アンダー・ワールド・レコード   作:そこら辺のスタンド使い

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第七話 呪骸と進路相談

 

一週間という時間は、短いようで長い。

 

たとえば、明日の小テストを忘れるには十分な長さだ。部屋の掃除を先延ばしにするにも、母親に「そろそろやりなさい」と二回くらい言われるにも、ちょうどいい。

 

だが、「一週間後に東京高専へ来い」と五条悟に言われた場合、その七日間はもはや刑の執行猶予である。

 

俺はその一週間、できる限り普通に過ごした。朝起きて、飯を食べて、学校に行って、帰ってきて、筋トレをして、術式を隠す練習をして、布団に入る。そして毎晩、天井を見ながら思う。

 

行きたくねえ。

 

心から行きたくなかった。

 

だが、逃げたら逃げたで見つかる。五条悟が「たぶん見つける」と言った時の軽さは、たぶん本当に見つける人間の軽さだった。こちらの覚悟や準備など関係ない。あの人は、行きたい場所に行き、見たいものを見る。そういう側の存在だ。

 

だから一週間後、俺は封筒を鞄に入れ、母親に見送られて家を出た。

 

「本当に一人で大丈夫?」

 

玄関先で、母親が心配そうに言った。

 

「大丈夫。場所は分かるし、向こうで先生が待ってるらしいから」

 

「嫌だったら、ちゃんと帰ってきていいのよ」

 

その言葉に、少しだけ胸が詰まった。

 

帰ってきていい。

 

普通なら、ただの優しい言葉だ。だが今の俺には、それがものすごく遠い場所から聞こえるみたいだった。

 

「うん。無理そうだったら帰る」

 

嘘ではない。

 

無理そうだったら帰りたい。

 

帰れるかどうかは別として。

 

駅へ向かう道すがら、俺は鞄の紐を握りしめた。背後にアンダー・ワールドの気配はない。今日も内側に沈めている。街路樹、ガードレール、電柱。どれにも触れないように歩く癖は、もう体に染みついていた。

 

『逃走経路ヲ確認スルカ』

 

頭の奥で、無機質な声がした。

 

「やめろ。行く前から逃げる気満々みたいになる」

 

『実際、満々ダ』

 

「事実を言うな」

 

『目的地周辺ノ地形把握ハ、生存率向上ニ有効ダ』

 

「正論で逃走を補強するな」

 

いつものやり取りをしているのに、今日は少しだけ声が硬い。自分でも分かるくらいに緊張していた。

 

電車に揺られ、乗り換えをし、だんだんと街の密度が薄くなっていく。窓の外に住宅街が流れ、やがて緑が増えた。冬の空は薄く、空気は冷たい。俺は膝の上で拳を握ったり開いたりしながら、何度も心の中で唱えた。

 

三原透、十五歳。

 

ここは現代日本。

 

これは俺の体。

 

俺はまだ、何も読んでいない。

 

東京高専の最寄りに着いた時点で、胃が一段重くなった。

 

指定された場所へ向かうと、そこは普通の学校とは呼び難かった。山の空気。古い寺社のような建物。整えられているのに、どこか人を拒むような敷地。入口の前に立っただけで、肌の上を薄い膜がなぞるような感覚があった。

 

結界だ。

 

見た瞬間に分かった。いや、見えたというより、気づかされた。ここから先は、普通の場所ではない。

 

『記録ノ密度ガ高イ』

 

アンダー・ワールドが低く言う。

 

『長時間ノ滞在ハ、負荷トナル可能性ガアル』

 

「学校見学の時点でデバフをかけるのやめてくれない?」

 

返事はなかった。否定もなかった。

 

俺は深呼吸して、一歩踏み入れた。

 

足の裏から、じわりと何かが上がってくる。

 

声。怒鳴り声。笑い声。走る音。木刀が空を切る音。誰かが転んだ痛み。呪力の残滓。古い建物に染みついた、数えきれない訓練と失敗と怪我の記録。

 

濃い。

 

空き地とも、新宿とも違う。ここは事故現場ではない。けれど、呪術師たちが何年も、何十年も、何かを学び、戦い、失敗してきた場所だ。普通の学校の思い出とは密度が違う。地面そのものが、古い傷跡みたいに情報を抱えている。

 

足が止まりかけた時、少し先から軽い声が飛んできた。

 

「やあ。逃げなかったね」

 

白い髪。目元を覆う布。黒い服。

 

五条悟が、階段の上で片手を振っていた。

 

「逃げた場合の成功率を計算したら、ほぼゼロだったので」

 

「賢い」

 

「褒められても嬉しくないです」

 

五条は楽しそうに笑った。

 

「結界、ちょっときつい?」

 

「……少し。土地の記録が濃いです。足の裏から勝手に上がってくる感じがする」

 

「へえ。そこまで拾うんだ」

 

「珍獣を見る顔をしないでください」

 

「ごめんごめん。でも高専は管理されてるから、外の事故現場よりは安全だよ」

 

「安全の基準が怖い」

 

「死ににくい」

 

「学校紹介で使う言葉じゃない」

 

五条は気にした様子もなく歩き出した。俺はなるべく壁や柱に触れないよう、少し距離を取ってついていく。

 

校内案内は、想像以上に普通ではなかった。

 

教室。訓練場。寮。医務室。任務の説明。補助監督という職種。結界の扱い。呪具の保管。俺は一応うなずいていたが、半分くらいしか頭に入ってこなかった。建物の記録が濃すぎる。廊下を歩いているだけで、過去の誰かの足音が足音の下に重なってくる。

 

「顔色悪いね」

 

「この学校、床がうるさいです」

 

「独特な感想だなあ」

 

「俺の術式からすると、ここ全体が古いアルバムみたいなものなんですよ。しかもページをめくってないのに写真が勝手に喋るタイプの」

 

「なるほど。じゃあ後で、なるべく静かな部屋を用意してもらおうか」

 

五条は軽く言った。

 

軽いのに、必要なところは拾ってくる。

 

こういうところが本当にやりにくい。

 

しばらく歩いた後、五条はひとつの部屋の前で足を止めた。

 

「じゃ、本番」

 

「帰っていいですか」

 

「まだ面接してないでしょ」

 

「面接って言葉の前に本番って付けるの、やめた方がいいと思います」

 

五条は返事をせず、扉を開けた。

 

部屋の奥に、厳つい男が座っていた。

 

大柄で、目つきが鋭い。強面という言葉をそのまま人間にしたような雰囲気。だが、ただ怖いだけではない。室内に置かれた奇妙な人形や、整然とした道具類から、手仕事の気配がした。

 

夜蛾正道。

 

知っている。

 

もちろん知っている。

 

だが、俺は表情に出さないよう全力で顔面を固めた。五条悟の時の失敗を繰り返してはいけない。初対面の人間として、自然に、適度に緊張して、適度に怯える。

 

……いや、自然に怯えるのは簡単だった。

 

普通に怖い。

 

「三原透だな」

 

低い声がした。

 

「はい」

 

「座れ」

 

「はい」

 

俺は椅子に腰を下ろした。五条は当然のように部屋の端に立ち、見物する気満々の姿勢である。できれば帰ってほしい。無理だろうけど。

 

夜蛾は封筒に目を通し、それから俺を見た。

 

「五条から話は聞いている。未登録の術式持ち。術式は、土地や物体に残った記録を読むものだそうだな」

 

「大体、そうです」

 

「大体?」

 

「読めるものと読めないものがあります。強い記録だと、こっちが読む前に向こうから引っ張ってくることもあります」

 

「制御できていない、ということか」

 

「はい」

 

認めるしかなかった。

 

夜蛾は責めるでもなく、ただ確認するように頷いた。

 

「君はなぜ、ここに来た」

 

来た。

 

面接らしい質問。

 

俺は一瞬、模範解答を探した。人を助けたいから。呪いと戦いたいから。自分の力を正しく使いたいから。言えそうな言葉はいくつかある。

 

だが、どれも少しずつ嘘だった。

 

俺は正義の味方になりたくてここに来たわけではない。むしろ逆だ。できることなら一生、画面外の一般人として暮らしたかった。

 

だから、俺は正直に言った。

 

「死にたくないからです」

 

五条が部屋の端で小さく笑った気配がした。

 

夜蛾の表情は変わらない。

 

「続けろ」

 

「母を巻き込みたくありません。俺の術式が原因で、家に呪術関係の何かが来るのは嫌です。あと……見えてしまったものを、見なかったことにするのが、たぶん下手です」

 

言葉にすると、自分でも情けなかった。

 

「戦いたいわけじゃありません。人を殴れるほど強くないし、呪霊と正面からやり合う覚悟もありません。できれば危ない場所には行きたくないです」

 

夜蛾は黙って聞いていた。

 

俺は膝の上で拳を握る。

 

「でも、見つけてしまったら、多分、逃げ切れません。助けられそうな人がいたら、見捨てたあとでずっと引きずると思います。だから……生き残る方法を学びたいです。自分が死なないで、できるだけ誰かを巻き込まない方法を」

 

沈黙が落ちた。

 

言い終えてから、俺は急に不安になった。

 

今のは、受験面接としてどうなんだ。やる気があるのかないのか分からない。志望動機としてはだいぶ後ろ向きだ。一般高校なら落ちても文句は言えない。

 

夜蛾はしばらく俺を見て、それから低く言った。

 

「言葉だけなら、どうとでも言える」

 

ですよね。

 

次の瞬間、部屋の隅に置かれていた人形が動いた。

 

丸い体。短い手足。妙に愛嬌のある見た目。だが、それが床を蹴る直前、俺の視界に妙なものが重なった。

 

同じ床を、同じ人形が、過去に何度も蹴っている。

 

殴られた誰かの視線。

 

避けそこなった肩の痛み。

 

床に染みついた訓練の記録が、今の動きより一拍だけ早く、残像みたいに網膜へ焼きついた。

 

『左』

 

アンダー・ワールドの声と同時に、襟首を後ろから引かれたような感覚がした。

 

俺は考えるより先に、椅子から転がり落ちていた。

 

直後、さっきまで俺の頭があった場所を、呪骸の拳が通過する。風圧で髪が揺れた。

 

避けた、というより、避けさせられた。

 

「面接に暴力を混ぜるな!」

 

思わず叫ぶ。

 

夜蛾は表情を変えずに言った。

 

「呪術師の面接だ」

 

「そういうところだぞ呪術界!」

 

五条が部屋の端で笑っている。

 

助けろ。

 

いや、助けない顔だ。完全に観察している。

 

呪骸が再び踏み込んでくる。俺は床を蹴って後退した。筋トレをしていてよかった。九年間、逃げるために鍛えてきた体が、ぎりぎり反応してくれる。

 

だが、勝てる気配は一ミリもなかった。

 

呪骸の拳が机をかすめる。木が軋む。俺は身を低くして横へ飛び、鞄を胸に抱えたまま距離を取る。

 

『戦闘能力差、大』

 

アンダー・ワールドが冷静に言った。

 

「知ってる!」

 

『正面戦闘ハ非推奨』

 

「最初からする気ない!」

 

呪骸がさらに詰めてくる。

 

俺は床に手をついた。

 

「アンダー・ワールド、この部屋の床の記録を読め。こいつの動きの癖、夜蛾さんの立ち位置、踏まれた回数が多い場所、全部浅くでいい」

 

『検索スル』

 

床板の記録が開く。

 

見えた。

 

無数の足跡。訓練。面接。誰かが転がり、誰かが殴られ、誰かが立ち上がる。呪骸が走る軌道。夜蛾が立つ位置。五条がふざけて壁にもたれた痕跡まで、余計なものが混じってくる。

 

濃すぎる。

 

視界がぶれる。

 

床に倒れた誰かの痛みが、肩に重なった。過去の訓練で殴られた人間の記録が、俺の体をその役割に押し込もうとする。

 

『再演ニ巻キ込マレル』

 

「三原透、十五歳。ここは東京高専。これは俺の体」

 

俺は歯を食いしばって唱えた。

 

呪骸の拳が迫る。

 

避けろ。

 

過去の誰かではなく、今の俺として。

 

俺は床の記録から一つの癖を拾った。

 

この呪骸は、夜蛾の前へ一定以上踏み込まない。何度も何度も、同じ距離で止まっている。夜蛾が作ったものだからか、あるいは訓練用の制御か。理由は分からない。だが記録はそう言っている。

 

俺は夜蛾の方へ走った。

 

「ほう」

 

夜蛾の声が聞こえた。

 

呪骸が追ってくる。背中に圧が迫る。怖い。ものすごく怖い。だが、足を止めたら殴られる。

 

俺は夜蛾の真正面、記録上の停止線ぎりぎりまで踏み込んだ。

 

呪骸の足が止まる。

 

予想通り。

 

だが完全には止まらなかった。拳だけが伸びてくる。

 

「嘘だろ!」

 

俺は鞄を前に放り投げた。

 

呪骸の拳が、鞄に触れた。

 

次の瞬間、合成皮革の鞄が爆ぜた。

 

文字通り爆発したみたいに裂け、ノートの背が砕け、白い紙片が雪みたいに部屋へ散る。筆箱がひしゃげ、中のペンが乾いた音を立てて折れた。

 

もし今のが頭だったら。

 

そう考えた瞬間、喉の奥が冷えた。

 

俺はその紙吹雪みたいな目隠しに紛れて、横へ転がった。肩を床に打ち、痛みが走る。

 

痛い。

 

でも俺の痛みだ。

 

記録の痛みじゃない。

 

それだけで、少し意識が戻る。

 

呪骸がこちらを向いた。俺は床に片手をつき、息を切らしながら叫んだ。

 

「降参はありですか!」

 

夜蛾は言った。

 

「まだ立てるな」

 

「面接官が厳しすぎる!」

 

五条が笑っている。

 

「いいねえ、ちゃんと死なない動きしてる」

 

「笑ってないで助言くらいしてください!」

 

「今のところ悪くないよ」

 

「役に立たない!」

 

呪骸が三度目の突進を始める。

 

俺はもう一度床を読む。深く読むな。浅く。今必要な情報だけ。過去に引っ張られるな。

 

呪骸の足跡。

 

夜蛾の位置。

 

部屋の机。

 

倒れた鞄。

 

窓。

 

逃走経路。

 

俺は机の脚を蹴った。机が少しずれ、呪骸の進路に入る。呪骸はそれを避けるでもなく、拳で弾いた。派手な音がして机が倒れる。その瞬間、視界が遮られる。

 

俺は倒れた机の陰を使って、横へ滑り込んだ。

 

攻撃はしない。

 

できない。

 

勝てない相手に無理に攻撃すれば、その分だけ逃げるための隙が消える。俺にできるのは、読むこと、避けること、時間を稼ぐこと、生き延びること。

 

呪骸が机を乗り越えた瞬間、俺は窓際まで走った。

 

だが、足がもつれた。

 

床の記録がまた流れ込む。誰かがこの部屋で倒れた記録。悔しさ。痛み。息ができない感覚。俺の足に、過去の誰かの失敗が絡みつく。

 

まずい。

 

体が前のめりに崩れる。

 

呪骸の拳が迫る。

 

「三原透、十五歳!」

 

俺は叫んだ。

 

「ここは高専! これは俺の体!」

 

拳が目の前で止まった。

 

鼻先数センチ。

 

呪骸の丸い顔が、そこにあった。

 

「そこまでだ」

 

夜蛾の声がした。

 

俺は床にへたり込んだ。肺が痛い。心臓がうるさい。肩も痛い。鞄は死んだ。筆箱もたぶん死んだ。ノートは白い雪になった。

 

五条がぱちぱちと拍手する。

 

「お疲れ。いやあ、逃げるの上手いね」

 

「褒め方が嬉しくない……」

 

「褒めてる褒めてる」

 

夜蛾が呪骸を下がらせる。さっきまで襲いかかってきた人形は、嘘みたいに大人しく部屋の隅へ戻った。見た目だけなら、また少し可愛い。

 

騙されないぞ。

 

俺は肩で息をしながら、床に座ったまま夜蛾を見た。

 

夜蛾は厳しい顔のまま言う。

 

「なぜ攻撃しなかった」

 

「勝てないからです」

 

即答だった。

 

「俺が殴ったところで効くとは思えません。攻撃に使う一秒があるなら、その一秒で避けるか、距離を取るか、相手の癖を読む方が生存率が高い」

 

「仲間が襲われていても同じか」

 

嫌な質問だった。

 

俺は少し黙った。

 

「その時は、逃げ道を探します。相手を倒す道じゃなくて、仲間を引っ張って逃げる道を。俺が倒せない敵を倒そうとして全滅するより、そっちの方がまだ可能性がある」

 

「それでも逃げられない時は」

 

「助けを呼びます。時間を稼ぎます。隠れます。嘘をつきます。使えるものは使います」

 

言いながら、自分でも少し嫌になった。

 

格好良くない。

 

少年漫画の答えではない。

 

だが、それが俺の本音だった。

 

「俺は、強くありません」

 

夜蛾の目を見る。

 

「でも、弱いから何もしない、では済まないところまで来てしまったんだと思います。だから、弱いまま死なない方法を学びたいです」

 

夜蛾は黙っていた。

 

五条も、今度は茶化さなかった。

 

沈黙の中、俺の荒い呼吸だけが部屋に残る。

 

やがて夜蛾が口を開いた。

 

「君は弱い」

 

「はい」

 

「術式は貴重だが、制御は未熟。身体能力も、一般人としては鍛えているが、術師としては足りない。今のまま現場に出れば、早晩死ぬ」

 

「はい」

 

事実で殴られている。

 

アンダー・ワールドと違って、夜蛾の事実は声が低い分さらに重い。

 

「だが、自分の弱さを見誤ってはいない。恐怖もある。逃げる判断もできる。見捨てきれない甘さもあるが、それを美談にすり替えるほど愚かではない」

 

夜蛾はゆっくりと言った。

 

「合格だ」

 

俺は瞬きした。

 

「……今ので?」

 

「今のでだ」

 

「面接って、もっとこう、志望動機とか、将来の夢とか」

 

「聞いただろう」

 

「死にたくないって言いましたけど」

 

「嘘ではなかった」

 

夜蛾の声は厳しかったが、そこに馬鹿にする響きはなかった。

 

「覚悟が綺麗である必要はない。だが、嘘の覚悟は持つな。自分を騙して現場に立てば、隣にいる者も巻き込む」

 

俺は何も言えなかった。

 

「正式な入学は春になる。それまでは、週に数度こちらへ通え。術式制御、基礎体術、呪力の扱い。それから補助監督寄りの座学も受けてもらう」

 

「補助監督寄り、ですか」

 

「君の術式は調査と避難誘導に向いている。前線で呪霊を祓うだけが、呪術師の仕事ではない」

 

その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

 

肉壁として最前線に放り込まれる未来は、ひとまず回避できたらしい。

 

ただし、手放しで安心できるほど俺は楽観的ではなかった。

 

補助監督だって現場には行く。結界を張る。避難誘導をする。判断を間違えれば普通に死ぬ。まして原作の時間が本格的に動き出したら、前線も後方も、綺麗に分かれてくれる保証なんてどこにもない。

 

それでも、今の俺に選べる中では、まだ一番ましな道だった。

 

五条が軽く手を上げた。

 

「というわけで、春から新入生候補だね」

 

「候補って言葉に不穏さを感じるんですが」

 

「それまでの訓練で逃げ出さなければ、かな」

 

「逃げ出したら?」

 

「僕が迎えに行く」

 

「人権」

 

「あるある。たぶん」

 

「たぶんをつけるな」

 

夜蛾が五条を見た。

 

「五条。君も余計なことを言うな」

 

「はーい」

 

返事が軽い。

 

だが、夜蛾の一声で場の空気が締まる。五条の軽さと、夜蛾の重さ。二人のバランスが少しだけ見えた気がした。

 

面接が終わると、五条は「じゃあ寮も見てく?」と言って、俺を廊下へ連れ出した。

 

俺の鞄は修復不能に近かった。ノートは砕け、筆箱はへこんでいる。五条が「後で新しいの買ってあげるよ」と言ったので、「高いのにします」と返しておいた。せめてもの抵抗である。

 

寮へ向かう道は、さらに静かだった。

 

高専の敷地は広い。冬の空気の中、木々が揺れている。普通の学校なら放課後のざわめきがあるはずなのに、ここは妙に音が少ない。その代わり、地面の下に無数の記録が沈んでいる。

 

笑い声。

 

怒鳴り声。

 

夜中に誰かが走った足音。

 

怪我をして引きずった足。

 

戻ってきた者の安堵。

 

戻ってこなかった者を待つ沈黙。

 

俺は思わず、寮の壁に触れそうになった手を引っ込めた。

 

『ココニハ、多クノ記録ガアル』

 

アンダー・ワールドが言う。

 

「知ってる。だから怖いんだよ」

 

小声で答える。

 

五条がちらりとこちらを見た。

 

「でも、悪い記録ばかりじゃないよ」

 

「読めるんですか」

 

「僕は君みたいには読めない。でも、ここで笑ったやつも、怒ったやつも、泣いたやつも、たくさん知ってる」

 

珍しく、五条の声が少しだけ静かだった。

 

「危ない場所だけどね。一人で全部抱える場所ではないよ」

 

俺は返事をしなかった。

 

高専が安全な場所だとは思わない。むしろ、原作知識を持っている俺からすれば、この場所がこれからどれだけ面倒な事件の中心になるか知っている。ここに来ることが、生存率を上げるのか下げるのか、正直まだ分からない。

 

それでも、今日だけで分かったこともある。

 

俺の再演を外から断ち切れる人間がいる。

 

俺の弱さを前提に訓練を組もうとする人間がいる。

 

俺の術式を、戦闘以外の場所で使う道がある。

 

それは、思っていたより少しだけましな絶望だった。

 

寮の前で、五条が立ち止まった。

 

「春からは、ここが君の部屋になるかもね」

 

「まだ決定じゃないですよね」

 

「ほぼ決定かな」

 

「候補とは」

 

「細かいこと気にすると老けるよ」

 

「十五歳です」

 

「若いねえ」

 

この人と会話していると、真面目に怒るタイミングを見失う。

 

俺は高専の敷地を振り返った。

 

九年間逃げ続けた先で、俺は結局、物語の入口に立っていた。

 

ただし、主人公としてではない。

 

戦う覚悟も、死ぬ覚悟もない。

 

あるのは、死にたくないという情けない理由と、見つけてしまったものを忘れられないという厄介な性分だけ。

 

それでも、夜蛾正道は合格だと言った。

 

ならせめて、俺はここで学ぶしかない。

 

過去に飲まれず、今を生き残る方法を。

 

『入学記録ヲ確認シタ』

 

アンダー・ワールドが淡々と言った。

 

「やめろ。俺の人生に記録を残すな」

 

『既ニ残ッテイル』

 

「最悪だ」

 

冬の風が、校舎の間を抜けていく。

 

東京高専。

 

呪術の世界の入口。

 

俺の九年間の逃走生活は終わり、今度は逃げるための訓練が始まろうとしていた。

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