ヤタガラス探偵事務所・帝都支部 〜大正の刃と現代の悪魔召喚師〜 作:ガチャガチャクツワムシ
神代家の襲来から数日後。
ようやく日常が戻ったと思っていた駆の事務所に、聞き慣れた、けれど今の状況では最も聞きたくないノックの音が響いた。
「……駆兄、いる?」
ドアを開けて入ってきたのは、末っ子の美緒だった。学校帰りなのか、リュックを背負い、どこか落ち着かない様子で立っている。
「美緒か。……また何か忘れ物か? 悪いが、ここは俺の仕事場であって、お前らの溜まり場じゃない。姉貴に言っておけ、そう頻繁に出入りするなってな」
駆はソファに深く腰掛け、わざと面倒臭そうにぶっきらぼうな態度を取った。だが、美緒の目はいつになく真剣だった。
「……仕事? お前、猫探しとかを頼みに来たならまずは警察に行けよ。俺のところに来るような内容じゃないだろ。それに、用がないならさっさと帰れ」
駆の冷たい言葉を、美緒は予想していたかのように受け流した。彼女はカウンターに座ると、視線を真っ直ぐに駆へ向ける。
「……猫探しの依頼じゃない。私の友達が、変なの」
駆は溜息をつき、露骨に面倒そうな顔を見せた。美緒はそんな駆の様子はお構いなしに、淡々と状況を語り始める。
「先週からずっと、何もない壁に向かって喋ってたり、急に見たこともない外国の言葉で笑い出したり。昨日は、その子の周りだけ、温度が氷みたいに下がってた」
駆の指先が、微かにピクリと動いた。「憑依」、あるいは「氷結系の悪魔」による干渉。サマナーとしての直感が、それがただの思春期のノイローゼではないことを告げている。
「……だからこそ、病院か警察の案件だろ。俺には手に負えねえよ」
「駆兄、嘘つかないで」
美緒が言葉を遮った。その冷徹なまでの瞳は、かつて鴉が駆を評価した「真実を見抜く目」に似ていた。
「……あの日、しのぶさんを連れてきた時から確信したの。あの人の、ただの武道家とは違う立ち居振る舞い。……そして、あの人を連れて帰ってきた駆兄の、あの妙な余裕。駆兄、あんたの周り……おかしいよ。蓮ママの店に出入りしてる連中も、たまに事務所に来る久遠寺さんみたいな人たちも。みんな『普通の探偵』の客じゃない。……それに、しのぶさんの武道家としての資質を見ても、あんたは全然驚いてないし、当然のことのように受け入れてる」
美緒はさらに一歩踏み込む。
「しのぶさんが武道の達人なら、そんな強い人がわざわざ駆兄の保護下にいる理由は? ……あんた、裏で何か……『警察には言えないような、危ない仕事』をしてるんでしょ? 蓮ママや久遠寺さんたちと一緒になって、この街の『普通じゃない事象』を処理してる……そういう、『あっち側』の人間でしょ」
その言葉を聞いた瞬間、駆の纏う空気が一変した。それまでソファに深く腰掛けていた彼が、ゆっくりと身を起こす。その動作一つで、室内の気圧が下がったかのような錯覚を美緒に与えた。
「……美緒」
駆が発したその低い声は、探偵としてのいつものぶっきらぼうな調子とは似ても似つかない。獲物を狩るサマナー特有の、冷たく研ぎ澄まされた覇気が美緒を射抜く。
「……これ以上、俺の仕事に詮索するな。これは忠告だ。お前が踏み込もうとしているのは、お前みたいな一般人が一生かかっても触れちゃいけない深淵だぞ。……分かっているのか?」
ただの兄ではない。何百、何千という命のやり取りをくぐり抜けてきた「戦士」の顔だった。美緒は息を呑み、思わず背筋を伸ばす。一瞬、心臓が凍りつくような威圧感。だが、彼女は震えながらも、逸らさずに駆の目を見返した。
「……分かってる。でも、だからこそ……駆兄なら、あの子を助けられるって確信したの」
駆は鋭い眼光のまましばらく美緒を見据えていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。張り詰めていた空気が霧散する。
「……全く。肝の据わった妹だぜ。これだから神代の人間は」
駆は深く溜息をつき、頭を乱暴に掻き回した。もはや、飄々とした探偵を演じ続けるのは無理だと悟ったのだ。
「……美緒。一つだけ約束しろ。これから俺がやることに、深入りはするな。それと、親父やお袋、兄貴達には一生黙ってろ。……いいな?」
その瞬間、駆から発せられる空気が変わった。極限まで研ぎ澄まされたプロのサマナーの重圧。美緒は力強く頷いた。
「……わかった。よろしく、神代探偵」
駆は異界バックから、愛用のダガーとアザゼルが宿るガンプを取り出し、上着の裏に隠した。
「しのぶ、行くぞ。……久々の『実戦』だ。俺たちの流儀で、実家の妹の友達を救いに行くぞ」
「はい、駆さん。……美緒さん、お友達は必ずお助けします」
駆は妹の横を通り過ぎる際、その頭を一度だけ乱暴に撫でた。
「……ったく。面倒な依頼人だぜ、お前は」
サマナーとしての顔を妹に晒した瞬間。それは、神代駆の「日常」と「非日常」の境界線が、音を立てて崩れ始めた合図だった。