アンダー・ワールド・レコード   作:そこら辺のスタンド使い

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第二話 空き地のかくれんぼ

 

翌朝、俺は自分に三つの規則を課した。

 

一つ、空き地を見ない。

二つ、空き地に近づかない。

三つ、誰かが空き地に入ろうとしていたら、必ず大人を呼ぶ。

 

『三ツ目ハ、空キ地ニ関ワル前提ニナッテイル』

 

「保険だよ。危機管理のできる六歳児は、あらゆる事態を想定するんだ」

 

朝食のトーストをかじりながら、俺は心の中で答えた。

 

アンダー・ワールドは昨夜から、俺の背後に立ったままだった。母親にも父親にも見えていない。念のため、母親の目の前で左右へ動かしてみたが、視線は一度もそちらへ向かなかった。

 

一般人には見えない。そこだけはスタンドと似ているらしい。

 

『私ハ、スタンドデハナイ』

 

「人の思考を勝手に読むな」

 

『思考デハナイ。お前ガ私ニ向ケタ意識ダ』

 

「その違い、六歳児には難しいんだよ」

 

「透、さっきからどうしたの?」

 

母親が怪訝そうにこちらを見る。

 

「パンと心の中で会話してた」

 

「今日のパン、おいしい?」

 

「極めて平和な味がする」

 

母親は少し首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。

 

危ないところだった。

 

今後、アンダー・ワールドとの会話は原則として心の中で行うべきだろう。六歳児が独り言を繰り返していても、しばらくは空想上の友達で済む。しかし十年後も続けていたら、呪術高専より先に別の施設を紹介されかねない。

 

朝食を終えた俺は、自室で術式の検証を始めた。

 

いきなり呪いの残る空き地へ行くほど馬鹿ではない。まず安全な場所で、何ができて何ができないのかを把握する。

 

最初に選んだのは、机の引き出しに入っていた鉛筆だった。

 

「この鉛筆の記録を見せてくれ」

 

『接触シロ』

 

言われたとおり、鉛筆を握る。

 

指先から冷たいものが入り込み、腕を伝って頭へ昇ってきた。

 

次の瞬間、見慣れた自分の机が薄く透け、その上に別の光景が重なった。

 

母親が鉛筆へ一本ずつ名前を書いている。入学準備のために買ってくれたものだ。過去の母親は同じ姿勢で何本も名前を書き続け、途中で疲れたように肩を回した。

 

映像は十秒ほどで途切れた。

 

「……今のが記録?」

 

『ソウダ』

 

「いつの出来事か分かるか?」

 

『正確ナ時刻ハ不明。オヨソ十二日前』

 

「記録に日付が書いてあるわけじゃないんだな」

 

『物体ハ、時計デハナイ』

 

「それもそうか」

 

次はクローゼットの扉。三日前、父親が緩んだ蝶番を直していた。

 

本棚。昨日、俺が古い漫画を取ろうとして母親に見つかり、「まだ早い」と一番上の段へ移されていた。

 

枕。昨夜、俺が空き地のことを考えながら何度も寝返りを打っていた。

 

「枕の記録はいらない」

 

『強イ不安ガ残ッテイル』

 

「自分の寝相を第三者視点で見せられる方が不安だよ」

 

いくつか試したことで、能力の輪郭が少し分かった。

 

現時点の俺にできるのは、触れた物や場所に残された過去を、映像や音として見ることだけ。すべての出来事が同じ鮮明さで残っているわけではなく、強い感情や呪力を伴ったものほど見えやすい。

 

検索条件が曖昧だと、何が出てくるかも分からない。

 

「昨日、この部屋で起きた一番大きな出来事」

 

そう指定したところ、母親が巨大なクモを発見して悲鳴を上げた記録が出てきた。

 

事件の規模ではなく、感情の強さで選ばれたらしい。

 

「人間の主観に左右されすぎじゃない?」

 

『記録ヲ刻ムノハ、人ノ認識ト感情ダ』

 

「防犯カメラみたいには使えないのか」

 

『私ハ、機械デハナイ』

 

一時間ほど続けた頃には、目の奥が痛くなっていた。軽い頭痛もある。映像を見ているだけに思えて、しっかり呪力を消費しているようだ。

 

『休息ヲ推奨スル』

 

「お前、意外と親切だな」

 

『術者ガ倒レレバ、私モ活動デキナイ』

 

「心配した一秒を返せ」

 

俺はベッドへ寝転がった。

 

術式はあった。しかし、今のところ完全に調査専用だ。

 

呪霊と遭遇しても、相手の過去を調べている間に食われて終わる。生存率が上がったというより、死ぬ直前に事件の真相が分かるようになっただけではないだろうか。

 

窓の方を見る。カーテンは閉めたままだ。

 

その向こう側に、例の空き地がある。

 

もちろん行かない。

 

俺は生存を第一に考える、理性的な転生者なのだ。好奇心だけで怪しい廃墟へ入る登場人物とは違う。空き地に何が残っていようが、俺には関係ない。

 

そう決めて、三日が過ぎた。

 

「猫、見なかった?」

 

家の前で遊んでいた俺に声をかけたのは、近所に住んでいる女の子だった。

 

名前は知らない。道ですれ違えば挨拶をする、その程度の相手だ。

 

「猫?」

 

「うちの猫。朝から帰ってこないの」

 

女の子は今にも泣きそうな顔をしていた。

 

「お母さんは?」

 

「そのうち帰ってくるって。でも、さっき鳴いてたの」

 

「どこで?」

 

女の子が指差した先を見て、俺は固まった。

 

例の空き地だった。

 

錆びたフェンス。伸び放題の雑草。その奥に沈んだ薄暗い空間。昼間だというのに、そこだけ光が弱い。

 

『古イ記録ガ、濃クナッテイル』

 

「報告しなくていい」

 

思わず声に出してしまった。

 

「え?」

 

「いや、なんでもない。それより、あそこには入ってないよな?」

 

女の子は首を横に振った。

 

「怖いから入ってない」

 

「偉い。とても正しい判断だ。猫なら大人と一緒に捜そう」

 

「でも、また鳴くかもしれないよ」

 

「鳴いても一人で入ったら駄目だ。地面に穴があるかもしれないし、割れたガラスが落ちてるかもしれない。猫を見つけても、君が怪我したら意味ないだろ」

 

六歳児にしては説教臭かったかもしれない。

 

だが、女の子は素直に頷いた。

 

「分かった」

 

「絶対に入るなよ」

 

「うん」

 

念を押してから、俺は母親へ事情を話した。近所で猫がいなくなり、あの空き地から鳴き声がしたらしい、と。

 

母親はすぐに女の子の家へ知らせてくれた。

 

これでいい。

 

危険を見つけたら大人を呼ぶ。自分では近づかない。

 

三つ目の規則まで完璧に守った。

 

その日の夕方。

 

自室の机に向かっていた俺の耳に、猫の鳴き声が届いた。

 

にゃあ。

 

にゃあ。

 

か細い声が、一定の間隔で繰り返されている。

 

俺は動かなかった。

 

聞こえない。何も聞こえない。

 

近所には何匹も猫がいる。鳴き声くらい、どこから聞こえてもおかしくない。

 

『空キ地カラ聞コエル』

 

「方角まで報告するな」

 

仕方なくカーテンの隙間から外を覗いた。

 

空き地の前に、昼間の女の子が立っていた。

 

「嘘だろ……」

 

女の子はフェンスの隙間へ手をかけ、向こう側へ体を滑り込ませようとしている。

 

俺は窓を開けた。

 

「おい!」

 

声は届かなかった。

 

いや、聞こえているのに反応していないように見えた。女の子は空き地の奥を見つめたまま、ゆっくりと中へ入っていく。

 

その先から、また猫の声がした。

 

にゃあ。

 

おいで。

 

今度は猫の鳴き声に混じって、人間の声が聞こえた。

 

背中に冷たい汗が流れた。

 

俺は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。

 

「お母さん! 近所の子が空き地に入った!」

 

台所にいた母親が振り返る。

 

「えっ?」

 

「あの猫を捜してた子! 早く来て!」

 

言い終わるより先に、俺は玄関を飛び出した。

 

母親もすぐに追ってくる。俺の役目は、これで終わりだ。空き地の前で待っていればいい。

 

フェンスへ到着した俺は、中を覗き込んだ。

 

女の子の姿はなかった。

 

『少女ハ、既ニ記録ノ内側ニ入ッタ』

 

「どういう意味だ?」

 

『現在ノ位置ヲ、外部カラ認識シニクイ』

 

「母さんが来るまで待っても大丈夫か?」

 

『不明』

 

「助けられると思うか?」

 

『不明』

 

「役に立たないな、お前!」

 

『ダガ、時間ノ経過ト共ニ、発見ハ困難ニナル』

 

最悪だった。

 

俺はフェンスの前で足を止めた。背後を振り返ったが、母親はまだ来ていない。

 

空き地の奥から、子供の笑い声が聞こえた。

 

もういいかい。

 

まあだだよ。

 

俺は泣きたくなった。

 

嫌だ。絶対に入りたくない。

 

俺は主人公ではない。六歳児だ。腕力もなければ、呪霊を倒す方法もない。使える術式は、物に触れて過去を見るだけ。

 

こんな場所へ入ったら、普通に死ぬ。

 

それでも、あの子が空き地へ入っていくのを見てしまった。

 

「……三つ目の規則では、大人を呼ぶところまでだったよな」

 

『ソウダ』

 

「なら俺は、もう義務を果たした」

 

『ソウダ』

 

「入らなくていいよな?」

 

アンダー・ワールドは答えなかった。

 

「そこは肯定しろよ……!」

 

俺はフェンスの隙間へ体をねじ込んだ。

 

中へ足を踏み入れた瞬間、周囲の音が消えた。

 

車のエンジン音も、遠くで遊ぶ子供たちの声も、母親が俺を呼ぶ声も聞こえない。

 

代わりに、すぐそばで何人もの子供が笑っていた。

 

だが、姿はどこにもない。

 

『現在ト過去ガ、重ナッテイル』

 

空き地は、外から見たときより広く感じられた。

 

雑草の間に、存在しないはずの柱が見える。地面には壁の影が伸び、目を離すたびに部屋の形が変わる。

 

昔、ここに建っていた家の記録だ。

 

「どこにいる!」

 

返事はない。

 

俺は地面へ手を置いた。

 

「アンダー・ワールド。今ここへ入った女の子の記録を探せ」

 

『検索スル』

 

冷たいものが腕を駆け上がり、視界が切り替わった。

 

女の子が、猫の声を追って空き地の奥へ歩いている。足元には、本人の影とは別に、何人もの子供の影がまとわりついていた。

 

映像が途切れる。

 

「続きは?」

 

『複数ノ記録ガ混在シテイル。選別ニ時間ガ要ル』

 

「急いでくれ!」

 

もう一度、地面へ触れる。

 

今度は別の光景が流れ込んできた。

 

古い家。夕暮れ。数人の子供が走り回っている。

 

じゃんけんをして、一人の少年が壁に顔を伏せた。

 

もういいかい。

 

まあだだよ。

 

かくれんぼだった。

 

子供たちは家の中へ散っていく。押し入れ、縁側の下、物置の裏。

 

一人の小さな少年が、廊下の床板を持ち上げた。床下には、狭い収納場所がある。

 

少年は得意そうに笑い、その中へ潜り込んだ。

 

直後、記録が飛んだ。

 

激しい音。

 

暗闇。

 

少年が床板を押し上げようとしている。

 

開かない。

 

「おい! ここだよ!」

 

何度も床板を叩く。

 

「もう出る! ここ! 開けて!」

 

返事はない。

 

外では、子供たちの足音が遠ざかっていく。

 

真っ暗な空間で、少年の息が次第に荒くなる。爪が割れても、床板を引っかき続ける。

 

「ここだよ」

 

声が震えている。

 

「見つけて」

 

胸が締めつけられた。

 

暗い。

 

狭い。

 

息ができない。

 

誰も来ない。

 

それは映像ではなかった。

 

気づいたときには、俺自身が暗闇の中にいた。

 

小さな手で頭上の床板を叩いている。爪が剝がれ、指先が痛い。それでも止められない。

 

俺の手ではない。

 

俺の痛みでもない。

 

分かっているのに、体は勝手に動き続けた。

 

「ここだよ!」

 

喉から出たのは、俺ではない子供の声だった。

 

「見つけて!」

 

『警告スル。記録ガ、お前ヲ再演ニ取リ込ンデイル』

 

「それを……先に言え!」

 

返事をしたつもりだった。

 

だが、実際に口から出たのは、掠れた悲鳴だけだった。

 

俺は過去を見ているのではない。

 

過去に、見られている。

 

少年が感じた恐怖を、同じ順番でなぞらされている。

 

『接触ヲ解除シロ』

 

「できるなら……やってる!」

 

自分の手がどこにあるのか分からない。

 

頭上には床板。周囲には息苦しい暗闇。遠くから子供たちの笑い声が聞こえる。

 

誰も来ない。

 

このまま誰にも見つけてもらえない。

 

そんなはずはない。

 

これは過去だ。

 

俺は三原透だ。

 

六歳で、転生者で、今は空き地の地面へ手をついている。

 

必死に自分の名前を繰り返す。

 

そのたびに暗闇へ細い亀裂が入り、現在の空き地が覗いた。

 

俺は力任せに腕を引いた。

 

地面から手が離れる。

 

映像が砕け、俺は草の上へ倒れ込んだ。

 

息ができる。

 

夕方の空が見える。

 

それだけで泣きそうになった。

 

『強イ記録ハ、観測者ヲ役割ニ固定スル』

 

「先に……言え……」

 

『今、理解シタ』

 

「お前も初見かよ……!」

 

額から汗が落ち、胃の中のものが逆流しそうになる。

 

そのとき、空き地の奥から声がした。

 

「誰か……」

 

昼間の女の子だった。

 

「どこだ!」

 

「暗い……開かないよ……」

 

声は地面の下から聞こえている。

 

過去の家の廊下と、現在の空き地が重なっていた。だが、見えるのは雑草と土だけで、床下の入口がどこにあったのか分からない。

 

「場所を探せ、アンダー・ワールド!」

 

『記録ガ多スギル』

 

「何か目印はないのか! あの子が隠れた直前に――」

 

視界の端を、赤いものが横切った。

 

小さなボールだった。

 

半透明の赤いボールが、雑草をすり抜けながら地面を転がっていく。

 

俺が呼び出したものではない。

 

ボールは同じ場所で何度も現れては、同じ軌道を転がっている。

 

『記録ガ、自律的ニ再演サレテイル』

 

「勝手に始まったのか?」

 

『ソウダ』

 

ボールは、古い家の廊下を転がり、壁に当たり、床下収納の前で止まる。

 

そして消える。

 

過去が、俺に場所を教えている。

 

俺はボールを追った。

 

空き地の中央近くで膝をつき、土を掻き分ける。やがて、錆びた金属の取っ手が現れた。

 

「ここか!」

 

両手で掴んで引く。

 

動かない。

 

「そこにいるのか!」

 

「いる……怖いよ……」

 

「今開ける!」

 

もう一度引いたが、びくともしない。

 

六歳児の腕力ではどうにもならない。

 

「アンダー・ワールド! この入口が開いた過去を再演できないのか?」

 

『不可能ダ』

 

「即答するな!」

 

『現在ノお前ハ、記録ヲ読ムコトシカデキナイ』

 

「じゃあ、どうやって助けるんだよ!」

 

背後で、子供たちの笑い声が近づいてきた。

 

もういいかい。

 

もういいよ。

 

振り返ると、存在しない柱の影から黒いものが滲み出していた。

 

人の形をしている。だが、頭も手足も不自然に細長く、顔のある場所には真っ暗な穴しかない。

 

『呪イガ、形ヲ取リ始メテイル』

 

「それをもっと早く言え!」

 

黒い影が、こちらへ歩き始めた。

 

逃げなければならない。

 

だが、この子を置いていけば、あの少年と同じ目に遭う。

 

俺は取っ手を握り、何度も引いた。

 

「開け! 頼むから開け!」

 

指が滑る。

 

腕に力が入らない。

 

黒い影が近づいてくる。

 

そのとき、俺の手へ冷たいものが重なった。

 

半透明の小さな手だった。

 

少年の手。

 

俺が呼び出したのではない。

 

暗闇の底に沈んでいた過去の方が、俺を見つけたのだ。

 

『警告スル。記録ガ、新タナ再演ヲ開始シタ』

 

「止められるか?」

 

『不可能ダ』

 

「できないことが多すぎるだろ、俺の術式!」

 

少年の手が、俺の手を強く掴んだ。

 

次の瞬間、俺の腕が勝手に動いた。

 

取っ手を掴み直す。

 

腰を落とす。

 

両足を踏ん張る。

 

俺の知らない動きだった。

 

俺は入口を開けようとしているのではない。

 

かつて誰かがこの床板を開けた動作を、同じ順番でやらされている。

 

ぎいっ、と金属が悲鳴を上げた。

 

土の下から、古い蓋がわずかに浮く。

 

「開いた……!」

 

俺は隙間へ指を入れ、全体重をかけて持ち上げた。

 

現れたのは、深い穴ではなかった。

 

狭く暗い空間の中で、女の子が膝を抱えて震えている。

 

現実には存在しない、過去の床下だ。

 

「手を伸ばせ!」

 

女の子の腕を掴む。

 

「動けない……!」

 

「動け! かくれんぼは終わりだ!」

 

女の子の背後に、小さな少年が座っていた。

 

青白い顔で、こちらを見ている。

 

少年の口が動いた。

 

見つけた?

 

「ああ」

 

自分でも、なぜ答えたのか分からない。

 

「見つけた」

 

少年は、ほんの少しだけ笑った。

 

次の瞬間、女の子の体が軽くなった。

 

俺は彼女を穴から引っ張り出した。蓋が地面へ落ち、過去の床下は跡形もなく消えた。

 

黒い影が、すぐ背後まで迫っていた。

 

『逃ゲロ』

 

「それは俺でも分かる!」

 

女の子の手を掴み、走り出す。

 

空き地の出口がひどく遠く見えた。周囲では存在しない壁が次々と立ち上がり、廊下が伸び、扉が閉まり、俺たちを古い家の中へ閉じ込めようとしている。

 

俺の足が、突然別の方向へ曲がった。

 

右へ三歩。

 

そこで床板を飛び越え、左へ体をひねる。

 

「また勝手に……!」

 

『別ノ記録ニ取リ込マレテイル』

 

過去にこの家から逃げた誰かの動きが、俺の体を使って再現されている。

 

直後、さっきまでいた場所から黒い腕が突き出した。

 

結果的には助かった。

 

だが、自分の体が自分の命令を聞かない感覚は、気持ちが悪いなんてものではなかった。

 

「次にどっちへ動くか分かるか!?」

 

『不明』

 

「自分の術式なのに!?」

 

『主導権ハ、記録ニアル』

 

「最悪だ!」

 

足がまた勝手に走り出す。

 

女の子の手だけは離さないよう、必死に握りしめた。

 

フェンスが見えた。だが、その手前に古い家の壁が重なっている。

 

「通れるのか!?」

 

『ソレハ記録ダ。現実ノ壁デハナイ』

 

「先にそれを言え!」

 

俺は女の子の手を握り、目をつぶって壁へ突っ込んだ。

 

一瞬、冷たい水の中を通り抜けるような感覚があった。

 

次の瞬間、俺たちはフェンスの外へ転がり出た。

 

背後で、何人もの子供が一斉に笑った。

 

振り返る。

 

黒い影はフェンスの向こう側に立ち、俺たちを見つめていた。

 

追ってはこない。

 

いや、外へ出られないのだ。

 

「透!」

 

母親が駆け寄ってきた。女の子の親らしき人や、近所の大人たちもいる。

 

「何してるの! あそこには入っちゃ駄目って、いつも言ってるでしょう!」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

安堵した途端、全身の力が抜けた。

 

母親に抱きしめられながら、俺は空き地を見た。

 

もう黒い影は見えない。

 

ただの古びた空き地が、夕暮れの中に沈んでいた。

 

その日の夜、俺は大人たちから散々叱られた。

 

説明はひどく難しかった。

 

猫を捜して女の子が空き地へ入り、それを見た俺が追いかけた。中で怖くなり、二人で外へ出てきた。

 

結局、そういうことになった。

 

女の子自身も、空き地の中で何が起きたのか、ほとんど覚えていなかったらしい。

 

ちなみに、いなくなった猫はその子の家の押し入れで眠っていた。

 

つまり、空き地から聞こえた鳴き声は最初から偽物だったのだ。

 

ベッドへ入ってから、俺はアンダー・ワールドに尋ねた。

 

「あれは、消えたのか?」

 

『消エテイナイ』

 

予想はしていた。

 

俺がしたのは、一人を連れ戻しただけだ。土地に残った記録も、そこから生まれかけていた呪いも、まだ空き地に残っている。

 

「少年は助かったのか?」

 

『不明』

 

「……死んだのか?」

 

『ソノ結末ハ、確認デキナカッタ』

 

記録の中では、少年が閉じ込められたところまでしか見ていない。誰かが後で見つけたのかもしれないし、そのまま誰にも見つからなかったのかもしれない。

 

「あの入口を開けたのは、俺じゃないんだよな?」

 

『ソウダ』

 

「少年の記録が勝手に動いた」

 

『正確ニハ、記録ガ、お前ヲ再演ノ一部トシテ利用シタ』

 

「利用って……俺の意思は?」

 

『考慮サレナイ』

 

最悪だった。

 

俺の術式は過去を再演する能力ではない。

 

少なくとも、今の俺にはそんなことはできない。

 

強い記録に触れれば、過去の方が勝手に動き出す。そして俺は、そのとき空いている役へ押し込まれる。

 

観客のつもりで舞台へ近づいたら、突然衣装を着せられ、台本も渡されないまま本番へ放り出される。

 

「次も同じことが起きるのか?」

 

『不明』

 

「そればっかりだな」

 

『術式モ、お前ト同ジク発現直後ダ』

 

「一緒に初心者なのかよ……」

 

俺は布団を頭までかぶった。

 

「もう関わらないからな」

 

『了解シタ』

 

「あとは大人に任せる。俺は今日、十分すぎるほど頑張った。六歳児の仕事量じゃない」

 

『同意スル』

 

「明日からは普通に生きる。危ない場所には近づかない。術式も安全なところで練習する」

 

『ソレガ良イ』

 

珍しく意見が一致した。

 

俺は目を閉じた。

 

しばらくして、アンダー・ワールドが言った。

 

『ダガ、一ツ問題ガアル』

 

「聞きたくない」

 

『少年ガ床下ニ入ッタ直後ノ記録ガ、欠ケテイル』

 

目を開けた。

 

「欠けてる?」

 

『記録ハ連続シテイナイ。少年ガ入ッタ後、何者カガ入口ニ触レタ痕跡ガアル。ダガ、ソノ瞬間ダケ読メナイ』

 

「古くて消えたんじゃないのか?」

 

『違ウ』

 

感情のない声が、頭の奥へ落ちてきた。

 

『何カニ、隠サレテイル』

 

少年は事故で閉じ込められたのではない。

 

誰かが入口を閉めた。

 

そして、その瞬間だけが見えなくなっている。

 

俺は布団の中で頭を抱えた。

 

見なければよかった。気づかなければよかった。

 

けれど一度知ってしまった以上、頭は勝手に考え始めている。

 

誰が少年を閉じ込めたのか。

 

なぜ、その瞬間だけ読めないのか。

 

そして、記録を隠している何かが、今もあの空き地にいるのではないか。

 

『調査スルカ?』

 

「しない」

 

俺は即答した。

 

『了解シタ』

 

「絶対にしないからな」

 

『了解シタ』

 

「その返事、信じてないだろ」

 

『私ニ、信頼という感情ハナイ』

 

「じゃあ、何で二回も確認したんだよ」

 

『お前ハ、調査スル』

 

「しないって言ってるだろ!」

 

翌朝。

 

「お母さん。図書館に行きたい」

 

朝食の席でそう言うと、母親は意外そうに目を瞬かせた。

 

「急にどうしたの?」

 

「この町の昔のことを調べたいんだ」

 

「学校の宿題?」

 

「……自主学習」

 

母親は嬉しそうに笑った。

 

「透は勉強熱心ね。じゃあ、お昼を食べたら一緒に行きましょうか」

 

「うん」

 

答えながら、俺は食卓へ額をつけたくなった。

 

調査ではない。

 

これは安全確認だ。

 

近所の空き地で昔何が起きたのかを図書館で調べるだけ。ただの郷土学習であり、危険な事件へ首を突っ込む行為では断じてない。

 

『調査ヲ開始スル』

 

「自主学習だよ」

 

『了解シタ』

 

「絶対分かってないだろ、お前……」

 

本当に嫌になる。

 

どうやら俺は前世から、自分で思っていたほど賢い人間ではなかったらしい。

 

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