アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
画面が開く。
スマートフォンの画面——液晶の青白い光が、暗い場所で顔を照らしているときのあれ——が、全面に広がる。
視聴者数のカウンターが右上隅で点滅している。30,481。数字が更新される。30,512。30,544。止まらない。
映っているのは渋谷の夜だ。雨が降っている。スクランブル交差点を埋め尽くして行き交う人々——傘の花が開いて閉じて、色の群れが交差して散る。どこにでもあるような夜景に見えるが、アングルがおかしい。地上ではない。どこかのビルの上から、街ごと俯瞰している。
「——見てる、みんな」
女の声。配信者の声だ。
低くて、なのに耳の内側に貼り付くような声。語尾がいつも、少しだけ上向きに終わる。「おーい」でも「こんにちは」でもなく、あの口調は「俺を見ろ」という宣言に近い。
「今夜は特別な回だよ。そこの君も、最後まで見ていくといいよ」
コメント欄が流れる。
カノンちゃんキタ!!! 今夜は何やるの? ずっと待ってた
配信者——ヒノデ・カノン——がカメラに向かって笑う。
赤い。何もかもが赤い。
雨の夜には、独特のにおいがある。
アスファルトが濡れて、血と雨の区別がつかなくなって、それでも制服のお巡りさんたちはちゃんと立っている。サイレンの音とパトランプの赤が、雨に滲んで街を染めていた。渋谷の路地裏——表通りから一本入っただけで、こんなに違う場所がある、と毎回思う。
非常線の黄色いロープが張られている。
その内側を、AI巡査が行き交っている。量産型のやつ。中性的な顔立ち、規則的な動き。一体が「こちらです」と敬礼しながら、黄色いロープを潜ってくる人間を案内した。
中年男性だった。
三本の白線が入った略帽。濃紺のジャンパー。白抜きで「警視庁」と書かれているから同業者だと分かる。腕章はえんじに黄色い文字で、「特捜」と読めた。AI巡査の敬礼を受け流しながら、現場の奥へ向かって歩いていく。担当の刑事が小走りで近づいた。
「……あなたが、噂の暗闇管理官ですか」
「はい。……まあすぐに済ませますよ」
K——という名前で知られている男は、感情の起伏というものがほぼ見当たらない顔をしている。「やあ、よろしく」でも「急いでください」でもなく、最短の言葉だけ出て、最短で終わる。
「K事案ですか。しかし……あの子らは一般人が混じっていまして、現場の状況が」
「あまり詮索はしない方がいいですよ。警察で長く働きたいなら、ね」
刑事が口を閉じた。
Kが先に行く。
少し遅れて、別の車両が路地に入ってきた。
白くのっぺりとした、窓のないバスのような車両だ。車体には何も書かれていない。ただしルーフにマグネット式の赤色灯が付いているので、非常線を張っている警官たちには「同業者」だと分かる。分かるから、誰も止めない。止めようとしない。
バスのドアが開く。
「……さて、今日も出番か」
降りながら首を鳴らした。左、右、左。面倒くさい、という気配が全身から出ているが、それを表情にしようとしていないのでぎりぎり「無表情」に見える。右腰のホルスターから拳銃を取り出し、スライドを引いて薬室の装弾を確認し——ガシャ——戻す。ランヤードがわずかに揺れる。
憂鬱そうな流し目で現場を見渡す。
「こちら警視庁移動901……現着」
無線に向かって一言。短い返答が返ってくる。
「ダメですよ、エイさん」
先にバスを降りていたサクラが、走るように隣に来た。
「ちゃんとしたお仕事なんですから! そんな顔しないでください」
「よくそんな気楽でいられるな。真似したいよその心構え」
「大丈夫ですって。ワタシとエイさんなら」
「……だといいけど」
「あ、この話ここからしてもいいですか。なんで自分がこんなことになっているかというと、実はですね——」
「誰に向けて喋ってるんだ?」
「え!? あなたじゃないんですか!?」
「俺に向けて喋ってたのか、今まで」
「え、エイさんは知ってるじゃないですか!! だからそっちじゃないです! もっと向こうに向けてるんです」
「『向こう』……」
A1の視線だけが、まっすぐ前を向いた。
しばらく考えて、やめる。
「……行くぞ」
ビルとビルの間。
もともと人が入れる幅ではない——そう見える裂け目のような路地に、カノンの配信は映っていた。現場の損傷は壁面と地面に集中していた。コンクリートの破断面が赤く焦げている。接触爆発——誰かが手をぶつけるたびに爆発が起きた跡だ、とAIが分析した数値を無線が読み上げている。
サクラはその数値を聞きながら、手のひらを見た。
バッグの中、ポーチの中、右手に収まる小さな何か——収縮した状態では20センチほど、見た目ただの金属棒——を確かめる。
「……行きます」
誰に言うともなく。
スマートフォンを取り出す。胸の前にかざす——液晶面を外側に向けて。サイドボタンを押すと、音が来る。一拍の無音の後、柔らかい和音が流れた。誰かが用意した音楽、という感触がある。でもサクラはそれをあまり深く考えない。
腕を胸の前でゆっくりと広げる。
受け入れる、という形。何かを迎え入れる準備をする、という動作。なぜそうするのか——教えられていないのに、身体が知っていた。
胸の中心から、桃色の光が開く。
花びらが開くのではない。蓋が開く。プログラムが起動する、という表現が一番近い——ただし初変身のとき以来、サクラはその「近さ」に気がついていない。ただ「起きる」だけだ。桃色の光は色そのもので、物質ではなく色が先に存在して、後から形になっていく。形になる際の「型」として、サクラ自身の身体が機能する。
内的モノローグが、このとき空白になる。
感じるべきことを感じない。ただ開く。空洞のまま変身が完了する。
─────────────────────────
魔法少女 ピンク・パラグラフ-PINK PARAGRAPH-
タチバナ・サクラ
─────────────────────────
——始めます
─────────────────────────
変身が完了した瞬間、サクラの右手には杖があった。20センチが180センチに伸びる感触——それ自体には慣れた。
隣でA1が言う。
「変身」
一語。平坦な声で。起動コマンドみたいなもの。
次に気がついたとき、A1の衣装が変わっていた。——変身した瞬間を、見ていたはずなのに、記憶がない。いつもそうだ。白い衣装、FASTヘルメット型のバイザー、右腰の拳銃。変身後のポーズ——右手を前方に水平に突き出し、左手を腰の位置で握る——が0.5秒で終わり、次の瞬間にはもう歩き始めている。
「……やっぱり速いですね」
「時間の無駄だから」
「でも変身バンクって、気持ち的に大事じゃないですか?」
「大事じゃない」
「……エイさんはそういうとこありますよね」
路地の奥から声が聞こえた。
あの声だ——配信越しに聴いたのと、まったく同じ声。低くて、挑発的な間の取り方をする声。
「あー。来た来た」
ヒノデ・カノンが、壁に背中を預けて立っていた。
変身している。
変身しているカノンを見るのは、サクラにとって初めてではない——しかし毎回、「あ、本物だ」という感触がある。赤い。全身が緋色で、それが炎じゃなくて「状態」として存在している感じ。燃えているというより、燃えることが起きている空間にいる、という表現のほうが近い。
インフェルノ・ナックル——両手に纏う炎の覆い——が、今はまだ待機状態で、指先で小さく揺れている。
「どうも。K機関の人たち」
声に笑いが混じっている。怒っているわけでも、怖がっているわけでも、困っているわけでもない——ただ楽しそう。
「おいおい嬢ちゃん、そりゃないだろ。こんな場所でライブ配信とは」
「だって面白いじゃん。見てる人たちも見たいわけだし」
「そういう話をしてるんじゃない。——この損傷は、一般人を巻き込んでいる。分かってるか」
「……ふーん」
カノンの表情が一瞬だけ変わる。「面倒くさい話をされた」という顔。すぐ戻る。
「別に死んでないし」
「残念だが、それで済む話じゃない。——来てもらう」
「無理だよ、そんなの」
雨はまだ降っている。路地の奥で、炎が揺れていた。
カノンが動いたのは、A1が次の言葉を言いかけたときだった。
「残念だが——」
会話の途中に動く。
「聞いています」という姿勢のまま半歩、また半歩。路地の幅が狭い。距離が詰まるのが速い。壁を叩いた。右手で、直接。
爆発した。
炎と衝撃が同時に来て、路地の空気が一瞬だけ入れ替わった——さっきまで「雨の夜のにおい」がしていた空気が、焦げたコンクリートのにおいになる。サクラは横に飛んだ。A1は後ろに跳んで距離を取った。
「——燃やす」
決め台詞。
言い方が短い。「燃やしてやる」でも「燃やすぞ」でもなく、ただ「燃やす」。状態の報告。
サクラは壁際で着地しながら、右手の杖を伸ばした。走りながら振る。桃色の残光が空中に軌跡を描いて、それが一本の境界線になる。カノンの足にかかる負荷が少し増える——リソースが削れる。接触はない。距離を保って削る。
「……邪魔くさ」
カノンが言った。怒った声じゃない。正直な感想だった。
距離を詰めようとする。
サクラがポーチから取り出して——投げた。
ぬいぐるみが、路地を横断してカノンに向かって飛んだ。着弾する。桃色の衝撃波が広がった。カノンの右腕が、少しの間だけ重くなる。
「……あ、利き手が重い」
驚いた声。怒った声じゃなかった。「想定外だった」という、純粋な声。
「そんなの……ダメですよ」
走りながら言う。杖を構え直す。「ダメ」の意味が伝わっているかどうか、走りながら自分でも思う。
「ダメって何が?」
「配信とかで、人を巻き込むとか、そういうの全部!」
「んー……でも、それが楽しいじゃん」
「楽しくないです! 少なくとも被害に遭った人は楽しくない!」
「そっか。でも俺は楽しい」
真顔で言う。
悪意がない——というのが一番たちが悪い。カノンにとって「楽しいかどうか」が優先順位の一番上にあって、他者が楽しくないかどうかは計算に入らない。入らない、というより、入れ方を知らない。
その間、A1は動いていた。
サクラとカノンが正面から取り合っている間、側面から距離を詰める。静かに。音がない。カノンの意識がサクラに向いている間に——カノンが気づいたのは、手錠が手首に巻きついた瞬間だった。
ワイヤーが引かれる。
引き倒す、ではない。引いて、重心をずらす。カノンの体が傾いた一瞬に——マグライトが光った。白い光がカノンの左腕に直射して、変身が揺らいだ。左手の炎の覆いが消える。
「……っ!」
初めて表情に焦りが混じった。
右手の炎はまだある。ワイヤーごとちぎろうとする——ちぎれない。
「……解けないじゃん、これ」
「解けない。解除権限は俺だけにある」
「……嫌いだな、そういうの」
「だから言ったろ、効かないって」
「何が?」
「お前のやり方が」
間。
カノンの顔が何かを考えている顔になる——感情が過剰になりすぎて均質化した顔の中に、ほんの少しだけ別のものが混入する。「悔しい」に近いが、カノン自身はそれを「悔しい」と認識していない可能性がある。ただ、何かが止まる。
「——来い」
カノンが動いた。
右手に炎を収束させる。最大出力——一点への集中打——が来る前の、短い予備動作。サクラには「あ、来る」と分かった。分かってから体が動いた。
「魔法少女なんですから、人助けくらいしましょうよ」
サクラが5種の武器を同時に出した。
杖が最大に伸びる。カメラが光る。透明な板が宙に浮かぶ。ぬいぐるみが待機する。カップの液体が揺れる。5つが同時に稼働して——杖を振って境界線を引いた。
範囲内のリソースが圧縮されて、カノンの動きが止まった。一瞬だけ。一瞬だけ止まって、カノンの表情が「止まっている」と気づいた顔になる。
「……なんで」
「止まっているんです。今だけ」
「……なんで、止めるの」
「来てほしいから」
「……」
A1が静かに近づく。もう一本の手錠を、右手首にかける——カノンが動けない一瞬の間に、固定する。
カノンが何も言わない。
言わないまま、炎が消えた。インフェルノ・ナックルが待機状態になって、次の瞬間に消えた。変身が解けた。制服姿に戻ったカノンが、路地の壁を背に立っている。
「……」
A1が少し間を置く。
「よし、連行する」
「……俺、やっぱお前らのことが嫌いだよ」
「知ってる」
「……なんで知ってんの」
「態度で分かる」
K機関の白いバスが、路地に戻ってきた。
カノンが乗せられる。抵抗はしない——する気力があるのかないのか分からないが、今は黙って乗る。乗る前に一度だけ振り返って、路地の壊れた壁を見た。焦げ跡。爆発の跡。
「……直してもらえんの、これ」
「修繕費は後で請求書が行く」
「……俺に?」
「K機関に」
「……なんで」
「俺たちが来た案件だから」
「……なにそれ」
バスのドアが閉まった。
雨はまだ降っている。
サクラが変身を解いた。右手の杖が20センチに縮んで、バッグにしまわれる。
「……お疲れ」
A1がそれだけ言う。
でもサクラにとっては、A1がそれを言う、というのが——ちゃんと意味を持つ言葉として聞こえていた。短くて、感情が薄くて、「今日もよく頑張りましたね」ではない。そのくらいのほうがいい、と思っている自分がいる。
「今日は早かったですね」
「早いに越したことはない」
「……カノンさん、また来ますよね」
「来るだろうな」
「……でもなんか、嫌いじゃないんですよね、あの人のこと」
「……」
しばらく沈黙。
「……そうか」
「そうなんです」
「……大変だな、お前は」
「そうですかね?」
「そう思う」
歩き始める。
雨が降り続けている。エイさんの足音と、ワタシの足音が、路地の奥に向かって遠くなっていく。
——というわけで。
ワタシことタチバナ・サクラ、魔法少女(見習い中)の話なわけですが。
最初から話すとなるとまあ結構長くなります。ひとつひとつ説明しようとすると、出てくる順番に困る。何を先に言えばいいのか分からなくなる。ワタシは今、自分がこんなことになった経緯を整理しようとするたびに、だいたいそういう気持ちになる。
だから——まずは向こうの話から聞いてください。
そこから話さないと、始まらないので。
アサヒナ・アオイさんのことを、知ってほしいので。