アビドス高校からの帰り道。
夕日に染まる砂漠の中心道を抜け、幾つかの自治区を跨ぐ数十キロメートルもの道のりをシロコは愛車のロードバイクと共にただひたすらに走り抜けていた。
ペダルを漕ぐ足に疲れはない。むしろ、ギアが回転する一定のリズムと耳元を通り過ぎていく風の音が今のシロコにとっては心地よい集中をもたらしてくれていた。
目的地は自分の家ではない。学園都市キヴォトスの中心部にそびえ立つ、連邦捜査部「シャーレ」の建物だった。
特に明確な用事があったわけではない。ただ、放課後になると、自然と身体がその場所を目指してしまう。あの気怠げで、けれどどこか底の知れない大人の顔が無性に見たくなっただけだった。
自転車を入り口近くに停めてからシャーレのオフィスの重厚なドアの前に立つ。
ふと見れば、彼がアビドスでの用事を終えて帰った後に自分たちが製作して送った「万事屋銀ちゃん シャーレ支部」の木製看板が掛けられていて、思わず頬が綻んだ。ちゃんと使ってくれてるんだ。
息を一つ整えてから、シロコは壁に設置されたインターフォンのボタンを指先で押した。
ピンポーン。
電子音が扉の向こうで響き渡る。
しかし、数十秒待っても、中から足音が聞こえてくる気配はなかった。もう一度押してみるが、やはり応答はない。
出かけているのだろうか。あるいは、書類仕事に追われて別の部屋にいるのか。
「……いないのかな」
小さく呟きながら、確かめるつもりでドアノブに手をかけ、手前に引いてみる。
すると、カチャリと軽い音がして、ドアはあっさりと内側に向かって開いてしまった。鍵はかけられていなかった。
「……先生、不用心すぎ。これじゃ、いつでも強盗に押し入られちゃう」
シロコは呆れたように小さくため息をついた。もし自分が「その気」の人間だったら、この時点でシャーレの全財産はアビドスの復興資金に回されているところだ。
そんな物騒な冗談を頭の片隅で転がしながら、シロコは慣れた足取りで静まり返ったオフィスの中へと足を踏み入れた。
廊下を進み、メインルームの重い扉をそっと押し開ける。
西日が差し込む広い部屋の中央。いつもシロコたちがアビドスから遊びに来た際に占領するあの大きめのソファの上に、目指す人物の姿はあった。
銀時はソファの上で無防備に横たわり、眠りこけていた。
その手からは読みかけの週刊少年ジャンプが滑り落ちて、床の上で無残にページを開いている。相変わらずだらしない寝相だ。アビドスの対策委員会室にいた時も、彼はいつもこうしてソファのクッションに頭を埋めて、呑気に高いイビキをかいていた。
きっと今も、口を開けてマヌケな顔で寝ているに違いない。
シロコは足音を立てないようにゆっくりとソファへと近付き、その寝顔を覗き込んだ。
「……!」
しかし、視線に入ってきた彼の表情を見た瞬間、シロコは思わず息を呑んだ。
いつもなら「だらしない」の一言で片付くはずのその顔が、今は見たこともないほどに青ざめていた。
額やこめかみにはべっとりと冷や汗が滲み、荒い呼吸を繰り返す胸元が、激しく上下している。苦しげに眉間には深い皺が刻まれ、その唇は微かに震えていた。
それは、明らかに激しく魘されている姿だった。
「先生……?」
シロコは反射的に手を伸ばしかけ、その指先を止めた。
銀時の唇が、かすかな掠れた音を漏らしながら、何かを必死に紡ぎ出そうとしていたからだ。シロコは耳を彼の口元へと近付けた。
「……先生、……松陽、先生……っ……お、れは……」
途切れ途切れに、 掠れた悲鳴のように零れ落ちた、その名前。
「ショウヨウ……?」
シロコは心の中で、その未知の響きを繰り返した。
呼びかけられているのは「先生」だ。彼は誰かを「先生」と呼んでいる。
……当然のことだが、この人にだって、かつて学生だった頃があり、導いてくれる先生がいたのだろう。キヴォトスにいる誰もが彼のことを「先生」と呼ぶけれど、彼にとっても、そう呼ぶ大切な存在がいた。それは当たり前の事実のはずだった。
でも、その「松陽先生」という人と、この人は過去に何があったのだろう。
今、こうして夢の中で名前を呼ぶだけで、あれほど強くて恐れ知らずな男が、子供のように顔を歪めて震えるほどの出来事が彼の過去にはある。
自分たちの知らない、この人の過去。
アビドスの砂漠で出会ってから、あんなに近くで一緒に過ごして、呑気に鼻をほじってはシロコたちの突っ込みを受け、時には信じられないような荒々しさで木刀を振り回し、自分たちを守ってくれたこの人のことを。
私たちは、本当はまだ、何も知らない。
彼がキヴォトスに来る前にどこで何をしていたのか。どんな戦いを経て、どんな傷を負ってきたのか。銀時は自分から過去を語ることは決してないし、シロコたちが尋ねても、いつも煙に巻くような冗談で誤魔化してしまう。
それが、どうしようもなく寂しくて、切なかった。
まるでどれだけ手を伸ばしても、彼の本当の核心には触れられないような、そんな遠さを感じてしまう。
「……く、ぅ……ぁ……」
銀時の呼吸がさらに荒くなり、苦しげな呻きが強くなる。
その姿をこれ以上見ていられなくて、シロコは考えるよりも先に身体を動かしていた。
彼女は自転車用のヘルメットを脱いで床に置くと、ソファの空いているスペース──銀時の頭がある方の端へと、静かに腰掛けた。
そして、彼の苦しげに揺れる頭を、両手でそっと優しく持ち上げる。
自分の太ももの上。一番柔らかい場所に、彼の銀色の頭をそっと乗せた。膝枕だった。
冷や汗でぐっしょりと濡れた天然パーマの髪がシロコの制服のスカートを汚し、肌に直接その冷たさが伝わってくる。けれど、不思議と嫌悪感なんて微塵も湧かなかった。むしろ、この不快な汗をすべて拭い去ってあげたいとすら思った。
「先生、大丈夫。ここにいるから」
シロコは優しく、本当に優しく、怯える子供を宥めるように、彼の硬くて縮れた銀髪を指先でそっと撫で始めた。
「大丈夫……何も起きない。何かあっても、私が隣にいる。ここはシャーレのオフィス。安全な場所」
何度も、何度も、同じ言葉を繰り返しながら、規則正しいリズムで彼の頭を撫で続ける。
シロコの指先から伝わる体温が、彼の凍りついた夢を少しずつ溶かしていくかのようだった。
どれくらい、そうして髪を撫でていただろう。
しばらくすると、銀時の激しかった呼吸が、目に見えてゆっくりとしたものに変わっていった。眉間に刻まれていた深い皺が徐々に薄くなり、青ざめていた顔色に、いつもの生気が少しずつ戻ってくる。
「……ふぅ、……ぅ……」
最後に一つ、大きなため息のような息を漏らすと、銀時はそれ以上魘されることもなく、静かに寝息を立て始めた。どうやら、恐ろしい悪夢の底から、ようやく穏やかな眠りの浅瀬へと帰ってこられたようだった。
シロコは、ホッと小さく胸を撫で下ろした。
自分の膝の上で、すっかり力を抜いて眠っている銀時の横顔を見下ろす。
前に一度、アビドスの校舎の巡回係に当たった時に無理を言って彼と同じ部屋で雑魚寝をしたことがあった。あの時は、シロコは夜中に何度も目を覚まして、彼の様子を盗み見ていた。
でもあの時はこんな風に魘されている姿なんて、一度も見せなかった。いつだってイビキをかいて熟睡していたはずだ。
「……もしかして、あの時は私と一緒に寝てたから、悪夢を見てなかったのかな」
ふと、そんな考えが頭をよぎり、シロコは自分で自分に少しだけ呆れた。
そんなの、ただの自惚れだ。でも、もし本当にそうだとしたら──自分が彼の傍にいることで、少しでもあの恐ろしい過去の夢から彼を守れているのだとしたら、それはとても嬉しいことだと思った。
西日はすっかり沈み、オフィスの窓の外には、キヴォトスの夜景が美しく広がり始めている。
部屋の明かりをつけていないため、室内は少しずつ暗闇に包まれていく。けれど、シロコはソファから立ち上がる気にはなれなかった。
今、動いてしまったら、せっかく落ち着いたこの人の眠りを、また妨げてしまうかもしれない。
それに、この心地よい重みと、自分の膝に伝わる彼の温もりを、もう少しだけ、誰にも邪魔されずに独り占めしていたかった。
シロコは、撫でる手を止めないまま、静かに寝息を立てている彼の寝顔をじっと見下ろし続けた。
あなたの過去は知らない。あなたが呼んだ『松陽先生』が誰なのかも、私にはわからない。
でも……今、あなたの隣にいて、あなたの頭を支えているのは、私だ。
「……おやすみ、先生」
暗闇の中、シロコは誰にも聞こえない声でそう呟くと、いつもより少しだけ優しい眼差しで、愛しい「先生」の髪をいつまでも撫で続けた。
いつも読んでいただきありがとうございます。彼の名前を知るのはやはり彼女が最初であるべきかと思いまして。