表層。特級呪物本体の記録は追わない」

 

伏黒が横で周囲を警戒する。伊地知さんが少し離れた位置でメモを取る。

 

俺は百葉箱の縁に触れた。

 

冷たい。

 

古い木の手触り。

 

次の瞬間、箱の内側から、底のない時間が這い上がってくる。

 

古い。

 

ただ古いのではない。

 

乾いた血。腐った封印。人の祈り。人の恐怖。長い長い時間の底で、何かが笑っているような気配。

 

『奥ヲ見ルナ』

 

アンダー・ワールドの声が、鋭く響いた。

 

『箱ノ外側ダケヲ読メ』

『中身ノ記録ニ触レレバ、引キズラレル』

 

「分かってる」

 

俺は奥へ行こうとする意識を、無理やり百葉箱の表面に戻した。

 

箱を開けた手。

 

包みに触れた指。

 

男子生徒。

 

足取りが軽い。重心がぶれない。何気ない動作の中に、普通の高校生とは思えない身体能力がある。高専の人間とも違う。呪力で強化された動きではない。もっと自然で、最初からそういう体として作られているような動き。

 

『足運ビガ普通デハナイ』

『一般ノ高校生トシテハ、身体能力ガ高スギル』

 

知ってる。

 

口には出さない。

 

俺は手を離し、息を吐いた。

 

「男子生徒が持ち出しています。たぶん運動部並み、いや、それ以上に身体能力が高い。足跡は校舎内、それから外へ」

 

伏黒が顔をしかめる。

 

「呪物はそいつが持ってるのか」

 

「たぶん、今は違う」

 

「どういう意味だ」

 

俺は百葉箱の内側をもう一度だけ浅く見る。深くは見ない。指の記録には触れない。

 

「箱を持った記録と、中身を持った記録がずれてる。包みを持ち出したのはその男子生徒。でも、その後、別の誰かに渡ってる可能性が高い」

 

「場所は」

 

「校舎内。……部室棟か、特別教室の方」

 

それだけ言うと、俺は立ち上がった。膝が少し重い。

 

伏黒はすぐに動いた。

 

「行くぞ」

 

向かった先は、オカルト研究会の部室だった。

 

扉の前に立った時点で、俺は少しだけ息を止めた。

 

ここだ。

 

漫画の中で見た名前。原作第一話の中で、どこか呑気で、だからこそ恐ろしかった場所。

 

部室の中は、普通の学生の遊び場だった。

 

怪談本。心霊写真の切り抜き。こっくりさんに使ったらしい紙。古びた小物。机の上に散らかった菓子の袋。安っぽいオカルト趣味の記録が、薄く部屋に残っている。

 

普段なら、少し突っ込めたかもしれない。

 

だが、今は笑えなかった。

 

俺は机に触れる前に、範囲を宣言する。

 

「対象、この机と周辺。時間は過去三日。深度は表層。特級呪物本体の記録には触れない」

 

机に触れる。

 

生徒二人の声。

 

興奮。

 

好奇心。

 

怖がりながらも、怖いものを見たいという浅い熱。

 

包みを見つめる視線。

 

夜。

 

封印。

 

剥がしてみよう、という言葉。

 

俺はすぐに手を離した。

 

「先輩二人が持っています。今夜、封印を剥がすつもりです」

 

伊地知さんの顔色が変わる。

 

伏黒が即座に聞く。

 

「名前は」

 

俺は首を振った。

 

「そこまでは読めない。部室の記録が混ざってる。顔も曖昧です」

 

「正確な時刻は」

 

「不明。ただ、放課後以降。夜に校舎へ戻るつもりだった」

 

伏黒は短く息を吐き、伊地知さんを見た。

 

「持ち出した男子生徒の身元は」

 

「確認します」

 

伊地知さんはすぐに連絡を取った。学校側、補助監督側の情報網、そしてこの学校の記録。しばらくして、伊地知さんがこちらを見る。

 

「虎杖悠仁。現在は市内の病院にいるようです」

 

その名前に、喉の奥が詰まった。

 

来た。

 

ついに、口に出された。

 

「そいつなら、先輩たちの名前や連絡先を知ってる可能性が高い」

 

伏黒の判断は早かった。

 

「今すぐ確認する。先輩たちを直接止める手がかりがいる」

 

合理的だった。

 

今すぐ学校に張り込むより、先輩二人の所在を特定する。指を持ち出した本人なら、部員の名前も、連絡先も、行動予定も知っている可能性がある。

 

だから病院へ向かう。

 

原作で知っている流れと、俺たちの調査で得た情報が、少し違う順番で繋がっていく。

 

それが怖かった。

 

知っている道を歩いているはずなのに、足元の石の位置が違う。

 

俺たちは、病院へ向かった。

 

虎杖悠仁がそこにいることを、俺は知っていた。

 

だが病院の入口に立つと、足が少し止まった。

 

病院は、記録が濃い場所だ。生と死が近い。痛み、不安、安堵、別れ。壁も床も手すりも、触れれば何かを拾ってしまう気がした。

 

そして今日は、虎杖の祖父が亡くなった日だ。

 

俺は手すりから手を離した。

 

読むな。

 

ここは読むべき場所ではない。

 

他人の家族の死を、勝手に覗くな。

 

伏黒が先に進む。俺はなるべく何にも触れないように、その後ろを歩いた。

 

病室近くの廊下で、虎杖悠仁に会った。

 

思っていたより普通の少年だった。

 

ピンクがかった髪。人懐っこそうな顔。だが、立ち方がおかしい。体の軸が異様に安定している。病院の廊下でただ立っているだけなのに、いつでも走れるような体の作りをしている。

 

この少年が、宿儺の器になる。

 

そう思った瞬間、喉が乾いた。

 

だが、目の前の彼はまだ何も知らない。

 

祖父を亡くしたばかりの、ただの高校生だった。

 

伏黒が声をかける。

 

「虎杖悠仁だな」

 

「そうだけど。誰?」

 

警戒はある。だが、怯えてはいない。

 

伏黒は単刀直入に言った。

 

「お前が持ち出した包みについて話がある」

 

虎杖は眉をひそめた。

 

「ああ、あれか。でも俺、持ってないぞ」

 

空気が落ちた。

 

伏黒の顔が険しくなる。

 

「どこにある」

 

「先輩たちが持ってる。今夜、学校で封印を剥がすって言ってたけど」

 

分かっていた。

 

分かっていたのに、胸の奥が冷えた。

 

間に合っていない。

 

いや、まだ完全には遅くない。

 

でも、流れはもう始まっている。

 

伏黒が短く言った。

 

「先輩の名前と連絡先を教えろ」

 

虎杖はただならぬ気配を感じたのか、すぐに答えた。伊地知さんがその場で連絡を試みる。だが、つながらない。学校側にも確認が飛ぶ。二人はもう、校内に戻っている可能性が高かった。

 

伏黒が動く。

 

「学校へ戻る」

 

虎杖も顔色を変えた。

 

「先輩たち、危ないのか」

 

「危ない。お前は来るな」

 

「行く」

 

伏黒の声が低くなる。

 

「お前は一般人だ。来ても邪魔になる」

 

「俺が持ってきたせいで先輩が危ないなら、行く」

 

虎杖の声には迷いがなかった。

 

その迷いのなさが、怖かった。

 

自分の命を勘定から外す人間。

 

俺は虎杖を見た。

 

「来るなら――」

 

言いかけた瞬間、伏黒が俺を睨んだ。

 

「来させるな」

 

低い声だった。

 

「こいつは一般人だ。巻き込まない」

 

正しい。

 

あまりにも正しい。

 

だから俺は、それ以上言えなかった。

 

俺は虎杖が来ることを知っている。来るなと言われて、来ないでいられる人間なら、俺はこの少年の名前を前世で覚えていない。

 

でも、伏黒の言葉を否定することはできない。

 

一般人を危険に近づけない。

 

それは呪術師として、当たり前の正しさだった。

 

伏黒は虎杖に背を向ける。

 

「ここにいろ」

 

虎杖は何か言い返そうとしたが、伏黒の表情を見て口を閉じた。

 

俺たちは病院を出た。

 

夜の杉沢第三高校は、昼間とは別の場所だった。

 

校門を越えた瞬間、空気が変わる。昼に聞こえていた部活の声も、廊下のざわめきも消えている。普通の学校の記録が、夜の静けさの下で薄く震えていた。

 

その下から、呪いの気配が浮いてくる。

 

伏黒が先行する。

 

俺は必死で走った。

 

息が切れる。足が重い。鞄の中の短棒が揺れる。階段の手すりに触れそうになり、触れないように体をずらす。今は余計な記録を読むな。必要なものだけ拾え。

 

『校舎ノ中デ、呪力ガ増エテイル』

 

アンダー・ワールドの声がする。

 

『上階ニ、一般人ガ二人イル』

『複数ノ呪霊ガ、ソコヘ向カッテイル』

 

「場所は」

 

『北側ノ階段。三階。イヤ、さらに上ダ』

 

伏黒がこちらを振り返る。

 

「分かるのか」

 

「上階。一般人二人。呪霊が向かってる」

 

「急ぐぞ」

 

分かっている。

 

分かっているが、体が追いつかない。

 

夜の校舎が揺れる。

 

窓ガラスが震えた。

 

遠くから悲鳴が聞こえた。

 

その瞬間、俺の知っている漫画の場面が、現実の音と匂いを持った。

 

インクではない。

 

ページではない。

 

人の悲鳴だ。

 

床を蹴る足音だ。

 

埃と、呪いと、夜の学校の臭いだ。

 

「三原透、十五歳。ここは杉沢第三高校。これは俺の体」

 

俺は走りながら唱えた。

 

過去ではない。

 

記録でもない。

 

これは今だ。

 

上階で、何かが壁に叩きつけられる音がした。

 

伏黒が走る。

 

俺は息を切らして、その後を追う。

 

その時だった。

 

背後で、窓ガラスが派手に割れる音がした。

 

ありえない速度で、誰かが校舎の外から飛び込んでくる。

 

振り返らなくても分かった。

 

来るなと言われて、来ないでいられる人間なら。

 

たぶん、俺は虎杖悠仁という名前を覚えていない。

 

俺の知っている第一話が、俺の知らない速度で始まった。

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