キヴォトスの如何なる地図にも記載されていない、物理的な座標系から完全に切り離された暗澹たる空間。そこには、ただ絶対的な静寂と、冷徹な数理だけが支配するゲマトリアの会合所が存在していた。
外の世界ではヘイローを持つ少女たちが瑞々しい青春を謳歌しているというのに、ここには太陽の光も、風の匂いも、時間の経過すらも存在しない。無機質な電算機の駆動音だけが、まるでこの空間そのものが巨大な怪物であるかのように、低く、重苦しい心音として微かに響き続けている。
薄暗いオフィスの中、豪奢なマホガニー製の卓上に置かれたアンティーク調のランプが、主の姿を不気味に浮かび上がらせていた。
「……わかりました、ではそのように動きましょう。各地のペーパーカンパニーにも伝えておきます。あなたがもたらしたその『情報』は、我々の研究にとっても極めて有意義なサンプルとなり得る。何せ、このキヴォトスにおいては本来存在し得ない、完全に『閉じたはずの因果』の搾り滓なのですから」
そう言葉を紡いだのは、漆黒の外套を纏った異形の存在──「黒服」であった。
彼の底知れない漆黒の貌の中にある、まるでガラスの表面に走った亀裂のような白いヒビが、思考の波形に合わせて怪しく明滅する。その無機質な視線の先には、デスクの端に留まり、静かに己の漆黒の羽をクチバシで毛繕いしている一羽のカラスの姿があった。
一見すれば、キヴォトスの空を飛ぶただの鳥類に見えるかもしれない。しかし黒服の鋭い眼が捉えるその輪郭は、時折不自然にブれ、周囲の空間やランプの光を歪ませていた。まるで、そこに「在る」こと自体が世界に対する重大なエラーコードであるかのように。カラスの羽から零れ落ちる影は、机に落ちた端から実体を失い、チリのように虚無へと還元されていく。
「いえいえ、こちらこそ急な訪問と申し立てで申し訳ありません。それにしても本当に構わないので? 私のようなどこの誰ともわからない、世界に拒絶された根無し草の亡霊とこのような契約を結んでしまって。あなたの組織……ゲマトリアにとっても、私を招き入れることは、それなりに計算外のリスクを伴うはずですが」
カラスの嘴から発せられたのは、どこか酷薄で、それでいて酷く乾いた知性を感じさせる男の声だった。
このキヴォトスという、神秘と奇跡が謳歌する箱庭にはおよそ存在し得ない、虚無を骨の髄まで経験した者だけが持つ、特有の不気味な残響。怒りも、悲しみも、焦燥すらもすり減って消滅してしまった、穏やかでありながら底知れない虚無を湛えた声の響きは、周囲の薄暗い壁に吸い込まれるようにして静かに消えていく。
だが、黒服はその異物感に対して不快感や嫌悪を示すどころか、むしろ極上のヴィンテージワインの香りを愉しむかのように、その身体から濃厚な愉悦の気配を漂わせた。
「ふふ、構いませんとも。私は常に、世界の『真理』と『神秘』、それらを解き明かすための未知なる変数を求めているのですから。それに……我々ゲマトリアが今最も注視して観測を続けている、あの──坂田銀時という男。彼を巡る奇妙な因果の系譜に、まさかあなたのような存在が深く関わっていようとは、非常に興味深い。……しかし」
黒服はそこで意図的に言葉を区切り組んでいた指を組み替え、カラスを値踏みするように見つめた。その顔面の白いヒビはさらに鋭く細められ、目の前の怪物の本質を細胞の一個、魂の一片に至るまで解剖せんとする学究的な、そして底知れぬ悪意を孕んだ眼差しがカラスを射抜く。
「……あの先生は連邦生徒会長によって招かれた。それはシステム上の例外として理解できます。不確定要素としての『大人』を、彼女らが最後の切り札として欲した証拠。しかし……あなた自身はどうしてここに? あなたが全身に纏っているその底知れない『空虚』は、キヴォトスの如何なる概念にも属していない。光も闇も、あるいは我々が長年追い求めている『色彩』すらも透過してしまいそうなほどの虚無。あなたはあの男の『影』ですか? それとも……かつてあの男が渇望した者の『別の側面』なのですか?」
黒服の核心を突くような問いかけに対し、カラスは毛繕いしていた動きをぴたりと止めた。
そして、その虚無を宿した複眼のような、濁った瞳を黒服へと向けた。ランプの淡い光を一切反射しないその瞳の奥には、かつて一つの世界が完全に崩壊し、燃え尽きた後に残る灰のような絶望が、どこまでも冷たく沈殿している。
「……さて、どうでしょうね。白き呪いによって龍の息遣いも枯れ果て、星と共に滅びゆくのみだった私が、なぜこの眩しすぎる平穏な箱庭に漂着してしまったのか。私自身、未だにこれっぽっちも見当がつきませんよ。かつて私が仕えた者達も、彼が守ろうとしたものも、全てはあの白い呪いと、白い光の彼方に消え去った。何もかもが終わり、均され、無に還ったはずだった。……ですが一つだけ、私の中でハッキリしていることがあります」
「ほう、それは?」
黒服の身体から、好奇心に突き動かされた黒い霧のような気配がどろりと立ち上る。精神の昂ぶりが空間の圧力を変え、オフィスの書類が僅かに震えた。
カラスは小さく羽を震わせ、吐き捨てるように、けれど狂おしいほどの確信を込めてその言葉を落とした。
「……世界と共に終わりたい。それだけです。彼がどこで誰の『先生』になろうと、どんな奇跡を起こそうと、私には関係のないことだ。あの男がどんなに生徒を救おうが、自らの空虚を埋めるために縁を結ぼうが。そんなものは私にとって、過去に繰り広げられた無意味な闘争の再放送に過ぎない。私はただ、この偽りの楽園が、かつて私があの世界で求めていた無に帰るその瞬間を迎え、この世界と共に消え去りたい。その願いだけが、今も私を突き動かしているのですよ」
カラスのクチバシから漏れ出る声は、どこまでも平坦で、熱を失っていた。怒りや憎しみといった、生者が持つ瑞々しい執着が完全に削ぎ落とされたその響きは、むしろ一種の「祈り」にすら近く聞こえる。
黒服は組んでいた足をゆっくりと組み替え、その顔面に走る白いヒビをピキ、と一際大きく明滅させた。彼の内に眠る、世界のあらゆる真理を解き明かさんとする旺盛な学究心が、この異界の亡霊が秘める底知れない深度に反応し、歓喜に震えていた。
「かつて求めていた、無。それはあなたが、数百年、数千年というあまりに永すぎる無限の時間を生き、その果てに数え切れないほどの己の『死』を見届けてきたからですか? だからこそ、『あの男』の遺志など、あなたにとっては塵ほどの価値もないというわけですか」
黒服の言葉には、相手を挑発し、その本質を力ずくで暴き立てようとする冷徹な意図が隠されていた。キヴォトスの生徒たちが持つ「崇高」を愛する彼にとって、その対極にあるこの男の在り方は、あまりにも奇怪で、だからこそ狂おしいほどに魅力的だった。
しかし、カラスはそんな黒服の揺さぶりなど、とうに数世紀前に通り過ぎてきた無意味な雑音であるかのように、ただ喉の奥でくくくと小さく笑う。その細い首を不自然な角度で傾げ、濁った複眼で黒服の異形を見据えた。
「ふふ……黒服。あなたは知りたがりが過ぎる。私がその男の成れの果てか、それともその男の中に巣食っていた、数千年の絶望が形を成した『虚無』そのものなのか。あるいは、彼の存在と行動によって歴史が書き換えられた際に、因果の狭間に取り残された、誰のものでもないバグデータなのか、あるいはあの男自身の拭いきれぬ罪悪感が具現化した、ただの幻影なのか……。それを突き止め、綺麗に分類することに、一体どれほどの意味があるというのです? 私自身、もう自分が誰であったかも、どの『私』が本物だったのかも、あの果てしない空虚の中で忘れてしまいましたよ」
そう語るカラスの仕草にはどこか気品がありながらも、決定的に「生命」としての生々しさが欠落していた。
憎悪や復讐心といった、熱量のある感情はそこにはない。ただ、冷え切った絶対的な終わりだけを求めている。薄暗いオフィスの中に、二つの異形なる存在が織り成す重苦しい沈黙が、どこまでも深く満ちていく。
「例え龍の息吹が途絶えても私の中の命は終われなかった。例え彼によって歴史が書き換えられたなども、パラドックスから解放されることもなかった。ならばどうすればいい? どうすれば私は私を終えられる? ……自惚れかも知れませんが、その願いが聞き届けられたのでしょう。この世界に私を引きずり出すために、世界自体が歪み、大きな犠牲も払いました。しかし、それは全て私を終えるため」
カラスの形をした異物は、自嘲気味に、けれどどこか縋るような祈りの響きさえ孕んだ声で淡々と紡いだ。
彼の言う「彼」という言葉に込められた絶対的な確執。歴史の改変すらもすり抜け、時空の歪みに取り残された存在だけが知る、あまりにも深く、あまりにも永い呪縛がそこにはあった。因果の鎖に縛り付けられ、安らかな眠りにつくことすら許されなかった亡霊の嘆き。
「……くっくっくっ……言葉は悪くなってしまいますが、なるほど。壮大な自滅願望者ということですか。ご自身の存在を完全に抹消するために、世界そのものの終焉を道連れにしようとするとは、実にもって贅沢で、そして我々ゲマトリアの理念とは根本的に相容れない思想だ」
黒服は小さく肩を揺らして笑いながらぎしり、と椅子を軋ませて座り直すとまるで極上の喜劇を観賞しているかのようにその長い指先を組んだ。
ゲマトリアにとって、このキヴォトスは探求すべき価値のある『神秘』の宝庫であり、実験場。それが異界の亡霊の私怨、あるいは終わりなき虚無の希求によって、容易く霧散してはたまらない。その本音を、彼は隠そうともしなかった。
「しかし、この世界を終わらせてもらっては困る。まだ我々には検証すべき仮説が山のように残されているのです。ですから、なるべくその計画の発動が遅くなり、私達自身が十分な研究ができるように努力しましょう。あなたがもたらす情報には対価を支払いますが、我々もまた、我々の目的のためにあなたの動向を制限させてもらう」
「堂々とサボタージュを宣言するとは、あなたもいい性格をしているではありませんか。協力者を自称しながら、その足元に砂を混ぜるような真似を平然とのたまう。……ですが、別に構いませんよ。私にとっては、今更滅びが何年延期しようと、そう変わりはしない。この無限に近い空虚の年月に比べれば、数年、数十年の猶予など、ただの瞬きにも満たないのですから」
カラスは皮肉を交えながらも、特に気分を害した様子もなく、再びその黒い羽をパサリと震わせた。
すでに悠久とも言える時間を「空虚」の中で過ごしてきた彼にとって、黒服の目論見や時間稼ぎなど、些細な抵抗に過ぎないのだろう。結末が変わらないのであれば、その過程でどれほどの遅延が発生しようとも、彼にとっては等しく無意味だった。それは、人智を超えた時間を彷徨ってきた者だけが持つ、絶対的な諦念の現れでもあった。
「……ところで、契約の成立にあたって、あなたのことを何とお呼びすれば? 我々ゲマトリアは個人の名よりもその役割を重視しますが、言葉を交わす以上、あなたを規定する最低限の『記号』が必要だ」
黒服は顔面の白いヒビを僅かに揺らし、紳士的な、しかし冷徹な興味の入り混じった口調で問いかけた。
「そうですね……では『サイファー』と。どこかの国の言葉とはなりますが」
カラス──サイファーと呼ばれた異物は、その名が持つ「数字のゼロ」あるいは「暗号」「空虚」という意味を体現するかのように、一切の感情が削ぎ落とされた声でそう告げた。
キヴォトスの如何なる歴史にも、神話にも刻まれていない、何者でもない存在を示すための記号。しかし、それはかつてあの白髪の侍と浅からぬ因縁を結んだ、実在する「空虚」の証明でもあった。
「サイファー……。ふふ、素晴らしい名だ。実体を持たず、ただそこにあるだけの空白。あなたにこれほど相応しい記号もない。あの先生が背負う過去の重量と、あなたが抱える未来の無価値……。それらがこの箱庭で交錯した時、一体どのような新しい数式が導き出されるのか。私はそれを楽しみに待つとしましょう」
黒服の満足げな呟きを背に受けながら、サイファーはバサバサと黒い翼を広げ、オフィスの開かれた窓から静かに飛び立った。
午前の眩い陽光が降り注ぐキヴォトスの空へと溶けていくその不吉な影は、あらゆる光を飲み込むブラックホールのように黒く、重かった。まるでこの街で紡がれる青春の輝きを遠くから見下ろす冷徹な観察者のように、彼はただ静かに、絶対的な「終焉」の機を待ち続けるのだった。
カラスの羽ってよくよく見ると虹の色をしてるんですよね。