アンダー・ワールド・レコード   作:そこら辺のスタンド使い

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第六話 最強の家庭訪問

 

「透、お客様よ」

 

母親の声は、いつも通りだった。夕飯前に足りない食材を思い出した時と同じくらいの軽さで、玄関から俺を呼んでいる。

 

だからこそ、俺は階段の途中で固まった。

 

玄関に立っていたのは、白い髪の男だった。目元を白い布で覆い、黒い服を着て、どう見ても普通の来客ではないくせに、本人だけは異様に気楽そうな顔をしている。

 

喉が勝手に動きかけた。

 

名前を呼びそうになった。

 

五条悟。

 

現代最強の呪術師。

 

前世で読んだ漫画の中では頼れる味方側の大人で、同時に、この世界の中心に立っている災害みたいな人間。

 

俺は奥歯を噛みしめて、声になる寸前の名前を飲み込んだ。九年間、原作の固有名詞を口にしないように生きてきた。寝ぼけていても言わない。驚いても言わない。口に出したら終わる単語というものが、この世界にはいくつもある。

 

その一つが、今、我が家の玄関に立っていた。

 

俺は反射的に言った。

 

「いません」

 

「いるじゃない」

 

母親の返しは早かった。容赦がなかった。

 

男は楽しそうに片手を上げる。

 

「初めまして、三原透くん。今日は、ちょっと早めの進路相談に来ました」

 

終わった。

 

俺は十五歳にして、自分の人生が終わる音を聞いた気がした。

 

六歳の春、俺はこの世界が『呪術廻戦』の世界だと気づいた。自分の術式らしきものに目覚め、近所の空き地で死にかけて、それから九年間、必死に隠れてきた。危ない場所には近づかず、人前で術式を使わず、見えないふりをし、聞こえないふりをし、原作の中心から一ミリでも遠ざかるために努力してきた。

 

その結果がこれである。

 

原作の中心どころか、中心をぶち抜いて天井まで突き抜けているような男が、我が家の玄関に営業マンみたいな顔で立っている。

 

「えっと……どちら様ですか」

 

母親が警戒半分、困惑半分の顔で尋ねる。そりゃそうだ。目隠しした白髪の男が「進路相談です」と言って訪ねてきたら、普通は警察を呼ぶか悩む。

 

男は胸元から名刺のようなものを取り出した。

 

「東京都立呪術高等専門学校、教員の五条悟です」

 

名乗った。

 

名乗ってしまった。

 

聞いた瞬間、体の奥が冷たくなる。味方側の人間だということは知っている。少なくとも、一般人を趣味で踏み潰すような人間ではない。だが、それと安心できるかどうかは別問題だった。

 

台風が敵ではないからといって、家の中に入れていいわけではない。

 

「呪術……?」

 

母親が眉をひそめる。

 

「ああ、表向きには宗教系の専門学校みたいな扱いですね。まあ、ちょっと特殊な職業訓練校だと思ってもらえれば」

 

「透に、ですか?」

 

「はい。先日の新宿での件で、彼に少し適性があることが分かりまして」

 

新宿。

 

その単語が出た瞬間、母親の顔が曇った。

 

百鬼夜行の日、俺は帰りが遅れ、服を汚し、体調不良だと言って寝込んだ。母親には詳しいことを話していない。ただ、人混みで事故のような騒ぎに巻き込まれた、とだけ言った。

 

五条は俺を見る。

 

目元は布で隠れている。なのに、見られているのが分かった。目が合っているわけではない。もっと嫌な感覚だ。皮膚の裏側に書いたメモを、向こうから読まれているような圧迫感。

 

俺は階段の手すりを握りしめた。

 

逃げるな。

 

逃げたら、余計に怪しい。

 

そもそも、この人から逃げ切れると思うな。

 

「少し、透くんと二人で話しても?」

 

五条が母親に言った。

 

「透?」

 

母親がこちらを見る。

 

俺は一瞬だけ迷った。母親に断ってもらう手もあった。未成年だ。親が拒否すれば、この場はどうにかなるかもしれない。

 

だが、五条悟がここまで来た時点で、もう「知らないふり」は通じない。

 

「大丈夫。ちょっと話してくる」

 

「本当に?」

 

「うん。……たぶん、進路の話だから」

 

自分で言っていて、まったく大丈夫そうに聞こえなかった。

 

母親は納得していない顔をしていたが、俺の様子を見て、ため息をついた。

 

「リビングで話しなさい。玄関先じゃ寒いでしょう」

 

母さん、優しさが今だけは痛い。

 

五条悟をリビングに通すということは、我が家の安全圏に特級レベルの異物を招き入れるということだ。だが本人は遠慮なく「お邪魔しまーす」と言いながら入ってきた。靴を脱ぐ動作まで妙に軽い。

 

俺はその背中を見ながら、心の中でアンダー・ワールドに命じた。

 

出るな。絶対に出るな。今は何があっても隠れてろ。

 

『了解シタ』

 

返答は頭の奥で響いた。姿は見えない。よし。少なくとも表には出ていない。

 

リビングで向かい合って座る。母親がお茶と菓子を出してくれた。五条は「ありがとうございます」と妙に礼儀正しく頭を下げ、クッキーを一つつまんだ。

 

「甘いもの助かります」

 

「はあ……」

 

この人、緊張感という概念をどこかに置いてきたのか。

 

母親が台所へ戻ったところで、五条は軽く指を鳴らした。

 

ぱちん、と乾いた音がした瞬間、リビングの空気が一枚薄い膜を張ったように変わる。台所から聞こえていた食器の音が、急に遠くなった。完全に消えたわけではない。けれど、厚いガラス越しに世界を見ているみたいに、生活音だけがぼやけている。

 

「何をしたんですか」

 

「ちょっとした防音。今から出る単語、お母さんには刺激が強いでしょ」

 

「勝手に?」

 

「説明すべきところは後でちゃんと説明するよ。でも、君が隠したいものまで全部聞かせる必要はない」

 

その言い方が、腹立たしいくらい正しかった。

 

俺は母親を巻き込みたくない。できれば何も知らずに暮らしてほしい。そんな都合のいい願いを、五条は勝手に拾って、勝手に叶えた。

 

軽い。

 

軽いのに、配慮はある。

 

だから余計にやりにくい。

 

五条はクッキーをかじりながら、当たり前みたいに言った。

 

「で、君、見えてるよね」

 

来た。

 

「何がですか」

 

「後ろのそれ」

 

俺は無意識に背筋を伸ばした。

 

出していない。少なくとも俺には見えていない。アンダー・ワールドは内側に隠している。九年間、その練習をしてきた。見えないふりだけではない。術式そのものを、できるだけ表に出さない練習もしてきた。

 

なのに、この男は当たり前みたいに言った。

 

『看破サレタ』

 

「報告しなくていい」

 

思わず小声が漏れた。

 

五条が笑う。

 

「へえ、会話もできるんだ。式神……というより、術式の端末かな。背後霊型? なかなかかっこいいじゃん」

 

やめろ。

 

原作キャラがスタンドっぽさに触れるな。

 

俺の内心は大混乱だった。九年間、俺はアンダー・ワールドの見た目についてなるべく考えないようにしてきた。考えると前世の余計な記憶が刺激されるし、呪術世界でそれを説明する方法がなさすぎるからだ。

 

「……見えるんですか」

 

「まあね。僕、目がいいから」

 

目元を布で覆った男が言う台詞ではない。

 

ただ、俺は知っている。その「目がいい」は冗談ではない。六眼。術式も呪力も、普通の術師とは比較にならない精度で見抜く目。

 

隠せるわけがなかった。

 

「俺をどうするつもりですか」

 

できるだけ平静に聞いたつもりだった。だが、声が少し硬くなった。

 

五条はテーブルに肘をつき、軽い調子のまま答える。

 

「どうもしないよ。今のところはね」

 

「今のところ」

 

「うん。だって君、未登録の術式持ちでしょ。しかも百鬼夜行の現場で術式を使った。放っておくには、ちょっと目立ちすぎたんだよね」

 

胃が痛い。

 

やっぱり見られていた。いや、あの時点で分かっていた。路地裏で子供と倒れた女性を逃がすために術式を使った。地面に残った呪霊の軌跡を読み、安全そうな逃げ道を探した。その一瞬を、誰かに見られた。

 

よりによって高専側に。

 

「……それだけで、家まで来ます?」

 

「来るね」

 

即答だった。

 

五条は指先でテーブルを軽く叩いた。

 

「九年前、ある住宅地の空き地で妙な残穢が見つかってる。呪霊が祓われた、というより、土地に残った記録を無理やりめくられたみたいな痕跡。普通の術式跡じゃない。ページの端を折ったみたいに、場所の記録そのものに癖が残ってた」

 

俺の背中に冷たいものが走った。

 

九年前。

 

空き地。

 

最後のかくれんぼ。

 

「で、今回の新宿。君がいた路地にも、同じ痕が残ってた。術式の性質だけじゃない。呪力の波形まで一致してる。指紋みたいなものだね」

 

五条は軽く笑った。

 

「しかも九年前の聞き取り記録には、三原透、六歳。『古い家みたいなものを見た』って証言が残ってる。今回の現場で避難誘導してた少年の特徴とも合う。九年前に六歳なら、今は十五歳前後。住所も変わってない」

 

終わった。

 

俺の九年間の隠蔽工作は、古い聞き取り記録と呪力の指紋照合に普通に負けた。

 

六歳の俺、余計なこと喋るな。いや、当時は当時で必死だったのは分かる。分かるが、未来の俺が死んでいる。

 

「つまり、最初からほぼ特定して来たんですね」

 

「うん。確認も兼ねてね」

 

「怖すぎる」

 

「術師の世界って怖いよね」

 

「他人事みたいに言うな」

 

五条は楽しそうだった。

 

楽しそうだが、言っていることは笑えない。高専側の調査能力。呪力の痕跡。過去の聞き取り記録。俺は九年間、必死に身を潜めていたつもりだった。だが、世界のどこかには俺の痕跡が残っていた。

 

アンダー・ワールドが静かに言った。

 

『記録ハ、消エナイ』

 

「今それを言うな」

 

『事実ダ』

 

「事実で人を殴るな」

 

五条が口元を緩める。

 

「仲いいね」

 

「よくないです」

 

『比較的、良好ダ』

 

「お前は黙ってろ」

 

防音がなかったら、母親に今すぐ病院を勧められていたかもしれない。

 

五条はポケットから缶コーヒーを取り出し、テーブルに置いた。

 

「ちょっと試していい?」

 

「嫌です」

 

「正直でよろしい」

 

「嫌ですって言ったんですけど」

 

「うん。だから軽いやつから」

 

話を聞いているようで聞いていない。この人、会話の形をした強制力を持っている。

 

五条は缶コーヒーを指で示した。

 

「これ、読める?」

 

「……何を」

 

「君の術式、物とか場所に残った記録を読むんでしょ」

 

俺は黙った。

 

否定しても意味がない。もう見られている。五条悟相手に下手な嘘を積み重ねる方が危ない。

 

「アンダー・ワールド」

 

呼ぶと、背後に薄く気配が立ち上がった。完全に姿を出すのではなく、影だけが俺の後ろに重なるような感覚。リビングの空気がほんの少し重くなる。

 

五条が「おお」と興味深そうに身を乗り出した。

 

やめてほしい。珍獣を見る顔をするな。

 

俺は缶コーヒーに指先を触れた。

 

「記録を読め」

 

『検索スル』

 

視界の端に、薄い映像のようなものが滲む。コンビニの棚。会計。白い手袋。ポケットの中。だが、途中から妙に途切れている。缶がそこにあるのに、誰かの手にしっかり握られていた感覚がない。

 

『接触記録ガ薄イ』

 

アンダー・ワールドが言った。

 

『持ッテイル。ダガ、触レテイナイ』

 

俺は顔を上げた。

 

五条はにやにやしている。

 

「どう?」

 

「……触ってるように見えるのに、触れてない。缶の記録から、あなたの接触だけが薄い」

 

「正解」

 

五条は嬉しそうに缶コーヒーを持ち上げた。

 

「僕はね、だいたいのものと少し距離を置いてるんだ」

 

知っている。

 

無下限。

 

喉元まで出かかった単語を、俺は舌で押し戻した。

 

ここで術式名を言ったら終わる。九年間の反射神経が、どうにか仕事をした。

 

だが五条は、わずかに首を傾げた。

 

「今、何か飲み込んだ?」

 

「唾です」

 

「ふうん」

 

聞き流していない顔だった。

 

この人の前では、沈黙すら情報になる。

 

五条は缶コーヒーをしまうと、次に小さな布包みを取り出した。中にあったのは、小さな石片だった。アスファルトの欠片のようにも見える。黒く焦げた跡があり、触れる前から嫌な気配がした。

 

俺の喉が鳴った。

 

「それは」

 

「新宿の現場から拾ったやつ。君がいた路地の近く」

 

嫌な予感しかしない。

 

「軽いやつって言いましたよね」

 

「缶コーヒーは軽かったでしょ」

 

「二個目で難易度を上げるな」

 

「大丈夫。僕が止めるから」

 

その言葉は、たぶん本当だ。

 

本当だからこそ怖い。

 

俺は石片を見下ろした。百鬼夜行。十二月二十四日。新宿と京都に大量の呪霊が放たれた日。俺はその現場にいた。逃げるだけのつもりだった。だが、路地裏で子供を抱いた女性が倒れていた。見捨てることができなかった。

 

その結果がこれだ。

 

「十秒だけです」

 

「いいよ」

 

「本当に止めてください」

 

「任せなさい」

 

軽い。

 

だが、五条悟の「任せなさい」は、この世界で最も重い保証の一つでもある。

 

俺は石片に触れた。

 

瞬間、リビングが消えた。

 

轟音。

 

悲鳴。

 

焦げた臭い。

 

視界がぐらりと傾き、足元がアスファルトに変わる。夜の新宿。ビルの光。逃げ惑う人々。電線のように空を走る呪力の残滓。路地の奥で、女の人が子供を庇って倒れている。

 

違う。

 

これは今じゃない。

 

俺はリビングにいる。

 

三原透、十五歳。ここは自宅。これは俺の体。

 

そう唱えようとしたのに、口が勝手に息を荒げた。

 

「こっちです! 早く!」

 

俺の声だった。

 

だが、今の俺の意思ではない。記録の中の俺。百鬼夜行の日、路地を走った俺の過去が、現在の俺の体に重なっている。

 

足が動こうとする。腕が伸びる。倒れた女性を支えようとする。

 

違う。

 

これは終わった記録だ。

 

今は違う。

 

『警告スル』

 

アンダー・ワールドの声が遠い。

 

『記録ノ再演ニ巻キ込マレテイル』

 

分かってる。

 

分かってるけど、体が動かない。

 

百鬼夜行の記録は濃い。近所の空き地の時とは種類が違う。あの時は一つの家、一つの隠された死、一つのかくれんぼだった。だがこれは都市規模の混乱だ。無数の恐怖、怒り、殺意、生存本能が、ひとつの夜に渦を巻いている。

 

俺はまた「逃げる人間」にされる。

 

助けようとした自分の記録に、今の自分が引きずられる。

 

「三原、透……十五歳……」

 

やっと声が出た。

 

「ここは、自宅……これは、俺の体……!」

 

だが視界は戻らない。足元のアスファルトが割れる。路地の奥から黒い影が迫る。呪霊の形ははっきり見えない。ただ、あの日の恐怖だけが鮮明だった。

 

逃げろ。

 

助けろ。

 

間に合わない。

 

置いていくな。

 

記録が声になる。

 

俺の手が石片から離れない。現実のリビングで座っているはずなのに、体は夜の新宿を走ろうとしている。

 

その時、額の前で何かが鳴った。

 

ぱちん、と軽い音。

 

「はい、そこまで」

 

世界が切れた。

 

夜の新宿が、破れたフィルムのように崩れる。悲鳴も焦げた臭いも消え、目の前にリビングのテーブルが戻ってきた。

 

俺は椅子に座ったまま、荒く息をしていた。指先は石片から離れている。額には汗が浮かんでいた。

 

五条は俺のすぐ前で、指を鳴らした姿勢のまま笑っている。

 

「危なかったね」

 

「……軽いやつじゃ、ない」

 

「ごめんごめん。思ったより引っ張られた」

 

謝罪が軽い。

 

だが、俺は文句を言う余裕がなかった。

 

外側から再演を断ち切られた。

 

それが初めてだった。

 

今まで俺は、記録に飲まれた時、自分で自分を引き戻すしかなかった。名前を唱え、年齢を唱え、現在地を確認し、自分の体だと何度も言い聞かせる。それでもダメなら、痛みや現実の手触りを錨にして戻る。

 

誰かが外から止めてくれたことなど、一度もない。

 

五条悟は、それを指先一つでやった。

 

怖い。

 

だが同時に、悔しいくらい安心した。

 

この人の近くなら、生存率は上がる。

 

その事実が、俺の逃げ道をまた一つ塞いだ。

 

五条は石片を布に包み直すと、少しだけ声の調子を変えた。

 

「三原くん。君の術式は、戦闘向きじゃない」

 

「知ってます」

 

「でも、調査、追跡、救助にはかなり使える。土地や物に残った記録を読める術式は貴重だよ。事件現場、呪霊の通過跡、被害者の最後の行動。使い方次第で、かなり多くの人を助けられる」

 

多くの人を助けられる。

 

その言葉は卑怯だと思った。

 

俺は正義の味方になりたいわけじゃない。前世からずっと、漫画の登場人物みたいな覚悟とは無縁の人間だった。今世でもそうだ。死にたくない。痛いのは嫌だ。画面外で平和に暮らしたい。

 

だが、見えてしまう。

 

見つけてしまう。

 

空き地の少年も、百鬼夜行の路地裏にいた親子も、俺が何もしなければきっと助からなかった。

 

そして俺は、たぶんそれを忘れられない。

 

「ただし」

 

五条が続ける。

 

「君は記録に引っ張られすぎる。今みたいに、強い記録に触れると自分の意思より先に再演が始まる。訓練しないまま放っておけば、いつか戻れなくなるよ」

 

アンダー・ワールドが背後で静かに言った。

 

『同意スル』

 

「お前はこっち側に立て」

 

『事実ダ』

 

「事実で殴るな」

 

五条が笑う。

 

「だから、うちに来ない?」

 

言い方が軽すぎる。

 

「それ、勧誘ですか」

 

「進路相談」

 

「脅迫寄りの?」

 

「保護寄りの」

 

「自分で寄りって言うな」

 

五条は悪びれない。

 

「未登録の術式持ちが、百鬼夜行みたいな大事件の現場で術式を使った。上が先に見つけたら面倒だよ。君の術式は便利だからね。便利なものを便利に使いたがる大人は、どこにでもいる」

 

それはたぶん、高専側の人間が口にしていい台詞ではない。

 

だが、五条は平然と言った。

 

「僕は、君を使い潰す気はない。少なくとも、君が自分で選べる場所には置きたい」

 

「俺を、戦わせるつもりですか」

 

「今すぐ前線に出すつもりはないよ。そもそも向いてないし」

 

「そこは否定してくれても」

 

「向いてないものは向いてない」

 

「現代最強、優しさが雑」

 

言ってから、少しだけ肝が冷えた。

 

現代最強。

 

これは術師の間では有名な呼び名だろう。だが、俺は一般人として生きてきた。知っていて当然の言葉ではない。

 

五条は小さく笑った。

 

「僕のこと、ずいぶん高く評価してくれるね」

 

「百鬼夜行の現場で、誰かがそう呼んでたので」

 

嘘ではない。たぶん誰かは呼んでいたはずだ。知らないけど。

 

五条は「ふうん」とだけ言った。

 

その一音が怖い。

 

俺は話を戻すために、少し早口になった。

 

「前線に出る気はありません。人を殴ってどうにかするタイプじゃないし、殴られて立っていられるタイプでもない。俺は、そういう人たちとは違う」

 

言いながら、頭の奥にいくつかの顔が浮かびかけた。

 

まだ出会っていない少年たち。

 

これから物語の中心に立つ人間たち。

 

どう考えても、俺とは生存のルールが違う連中。

 

俺はそれ以上を舌の上に乗せなかった。

 

だが五条は、楽しそうに首を傾げた。

 

「そういう人たち?」

 

「……漫画みたいな体力の人たちです」

 

「へえ」

 

短い返事だった。

 

けれど、聞き流された感じはまったくしなかった。

 

五条は俺の顔をしばらく見た。布越しの視線が、また皮膚の内側をなぞる。

 

「三原くんさ」

 

「何ですか」

 

「僕を初めて見た人の反応じゃなかったよね」

 

心臓が跳ねた。

 

「……目隠しした白髪の人が玄関にいたら、誰でもああなります」

 

「うん。それもそう。でも君のは、知らない変な大人を見た怖がり方じゃない」

 

五条は笑っている。

 

笑っているのに、声だけが少し鋭い。

 

「災害予報が当たった時の顔だった」

 

何も言えなかった。

 

この人は、俺が何を知っているかまでは分かっていない。だが、「何かを知っている」ことには気づいている。

 

俺は慎重に生きてきた。口を滑らせないようにしてきた。だが、存在そのものへの怯え方までは隠せない。

 

九年間の努力は、六眼の前で裸にされていた。

 

「まあ、それは今はいいや」

 

よくない。

 

絶対によくない顔だった。

 

「条件があります」

 

俺は拳を膝の上で握った。

 

「聞こう」

 

「母さんを巻き込まないでください」

 

防音の膜の向こう、台所で母親が夕飯の支度をしている。包丁の音も、水の音も、ぼやけて遠い。

 

「俺のことは、俺が自分で決めます。でも、母さんには普通に暮らしてほしい。家にも、変なのを近づけないでほしい」

 

五条は軽い笑みを消さなかった。ただ、その声は少しだけ真面目だった。

 

「できる限り守るよ」

 

「できる限り」

 

「絶対、って言葉は簡単に使わない方がいいからね」

 

その返答は、逆に信用できた。

 

俺は続ける。

 

「俺を戦闘要員として扱わないこと。危険な記録を無理に読ませないこと。あと、できるだけ面倒ごとの中心から遠ざけること」

 

五条は少し黙った。

 

それから、楽しそうに笑った。

 

「最後のは難しいかも」

 

「そこを何とかしてくださいよ、最強」

 

「最強にもできることとできないことがあるんだよ」

 

「急に人間味を出すな」

 

「でも、約束する。君を便利な道具として使い潰す気はない」

 

その言葉だけは、軽くなかった。

 

俺は五条悟を知っている。原作知識として。読者として。だから、この人が大人としてろくでもない部分をたくさん抱えていることも、肝心なところで生徒を守ろうとする人間だということも、知っている。

 

知っているからこそ、嫌だった。

 

信じられる材料がある。

 

逃げる言い訳が減っていく。

 

五条はポケットから一枚の封筒を取り出した。

 

「一週間後、東京高専においで。まずは見学と面接。学長はちょっと怖いけど、まあ、いい人だから」

 

学長。

 

夜蛾正道。

 

俺の胃がまた痛んだ。

 

「面接って、落ちることあります?」

 

「あるよ」

 

「あるんですか」

 

「あるある。やる気とか覚悟とか見られるし」

 

「俺、覚悟とか持ってないんですけど」

 

「じゃあ、そのまま言えばいいんじゃない?」

 

五条は指を鳴らした。

 

リビングに張られていた薄い膜が、ふっと解ける。台所の音が戻ってきた。包丁の音。水の音。母親の生活の音。

 

「死にたくないから強くなりたい。巻き込みたくない人がいるから学びたい。そういうのも、立派な理由だよ」

 

俺は何も言えなかった。

 

五条は母親にも、表向きの説明をした。透くんには少し特殊な適性があること。専門の環境で学んだ方が安全なこと。いきなり入学を決めるのではなく、まずは見学と面接でいいこと。

 

呪霊、術式、百鬼夜行。

 

そういう言葉は出さなかった。

 

母親は不安そうだったが、封筒を受け取り、俺の顔を見た。

 

「透は、どうしたいの?」

 

どうしたいのか。

 

そんなもの、決まっている。

 

行きたくない。

 

関わりたくない。

 

高専にも、呪術師にも、原作の中心にも近づきたくない。

 

でも、逃げ切れないなら。

 

逃げ切れないと分かったうえで、何も知らないまま捕まるくらいなら。

 

「……見学だけ、行ってみる」

 

母親はしばらく俺を見つめて、それから小さく頷いた。

 

五条は満足そうに立ち上がった。

 

「じゃあ、また一週間後。迎えは必要?」

 

「いりません」

 

「逃げてもいいけど、たぶん見つけるから」

 

「脅迫ですか」

 

「進路指導」

 

最悪の進路指導だった。

 

玄関で靴を履きながら、五条がふと思い出したように振り返る。

 

「そうだ、三原くん」

 

「何ですか」

 

「君が何を知ってるのか、今は聞かないでおくよ」

 

心臓が跳ねた。

 

五条は笑っている。

 

「でも、自分の知識だけで全部どうにかなるとは思わない方がいい。知ってることと、できることは違うからね」

 

俺は何も答えられなかった。

 

その言葉は、俺の一番痛いところを正確に突いていた。

 

五条は片手をひらひら振る。

 

「じゃ、またね」

 

扉が閉まる。

 

白い髪の男は、夜の住宅街へあっさり消えていった。

 

しばらく、家の中は静かだった。母親は封筒を見つめている。俺は玄関の床を見下ろしていた。

 

そこに、五条悟が立っていた。

 

現代最強が、確かに我が家の玄関にいた。

 

俺はゆっくりしゃがみ込み、床に手を置いた。

 

「アンダー・ワールド」

 

『了解シタ』

 

「今の人の足跡、読めるか」

 

床板の記録を探る。来客の足音。靴を脱ぐ動作。体重。移動の痕跡。普通なら何かしら残っているはずだった。

 

だが、そこには驚くほど何もなかった。

 

完全な無ではない。空気の揺れ、母親の声、俺の緊張、そういった周囲の記録は残っている。けれど、五条悟本人の足跡だけが、世界から薄く浮いているように欠けていた。

 

『記録ガ薄イ』

 

アンダー・ワールドが言う。

 

『アノ男ハ、世界ニ触レテイナイ』

 

俺は玄関の床を見つめた。

 

九年間かけて、俺は呪術の世界から逃げてきた。

 

見えないふりをした。知らないふりをした。危ない場所を避けた。体を鍛えた。術式を隠した。原作の固有名詞を飲み込み続けた。自分だけは物語の外側にいられると、どこかで信じたかった。

 

だが、呪術の世界は玄関から来た。

 

足跡すら残さずに、俺の逃げ道だけを塞いでいった。

 

「……やっぱり最悪だな、この世界」

 

『同意スル』

 

「そこは否定してほしかった」

 

『事実ダ』

 

俺は額を床にぶつけたくなる衝動をこらえた。

 

一週間後、東京高専。

 

原作の中心に近づくための招待状が、リビングのテーブルの上に置かれている。

 

俺の九年間の潜伏生活は、たぶん今日で終わった。

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