2度目の人生を得た貴族令嬢の私、USSRスキル『赤い書庫』で追放先の辺境から理想の世界を作ります!~前世の職業で色々経験済みなので全く問題ありません~ 作:猫元帥
『毎日毎日、彼は自らの惨めな容貌を、宮廷に侍るおべっか使いや居候どもが抱く野心により磨き上げられた、阿りの表情に映るそれを通してしか見ていなかった。そして彼らもまた、「あなたこそが神の恩寵を宿す器であり、その恵みは我々やその一族の上に”黄金の雨”の形で注がねばならない」という確固たる信念を、この男の血が通わない貧弱な脳髄に対し毎日毎日染み込ませ続けていたのである。』
――L.D.トロツキー
***
次女イザベルの結婚により、その年の春の終わりから慌ただしかったミルネージュ伯爵邸。
しかしその次第も無事に終わり、彼女は十数年生まれ育ったこの屋敷から旅立っていった。
ところが、それが終わってからというものの、屋敷の住人たちは今度は別の話題で盛り上がっていた。
――そう。当主の5人の子どもたちの中で最も活発で、最も元気よく、最もお転婆な人間であった、これが”過去形”になりつつあった、末娘シャルロッテのことである。
『天啓の儀』を終えてから、日々の変化には気づきにくくとも、周囲の人間は蓄積には違和感を抱きつつあったのだ。
暦にある月の数字が一つ、また一つと増えていき、「大陸暦689年」へとその年が示される。
冬は明け、春が訪れ、夏が覆い、秋が迫り、また冬が見えてきた。そんな日のことであった。
「……ねえ、また今日もやってるわよ、シャルロッテお嬢様。」
「ああ、あの中庭の”影遊び”?わたしも見たわ、旦那様が時計、だったかしら。それを見せてから盛り上がってて。棒の影を色んなところから見ていらして、ちょっと面白かったわ。」
「違うわよ!そっちじゃないわ、何か糸の束に石かしら、多分それをぶら下げて糸を揺らして、真剣な顔で何か数えてらして。」
「何かって何よ。」
「分からないからちょっと不気味なのよ……!」
厨房の隅、洗い場の水音に紛れて、そんな会話が交わされるのは、もはやこの屋敷では珍しい光景ではなくなっていた。
メイドたちにとって、かつての”シャルロッテお嬢様”――イタズラが大好きで、外での遊びと甘い菓子さえあれば満足していた、あの快活な少女の記憶は、もはや遠い昔のもののように感じられる。
”子ども”の純粋な結晶のような彼女に振り回されるのは、もちろん大変ではあった。だが同時に、「有力貴族の家で働く」という神経をすり減らすような日々の、貴重な癒しではあったのだ。
「でも、悪い変わりようじゃないと思うけど。前は本当に、お勉強のたびにご機嫌ななめになって、下手したら癇癪を起こされてたじゃない。……『天啓の儀』さまさまよ。」
「それはそうだけど……なんというか、最近は時々怖いのよね。あの年頃の子どもが、あんな目で虫の死骸を見つめたりしないでしょう、普通。あなた見たことない?」
少し首をかしげつつ、記憶を辿って思い出す。
「あー、言われてみればそうね。でもこの前から色々変な遊びをするようになってから、しなくなったじゃない。」
「その”変な遊び”が、何をやっているのか私たちには検討もつかないのよ。そっちもどうかと思わないの?」
「そう言われても……お嬢様には『
「……そうなのかしらね。」
もちろん彼女たちに、その類の視線だったり”変な遊び”と思っている行為の根底にあるものなど分かるはずもない。
ただの好奇心旺盛な子どもの成長、と片付けるにはあまりにも一貫性がありすぎるその変化。これらをこの年に至って、屋敷に仕える者たちが口さがなくも、しかし決して悪意なく噂しあうことが確実に増えていき、当たり前の光景になるのである。
こんなことが話題になるほど話題が少ない、というのは平穏の証なのか、それとも別の何かなのか、誰も断言し得ないのだ。
そしてこの手の噂というものは、屋敷という一種の小さな社会において、階梯を一段ずつ、着実に上っていくものである。
メイド頭から家令へ。家令から夫人付きの侍女へ。侍女から教育係へ。そして――
「……シャルロッテがおかしい?」
「はい、奥様。その……なんと言いますか。最近お嬢様が本を読まなくなったと思ったら、中庭で説明が難しい色々な遊びをするようになりまして……ここ一月ほど、昼は糸に石をくくりつけて揺らしては戻すのを繰り返しておられまして……」
「あなた、何を言ってるの?」
要領を得ない説明にやや不快感を覚えたのか、ミルネージュ伯爵夫人の声のトーンが低くなる。
「も、申し訳ありません奥様!しかし、そうとしか言いようがなく……昼は先程申し上げた遊びか、ディルカル師が来られる日は魔導書を読みふけって、夜は月や星をずっと見ているという繰り返しでして……。」
「……マダム・カトルー。あなたは、どう思われます?」
「奥様、わたくしといたしましては、やはり『
夫人付きの侍女と教育係マダム・カトルーの報告に、シャルロッテの母――つまり今世のソフィアの母である女性は、扇子の陰でわずかに眉をひそめた。彼女、ミルネージュ伯爵夫人もそれなりに混乱しているのである。
「元々男の子並に元気で、少し変わった子だとは思っていたけれど。……『天啓の儀』がやはり境みたいね。」
「知恵の女神エルピメート様のご加護、ですものね。”星々を縫い付ける者”、”天の魔女”、いと尊き御方の祝福がお厚いのは素晴らしいでしょうが、もうそろそろお嬢様も”大人の始まり”が……」
「普段から変わってはいないのね?」
「はい。むしろ、当たり構わず遊び回らなくなったと言いますか……イタズラもごくたまにしかしなくなられましたし。」
「なら結構じゃない。嫁ぎ先の殿方を困らせるよりはいいわ。」
「……仰るとおりでございます。」
主人の呟きに、侍女はやや安堵したように相槌を打つ。少なくとも、この屋敷ではいくつかの便利な言葉が、あらゆる不可解を説明する免罪符として機能していた。
シャルロッテの、いやソフィア・レーベンの目論見は、ある程度成功を収めていたのである。
***
こうした断片的な報告は、やがてこの屋敷の主人、シャルロッテの父の耳にも入る。
彼ことミルネージュ伯爵ロベールは、王都での公務の合間に受け取る屋敷からの手紙を度々読んでは、慎重に言葉を選んで妻が書いた内容を一言一句都合よく信じて、しばしば気を良くしていた。
とはいえ、何度も続くと流石に気になってくるのである。
――最近のシャルロッテが妙な遊びにハマっていること、などを。
この日、彼の言うなれば”職場”である軍務評議会での会議の解散後、ロベールはやや急ぎ足で部屋を後にした。しかしそれが気にかかったのか、白髪と髭を蓄えた老人が部屋を出た彼においついて話しかけてきた。
「……どうされましたかなミルネージュ伯。今日は少し慌ただしいような。」
「これはこれは、カグニティ師。いやはや、流石アカデミーに侍る魔導師だ。見抜かれましたかな。」
「伊達に年を食っておりませぬよ。この程度できずして、どうして”国王陛下の軍魔導監”になれますか。」
「盟約以来の名誉ある役目ですからな。私のようなオドも感じれぬ俗人には到底。」
「……陛下の信頼厚き戦備総監閣下が何をおっしゃいますか。この老人など、政には向いておらぬというのに。」
「いえいえ、師こそ……」
あまり中身があるとは言えないやり取りを、しかし緊張感もないやり取りの脱線を終えたあと、本題に戻っていった。
「して、此度何があったのでしょうか?」
「久方ぶりに屋敷へと戻るとします。……実は末の娘が、天啓の儀以来だんだん人が変わっているのですが。どうも最近妙な遊びにハマっているようでして。」
「妙な遊び、ですか。」
「はい、なんでも、糸に石をくくりつけて振り回すとか、月や星を数えているとか。」
老人はしばし考え込んだが、見当がついたのかついてないのか、いずれにしろ泰然として返答した。
「『職業』や『加護』をお聞きしても。」
少し小声になる。
「占星術師見習いに、知恵の女神の加護が。」
「ほう、まさしくエルピメート様の。」
「ああ。そういえば、魔導師の祖神であらせられましたね。……一応、儀の明けからお呼びした講師のディルカル師が、問題ないと仰られているのですが。」
名に聞き覚えがあったのか、彼は破顔した。
「ほう、伯はディルカルをそのシャルロッテお嬢様につけられたのですか。」
「はい、不運にもオド感知でつまずいたので、あまり本格的な魔導修練というわけにもいかないのですが。」
「……この時代、魔力があるだけでも幸運です。
ロベールは冗談めかした老人の言動に思わず笑い声を上げる。
「ははは、師もお人が悪い。ですが安心できましたよ。ありがとうございます。……そうですね、占いをすること自体は兎も角、そればかりでは結婚相手が困ってしまいますな。女は、女の務めを果たしてもらわねば。」
「ほほっ。少なくとも、エルピメート様は狂気や災いの領域からは遠い御方です。この老体が言うのですから、ご安心めされよ。神官に聞いても同様の返事を返すでしょうよ。……案外、お嬢様は”お父様がいらっしゃらない”寂しさを抱えていらっしゃるのかもしれませんぞ。」
「なるほど、確かにそうかもしれませんね。そうそう、シャルロッテはかくれんぼが好きなのに、案外長い時間見つからないと泣き出す子でして……」
しばらく会話を続けたあと、二人は別れ、やがて伯爵は屋敷への帰途についた。
数日かけて到着した彼は、様子が気になるのが第一だが、娘可愛さもあってか、あるいは単純な好奇心からか、それともカグニティ師との会話を思い出していたのか、その日の午後、彼は珍しく自ら中庭へと足を運んだ。
「シャルロッテ。いるかい。」
「――っ!お父様!」
振り返った少女の手には、石を吊るした細い糸が握られている。
もちろん、その正体はソフィアが幾度となく調整を重ねてきた振り子の試作品、いやつい先日、「完成品」になったものの一つだった。
つまり、「1テラ・ノヴァ・メートル」となったものである。
完成の喜びもひとしお、彼女は次に「体積」から「重さ」を作ろうとしていたのだ。もちろんそれなりに難しい工程だが、今までのそれよりは本来楽なものだ。
さっきの糸の十分の一の長さつまり10センチの立方体を作り、水を入れて、その「1テラ・ノヴァ・リットル」の水の重さを「1テラ・ノヴァ・キログラム」とするのだ。
だが、今この瞬間、それどころではなくなった。
(まずい、まずいわね。今の私、傍から見たらどう見えていたかしら――)
内心での動揺をおくびにも出さず、ソフィアは瞬時に「シャルロッテ」の仮面を貼り直す。年相応の照れ笑いと、少しだけ困った表情。長年培った演技には、我ながら自信があった。
「これは……その、糸で遊んでいたの。ものを結んで垂らしたら、ゆらゆら揺れるのが綺麗で。お父様に見せていただいた時計みたいになるかなあ、って思ったの。」
「ほう。」
ロベールは目を細め、娘の手元と、そしてその傍らに転がる、木片に何やら刻み込まれた奇妙な棒きれとを見比べた。
(ここで詮索されたら少々厄介ね。でもこの父は、少なくとも馬鹿ではないわ。……今からより良い言い訳を考えておきましょう。頭を回しなさい、ソフィア。)
しかし、意外にも彼が浮かべたのは、疑念の色ではなく、むしろ柔らかな苦笑だった。
「お前は本当に、変わった子だな。」
「えっ?」
痛恨を一瞬感じたソフィアは、思わず声を出してしまった。
「……いやいや、悪い意味ではない。マダム・カトルーからも聞いている。近頃は実に熱心に学んでいるそうじゃないか。」
「え、ええ。お父様のように、立派な人になりたいから。だって私には、女神様のご加護があるのよ、素敵なことだわ。」
多少芝居がかった台詞だったが、効果は覿面だったらしい。ロベールは目を細め、まるで年相応の親馬鹿のような表情を見せた。
「そうか。……フフ、末はアカデミーの学生か、あるいは王都の高名な学者夫人にでもなるつもりか?それはそれで、悪くはないかもしれんな。我が家の歴史から魔導師を出すのも悪くない。」
(それにしても、学者夫人、ね。半分当たっていて、半分はとんでもない見当違いよ、お父様。)
第一の人生で、
だが、そんな和やかな空気は、長くは続かなかった。
中庭の入り口に、息を切らした使用人が姿を現したのは、その直後のことである。
「――か、閣下!至急のお知らせがっ……!」
「何事だ、騒々しい。」
普段冷静な父の眉間に、初めて見る種類の緊張が走るのを、ソフィアは見逃さなかった。
見たことのない人間、使者――おそらくは王都から早馬を飛ばしてきたのだろう、その息の乱れ方から察するに――は、震える声で言葉を継いだ。
「王都より、火急の報せにございます。……|陛下が、突如としてお倒れになったと!」
その瞬間、中庭に満ちていた午後の穏やかな空気が、まるで凍りついたかのように静止した。
父の顔から、先ほどまでの親馬鹿めいた柔らかさが、音を立てて剥がれ落ちていく。それはソフィアがこの二年余り、決して目にすることのなかった表情だった。
「……容体は。」
「い、意識は……戻られたと。しかし、床を離れられる様子には……。」
ロベールはしばし沈黙し、そして自身の拳を、握りつぶさんばかりに強く掴んだ。
「――馬を用意しろ。すぐに王都へ戻る。」
もはやそこに、娘の"変わった趣味"を気にかける父の姿はなかった。あるのはただ、絶対王政へ進みつつある宮廷で要職につく、一人の廷臣の顔だけだった。
置き去りにされたソフィアは、揺れる糸を握りしめたまま、その光景をただ黙って見つめていた。
(……来た。)
振り子の実験のことなど、もはや頭から吹き飛んでいた。
(老王の、病臥。……年齢からして、いつかは来ると思っていたけれど。)
脳裏に、これまで積み上げてきた観察の断片が、瞬時に走馬灯のように駆け巡る。
絶対王政化を推し進める父。その父を側近として重用する国王。そして、宮廷という名の閉ざされた盤上で、常に静かな緊張を保ち続けていた、目に見えぬ均衡。
(王が倒れた、か。……歴史というのは、いつだってこういう些細な、けれど決定的な一点から動き出すものね。)
「……イリイチ、やっぱりあなたの言う通りよ。」
師父の言がふとよぎる。
呟くと、ソフィアは再び分析へ戻った。
(確か、80手前だったはず。こんな時代ならびっくりするくらい頑健な人間のはずだけど、それも限界だったのね。)
(今まで学んだ歴史や政治の断片的な情報からでも分かる。今の王は、ジルベール2世と称すべき現在のこの国の君主は、紛れもなく”名君”の類。
(とはいえ、せいぜい一代か二代か限界があるわ。
ソフィアの生きた地球の歴史にも、幾度となく例がある。
中央集権化に、王権による諸階級の抑圧に、成功した国も、失敗した国も。少なくともその過程では、ふとしたきっかけで流れが、”重石”が消えた途端、抵抗力が最大化するのだ。
十二歳の少女の顔に、年齢にそぐわぬ、酷薄なまでの静かな光が宿る。
それは、かつてサンクトペテルブルクの街角で、崩れゆく帝政に迫る死神の足音を聞いたあの時と、同じ種類の輝きだった。
(さて。歴史の観察を始めましょうか。時代が、動くわよ。そして、この波を活かせば、もしかしたら、自由も。……悪くない、悪くないわ。)
***
その日を境に、ミルネージュ伯爵邸の空気は、目に見えて変わった。
ロベールは、その足で王都へと発った。
以来、屋敷に戻る頻度は目に見えて減り、代わりに王都からの早馬と書簡だけが、定期的に、しかし常にどこか慌ただしい様子で届くようになった。
夫人は、以前にも増して神殿への祈りを欠かさなくなった。「陛下のご快復を」という表向きの理由の裏で、ソフィアはその祈りの半分が、夫の――ひいては自分たち一家の身の安全を願うものであることを、疑う余地なく見抜いていた。
(信仰、ね。……こういう時のためにあるのよ、あれは。今のお母様には、他に縋るものがないのだから。ま、この国の宗教が多神教なのには驚いたけど、むしろ分かりやすいくらいね。)
宗教は民衆のアヘン、と言ってのけた思想家に惹かれて人生のレールを外れた女は、またしてもその言説の正しさを一人確信していた。
もちろん、それを口に出すような愚は犯さない。ソフィアはただ、いつも通りの利発で、しかし出しゃばらない末娘を演じ続けた。
一方で、情報収集の手段を一つに絞るほど彼女は甘くなかった。
まず一つ。屋敷に仕える使用人たちの噂話。これは相変わらず貴重な情報源だった。
特にメイドたちの多くは王都やその近辺の出身か、あるいは頻繁に町へ買い出しに出る者たちであり、市井の空気――王侯貴族の書簡には決して載らない、庶民レベルでの動揺――を運んできてくれる。
「……ねえ、聞いた?王都の穀物相場、また上がったんですって。」
「陛下があの調子じゃあ、そりゃ商人たちも不安になるわよねえ。」
洗濯物を畳みながら交わされるそんな会話も、ソフィアにとっては貴重な一次資料だった。
二つ目は、母や教育係、時折訪れる親族――特に母方の叔母――との会話に、さりげなく聞き耳を立てること。四年ほど前とは違い、翻訳現象に頼らずとも大人同士の込み入った会話をほぼ完全に聞き取れるようになった今、この手段の有効性は格段に上がっていた。
(本当に、言語の習得というのは、投資に見合う成果を出すものね。かつて父と兄の会話一つ満足に拾えなかった自分を思うと、隔世の感があるわ。)
そして三つ目。父からの書簡そのものだ。もちろん、それは母宛てのものであり、ソフィアが直接読むことは許されていない。もちろん想定もされてないが。
しかし、母がそれを読んだ後の表情、そして時折こぼす独り言――「まあ、また閣下は……」「侯爵様も、随分と苦しいお立場ね」――などから、断片的な人名と情勢を拾い集めることができた。
宮廷政治なんてクソくらえだ、とするには今の自分はその段階に行けてないのだ。こらえるしかなかった。
三つの水路から流れ込む、断片的で、時に矛盾さえする情報の奔流。
ソフィアは夜な夜な、それらを頭の中で――かつて
***
(さて。今のところ分かっていることを整理しましょう。)
秋が、13歳の誕生日が迫る、晩夏のある日。
深夜、ソフィアはシーツに潜り、いつものように”赤い書庫”の淡い光を頼りに、ソフィアは思考をまとめていた。もっとも、今夜開いているのは先達のあるいは同志たちの著作ではなく、頭の中の――自ら作った断片情報の束だ。
(まず、王の病臥は本物。回復の兆しはあれど、床を離れられる様子はない。……年齢からしても、これがそう簡単に治るものとも思えないわ。慢性化は避けられないでしょうね。まっ、若くて健康な王よりは社会の矛盾が深まるから、マシかもしれないわ。)
とんでもないことを口にする彼女だったが、本気でそう思うのも事実だ。正と反の矛盾から新たなものが生まれる。それがマルクス主義思想の根幹、弁証法であるからだ。
(次に、これに伴って”王党派”と便宜上呼ぶべき一団――お父様が属する陣営――と、それに対抗する勢力との間で、明確な緊張が走り始めている。)
これまで漠然と「貴族たちの力関係」としか認識していなかったものが、ここへ来て急速に輪郭を帯び始めていた。
(お父様の書簡に出てくる”閣下”というのは、恐らく軍務卿、ブレッテンヌ侯爵エーゴン。要は近代内閣制度が生まれる前の戦争大臣ね。地位からして、王党派の事実上の旗頭でしょうね。”戦備総監”たるお父様は、その下で軍事財政を預かる立場、軍務評議会の一員……つまり、この陣営の中でも実務の要というところかしら。)
もちろん、対抗する側の陣営についても、断片は集まりつつあった。
(対する側は、まだ”誰が”という核が私には見えない。……複数の有力な帯剣貴族が、ゆるやかに結束し始めている、というところね。恐らく、彼らの目的は明確よ――ここ数十年、じわじわと進んできた絶対王政化、その"揺り戻し"。)
ソフィアは思わず、乾いた笑みを浮かべた。
(封建領主の反動的な巻き返し、か。……ロシアで言えば、皇帝の権威が揺らいだ隙を突いて、地方の貴族どもが好き放題を始めるようなものね。歴史というのは、本当に律儀に同じパターンを繰り返すものだこと。)
もっとも、ソフィアはすぐにその安易な類推に自ら釘を刺した。
(いいえ、待ちなさい。安易に地球の歴史に当てはめるのは危険よ。月が2つあるし、地球じゃないのよ。下部構造の下部構造が同一とは断言できないわ。それに、この世界には、少なくとも今のところ"プロレタリアート"は存在しない。産業も、資本の原始的蓄積すらも、緒に就いたばかり。)
(つまり今起きているのは、階級闘争ではなく、あくまで支配階級内部の権力配分を巡る、極めて前近代的な内輪揉め。……ブルジョワ革命どころか、その前段階、いえ、前々段階の話だわ。)
(だからこそ、今のこの混乱それ自体に、過大な期待を抱くべきではない。……せいぜい、この揺らぎが、王権による中央集権化を早めるか、あるいは逆に、封建領主たちの自立をさらに強めるか。どちらに転んでも、それは"次の段階"への布石の一つに過ぎないでしょうね。)
その思考は、しかし同時に、ソフィアの中の別の部分――かつて"歴史の必然"を信じ、そのために銃を取った女の部分――を、静かに疼かせてもいた。
(……それでも。)
ソフィアは、闇の中でひとりごちる。
(それでも、水が動けば、澱みも動く。今はただの観察者でいるしかないけれど……お父様への”助言”の一つや二つ、無駄にはならないかもしれないわね。)
(
一億人の国を動かした経験者による、今は賢い娘の偶然の気づきを如何に装うか?の方にリソースを割かれるのは億劫とは言え、確実に政略や謀略の一つや二つ提供する気になっていた。
***
季節はやがて、収穫の秋から、凍てつく冬の入り口へと移ろっていった。
王都からの報せは、良くも悪くも、ソフィアの予想を裏切らなかった。陛下の容体は一進一退。快方に向かったという報せの数日後には、再び床に伏せられたという続報が届く。まるで、その振れ幅そのものが、王国全体の空気を映す鏡であるかのようだった。
王都に留まる父の帰宅は、いよいよ稀になっていった。屋敷に戻ってきても、その顔には隠しきれない疲労の色が濃く滲み、以前のような、娘の"奇妙な趣味"を鷹揚に見守る余裕は、目に見えて薄れていた。あるいは、興味や記憶を失ったのかもしれない。そういう意味でもちょうどよかった。
「……お父様、また随分とお痩せになったわ。」
夕食の席、久方ぶりに顔を揃えた家族の中で、久しぶりに帰っていた上の姉マルグリットがぽつりとそう漏らした。誰もそれに、明確な返答をしなかった。
ソフィアもまた、黙って料理に口をつけながら、しかし内心では油断なく、その場の空気――誰の表情が強張り、誰が視線を逸らすか――を観察し続けていた。
(家族団欒、というにはあまりに張り詰めた食卓ね。……こういう時の沈黙こそ、雄弁なものよ。)
その夜、珍しく寝所を訪れたのは、母その人だった。
「シャルロッテ。……こんな時間にごめんなさいね。少し、あなたの顔が見たかっただけよ。」
普段はメイドを通じて娘の様子を確認するに留まる母の、その珍しい行動に、ソフィアは内心わずかに警戒を強めながらも、努めて何気ない様子で微笑んだ。
「お母様?どうかなさったの?」
「……いいえ。ただ……。」
母は、娘のベッドの端に腰掛け、しばらく言葉を探すように沈黙していた。そしてやがて、独り言のようにこぼした。
「世の中というのは、本当に、ままならないものね。」
その一言だけを残し、母は娘の額に口づけ、静かに部屋を出て行った。
残されたソフィアは、しばらく天井を見つめたまま、動かなかった。
(……ままならない、ね。)
(お母様。あなたの世界では、確かにそうかもしれないわ。でも――)
ソフィアは、暗闇の中でゆっくりと目を閉じる。
("ままならない"からこそ、そこには必ず、動かせる余地があるものなのよ。少なくとも、私が生きてきた世界では、そうだった。)
王国という名の巨大な機構が、老いた王という一つの歯車の不調によって、軋み始めている。
その軋みの音を、十二歳の少女はただ、じっと聞き続けていた。まだ、それが何を意味するのか、正確には分からないままに。
それでも、”何をなすべきか?”は固まってきたのだ。
――歴史の水面に、小石を投げてやる。
初めて第二の人生で能動的かつ大きな目的のための行動ができることに、ソフィアはほんの少し昂っていたのだ。