アンダー・ワールド・レコード   作:そこら辺のスタンド使い

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第九話 初現場と報告書

 

高専に通い始めて、数週間が経った。

 

正式な入学は春からだが、俺の訓練はすでに始まっている。術式制御、基礎体術、呪力操作、報告書の書き方、再演に巻き込まれた時の復帰訓練。科目名だけ並べるとそれっぽいが、実態は霊感持ちの消防訓練と事故調査とブラック企業研修を足して、なぜか割らなかったようなものだった。

 

特に報告書が厄介だった。

 

見えたものをそのまま書くな。断定するな。事実、推測、不明点を分けろ。術式使用時間、身体負荷、読取深度、混線の有無を記録しろ。

 

伊地知さんは丁寧に教えてくれる。丁寧に教えてくれるのだが、内容が重い。

 

「つまり俺は、呪術師になる前に議事録の妖怪になるわけですね」

 

「妖怪ではなく、正確な記録を残せる人材です」

 

「言い換えても地味です」

 

「地味な作業が命を救うこともあります」

 

それを言われると黙るしかない。

 

高専の訓練は、派手な必殺技を覚える場所ではなかった。少なくとも俺にとっては違う。死なないために走る。読まないために止める。読んだものを他人に伝える。そういう地味な積み重ねが、俺のカリキュラムだった。

 

そしてその日、伊地知さんはいつもより少し硬い顔で言った。

 

「三原さん。本日は実地研修になります」

 

俺は即座に聞いた。

 

「帰っていいですか」

 

「まだ内容を説明していません」

 

「実地という時点で、だいたい嫌な予感しかしません」

 

「お気持ちは分かりますが、初回ですので危険度は低い案件です。すでに祓除済みの現場確認になります」

 

祓除済み。

 

その単語だけなら、まだ聞ける。現在進行形で呪霊がいます、よりは一億倍ましだ。

 

「場所は取り壊し予定の雑居ビルです。数日前、一般の方が迷い込み、強い恐怖反応を示して倒れているところを発見されました。呪霊はすでに処理されていますが、現場に残った経路と残穢の確認を行います」

 

「俺の役目は?」

 

「一般の方がどこから入り、どこで呪霊に遭遇し、どこへ逃げたか。記録を浅く読んで、報告できる形にしてください」

 

「浅く、ですね」

 

「はい。深く読まないでください」

 

伊地知さんの声が少し強くなった。

 

俺は頷いた。

 

深く読むな。

 

この数週間で、何度も言われたことだ。俺の術式は、奥へ行くほど危ない。読めるから読む、ではだめだ。どこで止まるかを決めてから触れる。それを守らなければ、俺は過去に足首を掴まれる。

 

廊下の向こうから、軽い足音がした。

 

「やあ、初現場おめでとう」

 

五条先生だった。

 

相変わらず、祝い方が軽い。

 

「めでたくないです」

 

「大丈夫大丈夫。危なくなったら恵が何とかするし」

 

「本人の同意を取ってください」

 

すぐ横から、低い声がした。

 

「聞いてません」

 

伏黒だった。

 

黒い制服に、いつもの無愛想な顔。数週間前よりは見慣れたが、それでも内心では毎回少しだけ構える。原作主要人物と普通に廊下で会う生活、何度考えても胃に悪い。

 

五条先生は笑う。

 

「今言った」

 

「そういうところですよ」

 

伏黒の声に疲れがにじんでいる。俺は少し同情した。五条悟に振り回される側の人間同士、どこかで通じるものがある。

 

「今回は伏黒さんに現場警戒をお願いしています」

 

伊地知さんが説明する。

 

「三原さんは記録の読取、私は現場管理と記録補助を担当します。五条さんは同行しません」

 

「えっ」

 

思わず声が出た。

 

五条先生はにこにこしている。

 

「僕がいると訓練にならないでしょ」

 

「安全にはなります」

 

「安全すぎても育たないからね」

 

「育成ゲームみたいに言わないでください」

 

「じゃ、恵。三原のことよろしく」

 

「先生が言うと嫌な予感しかしないんですが」

 

伏黒の発言に、俺は深く頷いた。

 

その後、俺たちは伊地知さんの運転する車で現場へ向かった。

 

車内は静かだった。伊地知さんは前を見ながら、淡々と注意事項を確認していく。

 

「勝手に奥へ行かないこと。読む前に範囲と目的を宣言すること。読んだ内容は、事実、推測、不明点に分けること。体調に異変があれば即時中断。伏黒さんの術式痕跡や私的な行動記録は読まないこと」

 

最後、完全に名指しの反省会だった。

 

「はい」

 

俺は素直に返事をした。

 

伏黒が隣で言う。

 

「また固まったら止める」

 

「腕を掴むやつ?」

 

「地面にへばりついてたらな」

 

「言い方」

 

「事実だろ」

 

最近、周囲が本当に事実で殴ってくる。

 

現場は、駅から少し離れた古い雑居ビルだった。

 

取り壊し前らしく、入口には仮囲いと注意書きがある。窓ガラスは何枚か割れ、外壁には色褪せた看板の跡が残っていた。雨水の染み、古い落書き、湿ったコンクリートの匂い。長い間、人がきちんと使っていなかった場所特有の、沈んだ空気がある。

 

俺は入口の前で足を止めた。

 

『記録密度、中』

 

アンダー・ワールドの声が頭の奥で響く。

 

『呪力残穢、低。感情ノ沈殿、恐怖ガ中心』

 

「空き地よりはまし。沖縄の壕跡よりは遥かにまし。でも嫌な場所」

 

「声に出てるぞ」

 

伏黒に言われた。

 

「出してます。自己確認です」

 

「そうか」

 

伊地知さんが帳を張り、周囲を確認する。俺は入口付近でしゃがみ、床に触れる前に口に出した。

 

「入口周辺。対象は一般人の移動経路。時間は三日前から当日まで。深度は表層。呪霊の詳細は追わない」

 

伊地知さんが頷く。

 

「いいです」

 

俺は指先を床に置いた。

 

冷たい。

 

コンクリートに残った記録が、薄い膜のように開く。最初に来たのは雨音だった。入口の外で立ち止まる足。迷う気配。スマホのライト。男性。年齢までは分からない。会社員か大学生くらい。最初は軽い好奇心、あるいは雨宿り。恐怖はまだ薄い。

 

「対象は一名。男性と思われます。入口から侵入。最初の感情は恐怖ではなく、好奇心か避難に近い。断定はできません」

 

伊地知さんがメモを取る音がした。

 

俺は手を離し、数秒呼吸を整えてから、ビルの中へ入る。

 

一階は薄暗かった。空きテナントの跡。剥がれた床材。埃。奥に階段がある。伏黒は少し前を歩き、伊地知さんは後方で記録を取っている。

 

俺は階段の手すりには触れない。壁にも触れない。必要な場所だけ読む。

 

一階から二階へ。

 

階段に残った足跡は、まだ普通だった。だが二階の廊下に入った瞬間、記録の温度が変わる。

 

重い。

 

空気が湿る。

 

誰かの呼吸が速くなる。

 

「二階廊下で対象者の恐怖反応が増加。足取りが歩行から走行へ変化。ここで何かを見た、または聞いた可能性があります」

 

「呪霊との遭遇地点ですか」

 

伊地知さんが聞く。

 

「推測です。断定はできません。呪霊側の記録は追いません」

 

言いながら、俺は少しだけ指先を引いた。

 

廊下の奥に、別の記録があった。

 

人間のものではない。

 

腹が減った。

 

寂しい。

 

見つけた。

 

逃がさない。

 

低級呪霊の歪んだ感情が、ぬるい泥のように床へ染みている。

 

『対象外ノ記録』

 

アンダー・ワールドが言う。

 

『読取ヲ中断セヨ』

 

「呪霊側の記録は対象外。切る」

 

俺は声に出し、手を離した。

 

読まない。

 

読めるからといって、全部読む必要はない。呪霊が何を感じていたかなど、今の目的ではない。俺が追うべきなのは、被害者の経路だ。

 

伏黒がちらりとこちらを見る。

 

「大丈夫か」

 

「まだ大丈夫」

 

「まだ、か」

 

「全部大丈夫って言うと嘘になる」

 

「ならいい」

 

何がいいのか分からないが、伏黒はそれ以上聞かなかった。

 

二階廊下の途中で、対象者は転倒していた。手をついた痛み。膝を打った衝撃。スマホのライトが床を滑る。息が詰まる。すぐに立ち上がり、階段へ走る。

 

「二階で転倒。負傷の可能性は軽度。対象者はその後、三階へ移動」

 

「なぜ上へ?」

 

伊地知さんが問う。

 

「不明。出口方向に戻れなかった可能性。あるいは、下へ戻る経路を何かに塞がれたと感じたのかもしれません。推測です」

 

俺たちは三階へ上がった。

 

階段の途中から、空気がさらに冷える。

 

祓除済みの現場だと分かっていても、体は勝手に緊張する。俺の筋トレは、こういう時に呪霊を殴るためではない。足がすくまないようにするためだ。逃げるにも、助けるにも、まず立っていなければ話にならない。

 

三階の廊下に出た瞬間、伏黒が足を止めた。

 

「残ってる」

 

俺の背中に嫌な汗が浮いた。

 

「祓われたんじゃ」

 

「本体はな。残りカスみたいなもんだ」

 

見えた。

 

廊下の奥、非常口の手前。黒い染みのようなものが、壁際で震えている。呪霊と呼ぶには小さい。だが、一般人なら見ただけで足がすくむだろうし、俺にとっても十分に怖い。

 

伏黒が前へ出る。

 

足元の影が揺れた。

 

俺は反射的に視線を逸らした。見るな、ではない。読むな。影に沈むものを、こちらから覗きに行くな。

 

伏黒が低く言う。

 

「見るなとは言ってない」

 

「読まない努力中なんで」

 

「器用なのか不器用なのか分かんねえな」

 

影から、白い犬の形が立ち上がった。

 

玉犬。

 

知っている。

 

でも、初めて見るものとして息を呑んだ。実際、知識で知っているのと目の前で見るのはまるで違う。影から生まれた式神は、廊下の薄闇に溶けるように駆け、黒い染みへ飛びかかった。

 

一瞬だった。

 

低級の残りカスは、ほとんど抵抗もできずに裂けて消える。派手な戦闘ではない。だが、伏黒の動きには迷いがなかった。必要なものを出し、必要な分だけ処理する。俺が数週間かけて学んでいる線引きを、彼は戦闘の中で当たり前にやっていた。

 

「終わった」

 

伏黒が言う。

 

「早い」

 

「残りカスだ」

 

「俺からすると十分ホラーだったんだけど」

 

「だろうな」

 

否定しない。

 

その時、消えた呪霊の跡から、床の記録がざわめいた。

 

人間の恐怖と呪霊の残穢が重なって、三階廊下の記録が勝手に開く。

 

しまった。

 

触れていないのに、足元から上がってくる。

 

暗い廊下。

 

荒い息。

 

後ろから這う音。

 

非常口の緑色の明かり。

 

開かないドア。

 

対象者の視界が、俺の視界に重なる。

 

「三原透、十五歳。ここは雑居ビル三階。これは俺の体」

 

唱える。

 

だが、体が勝手に非常口へ向かおうとした。

 

逃げなければ。

 

開けなければ。

 

後ろにいる。

 

後ろにいる。

 

「三原」

 

伏黒の声が聞こえる。

 

腕を掴まれる直前、俺はどうにか片手を上げた。

 

「待って」

 

自分でも驚くくらい掠れた声だった。

 

「非常口前。左側。何か落ちてる」

 

「は?」

 

「対象者が、何か落とした。スマホか、社員証か、断定できない。俺はこれ以上読まない。確認して」

 

言いながら、頭の中で伊地知さんの声を思い出す。

 

事実、推測、不明点。

 

事実。三階非常口前に対象者が到達した記録。

 

推測。何かを落とした。

 

不明。落とし物の種類。

 

危険。再演に巻き込まれる可能性。

 

ここで止まれ。

 

『思考ノ構造化ヲ確認』

 

アンダー・ワールドの声が、いつもよりはっきり響いた。

 

『読取対象ヲ、必要情報ノミニ限定。混線記録ヲ強制遮断スル』

 

ぱちん、と頭の奥でフィルムが切れるような音がした。

 

這う音も、非常口を叩く感触も、背後に迫る恐怖も、まとめて暗転する。

 

俺は床から意識を引き剥がした。

 

伏黒は一瞬だけ俺を見たあと、非常口の左側へ向かった。埃の溜まった隅を探り、何かを拾い上げる。

 

「社員証だ」

 

その瞬間、伊地知さんが息を呑んだ。

 

「……三原さん、今の判断は非常に良かったです」

 

眼鏡の奥の目が、珍しくはっきり見開かれていた。

 

「恐怖の再演に引き込まれかけた状態で、必要な事実だけを抽出して、そこで止めた。初回の現場でそれができるのは大きいです」

 

俺はその場にしゃがみ込み、息を吐いた。

 

褒められた。

 

呪骸を倒したわけでもない。呪霊を祓ったわけでもない。ただ、落とし物の場所を言い当てただけだ。

 

それでも、伊地知さんの声にはお世辞の響きがなかった。

 

地味な仕事が、ちゃんと役に立った。

 

その実感が、疲れた胸の奥にゆっくり落ちた。

 

「……ありがとうございます」

 

どうにかそれだけ返す。

 

伏黒が社員証を伊地知さんへ渡しながら、こちらを見る。

 

「よく分かったな」

 

「分かったところで止める訓練中」

 

「それができるなら十分だろ」

 

「俺としては一生訓練場でやりたかった」

 

「現場に出ないと分からないこともある」

 

「正論」

 

「悪いか」

 

「悪くないから困る」

 

調査はそれで終わりになった。

 

伊地知さんは現場の安全確認をし、帳を解く前に、俺へ簡単な確認をした。

 

「初回としては十分です。ただ、三階で一瞬、深度が上がりましたね」

 

「すみません」

 

「謝罪より、記録してください。何がきっかけで深くなったか。次に止める材料になります」

 

こういうところが、伊地知さんは本当に先生だった。

 

俺は渡された用紙に、震えの残る手で書き込む。

 

読取対象。一般人男性の移動経路。

 

場所。取り壊し予定雑居ビル、一階入口から三階非常口前。

 

確度。入口から三階までの移動経路は高。遭遇地点は推測。落とし物の種類は読取時点では不明、現物確認により社員証と判明。

 

除外した記録。呪霊側の感情残滓。伏黒の式神および影の術式痕跡。訓練目的外の私的記録。

 

身体負荷。二階で軽度の吐き気。三階で再演誘発あり。思考整理により一部遮断、伏黒による監視あり。

 

読まなかったものも、報告書に残す。

 

それは、読めたことの自慢ではない。次に同じ線引きを再現するための記録だった。

 

帰りの車内、俺は完全に疲れ切っていた。

 

派手な戦闘をしたわけではない。呪霊を倒したのは伏黒だし、俺は床に触って、報告して、途中で危うく過去に引っ張られかけただけだ。

 

それでも、体が重い。

 

初現場は、想像より地味だった。

 

大事件ではない。命懸けの激闘でもない。埃だらけの廊下で誰かが怖がった記録を読み、落とし物を見つけ、呪霊の残り香を避け、報告書に落とした。

 

これも呪術師の仕事なのだ。

 

いや、俺の場合は補助監督寄りだから、なおさらこういう仕事が増えるのだろう。

 

伊地知さんが運転席から言った。

 

「お疲れ様でした。初回としては、よくできていたと思います」

 

「ありがとうございます。褒められても現場には行きたくないです」

 

「それは……まあ、分かります」

 

分かってしまうのが伊地知さんらしい。

 

隣で伏黒が窓の外を見たまま言った。

 

「次も来るのか」

 

「できれば行きたくない」

 

「だろうな」

 

「でも、今日みたいなので誰かの後始末が少し楽になるなら……まあ、行かないとは言わない」

 

「面倒な言い方だな」

 

「性格が面倒なんだよ」

 

伏黒は何も言わなかった。

 

だが、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。

 

見間違いかもしれない。

 

報告書に書くなら、確度は低い。

 

『初現場ノ記録ヲ保存シタ』

 

アンダー・ワールドが言う。

 

俺は疲れた頭で返した。

 

「保存するなら、反省点だけにしてくれ」

 

『反省点、多数』

 

「知ってるよ」

 

車窓の外で、高専へ続く山道が遠ざかっていく。

 

俺は初めて、過去を読むことが、今を少しだけ片づける仕事になるのだと知った。

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