アンダー・ワールド・レコード   作:そこら辺のスタンド使い

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第五話 見つからないために

 

空き地の事件が終わった翌日、俺は高熱を出した。

 

体温は三十九度を超え、全身が鉛のように重かった。目を閉じれば、二十数年前の古い家が浮かんでくる。

 

もういいかい。

 

まあだだよ。

 

暗い床下。扉を叩く小さな手。少年を置き去りにし、出口へ向かう子供たちの足音。

 

過去の再演は終わったはずなのに、その残響だけが頭の中にこびりついていた。

 

「透、大丈夫?」

 

母親が、額に載せた濡れタオルを交換してくれる。

 

「うん。寝れば治ると思う」

 

「昨日のこと、まだ怖い?」

 

「……ちょっとだけ」

 

嘘ではなかった。

 

母親が俺の髪を撫でる。

 

「何かあったなら、ちゃんと話してね。透は、ときどき一人で全部抱え込もうとするから」

 

六歳児に言う台詞ではない。

 

だが、実際に中身は一度人生を終えた人間なので、母親の評価は恐ろしいほど正確だった。

 

「分かった。もう危ない場所には近づかない」

 

今度こそ本気で言った。

 

空き地の再演から抜け出せたのは、母親が俺の手を引いてくれたからだ。

 

自分一人の問題ではない。

 

俺が危険へ近づけば、家族まで巻き込まれる。

 

枕元には、アンダー・ワールドが立っていた。普段より輪郭が薄く、陽炎のように揺らいでいる。

 

『呪力ノ消耗ガ大キイ』

 

「お前も疲れるのか?」

 

『私ハ、お前ノ術式ダ』

 

「俺が弱ってるから、お前も薄いのか」

 

『ソウダ』

 

「便利そうで不便だな、俺たち」

 

『同意スル』

 

珍しく意見が一致した。

 

俺は三日間、ほとんどベッドから出られなかった。

 

熱が下がったあとも、しばらく術式は使わなかった。アンダー・ワールドに止められたからではない。俺が自分で決めたのだ。

 

強い記録に触れれば、過去に体を奪われる。無理に抵抗すれば、高熱を出して寝込む。

 

六歳児の体には、術式の負担が大きすぎる。

 

ならば、もう使わなければいい。

 

そう思っていた数日後、例の空き地に見慣れない車が止まった。

 

「……あれ、誰だ?」

 

自室の窓から様子を窺う。

 

黒いスーツを着た男女が、新しく設置された柵の内側を調べていた。警察にも、工事業者にも見えない。

 

一人が地面へしゃがみ込み、指先を土へ近づける。

 

その周囲に、薄い呪力が流れていた。

 

『呪力ヲ扱ウ者ダ』

 

「呪術師か?」

 

『戦闘能力ハ低イト推定。ダガ、呪術ニ関与シテイル』

 

おそらく補助監督か、呪術高専に関係する調査員だ。

 

空き地の異変が、ようやく呪術界に見つかったらしい。

 

普通なら安心するところだろう。専門家が来た。あとは任せればいい。

 

しかし、俺の背中には嫌な汗が流れていた。

 

調査員の一人が、地面を見ながら口を開く。

 

「呪霊の残穢だけではありませんね」

 

「別の術式が干渉している。土地に残ったものを読み取ったような痕跡だ」

 

「未登録の術師でしょうか」

 

俺は静かにカーテンを閉めた。

 

「まずい」

 

『何ガダ』

 

「俺が見つかる」

 

呪術界が術師をどう扱うのか、原作知識だけでは分からない部分も多い。

 

少なくとも六歳児の俺が、「前世で漫画を読んでいたので、この世界の未来を少し知っています」と正直に話せる相手ではない。

 

保護という名目で、呪術界の管理下へ置かれるかもしれない。術式を調べるため、面倒な家に目をつけられる可能性もある。

 

五条悟が助けてくれる保証などない。

 

そもそも、今の五条悟は俺の存在すら知らない。

 

俺は一般家庭の子供だ。このまま何も知らないふりをしている方が、絶対に安全だった。

 

窓の外では、調査員が空き地から出てきた。

 

地面に残る何かを追うように、ゆっくりと俺の家の方へ歩いてくる。

 

『お前ノ残穢ヲ追跡シテイル』

 

「消せないのか?」

 

『既ニ残ッタ記録ハ、消セナイ』

 

「その仕様だけは一貫してるな!」

 

窓から離れる。

 

だが、俺の背後にはアンダー・ワールドが立っている。

 

呪力を扱える者には、こいつが見える。この状態で調査員と顔を合わせれば、一発で終わる。

 

「アンダー・ワールド。消えろ」

 

『不可能ダ』

 

「そこを何とかしろ!」

 

『私ハ術式ノ一部ダ。消滅ハデキナイ』

 

「消滅しろとは言ってない。引っ込め!」

 

どうすればいい。

 

こいつは俺の前世知識を使い、俺が理解しやすい形で外へ現れている。

 

ならば、外へ出た形を解けばいい。

 

術式を使うときとは逆だ。

 

外へ向けていた意識を、自分の内側へ押し込む。

 

「戻れ」

 

アンダー・ワールドの輪郭が揺れた。

 

『命令ノ意味ガ不明瞭ダ』

 

「出てくる前に戻れ。俺の中に引っ込め!」

 

目元のパイプ状の器官から、全身へ幾何学的な光が走る。

 

姿が薄くなった。

 

しかし、まだ見える。

 

玄関の呼び鈴が鳴った。

 

階下から、母親と調査員の話し声が聞こえてくる。

 

「先日の空き地の件について、少しお話を伺いたいのですが」

 

階段を上がる足音。

 

「隠れろ!」

 

『試行スル』

 

アンダー・ワールドの姿が、内側から折り畳まれていく。

 

胸の奥へ、冷たい異物を押し込まれるような感覚があった。最後に右胸の星形の紋様が消え、部屋には俺だけが残された。

 

扉が開く。

 

「透、こちらの人が少しお話を聞きたいんですって」

 

母親の後ろに、黒いスーツの男が立っていた。

 

男は俺を見る。

 

正確には、俺の周囲を観察している。

 

「君も、あの空き地へ入ったんだって?」

 

「はい」

 

「中で何か変わったものを見た?」

 

「古い家みたいなものが見えた気がします。でも、怖くてよく覚えてません」

 

子供らしく、少し怯えたふりをする。

 

半分は演技で、半分は本心だった。

 

男はしばらく俺を見つめていたが、やがて視線を外した。

 

「そうか。怖い思いをしたね」

 

俺の術式には気づいていない。

 

男たちは簡単な聞き取りを終えると、帰っていった。

 

玄関の扉が閉まる。

 

俺は床へ座り込んだ。

 

「寿命が縮んだ……」

 

『発見ハ回避シタ』

 

胸の奥から、アンダー・ワールドが再び現れる。

 

「これからは必要なとき以外、出てくるな。呼んだときだけ出ろ。人前では絶対に姿を見せるな」

 

『条件ヲ記録スル』

 

「あと、俺が術式を使った痕跡も残るんだな」

 

『ソウダ』

 

他人の過去を読む俺自身も、世界へ記録を残している。

 

その事実を、俺は完全に見落としていた。

 

それから俺は、新しい生存規則を作った。

 

一つ、人前では術式を使わない。

 

二つ、危険な場所の記録は読まない。

 

三つ、深い記録へ潜るのは十秒まで。

 

四つ、再演へ巻き込まれたら、自分の名前、年齢、現在地を繰り返す。

 

五つ、アンダー・ワールドは必要なとき以外、隠しておく。

 

『守レルノカ?』

 

「守る。絶対に守る」

 

『記録スル』

 

「やめろ。破ったときに突きつける気だろ」

 

『事実ヲ保存スルダケダ』

 

「それが嫌なんだよ」

 

そして、もう一つ。

 

俺は自分の腕を見た。

 

空き地では、木箱一つまともに動かせなかった。再演に体を支配されたときも、母親が引いてくれなければ足を止められなかった。

 

術式が弱いなら、せめて体くらいは鍛えた方がいい。

 

「よし。筋トレを始めよう」

 

『目的ハ?』

 

「逃走、救助、再演への抵抗。あと健康」

 

『合理的ダ』

 

「だろ?」

 

俺は床へ両手をつき、腕立て伏せの姿勢を取った。

 

腕を曲げる。

 

そのまま床へ潰れた。

 

『一回』

 

「今のは準備運動だ」

 

もう一度体を持ち上げる。途中で腕が震え、再び潰れる。

 

『二回』

 

「数えるな」

 

『記録スル』

 

「その能力、筋トレと相性が悪すぎる!」

 

最初の目標は、腕立て伏せ五回だった。

 

達成まで二週間かかった。

 

七歳になる頃には、毎朝ラジオ体操をするようになった。

 

八歳で短距離走を始めた。

 

九歳では水泳を習い、十歳になる頃には、同年代より少し長く走れるようになった。

 

派手な修行ではない。

 

山奥で巨大な岩を動かしたり、重りをつけて滝へ打たれたりもしない。そんなことをすれば、呪霊より先に普通の事故で死ぬ。

 

走る。

 

泳ぐ。

 

登る。

 

転んでも頭を打たないよう、受け身を覚える。

 

重い荷物を持ち上げ、誰かを背負っても歩けるようにする。

 

すべては戦うためではない。

 

生きて逃げるためだった。

 

『昨日ヨリ、走行距離ガ百二十メートル増加シタ』

 

「順調だな」

 

『帰路デ歩イタ』

 

「体力配分だよ」

 

『走レナクナッタトモ言ウ』

 

「言い方!」

 

術式の練習も続けた。

 

ただし、危険な記録には触れない。

 

なくした鍵が最後に置かれた場所。

 

冷蔵庫のプリンを食べた犯人。

 

自分がテストでどこを書き間違えたか。

 

『プリンヲ食ベタノハ、父親ダ』

 

「知りたくなかった家庭の闇だ……」

 

『母親ニ報告スルカ?』

 

「家族の平和のために黙っておこう」

 

『記録ヲ隠蔽スルノカ』

 

「その言い方はやめろ!」

 

安全な記録でも、ときどき再演は起きた。

 

転がったボールの記録に足を取られ、同じ方向へ走らされた。

 

階段で転んだ人の記録へ触れ、危うく同じ転び方をさせられた。

 

そのたびに、自分の名前を繰り返した。

 

三原透。

 

今は何年。

 

俺は何歳。

 

ここはどこ。

 

これは俺の体だ。

 

最初は数秒かかっていた。

 

やがて二秒。

 

一秒。

 

中学生になる頃には、弱い再演なら体を完全に奪われる前に接触を切れるようになっていた。

 

それでも、自分から過去を再演することはできなかった。

 

俺にできるのは、記録を読むこと。

 

再演が始まった場合、割り当てられた役割へ少し抵抗すること。

 

それだけだ。

 

だが、訓練が順調だからといって、術式の危険性まで小さくなったわけではない。

 

それを思い知らされたのは、中学二年生のときだった。

 

学校の平和学習で、沖縄を訪れた。

 

日程には、沖縄戦で使われた壕跡の見学が含まれていた。

 

嫌な予感は、入口へ着いた時点でしていた。

 

『警告スル』

 

「分かってる。絶対に壁には触らない」

 

『コノ場所ノ記録ハ、極メテ濃イ』

 

「見学するだけだ。術式は使わない。触らなければ大丈夫だろ」

 

『保証ハデキナイ』

 

「平和学習を一人だけ欠席したら、親にも学校にも説明できないんだよ」

 

説明をしてくれる人の話を聞きながら、列に続いて壕へ入った。

 

湿った空気。

 

低い天井。

 

岩肌を伝う水滴。

 

懐中電灯の光が、暗闇の中で細く揺れている。

 

ここで何が起きたのか。

 

どれほど多くの人が傷つき、亡くなったのか。

 

説明される一つ一つの事実が重かった。

 

俺は両手を体の前で組み、何にも触れないよう慎重に歩いた。

 

途中までは、何も起きなかった。

 

前を歩いていた同級生が足を滑らせるまでは。

 

反射的に肩を支え、倒れないよう踏ん張る。

 

伸ばした左手が、壕の壁へ触れた。

 

『接触ヲ確認』

 

「まず――」

 

言葉を最後まで口にすることはできなかった。

 

暗闇の質が変わった。

 

懐中電灯の光が消え、代わりに遠くから地面を揺らす音が響いてきた。

 

誰かが泣いている。

 

水を求める声。

 

子供を呼ぶ声。

 

静かにするよう命じる声。

 

負傷者の呻き。

 

祈る声。

 

外へ出たいと訴える声。

 

一つではない。

 

何十、何百という記録が、同時に俺の中へ流れ込んできた。

 

『役割ヲ特定デキナイ』

 

アンダー・ワールドの声さえ、無数の記録に埋もれていた。

 

子供になった。

 

次の瞬間には、子供を抱く誰かになった。

 

負傷者を支え、暗闇を進む人間になった。

 

ここで待っていろと命じられ、置き去りにされた人間になった。

 

どれも俺ではない。

 

それなのに、すべてが自分の記憶のように押し寄せてくる。

 

一つの出来事ではない。

 

一人分の過去でもない。

 

この場所に残った、無数の人生の断片だった。

 

「三原、どうした?」

 

現在の声が聞こえた。

 

俺を呼んでいる。

 

自分の名前を思い出す。

 

三原透。

 

十四歳。

 

今いるのは過去ではない。

 

これは俺の体だ。

 

必死に繰り返す。

 

だが、足が勝手に動いている。

 

光の届かない壕の奥へ、一歩ずつ進んでいく。

 

過去の誰かが逃げた方向。

 

あるいは、逃げられなかった方向。

 

どちらなのかも分からない。

 

『接触ヲ解除シロ』

 

「手が……動かない……!」

 

壁へ押しつけられた左手が、自分の意思では離れない。

 

何人もの記録が、一つの体を奪い合っている。

 

俺は右手で左手首を掴んだ。

 

九年間鍛えた腕に力を込める。

 

指が岩肌を引っかく。

 

爪が割れそうなほど強く引く。

 

「三原透……十四歳……ここは沖縄……これは俺の体だ……!」

 

何度も繰り返す。

 

現在の自分を、過去の濁流へ打ち込む。

 

やがて左手が壁から離れた。

 

記録が途切れる。

 

気づけば俺は見学用の通路を外れ、暗い壕の奥へ歩こうとしていた。

 

同級生と教師が、二人がかりで俺の体を押さえている。

 

あと数歩進んでいれば、足場のない暗闇へ落ちていた。

 

俺は体調不良ということにされ、その後の見学を中止した。

 

壕の外へ出てからも、しばらく声は消えなかった。

 

風に吹かれながら、俺は震える左手を握った。

 

「……呪霊はいたのか?」

 

『確認デキナイ』

 

「じゃあ、今のは全部……」

 

『実際ニ、コノ場所デ起キタ出来事ノ記録ダ』

 

怪異ではない。

 

誰かが作った偽物でもない。

 

現実に起きたことが、土地へあまりにも深く刻まれていた。

 

俺の術式は、呪いに関係する過去だけを読むものではない。

 

楽しかった記憶も。

 

何気ない日常も。

 

災害も、事故も、戦争も。

 

その場所に強く残っているのなら、区別せず読み取ってしまう。

 

『コノ記録ハ、現在ノお前ガ扱エル規模デハナイ』

 

「分かってる」

 

あの場所で起きたことを、自分が理解したなどとは思わない。

 

俺が触れたのは、そこに残された断片にすぎない。

 

それでも、その重さに押し潰されかけた。

 

この日、俺は新しい規則を加えた。

 

戦跡、災害跡地、大事故の現場では、絶対に術式を使わない。

 

可能なら、何にも触れない。

 

『守レルノカ?』

 

「今回は俺から触ったんじゃない」

 

『接触シタ事実ハ同ジダ』

 

「不可抗力って言葉を記録しておけ」

 

その日の夜、宿泊先の部屋で一人になってから、俺は腕立て伏せをした。

 

術式へ抵抗できたのは、九年間、自分の体を鍛えてきたからだ。

 

過去に体を引っ張られても、最後に自分の手を引き戻すのは筋肉だった。

 

人間は裏切る。

 

呪術界の上層部は信用できない。

 

原作知識は曖昧で、俺が介入すれば展開も変わる。

 

だが筋肉は、鍛えた分だけ応えてくれる。

 

『筋肉モ、過負荷デ損傷スル』

 

「人が気持ちよく締めようとしてるときに、現実を突きつけるな」

 

『今日ノ左腕ハ、休マセルベキダ』

 

「……それは先に言えよ」

 

十五歳になる頃には、一般人としては十分に鍛えられた体になっていた。

 

長距離を走れる。

 

人一人を背負って避難できる。

 

多少転んでも、すぐに立ち上がれる。

 

『九年前ヨリ、逃ゲ足ガ速クナッタ』

 

アンダー・ワールドの評価は、それだけだった。

 

「九年間の成長を一言でまとめるな」

 

『重要ナ能力ダ』

 

「ほかにもあるだろ。持久力とか、体幹とか、術式への抵抗力とか」

 

『殴リ合エバ、普通ニ負ケル』

 

「知ってるよ!」

 

虎杖悠仁や東堂葵のような、呪術界のフィジカル勢と比べてはいけない。

 

あれは人間の形をした別の何かだ。

 

それでも俺は、九年間見つからずに生き延びた。

 

呪術師にも、呪詛師にも、呪霊にも関わらない。

 

学校へ通い、友人とくだらない話をし、帰宅すれば筋トレをする。ときどき、安全な記録だけを読む。

 

このまま原作開始まで、静かに過ごす。

 

そう決めていた。

 

二〇一七年十二月二十四日。

 

その日、用事で新宿へ出ていた俺は、街の空気が変わったことに気づいた。

 

『警告スル。多数ノ呪力反応ヲ確認』

 

「多数って、どのくらいだ?」

 

『計測不能』

 

駅前では、大勢の人が逃げ惑っていた。

 

誰もいない場所を見て悲鳴を上げる者。

 

突然倒れる者。

 

見えない何かに吹き飛ばされる者。

 

建物の壁を、黒い影が這っている。

 

一般人には見えない。

 

だが、俺には見えた。

 

呪霊だ。

 

一体や二体ではない。

 

街の至るところにいる。

 

「今日、何日だ?」

 

『十二月二十四日』

 

夏油傑。

 

大量の呪霊。

 

新宿と京都。

 

前世の記憶の中で、情報がつながった。

 

「百鬼夜行……」

 

『何ダソレハ』

 

「原作開始前の大事件だよ!」

 

忘れていた。

 

正確には、細かい日付まで自信がなかった。

 

クリスマスイブだったことだけは、皮肉が利きすぎているせいで覚えている。

 

「逃げるぞ」

 

『賛成スル』

 

即断だった。

 

俺は人の流れと呪霊の動きを確認し、安全そうな道を探した。

 

戦うつもりはない。

 

戦えるはずもない。

 

これは呪術高専の術師が対処する事件だ。俺の仕事ではない。

 

そのとき、路地の奥から子供の泣き声が聞こえた。

 

「お母さん!」

 

小さな子供が、倒れた女性のそばで泣いている。

 

その背後から、四本腕の呪霊が近づいていた。

 

「……見なかったことにできるか?」

 

『質問ノ意図ガ不明ダ』

 

「できないよな!」

 

俺は走り出した。

 

呪霊の正面には立たない。

 

走りながら身を低くし、一瞬だけ地面へ触れる。

 

直前に通過した呪霊の記録が、黒い軌跡として視界へ浮かんだ。

 

どの呪霊が、どの道を通ったか。

 

どこに集まり、どこを避けているか。

 

九年間、安全な記録だけを読んできた成果だ。

 

数秒なら、移動しながらでも浅い記録を拾える。

 

「こっちだ!」

 

子供を抱き上げる。

 

倒れていた女性にも意識はあった。

 

「立てますか!」

 

「この子を……」

 

「一緒に来てください!」

 

女性の腕を肩へ回し、走り出す。

 

背後で呪霊が叫んだ。

 

『右ノ路地ヲ推奨』

 

「理由は?」

 

『三分以内ニ、呪霊ガ通過シタ記録ガナイ』

 

右へ曲がる。

 

直後、呪霊の腕が背後の壁を砕いた。

 

女性を支え、子供を抱えたまま走る。

 

九年間の筋トレが、初めて実戦で役に立っていた。

 

嬉しくはない。

 

できれば一生、役に立ってほしくなかった。

 

「次は!?」

 

『左。階段ヲ下リロ』

 

「地下は危なくないのか?」

 

『現在ノ地上ヨリハ安全ダ』

 

「比較対象が終わってる!」

 

地下通路を抜け、避難している人々のところまで二人を送り届ける。

 

子供が母親へ抱きついた。

 

無事だ。

 

俺も無事だ。

 

なら、今度こそ逃げればいい。

 

『警告スル』

 

「今度は何だ?」

 

『観測サレタ』

 

体が固まった。

 

「誰に?」

 

『呪力ヲ扱ウ者ダ』

 

通りの向こうに、一人の術師が立っていた。

 

手に呪具を持ち、倒した呪霊のそばからこちらを見ている。

 

その視線は、俺の背後へ向けられていた。

 

アンダー・ワールドが見えている。

 

「隠れろ」

 

術式を内側へ押し戻す。

 

だが、遅かった。

 

術師は確実に俺を見た。

 

地面へ触れ、呪霊の軌跡を読み、一般人を安全な経路へ誘導したところまで。

 

『術式ヲ認識サレタ可能性ガ高イ』

 

「九年間隠したのに……」

 

『人命ヲ優先シタ結果ダ』

 

「分かってるよ」

 

後悔はしていない。

 

していないが、それとこれとは別だ。

 

術師と目が合う。

 

『顔モ認識サレタ』

 

「終わった」

 

百鬼夜行は、その日のうちに終結した。

 

夏油傑がどうなったのか、一般人の俺には確認できなかった。

 

ただ、原作知識どおりなら、もう本当の彼が再び表舞台へ現れることはない。

 

問題は、俺の方だった。

 

呪術高専側は、百鬼夜行の現場に残された術式の痕跡を調べた。

 

土地の記録へ干渉し、呪霊の移動経路を読み取った痕跡。

 

それは九年前、近所の空き地で発見された未登録術式の残穢と酷似していた。

 

九年前の記録は、消えていなかった。

 

それから数日後。

 

三原家の玄関で呼び鈴が鳴った。

 

俺は自室にいた。

 

『警告スル』

 

「誰か来たのか?」

 

『極メテ強イ呪力ヲ確認』

 

その一言で、嫌な予感が確信へ変わった。

 

階下で母親が玄関の扉を開ける。

 

「こんにちは」

 

明るく、軽い声だった。

 

聞き覚えはない。

 

だが、誰の声なのかは分かった。

 

「三原透くん、いる?」

 

俺は階段の上から玄関を覗いた。

 

背の高い男が立っている。

 

白い髪。

 

目元を覆う白い布。

 

黒い服。

 

この世界で、呪術に関わる者なら絶対に知っている男。

 

五条悟。

 

母親が振り返った。

 

「透、お客様よ」

 

「いません」

 

「いるじゃない」

 

反射的に答えてしまった。

 

五条悟が階段の上にいる俺を見上げる。

 

目を隠しているのに、確実に視線が合った。

 

アンダー・ワールドは隠している。

 

呪力も抑えている。

 

だが、そんな小細工が六眼に通じるとは思えなかった。

 

『警告スル』

 

「見れば分かる」

 

『極メテ強イ』

 

「それも知ってる」

 

五条悟は楽しそうに笑った。

 

「初めまして、三原透くん」

 

俺は答えなかった。

 

「今日は、君の進路相談に来ました」

 

九年間の潜伏生活は、その日、あっさりと終わった。

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