ジュリアン・ヴェインと秘密の少女たち 作:女難の相
九月一日。
ロンドンのキングズ・クロス駅は、朝から旅行客や通勤中のマグルたちの喧騒で満ち溢れていた。
その混雑の中を、ジュリアンは大きなトランクを乗せたカートを押して歩いていた。
隣には、少し緊張した面持ちの母親と、大きな荷物を気遣うように周囲を見回している父親が並んでいる。
「ええと……マクゴナガル先生の話通りであったなら、九番線と十番線の間、だよね」
ジュリアンが案内板を見上げながら呟く。
目の前には、赤レンガの太い柱を挟んで、九番線と十番線のプラットホームへと続く改札が並んでいた。
しかし、どこをどう見ても『九と四分の三番線』なんていう奇妙な数字の書かれた案内板は存在しない。
九番線と十番線の間にあるのは、重厚な赤レンガが規則正しく積み上げられた、幅広のどっしりとした柱だ。ビジネスバッグを抱えた大人や、大きなカバンを持った旅行者たちが、その柱の壁のすぐ横を何事もないようにすれ違っていく。
誰もその柱の壁に視線すら向けない。
その完全に『日常』に溶け込んだ堅牢な壁こそが、魔法界への隠された入り口なのだとジュリアンは、マクゴナガルから聞いていた。
「本当にこの柱に飛び込むのかい? ジュールズ。いくら魔法界のこととはいえ、ただのレンガの柱に見えるが……」
父親が大真面目な顔で、分厚い赤レンガの柱をまじまじと見つめた。
「お父さん、マクゴナガル先生が嘘をつくはずがないでしょう? ほら、ジュールズ。先生は『迷わずに、少し早歩きで柱に向かって歩きなさい』って仰っていたわ」
母親が優しくジュリアンの背中に手を添える。
その手は、ジュリアンを励ますように温かかったが、ほんの少しだけ震えているようにも感じられた。
マグル生まれの我が子が、自分たちの知らない未知の世界へ旅立ってしまう寂しさを、必死に堪えているのだろう。
ジュリアンは手押し車の取っ手を強く握り締めた。
これから行く場所は、きっと平穏とは程遠い、想像もつかないような世界だ。
けれど――だからこそ、不安がっている暇なんてない。
「よし……!」
ジュリアンは二人に向き直って微笑むと、手押し車をまっすぐ柱へと向けた。
足に力を込め、少しずつ速度を上げる。
一歩、二歩、三歩。目の前に迫る硬い赤レンガの柱。
マグルたちが通り過ぎる中、ジュリアンは目を瞑ることなく、ただひたすらに前だけを見て突っ込んだ。
衝突の衝撃は――来なかった。
一瞬、冷たい霧の中を通り抜けたような奇妙な感覚が全身を駆け抜け、視界がパッと開ける。
「わあ……!」
ジュリアンは思わず足を止め、感嘆の声を漏らした。
そこには、先ほどまでの近代的なロンドンの駅とは完全に異なる、どこかレトロで幻想的な光景が広がっていた。アーチ状の天井から立ち上る白い蒸気。
その向こうに鎮座するのは、美しい真紅の車体を輝かせる蒸気機関車――『ホグワーツ特急』だ。
ホームは、すでに黒いローブに身を包んだ生徒たちや、フクロウの入った鳥かごを抱えた家族連れでごった返し、魔法界独特の活気に満ちていた。
「すごいな……本当にあったんだ」
ジュリアンが呆然と振り返ると、すぐ後ろのレンガの柱から、父親と母親が、どこかホッとしたような顔をして顔を覗かせていた。
「お前なら大丈夫だ、ジュリアン」
別れ際になって、父親がジュリアンの肩を力強く掴んだ。
その手には、不慣れな魔法界の買い出しを走り回ってくれた、無骨な父親の愛情がこもっていた。
「どんな世界でも、お前は私たちの自慢の息子だ。しっかり学んで、友達をたくさん作るんだぞ」
「ふふ、そうね。ジュールズ、困ったことがあったら、いつでも手紙を書くのよ。お父さんもお母さんも、あなたの帰りをずっと待っているわ」
母親がジュリアンを優しく抱きしめ、その頬にそっとキスをした。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「うん……ありがとう、父さん、母さん。行ってきます。きっと、面白いお土産話をたくさん持って帰るよ」
ジュリアンは二人の温もりを胸に刻み込むように深く頷くと、もう一度手を振り、真紅の列車の乗降口へと足を進めた。
トランクを車内へ運び込み、窓から外を見下ろすと、両親が人込みの向こうからずっと手を振ってくれているのが見えた。
両親との別れの切なさを乗り越え、ジュリアンは自分だけの運命の杖をポケットに確かめると、空いているコンパートメントを探して、列車の通路を歩き始めるのだった。
汽笛が鳴るにはまだ随分と時間がある。
早めにホームへ入ったおかげで、ホグワーツ特急の車内はまだ閑散としていた。
ジュリアンは通路を進み、誰もいない貸し切りのコンパートメントを見つけると、ホッと一息ついてスライド式の重い扉を開けた。
子供のジュリアンには、重厚なトランクを網棚の上へ持ち上げるのはなかなかの重労働だった。
それでも力一杯、顔を上に向けてトランクを押し込む。
「ふぅ……。よし、これでひと安心かな」
無事に荷物を収め、額の汗を拭いながら、ジュリアンは何気なく視線を下ろした。
そして、その場で完全に硬直した。
つい一秒前まで、そこには誰もいなかったはずだった。
しかし今、ジュリアンの目の前の座席には、まるで最初からそこに存在したかのように、一人の少女が音もなく腰掛けていた。
艶やかな漆黒の黒髪。陶器のように白い肌。
完璧な左右対称の美貌を持ったその少女は、相変わらず一切の感情を削ぎ落としたアンティーク・ドールのような佇まいで、窓の外をじっと見つめている。
ダイアゴン横丁の路地裏で、ジュリアンの思考を完全に停止させた張本人――ソリナ・ドラクレスティだった。
ジュリアンが言葉を失って立ち尽くしていると、ソリナは滑らかな動作で、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。
瞬き一つしない硝子玉のような黒目の奥で、時折、車内に差し込む朝日に反射して怪しく鮮烈な『紅蓮の炎』がゆらめいた。
「……おや、君か」
鈴を転がすような美しい、けれど抑揚の一切ない、凍りつくほど無機質な声。
ソリナはジュリアンの群青色の瞳を見つめると、ほんのわずかに、その薄い唇の端を持ち上げた。
「ボクの歩みを止めた
そういうと、ソリナが細い指先で自身の淡い色の唇を突く。
その瞬間、ジュリアンの脳裏に、あの薄暗い路地裏で強引に重ねられた冷ややかな唇の感触と、身体の奥深くに流れ込んできた濃厚な熱の記憶が、鮮烈に蘇った。
「なんで……君がここにいるのさ。少し前まで誰も座ってなかったのに」
ジュリアンは、そう言いながら、後ろに一歩引いた。
しかし、いつの間にか、すでにコンパートメントの扉はピシャリと閉まっており、彼女の全身から立ち上る、周囲を圧するような冷徹で強大な魔力の気配が、逃げ場のない密室を支配し始めている。
「なぜ、とは奇妙な問いだね。ここはホグワーツへ行く列車で、ボクはそこへ向かう。そして君も。……ならば、こうしてるのも不思議ではないでしょ?」
ソリナはそう淡々と言い放つと、座席の隣のスペースを、白い手で静かにポンポンと叩いた。
相変わらずその瞳には、情熱も、愛おしさも、一切の感情は浮かんでいない。
ただ、新しく手に入れた興味深い存在を、自分の手元に置いておきたいという、無機質で圧倒的な『所有欲』だけがそこにあった。
「座らないの?それとも立ったまま、ホグワーツまで行くのかな?」
まだ学校へ向かう列車すら動き出していないというのに、ジュリアンは本日何度目かも分からない、深い目眩を覚えるのだった。
ソリナの有無を言わせぬ態度に、ジュリアンが胃の痛みに耐えかねながらも、恐る恐る隣でなく、その正面の席へ腰掛けた、その時だった。
ガラガラ、とコンパートメントの重い扉が、勢いよく横にスライドした。
「あ、あの……! ジュリアン、くん……やっぱり、ここにいた……!」
扉の向こうに立っていたのは、大きな丸眼鏡を少しずらし、お気に入りの古びた本を胸にぎゅっと抱きしめた少女――エヴリン・ソーンフィールドだった。
人混みが苦手な彼女らしく、すでに多くの生徒が乗り込み始めた通路で完全に気圧されていたようだが、ジュリアンの姿を見つけると、その大人しい顔をパッと明るく輝かせた。
「あのね、さっきホームでジュリアンくんの姿が見えて……。私、誰も知っている人がいなくて、すごく、不安で……。だから、もしよければ、隣、いいかな……っ?」
守ってあげたくなるような、小動物さながらの儚い上目遣い。
しかし、ジュリアンが『もちろんいいよ』と言葉を返そうとした瞬間、エヴリンの視線が、ジュリアンの正面に鎮座する『異物』を捉えた。
ソリナは窓の外を眺めたまま、新しく現れたエヴリンに対して、一瞥すらも与えようとはしなかった。
ただ、その全身から陽炎のように立ち上る冷徹で強大な魔力の気配が、一瞬にして車内の空気を凍りつかせる。
エヴリンの肩が、びくりと小さく跳ね上がった。
普通なら、その圧倒的な存在に恐怖し、一歩退いてしまうところだろう。
だが、次の瞬間――エヴリンの丸眼鏡の奥の瞳から、すっと生気が消え失せ、底冷えするような暗い光が宿った。
「チッ……おいおい、おめでてぇ頭してんな。よりによって、とんでもねぇ死神を部屋に飼ってんじゃねぇよ、ジュリアン」
本屋でも聞いた口の悪い人格。
エヴリンの体に巣食う、もう一つの人格が、ソリナの放つ危険な気配に本能的に反応し、瞬時に表へと出て来たのだ。
「あ、エヴリン……っ!?」
「何でお前みたいな奴が、ホグワーツ生徒に紛れ込んでんだ」
「生憎、ハーフでね。半分は……人間なのさ。人間の少女であれば、学校に通うのも不思議ではないだろ?」
エヴリンは、胸の本を片手で乱暴に脇へ抱え直すと、ソリナを指差して冷酷に言い放った。
エヴリンの言葉にソリナは、対して気にせず、淡々と自分の境遇を喋り出す。
そんな二人に対して、魔法界に詳しくないジュリアンは困惑しか出来なかった。
「もう、また勝手に出てきて!」
「うるせー!こんなところに、こいつがいるのが悪いんだろうが!」
ソリナが、機械仕掛けのような滑らかな動作で、ゆっくりと顔をエヴリンの方へと向けた。
瞬き一つしない硝子玉のような黒目の奥で、紅蓮の炎がゆらりと、しかし、これまでにないほど深く昏い色を帯びて
「……五月蝿い羽虫だね」
鈴を転がすような美しい、けれど凍りつくほど無機質な声に初めて怒りがこもった。
ソリナの周囲の空気が、おぞましいほどの攻撃性を孕んで膨れ上がる。
まだ年端もいかない少女が放っていいものではない、一触即発の魔力の火花が、狭いコンパートメントの中で激しく散り始めた。
(何でこうなるんだ。まだ列車すら動き出してないのに、なんでこんなことになってるんだよ……!?)
あまりの恐怖と次々に起こる問題に、ジュリアンは自分の頭を押さえながら、心の中で絶叫するのだった。
一人の少女から放たれる、おぞましいほどの魔力の火花がバチバチと狭い車内を焼き、ジュリアンが頭を悩ませた、その時だった。
「フハハハハ! 闇の眷属ども、息を潜めてオレの到来を待っていたようだな!」
コンパートメントの扉が壊れんばかりの勢いで吹き開けられ、鼓膜を震わせるような高笑いが響き渡った。
そこに立っていたのは、漆黒のローブの片袖をこれみよがしに派手に翻し、前髪で目が隠れている少女――モルウェナ・ディープウッドだった。
「グリンゴッツの奈落にて魂の契約を交わした我が同胞、ジュリアンよ! 貴様が発する魂の叫びが、オレの『
モルウェナは胸を張り、大袈裟な身振りと共にコンパートメントへと堂々と踏み込んできた。
彼女のあまりにも騒々しく、そしてどこまでも突き抜けて『ブレない』中二病全開のオーラは、ソリナとエヴリンが作り上げていた、一触即発の息詰まるような空気を、一瞬にして粉砕してしまった。
「え、モ、モルウェナ……っ!?」
あまりのタイミングの良さに、ジュリアンは驚いて、彼女を見上げた。
一方で、空気を盛大にぶち壊されたソリナは、苦虫を噛み潰したような顔で、乱入してきた中二病少女を睨みつける。
「……何だい、この騒がしい生き物は」
ソリナの硝子玉のような黒目の奥で、紅蓮の炎が不快げにゆらめく。
しかし、モルウェナはその圧倒的な威圧感に怯えるどころか、フッと不敵な笑みを浮かべて己の右手を顔の前にかざした。
「ククク……恐るべき闇の魔力を秘めたドールめ。だがオレの『右目に封印されし黒炎竜』が、貴様の不吉な気配に共鳴して暴れたがっている。オレの前に立ちふさがるというのなら、容赦はせんぞ?」
「馬鹿か……付き合いきれないな」
「……ジュリアン。お前、もう少し付き合う相手選んだほういいぜ?」
「……」
エヴリンのもう一つの人格の言葉に、ジュリアンは返す言葉もなかった。
モルウェナは、凍りついた空気を完全にぶち壊すと、自分の引きずっていた重そうなトランクをさっさと上に押し込み、続いて呆然と立ち尽くすエヴリンのトランクも『ほらよっと!』と豪快に持ち上げて網棚へ仕舞い込んだ。
そして、ずかずかと遠慮なく部屋に入ると、そのままジュリアンの隣に我が物顔で座り込む。
「うん? どうした? 座らないのか?」
これ以上ないほどカラッとした態度で、モルウェナが通路に立ち尽くすエヴリンを振り返った。
「……う、うん……」
エヴリンは本当はジュリアンの隣に座りたかった。
しかし、モルウェナが親切に重いトランクを仕舞ってくれたこともあり、気弱な彼女はそれ以上何も言えなくなってしまう。
エヴリンは大きな丸眼鏡を指で押し上げながら、ジュリアンを名残惜しそうに見つめつつ、仕方がなく少し距離を開けて、ソリナの隣の席へと腰掛けた。
こうして、窓側には、全てに興味ありませんというのようなソリナ。
その隣に、本を胸にぎゅっと抱きしめて小さくなっているエヴリン。
そして反対側には、ふんぞり返るモルウェナと、その横で完全に置いてけぼりのジュリアンというコンパートメントが出来上がった。