とある休日の朝。銀時が歯を磨いているとピコン、と銀時の端末が小気味よい通知音を鳴らした。
画面を開くと、モモトークの差出人はアビドス対策委員会の頭脳であり、一番の常識人であるアヤネからだった。
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『先生、お疲れ様です。今、お時間はありますか?
実は、アビドス高校の校舎の定期保守点検を近々行うことになったのですが……何分、うちの校舎は広くてガタが来ている場所も多くて。もしよろしければ、先生にも少し手伝っていただけないでしょうか?』
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画面の向こうで、眼鏡の位置を直しながら申し訳なさそうに恐縮している彼女の姿が容易に想像できた。
あのアビドス高校の広大な敷地と、容赦なく押し寄せる砂漠の砂。それを普段から数少ない人数で維持しているのだから、ガタが来るのも当然の話である。
「校舎の保守点検ねぇ……」
銀時はソファにごろりと横たわったまま、ぽりぽりと腹を掻いた。
いつも対策委員会のみんなを後ろから健気に支え、事務仕事からドローンでの後方支援までマルチにこなすアヤネの頼みだ。断るわけもない。
『おー、いいぜ。ちょうどシャーレの空気に飽き飽きしてたところだし』
銀時がそう返信を送ると、すぐに『本当ですか!? ありがとうございます、すごく助かります!』と、文字からでも彼女のホッとした安堵の表情が伝わってくるような返信が返ってきた。
銀時は「よっこらしょ」と重い腰を上げると、愛用のスクーターの鍵を引っ掴み、アビドスへと向かう準備を始めた。
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「……あ、先生! 来てくれてありがとうございまーす!」
校門の前にはすでにアヤネの姿があった。スクーターのエンジン音に気づいて顔を上げた彼女は、乗り慣れた様子で校庭へ滑り込んできた銀時を見るなり、パッと嬉しそうな笑顔を浮かべてこちらへと大きく手を振った。
「なあに、ちょうど暇でゴロゴロしてたしな。しっかしお前さん、今日は土曜なのに学校の保守点検たあ精が出るじゃねーの」
銀時はスタンドを蹴り立ててスクーターを止め、ヘルメットを外しながらアヤネを見やる。休日だというのに、彼女の小さな肩にはすでにいくつかの小道具が入ったポーチが提げられていた。
「あはは、毎月少しずつ点検したり修理しないと、どんどん酷くなっちゃうので……」
アヤネは眼鏡の奥の眼差しを細めつつ、学校の敷地を見渡して少しだけ困ったように笑った。容赦なく吹き付ける砂漠の風は、何もしなくても校舎の各所をじわじわと蝕んでいく。
彼女はシャキ、と手慣れた仕草で眼鏡の位置を直すと、今日点検する項目がびっしりと書き込まれた藁半紙を挟んだバインダーを銀時に手渡してきた。
「今日は体育館やグラウンドの施設点検をします。シロコ先輩から『体育館倉庫の扉の建て付けが悪い』との報告が上がっていますので、それの対応もできたらなって思っています」
「ふうん……まあ了解。お前さんと一緒についていけばいいよな?」
銀時は受け取ったバインダーの文字を上から下へと眺めながら、自分の役割を確認する。
「はい! 私じゃ力不足だったり、どうしても手が届かない高いところがあったりもするので、そうした時に助けてくれたらいいなあって」
「はいよ、どんと任せときな。そんじゃ先ずは……ちょうど外にいるし、グラウンドの方から見て回ろうぜ」
銀時はポンと自分の胸を叩き、少し頼もしげな笑みを見せる。その言葉に、アヤネは「よろしくお願いします!」と元気よく頷き、二人は並んでグラウンドへと歩き出すのだった。
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「……五人しかいねえ割にはすげー綺麗だよな、相変わらず」
銀時はまばらに砂が混じる広大なグラウンドを見遣りながら、のんびりとした足取りで歩を進める。五人しか生徒がいないにも関わらず、目立った雑草は見当たらない。二人はグラウンドの最初の点検場所である、隅に設置された屋外水道の方へと向かいつつ、言葉を交わしていた。
「グラウンドは主にシロコ先輩がよく使っていますからね。ライディングのトレーニングをするなら、綺麗にしておかないとタイム更新に響くからって言って、部活の前後や放課後に少しずつ草刈りをしてくれているんです」
アヤネはバインダーを胸に抱え直しながら、誇らしげに、けれどどこか苦笑いを交えて教えてくれた。
「へーえ、ストイックなこって……。アイツが将来競輪選手にでもなったら、俺は毎回アイツの車券に全財産ぶっ込んで全賭けしよっかな」
「……ほんっと、相変わらずですよね、先生は……」
アヤネからの冷ややかなジト目を正面から浴びつつ、二人はグラウンド脇の古びた水道の前に到着した。銀時は「どれどれ」と腰を屈め、年季の入った蛇口をグッと捻ってみる。
しかし、期待された水が勢いよく飛び出してくることはなかった。完全に錆びついているのか、右に左に捻っても捻っても、ただキュルキュルと虚しい金属の擦れる音が響くのみだった。
「……出ねえな」
銀時は蛇口を全開にしたまま、一滴の水すら滴り落ちてこない配管を軽く小突いた。
「うーん、水漏れでしょうか。取り敢えずメーターを……」
アヤネはそう言って、水道のすぐ近くの地面に埋め込まれた青いプラスチックの蓋へと歩み寄った。スカートの裾を気にしながらその場に器用に屈み込み、手慣れた手付きでラッチを外して蓋を開け始める。
「……こーゆーのも一人でできるんだな?」
銀時は感心したように片眉を上げ、上から彼女の作業を見守る。女子高生が日常的に水道メーターのバルブや数値をチェックする光景は、普通ならなかなかお目にかかれないものだ。
「ずっと前に一度、水道屋さんを呼んだ時があって、その時にずっと手元を観察していたので……。あとは上下水道の仕組みとか、配管トラブルの対処法が載っている本を読んだりして学びました。業者さんを呼ぶとどうしてもお金がかかりますし、少しでも節約したいですから」
アヤネはふうと額の汗を拭いながら、どこか誇らしげに語る。アビドスの厳しい財政を一人で預かる彼女ならではの、涙ぐましい努力の結晶だった。
「へーえ……それに合わせて機械も扱うのが得意ってなると、建設業とか似合うかもな、将来。奥空建設、なんつってさ」
「も、もう、揶揄わないでください! ……でも、将来、かあ。毎日の対策委員会の活動や借金のことで頭がいっぱいで、自分の卒業した後のことなんて、今まで考えてもみなかったです……」
アヤネは少し照れたように頬を赤らめつつも、ふと遠い目をして呟いた。しかし、すぐに小さく首を振って意識を目の前の作業へと戻すと、開いた蓋の奥にあるメーターをじっと覗き込む。
「……メーターの針は動いていませんね。ということは、どこかで水が噴き出しているような水漏れでは無さそうです。供給元……校舎の地下にあるポンプ室のブレーカーか元栓が怪しいですね。そっちを確認してみましょうか」
「へーい」
的確なアヤネの指示に、銀時はバインダーを脇に抱え直してゆるく返事をする。二人はグラウンドを後にし、ひんやりとした空気が漂う校舎の地下ポンプ室へと向かうことにした。
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「……ポンプ室っつーから、そこら中に配管がのたうち回ってるゴチャついたイメージあったけど、結構広々してるんだな」
銀時は懐中電灯の明かりで薄暗い地下の空間を照らしながら、天井の高さを見上げて呟いた。壁際に整然と太い配管が張り巡らされてはいるものの、中央にはやたらと広いスペースが確保されている。単なる設備室というよりかは、何か別の目的のために設計されたような独特の雰囲気が漂っていた。
「以前、ホシノ先輩がカイザーに囚われていた旧本校舎の建物を覚えていますか? カイザーPMCのFOBが置かれていた、あの砂に埋もれた古い建物です。アビドス高校って実はかなり歴史が古くて……この今使っている校舎に移ってきたのも、大分昔のことなんです。ですからここも、昔は有事の際のシェルターのような役割があったのではないかなって、たまに委員会でも話しているんです」
アヤネは暗闇の中でも足元を迷うことなく進みながら、アビドスの知られざる過去の一端を教えてくれた。彼女の持つ懐中電灯の光が、コンクリートの頑丈な壁を白く浮かび上がらせる。
「そんな昔からある由緒正しき高校、ねえ。歴史オカルトが好きな奴からしたら、いい観光資源にでもなりそうなもんだろうに。遺跡ツアーとか組めば一発で借金返せるんじゃね?」
「土地の権利の大多数は、カイザーグループが未だにガッチリ握っていますから……。あの一件以来、不当で強硬な返済要求がなくなっただけでも、今はまだ良くなったほうなんですけどね」
アヤネは苦笑いを浮かべながらバインダーを脇に挟み、目的の設備の前で足を止めた。グラウンドの水道へと繋がっているはずの給水ポンプの系統を指先で丹念に辿りながら、その根元にある大きな金属製の元栓を確認し始める。
「……やっぱり。元栓がしっかりと締められていますね」
アヤネは懐中電灯の光を一点に集中させ、配管のバルブ部分を覗き込んだ。
「……本当だ。ボックスドライバーじゃねーと開け閉めできねえだろうに誰が……」
銀時も横から身を乗り出して確認すると、確かに目印である赤い点がしっかりと「閉」の方向へと捻られていた。
「うーん、誰がやったのかはわかりませんけど、水道代を気にして誰かが締めたのでしょうか。嫌がらせするとしたら、それこそ……」
アヤネはそこまで言いかけて、不自然に口籠もった。
もし悪質な嫌がらせ目的だとしたら、こんな滅多に使わない屋外水道ではなく、毎日のように全員が使う「トイレ」の元栓を狙うはず──そう続けようとしたのだが、いかんせん隣にいるのは異性の大人の男だ。ほんの少しだけその単語を口にするのを意識してしまい、アヤネは慌ててゴホンと小さく咳払いを挟む。
「……と、ともかく! これは通常のミリ規格ではなく、インチ規格の工具でないと操作できません。ちょうど今回報告に上がっている体育館倉庫の工具箱に、その手のインチ工具一式がありますので、それを先に取りに行きましょう」
「おいおい、インチかよ。世界規格は統一しろっつーの、インチ法滅ぶべしマジで」
「ふふ、インチ法にそこまでの恨みがあるなんて……。それにしても先生、ボックスドライバーだなんて専門的な工具の名前、よくご存じですね? もしかして、以前何か機械の整備の依頼でも受けていたんですか?」
アヤネが何気なく投げかけたその問いに、銀時の脳裏をよぎったのは、かつてとある天人のキャトルミューティレーションによって体のとある部分をドライバーへと無惨に改造された、あの忌まわしき珍事件の記憶だった。
自分の股間の最も大切な「男のプライド」を、人生において使う機会が数えるほどしかなさそうな『ボックスドライバー』に改造されたあの屈辱──。
銀時は遠い目で暗闇を見つめ、ふっ……と力のない悲哀に満ちた薄い笑みを浮かべた。
「……色々あったんだよ、男の歴史には。語るも涙、聞くも涙の、な……」
「は、はあ……?」
あまりにも深い闇を湛えた銀時の表情に、アヤネはそれ以上の追及を諦め、引きつった笑みを浮かべながら体育館へと向かう足を早めるのだった。
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「よっ…………と。確かに、かなり建て付けが悪いですね……」
アヤネが細い体にぐ、と力を込めて扉を引くと、ようやくギギギ……と耳障りな軋むような音を響かせながら鉄の重い扉が開かれた。どうやらここも校舎地下と同じく、元々はシェルターの一角だったのか、普通の学校の倉庫にはおよそ不釣り合いなほど分厚く頑強な構造をしている。
「建て付けっつーか、長年の砂と錆が噛み込んでるっぽいな。あとでオイル差しておくなりした良さそうじゃね?」
「確かにそうですね……。あとで備品の棚に機械油が残っているかどうか見てみましょう」
銀時の提案に頷き、二人で並んで薄暗い倉庫の中へと足を踏み入れる。すると彼らが中に入り切った瞬間、開かれた扉はその強大な自重に引かれるようにして、自ずと背後で静かに閉じてゆく。
アヤネが奥の棚を探ると、目的のインチ工具が詰まった年季の入ったスチール製の箱がすぐに見つかった。
「ありました! これでポンプ室の元栓を開けられますね。それじゃあ、さっそく戻って──」
アヤネが工具箱を抱え直しながら、何気なく鉄扉のドアノブに手をかけてグッと捻った。しかし、ガチャガチャと小気味悪い金属音が虚しく室内に響くだけで、扉が動く気配は一切ない。
「あ、あれ……? おかしいですね。あ、開かない……」
「おいおい、冗談だろ。ちょっと俺に貸してみろよ。……っ、あり? マジで開かねえじゃんコレ……っ!?」
銀時がアヤネと位置を代わり、ぐっ……とドアノブを力任せに捻り、肩をぶつけるようにして扉を押してみる。だが、厚い鉄の塊は文字通りびくともしなかった。内側のラッチが完全に錆びついて噛み込んでしまったか、あるいは経年劣化の歪みでロックがかかってしまったらしい。
「もしかして、私たち……」
アヤネの顔からすうっと血の気が引いていく。
「……ああ」
銀時は冷え切ったドアノブから手を離し、頬をひきつらせた。
「「閉じ込められちゃった……」」
その言葉が二人で綺麗に重なった途端、アヤネの時が止まった。数秒の静寂の後、彼女は一瞬にして顔を林檎のように真っ赤に染め上げ、その目にはみるみるうちに涙が浮かび始めた。
「ど、どどどどうしましょう、先生!?」
アヤネは抱えていたバインダーを落としそうになりながら、目をぐるぐるとさせながら銀時の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「そ、そんなに慌てることじゃねえだろ? 落ち着けって。スマホもあるんだし、外にいる誰かに連絡して助けを呼べば……」
「そ、それで本当に助けを呼んだら、確かにホシノ先輩たちが来てくれるとは思います! でも……でもッ……!」
「でも?」
銀時が怪訝そうに首を傾げると、アヤネはバインダーを胸元でギチギチと強く抱きしめ直しながら捲し立てた。
「『アヤネちゃん、どうして休日で人気のない体育館倉庫なんかで、先生と二人きりだったの?』って聞かれたらどうするんですか……!?」
「そりゃお前、グラウンドの水道直すのに必要な工具を取りに行ったからって、普通に事情を言えば……」
「し、正直に言えばわかってくれるでしょうか……本当に、そんなありきたりな言い訳でわかってくれるでしょうか!? も、もちろん先生となら……先生となら私は嫌じゃないですし、嫌どころかむしろ嬉し……い、いや、でも! 『アヤネちゃん、おとなしいと思ったけどやるじゃーん。能ある鷹は爪を隠すって言うけど、こんな鋭い爪を隠してたなんてさー』なんて生暖かい目で見られたら、私、恥ずかしさでキヴォトスから消えてなくなりたいです……!!」
「お前は一体何考えてんだ!?!? 何の薄い本を読んでそこまで妄想膨らませてんだよ取り敢えず落ち着け!? それ以上話聞いてたらこっちまで変に意識しちまうからね銀さんも!!」
普段の冷静沈着な姿からは想像もつかないアヤネの暴走っぷりに、銀時は完全に気圧され、盛大に顔を引きつらせながら両手を振ってツッコミを入れた。しかし、一度火がついた乙女の妄想機関は、狭い倉庫の熱気も手伝ってもう誰にも止められない。
「ほ、ほら!! 意識してしまうんだからやっぱり男の人はみんな狼なんです!! 薄暗い密室で二人きりになって、心細くて寄り添いあっている時に、冷えた肩をそっと優しく抱き寄せられ────」
「やめろおおお!?!? それ以上官能小説みたいなこと言うのやめろおおお!?!? 何なんだよ年頃の女の子怖えよ!?!? 妄想のキレが男子校のそれなんだよ!!」
狭い倉庫の中に銀時の魂の叫びがこだまする。その後もしばらくの間、過呼吸気味に「はわわ」と独自の宇宙を展開し続けるアヤネと、これ以上あらぬ嫌疑をかけられてなるものかと必死に彼女の正気を取り戻そうとする銀時との、不毛かつ壮絶な攻防が繰り広げられるのだった。
──────────
「……落ち着いたか?」
それから数分後。銀時はまるで一戦交えてきたかのように少しげっそりとした表情で、壁に背を預けながらアヤネに問いかけた。
「……すみません……」
対するアヤネは、完全にいつもの冷静さを取り戻したものの今度は先ほどの己の暴走っぷりが恐ろしくなってきたのか、赤らんだ顔を両手で覆い隠しながら蚊の鳴くような声で頷く。
「……まあ、な? お前さんくらいの年頃だと、そーゆー未知の領域に興味津々になるのは分からねえでもないからさ、そこまで気にすんなって」
「生暖かく慰めるのやめてください……。先程までの自分が恥ずかしくて仕方ないです本当に……。今すぐ穴を掘って埋まりたい……」
指の隙間から涙目で銀時を睨むアヤネに、彼は苦笑い混じりのため息をついた。これ以上この話題を引きずるのはお互いの精神衛生上よろしくないと判断した銀時は、状況を打開すべく、ぐるりと倉庫の壁面を見渡した。
すると、埃を被った古い資材棚のさらに上、天井に近いかなり高い位置に、外の光が差し込む小さな換気用の小窓があるのを見つけた。
「あそこから出て、外側から扉を開けりゃどうにかなりそうだな。けど、あの窓のサイズじゃ俺の体は絶対通らねえわ。入れるのはお前さんくらいか……」
「そうですね……。でも、あんなに高い場所だと、私だとジャンプしても少しどころか全然届かないですね……」
アヤネは手を伸ばして小窓との距離を測るが、悲しいかな、彼女の身長では踏み台になりそうなものを重ねてもまだ足りそうにない。
「あ、そうだ。俺が肩車すれば届くんじゃね? お前さんを上まで持ち上げりゃ、あの窓に手が届くだろ」
「か、肩車、ですか……?」
銀時がポンと自分の肩を叩きながら提案すると、アヤネは「なるほど」と納得しかけ──しかし、次の瞬間に、ハッと自分の下半身へと視線を落とした。
今、彼女が穿いているのはアビドス高校の標準的な制服のスカートだ。セリカのように下に黒いスパッツを仕込んでいるわけでもなければ、タイツや厚手のストッキングを履いているわけでもない。完全な素足だ。
そんな状態で大人の男性、それも異性である銀時の肩に跨る形になれば、一体どういう状況になるか。彼の首筋や後頭部に、自分の太ももやスカートの裾がダイレクトに触れることになるのは明白だった。
(そ、それって、さっき私が考えてたのとは違う意味で、ものすごく密着することに……!? もし下から覗かれたりしたら……いや、先生はそんなことしないって信じてますけど、でも……!)
確かにこの絶望的な密室から脱出するには、それしか手段がないのも事実。けれど、先ほどまで「男は狼」などと大騒ぎしていた手前、あまりにも無防備な体勢で彼に身を預けることに、アヤネの乙女心が激しい葛藤の嵐を巻き起こしていたが……少ししてから、観念したようにギュッと目をつむり、次いで決心がついたように目つきを鋭くした。
「う、う〜〜〜っ……わ、わかりました。……でも! 絶対にスカートの中を覗いたりとか、私が窓に這い上がってる時に上を見たりとかしないでくださいね!? ふ、太ももにも視線を向けたりしないように!」
「誰がするかよ!? 俺をなんだと思ってんだ!? いーからやるならやんぞ、ほら!」
銀時は呆れたように声を荒らげつつも、アヤネへと背中を向け、その場で少し膝を折って屈みながら肩車を促す。
(……よし、これで先生に跨れば……そう言えば私、今日可愛い下着履いてきた、っけ……? って、待って! 何で私、今下着のことなんて気にする必要があるの!? 違う違う、ただの脱出、これは緊急事態の作戦行動なんだから……!)
……なんて、頭の中で二転三転する恥ずかしい葛藤を必死に抑え込みつつ、アヤネは大人しく、けれどドクドクと不規則に跳ねる胸を高鳴らせながら、銀時の首裏へと跨った。その瞬間、彼の天然パーマのふわ、とした白い毛並みが剥き出しの内腿を擽る。
「ひゃっ……!」
「……ちょっと、変な声出すのやめてくんない? こっちの膝の力が抜けそうになるから」
「そ、そんなこと言っても、くすぐったくて……んんっ……」
アヤネは顔から火が出そうなのを堪えながら、銀時の頭を両手でしっかりと掴んでバランスを取る。銀時は「よっこらしょ」と、彼女の体を乗せたまま、強靭な脚力で何気なく立ち上がった。
「……ったく……ほら、これで届くだろ」
「わ、わ……っ! お、重くない、ですか……?」
一気に視界が高くなり、目の前に小窓が迫る。アヤネはあまりの密着振りと、下から自分を支えてくれている銀時の存在の大きさに気圧されながら、恐る恐る尋ねた。
「重いワケねーだろ、軽いくらいだわ寧ろ。もっとちゃんと飯食え飯。その年頃の女の子は、今のうちにちゃんと食っておかねえと後々色々大変でしょーが」
銀時は全く息を乱す様子もなく、そうぶっきらぼうな軽口を叩きながら、小窓の真下へとゆっくり歩を進めていく。アヤネはその言葉に少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じつつ、窓枠へと手を伸ばす。
「……! 届きました! これなら、外に行けます……!」
アヤネの細い指先が、ガタつく古いアルミの窓枠をしっかりと捉えた。どうにか窓を開け、錆びついたサッシを押し広げると、彼女は上半身を小窓の隙間へと滑り込ませ、必死に外へとよじ登り始める。
「よーし、じゃあそのまま窓の外に頭から落ちねえように、気を付けて──」
「きゃあっ!?」
「……言ったそばからこれだよ……」
銀時の顔の横からアヤネの太ももの感触が消え、肩から重さが一気に離れていく。彼女へと注意を促しかけた、まさにその瞬間だった。外から「どてんっ」という派手な転倒の音と、それからアヤネの短い叫び声が響いてきた。
銀時ははあ……と深いため息を漏らしてから、閉ざされた扉越しに大きな声で彼女へと呼びかける。
「……おーい、生きてるか? 大丈夫か?」
「うう……大丈夫、です。けど、メガネが……いえ、すぐに向かいます! 待っててください!」
外から少し痛そうに呻くような声が聞こえた後、すぐにバタバタと砂を踏みしめて駆けていく足音が響き、次第に離れていった。
それからしばらくして、銀時が倉庫の入り口前へと移動して待っていると、扉の向こうから「ん、んーっ……!」という、細い体で必死に力を振り絞るアヤネの声が聞こえてきた。外側のレバーに全体重をかけて押し下げたのだろう。ギギギ、と錆びた金属が悲鳴を上げ、ようやく倉庫の扉がガバッと外側に向かって開かれた。
そこには、ようやく太陽の光を浴びて、安堵の表情で佇むアヤネの姿があった。しかし、その顔に乗ったメガネの鼻パッドの部分は派手に横へとずれており、制服のあちこちや髪には、転んだ際に被ってしまったらしい砂がうっすらと白く付着している。
銀時は思わず苦笑し、懐に片手を突っ込んだまま彼女を見つめた。
「……水道、直したらまずお前さんのその顔と頭、洗わねえとな」
「……はい……」
アヤネは真っ赤になった顔を隠すように、ずれた眼鏡を指先でクイッと直しながら、恥ずかしそうに小さくうつむくのだった。
──────────
パシャっ、パシャっ……と、心地のいい水の音がグラウンドの片隅に響き渡る。
あの後、二人で薄暗いポンプ室へと戻りインチ工具を使って元栓を回すと、グラウンドの水道は無事に息を吹き返した。その試運転を兼ねて、アヤネは蛇口から勢いよく飛び出す冷たい水を両手ですくい、顔に付いた砂を丁寧に洗い流していた。ついでに口の中に入ってしまった不快な砂利も、クチュクチュと音を立てて何度も濯ぎ落とす。
銀時は水道のすぐ隣に佇み、肩に手持ちの清潔なタオルを片手にそんな彼女の様子をのんびりと眺めていた。
「……あの、先生。そんなにじっと見られると、流石に気になってしまうんですけど……」
アヤネは顔を濡らしたまま、少し恥ずかしそうに視線を泳がせる。その顔には、いつも彼女のトレードマークになっている知的な眼鏡がなかった。
「あー……わりぃわりぃ。いやさ、そういやお前さんがメガネを外してるとこ、見るの初めてだなあって思ってよ」
「あはは、確かに先生にお見せするのは初めてかも知れませんね。……普段は、寝る時以外はずっと付けてますから」
アヤネは納得したように小さく笑うと、仕上げともう言わんばかりにもう一度冷たい水を顔に浴び、軽く頭を振って水滴をパッパと払った。眼鏡のない彼女の素顔は、いつもより少し幼く、そしてどこかハッとするほど新鮮で、澄んだ瞳が濡れた睫毛の奥で綺麗に輝いている。
その様子を見た銀時は、ニヤニヤとした意地悪そうな笑みを浮かべ、手に持っていたタオルを彼女の頭へとポンと乗せた。
「ふふ、だいぶいい絵面じゃねーか。いつもよりちょっと大人っぽく見えるぜ? 水も滴るいい女ってか?」
「もう! 揶揄うのはやめてくださいってば!」
アヤネは頭の上のタオルでゴシゴシと顔を拭きながら、またからかわれたと思って頬を膨らませる。しかし、銀時はふっと笑みを和らげると、頭を拭く彼女の手の上から、タオルの生地越しにその頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「いや、からかってねーよ。お前さん、メガネ外してても付けてても可愛い顔してんのな」
「な、ぁっ……!?」
んべ、と舌を出しながら、まるで今日のご飯のおかずの話でもするかのように平然と銀時が紡いだ言葉に、アヤネは一瞬にして言葉を失った。
タオルに包まれたまま、彼女の顔が耳の裏まで一気に沸騰していく。あまりにも不意打ちでストレートな褒め言葉に、アヤネは真っ赤になった顔をタオルの奥に完全に埋もれさせたまま、彫像のようにその場でカチコチに固まってしまう。
「いやー、こりゃ将来お前さんを嫁にもらう旦那が羨ましくなるぜ。お前さん、そのうち彼氏とかできたら真っ先に俺に教えろよな。いい男かどうか、俺がしっかり確かめてやっから」
「……何で先生に紹介する必要があるんですか!? まだ彼氏なんていませんし、もしできたとしても絶対に教えませんからね!?」
アヤネはタオルの隙間から真っ赤になった顔を覗かせ、ずれた眼鏡を慌てて直しながら、精一杯の抗議の声を上げた。心臓がうるさいくらいに高鳴っているのを、怒ったような口調で必死に誤魔化そうとする。
だが、銀時はそんな彼女の慌てようを気にする風でもなく悪戯っぽく笑った。
「決まってんだろ。こちとら一応、ろくでもねえなりにお前らの先生やってんだ。可愛い教え子にゃあ、それ相応のいい男が恋人だの旦那だのになってほしーのよ。少なくとも、俺より弱え男が相手になるのだけは、絶対に許さねえからな」
「せ、先生……」
その言葉に込められた、普段の気だるげな態度からは見えない、父親か兄のような不器用で深い保護欲。
アヤネは胸の奥をぎゅっと掴まれたような、切なくて、けれど酷く心地のいい感覚に陥りながら、手元のバインダーをそっと見つめて静かに呟いた。彼には絶対に聞こえないように、自分だけの秘密にするように、静かに。
「……他の誰でもなくて、先生がいい、って言ったら……どうするんだろ、この人は……」
「ん? なんだって?」
銀時が耳を近づけようと首を傾げると、アヤネはハッと我に返り、弾かれたように顔を上げて、キリッとした表情を作ってみせた。
「……なんでもありません!! 次は本題の、体育館倉庫の扉の修理に行きますよ!! ほら、ボサボサしてないで動いてください!」
「……ンだよ、急にツンケンしやがって……」
アヤネが怒ったようにツカツカと先を歩き出すのを、銀時は首の後ろをポリポリと掻きながら追いかける。
その後ろ姿を追いかける銀時には、彼女の耳の先が、夕暮れの空よりも赤く染まっていることには気づく由もなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
銀さんは多分知り合った生徒たちが「彼氏ができた!」なんて言った次の日にはその生徒の彼氏相手に徹底的な「指導」をすると思います。神楽ちゃんに彼氏ができた回の時はそれはもう大騒ぎでしたし。
けどそれは生徒たちにとってはKSBK思考でしかありません。銀さんほど強い男なんてそうそういませんし……銀さんが基準になってしまったらそこらの男なんて、ねえ。