アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
週が変わって、月曜日だった。
昼過ぎの渋谷はいつもより人間の密度が薄かった。月曜の昼、という時間帯が人の流れから微妙にはみ出しているのかもしれない——土曜の放出と平日の流入のあいだで、渋谷が少しだけ息を吐いている時間。路面が見えるほど人が減るわけではなかったが、人と人の間隔が、週末より数センチだけ広かった。
×××××はアオイの少し後ろを歩いていた。
少し後ろ、というのがいつのまにかこの二人の定位置になっていた。アオイが先で、×××××がついていく。どちらもそう決めたわけではなかった——アオイが歩き始めるのが先で、×××××が後からついていくという繰り返しが積み重なって、気がつくとそういう形になっていた。
センター街から外れた路地に入ると、日の差し方が変わった。影が増えた。建物の壁が日光を塞いで、地面の温度が少し下がる場所だった。アオイはここを好んでいるのかどうか、×××××には分からなかった。好む、とか好まない、とかをアオイが表明したところを見たことがなかった。ただアオイが向かう先には、たいていこういう場所があった。
「何か食べる?」
アオイが言ったのは、コンビニの前を通り過ぎるときだった。
「いい」と×××××は答えた。「お腹空いてない」
「そう」
それで終わった。アオイは続きを聞かなかった。×××××は続きを言わなかった。この間の取り方に、三週間前には少し戸惑った感触があったが、今はもうなかった。アオイとの会話に流れる沈黙は、埋めなければいけない沈黙ではない、ということを身体が覚えた。
路地を抜けると、人通りが戻った。
向こうから歩いてくる少女を、×××××はまずアオイより先に見た。
赤いジャケットだった。制服ではなかった。私服で、赤いジャケットの下に短い丈のシャツ、細い黒のパンツ——全体的に赤が多い格好で、赤が多いのに派手という印象より前に「密度が高い」という印象が来た。密度、というのが正確かどうかは分からなかったが、その少女は何かを持ちすぎているような、あるいは何かが過剰なような——そういう感触があった。
年齢は分からなかった。高校生かもしれなかったし、もう少し上かもしれなかった。顔の造作は整っていたが、それより先に目が来た。目が、生き物の目ではないような気がした——生き物の目でないというのは比喩で、つまり獣の目だった。獣が何かを探している目だった。
少女がアオイを見た。
一瞬だった。
一瞬で、少女の足が止まった。
×××××にはそれが何を意味するのか分からなかった。分からなかったが、分からないまま「まずい」と思った。まずい、という言葉が頭の中に来たのは自分でも驚きだったが——確かに来た。来た理由を言語化する前に、アオイの背中が変わった。
変わった、というのは見えない何かが変わった、ということだった。服の柔らかさが消えた。歩き方が変わった。一歩一歩を確認するような、次の一歩をまだ決めていないような歩き方になった。
少女が口を開いた。
「あー、いたいた」
声が軽かった。
軽い、というのが×××××には意外だった。さっきまで感じていた「密度」や「獣の目」と、その声の軽さが合わなかった。合わないのに、確かに同一の人物から出た声だった。
「青、最近逃げ回ってるじゃん」
青、と言った。
名前ではなく、色で呼んだ。×××××はその呼び方に一瞬引っかかって——引っかかる暇がなかった。アオイが止まったからだ。止まって、振り向かなかった。振り向かないまま、少女に背中を向けたまま、一秒だけ黙っていた。
それから向き直った。
向き直ったアオイの顔は、×××××が知っているアオイの顔と同じだった——感情の量が少ない、言葉を選ぶ前の静けさが常に先に来る顔。でも今日はそこに何かが足されていた。足されたそれが何かを、×××××は名前で呼べなかった。
アオイは何も言わなかった。
少女が一歩近づいた。
「別に今は戦わないよ」
戦わない、という言葉が空気に落ちた。×××××は自分が息を止めていたことに気づいた。気づいたが、吸えなかった。
「ただ確認したかっただけ。お前の青、まだあるんだろ」
少女の目が、ここで初めて×××××に向いた。
向いて——止まった。
値踏みではなかった。値踏みというのは相手の価値を測る目つきだが、そういう感じではなかった。もっと直接的な問いが、目の形をしていた。「何者か」という問いではなく「何の役に立つか」でもなく——「この子は、ここに関係があるのか」という問い。
「この子、一般人?」
少女が言った。言い方に悪意はなかった。分類したかっただけ、という感じだった。
アオイが動いた。
一歩、前に出た。
×××××と少女の間に、アオイの身体が入った。入ったのは意図的だったが、×××××を守ろうとした、というより——遮断した、という感じだった。遮断は守ることと同じではない。遮断は、こちらとあちらを切り離すことだ。
×××××は、アオイの背中を見た。
肩甲骨が、少しだけ動いていた。動いている、ということが分かるくらいの、ごく小さな動き。呼吸の振れだったかもしれない。それとも別の何かだったかもしれない。×××××には判断できなかった。
少女が「ふーん」と言った。
「まあいいけど」
声の温度が、最初からずっと同じだった。怒っているわけではなく、機嫌が悪いわけでもなく、かといって友好的でもなかった。ただ——事実を話している声だった。事実として確認したことを、事実として言っている声。
「青、そろそろ覚悟しとけよ」
少女が歩いた。
×××××たちの横を、特に速度も変えずに歩いた。通り過ぎる際に、赤いジャケットが×××××の視界を横切った。近い距離だった。触れそうなくらい近い距離だったが、触れなかった。
足音が、遠くなった。
×××××は振り返らなかった。振り返って見送る気になれなかった——なれなかった、というより、振り返ることが何かを意味するような気がして、意味させたくなかった。
通行人が一人、二人と横を歩き過ぎた。
渋谷の昼は変わっていなかった。少女が来て、少女が去って、人の流れは続いていた。続いていることが少し異様な気がした——さっき起きたことは、×××××には何が起きたのかすら分からなかったのに、世界は何も起きていないような顔をして続いていた。
アオイがゆっくり息を吐いた。
吐いて、前を向いた。
「……誰?」
×××××が聞いた。
聞いてから、聞き方が平板だったと気づいた。でも他に聞き方がなかった。「誰なの」でも「何者なの」でも、全部平板になった気がした。言葉を選ぶ余裕がなかった。
「赤、の人」
アオイが言った。
赤の人、というのが何を意味するかを、×××××はまだ完全には分かっていなかった。分かっていないことは、この三週間で他にもたくさんあった。でも赤という言葉が、アオイの言い方では、「私は青」という事実と対になっているらしいことは、なんとなく分かった。
「……友達?」
聞いてから、少しだけ後悔した。違うと分かっていて聞いた。分かっていて聞いたのは、聞かないとアオイが次に何も言わないような気がしたからだった。
アオイが、笑った。
笑った、と言っていいかどうかも迷ったが——笑った。これまで×××××が見たことのない表情だった。苦笑、というやつだった。苦笑いとは何かを、×××××はその瞬間に初めて腹の底で理解した。口の端が、やや力のない形で上がる。目は笑わない。笑えない理由がある、でも笑わずにはいられない何かがある——その両方が同時に顔に出る表情だった。
「全然」
歩き出した。
アオイが歩き出したから、×××××もついていった。さっきと同じ、少し後ろの位置に戻った。
「覚悟、って言ってた」
×××××は歩きながら言った。
「戦わない、とも言ってたけど」
「今日は、ってことだと思う」
「今日はってことは、いつかは」
「うん」
アオイが答えた。短い答えだった。短いが、×××××が聞きたかったことには答えていた。いつか来る、ということだった。
×××××は少し考えた。
考えながら、歩いた。考えながら歩けるということは、頭の中が静かな証拠だった——だが静かな頭の中で、さっきの少女の顔が出てきた。出てきて、消えなかった。
あの目が消えなかった。
獣の目、と思った——でも今になって、獣というのも違うかもしれない、と思い直した。獣というのは欲望だけが目に出る。でもあの目には欲望より先に、何か別のものがあった。別のもの——どこかで知っているような感触があったが、何だったかが言葉にならなかった。
路地が本通りに合流した。人の密度が戻った。渋谷の月曜の昼が再開した。
「あの人も」と×××××は言った。
「あの人も、妖精がいるの?」
アオイが少し間を置いた。
置いてから、「いると思う」と言った。
「赤は、妖精から力をもらってる。私と同じで」
「同じ妖精?」
「別だと思う。違う声だった」
「……見たことあるの?」
「声を聞いたことがある。遠くから、一回だけ」
どこで聞いたのか、アオイは言わなかった。×××××も聞かなかった。
代わりに×××××は、さっきの少女の声を思い出した。あの軽さを思い出した。軽い声で、軽い言い方で、「覚悟しとけよ」と言っていた。脅しとして言ったのか、予告として言ったのか——×××××には区別がつかなかった。でもどちらとも違う気がした。もっと——報告、に近い気がした。起きることが分かっているから言う。言うことで、相手に準備させようとしている声、だったかもしれない。
「怖い人?」
少し考えてから、×××××は聞いた。
アオイが今度は長く間を置いた。長く置いて、「どう言えばいい答えになるか分からない」と言った。
「こわいかどうかで言えば、怖い。でも——ルールが違う、っていう感じ」
「ルール?」
「あの人がいる世界のルールと、私がいる世界のルールが、たぶん違う。違うから、普通の人間の言葉で「こわい」って言えるのかどうかも、分からない」
×××××はしばらく、それを持ち歩いた。
持ち歩きながら歩いて、路地を抜けて、本通りを少し行って、また路地に入った。アオイは特に目的地を告げなかった。×××××も聞かなかった。
いつもの公園のベンチに戻ったのは、それから三十分くらい後だった。
ベンチは二人分の余白があった。アオイが先に座って、×××××がその隣に座った。
日の傾き加減が、少し前と変わっていた。正午を過ぎた光が、ビルの影をじわじわと路地に引き込んでいた。陽のある場所とない場所の境界が、ゆっくり移動していた。
アオイがイヤホンを取り出した。
取り出して、片方だけ耳に入れた。
それを見て、×××××は聞こうとした——「妖精と話すの?」と。でも聞かなかった。聞いても構わない気がしたが、何か別のことを言いたいような気もして——言いたいことがあるのかどうかも確かでなかった。
「さっきの人」と×××××は言った。
「あの人——」
うまく続かなかった。
何を言いたかったのかが、自分でも整理できていなかった。怖かった、というのは正確ではなかった。怖いというより、大きかった、という気がした。あの少女の存在が、×××××の知っている人間の大きさと、違う大きさをしていた。
「あの人も」と×××××はようやく言った。「どこかに居場所があるのかな」
アオイがイヤホンを外さないまま、×××××を見た。
見て、少し考えた。
「あると思う」と言った。「ただ居場所が何かっていうのが——私とは違うと思う」
「違う?」
「あの人は、たぶん「居る」ことに意味を見てない。動いてる間だけ、いる。止まったとき、何かが消える。そういう人だと思う」
思う、という言い方は曖昧に聞こえたが、×××××にはアオイが見てきた何かから出ている言葉だと感じた。根拠のある「思う」だった。
「それって」
「うん」
「怖くない?」
アオイが少し間を置いた。
「怖いけど」と言った。「止まれない人のことを怖いと思ってる自分も——止まってるだけだから、たいして変わらないかもしれないとも思う」
止まってる、という言い方は、アオイが自分のことを言う時の特有の平坦さで出てきた。自己批判でも慰めでもなく、ただ観測、という感じの言い方だった。
自販機が定時に切り替わる音を立てた。
×××××は手元を見た。手のひらに何も持っていなかった。スマートフォンがなかった——修理していない、使っていない、持ち歩いていない。持っていないことを今日初めて気にした、わけではなかったが、今日は少し別の形で気になった。
もし自分にもスマートフォンがあって、妖精がいたとしたら。
今日のあの少女と戦うことになるのだろうか。
問いが来て、来た瞬間にそれが問いとして奇妙だと気づいた——×××××には変身する力もなければ妖精もなく、戦う何かがどこにもない。なのにその問いは浮かんで、しばらく浮かんだままでいた。
浮かんでいる間に、別のことが分かった。
さっきの少女の目に見た「別のもの」が、何だったか、少し分かった気がした。
あれは——止まることへの、恐怖だったかもしれない。
怖いから動く。動いている間だけ存在できる。止まることが何かの終わりになる。そういう種類の、静かなパニックが、目の中に澱んでいた——かもしれない。違うかもしれない。でも、そういう気がした。
「アオイさん」
「うん」
「あの人、また来る?」
「来ると思う」
「……そっか」
そっか、以上の言葉が出なかった。「どうすればいい」とは聞けなかった。聞いても×××××には何もできないと分かっていた。分かっていて聞くことが、アオイに対して何かを押しつけるような気がした。
アオイはイヤホンを今度は両耳に入れた。
妖精と話し始めるのだろう、と×××××は思った。
思いながら、公園の向こうの通りを眺めた。車が一台、また一台、光の量が少し変わった午後の路面を走り過ぎていった。赤いジャケットの少女がこの通りをまだどこかで歩いているとしたら、どこにいるのだろう、と思った。
答えは出なかった。
出なかったが——少しだけ、続きが気になった。
この場所に、また来ることになるだろう、という感触だった。それが正確に何を指しているのかは、まだ分からなかった。
赤い少女が去ったあとしばらく、二人は黙って歩いた。
黙っていたのは、何かを整理しようとしていたからではなかった。少なくとも×××××は整理していなかった——整理するための材料が、まだ揃っていなかった。「赤、の人」という答えが返ってきたとき、「友達?」と聞いた声が自分でも少し間抜けに聞こえた。聞いてから、間抜けだったかもしれないと思って、でもアオイは「全然」と言いながら少しだけ表情を崩したから——そこに至るまでに×××××が見たことのなかった表情だったから——まあいいか、とも思った。
何がよかったのかは分からなかった。
センター街を抜けてから、アオイが「今日はもう帰る」と言った。それだけで、理由も説明もなかった。×××××は「うん」と言った。特に帰りたくなかったわけでも、もっといたかったわけでもなかった。ただ、うん、と言うのが一番自然だった。
電車の中でひとりになってから、さっきのカノンの顔を思い出した。
怖い顔ではなかった。×××××がそれまでに想像していた「アオイを追う誰か」のイメージとは、だいぶ違っていた。覚悟しとけよ、という言葉は脅しとして機能していたが、言い方はどちらかというと面倒くさそうで、当然のことを当然の声で言っているような——そういう感じだった。感情が剥き出しのまま動いている人間の声だった。
感情が剥き出しのまま動いている。
その感触が、帰り道の間ずっと×××××の頭に引っかかっていた。
三日後の夜だった。
公園に来ると、アオイはいつものベンチではなく、公園の外れの段差の縁に座っていた。自販機の光が届かない側で、渋谷の夜景の残りが薄く届くだけの場所だった。今夜はイヤホンが、一方しか耳に入っていなかった。もう一方は首から下げた状態で、マイクの部分がアオイの胸のあたりでぶらぶらしていた。
×××××が隣に座ると、アオイはそちらを見ずに言った。
「遅かった」
「急いでないから」
アオイがそうか、と言った。そうか、が会話の終わりではなかった——そういう感触がして、×××××は黙って待った。待つのが正しいのかどうかも分からないが、何か言おうとしている人間の前で別の話を始めるのも変だった。
「不登校になったのは」とアオイが言った。「中二の、夏から」
×××××は答えなかった。
「理由は特にない。起きたら、行けなかった。時間だ、と思って制服を手に取って、着替えようとして——なぜか止まった。止まったことに最初は驚いた。自分でも、なんで止まってるのか分からなかったから」
話し方が、いつもより少し速かった。速い、というより、考えながら言葉を出している、という感じだった。選びながら、でも選んだものを次々に置いていく、という速度だった。
「何度か行こうとはした。三回、か四回。玄関まで行った。玄関で、靴を持った。持って——なぜか、そこで止まった。玄関を出られなかった」
「それで、また部屋に?」
「戻った。戻って、また横になった。横になったら昼になってた」
アオイが息を吐いた。吐き方が、何かを決めたあとの息の吐き方だった。
「親は最初は怒ってた。ちゃんと起きろ、ちゃんと行け、みたいなことを毎朝言ってた。でも——たぶん三ヶ月か四ヶ月経ったくらいで、何も言わなくなった」
「何も言わなくなったの?」
「うん」
「……それはよかったってこと、なの?」
「どっちかって言うと」とアオイが言って、少し止まった。「何も言われない方が、正直きつい」
×××××はその言葉を受け取った。受け取って、何も言わなかった。言えなかった、というより——言うべき言葉がここにない、という感触があった。言えば何かを埋めようとすることになる。埋めようとする必要はない、とどこかで思った。
「妖精が来たのは」とアオイが続けた。「去年の冬」
×××××は少し夜気の中で体の向きを変えた。正面を向いたまま、でもアオイの声が届く角度に。
「最初は怖かった。知らない声が突然来るのは——普通に怖い。誰これ、って思った。妖精って名乗ったとき、何それ、とも思った」
「でも今は違う?」
「しばらく経ったら、怖くなくなった」
それだけ言って、アオイがまた止まった。
×××××には、止まった先に何があるのかが分かった——分かった、というのは正確ではないかもしれないが、続く言葉が来る前の空気の質が、今日は違った。三-3の夜に縁石に座っていたときと同じ種類の、何かを決めている、あるいは決まってしまった、という重さが空気に混じっていた。
「むしろ……声を聞くのが、楽しみになってた」
アオイの声が、少しだけ落ちた。落とそうとして落としたのではなく——自然にそうなった、という感じだった。
「家にいる間、親と話すことがほとんどなかった。学校の友達とも当然話せない。この辺の子たちとは話すけど——深い話はしない。お互いに聞かない、という暗黙のルールがある。だから」
「だから、妖精の声が」
「そう」とアオイが言った。「声を聞くのが、一日の一番待ってる時間になってた」
×××××はその言葉の向こう側を考えようとして——やめた。考えても、自分にはよく分からなかった。声を聞くのが楽しみ、という感覚は、理解できるような気がした。でもその声が「妖精」で、スマートフォンの向こうから来ていて、しかも妖精を完全には信じていないと言っていたアオイが——それでも待っていた、という事実の重さは、理解とは違う場所にあった。
夜の公園に、自販機の低い音が続いていた。
×××××は少し間を置いてから、聞いた。
「変身して、怖くないの?」
アオイが少しの間を取った。考えているような、でも考えることに慣れていない問いを処理しているような間だった。
「……最初は、怖かった」
「今は?」
「今は」とアオイが言って、また止まった。「変身してる間の方が、楽な気がする」
×××××はそれを受け取った。受け取って、「なんで?」と聞いた。
「分からない」
短かった。でも投げやりな短さではなかった——本当に分からない、という短さだった。分からないまま答えた、という感触があった。
「あの状態の方が、静かだから、かな」
「静か、って」
「変身してる間は、考えなくていい」
×××××はそれを聞いた。
考えなくていい。その言葉が着地するのに、少し時間がかかった。着地した後で、×××××は聞こうとして——聞けなかった。何を聞くか、というより、何を聞くべきかが分からなかった。
変身している間は、考えなくていい。
アオイにとって、それが「楽」の意味らしかった。この三週間で×××××が見たアオイの変身後の顔——感情が引いた、静かな、×××××がうまく言葉にできなかったあの表情——が、今の言葉と繋がった。繋がって、その繋がり方が×××××には完全には理解できなかったが、確かに繋がった、とだけ分かった。
「静かな方が、いいんだ」
口から出てしまってから、それが問いだったのか確認だったのかも分からなかった。
アオイが少しだけ×××××の方を見た。見て、また正面に戻した。
「……うるさいんだよ、日中は」
「頭の中が?」
「頭の中というか」とアオイが言って、今度は言いかけで止まった。止まり方が今夜の中で一番長かった。「自分がここにいることが、うるさい、という感じかもしれない」
自分がここにいることが、うるさい。
×××××は、その言葉をそのまま頭に入れた。解釈しようとせず、言い換えようとせず——ただ、入れた。入れて、しばらくそのままにしておいた。
「妖精がね」とアオイがまた言った。「変身してる間は、妖精の声が変わる」
「どう変わるの?」
「——遠くなる。日中より、遠い。変身して戦ってる間は、妖精の声がほとんど聞こえなくなる」
「それが、静か、ってこと?」
アオイが少し頷いた。頷き方が確認というより、自分でも今言葉にしてはじめて分かった、という感じの頷き方だった。
「変身してる間は、妖精の声が届かない。親の声も、学校の声も、当然届かない。あの状態でしか会えないものと、戦ってる。それだけが、そこにある」
「でも怪我するかもしれないのに」
「する」とアオイが言った。「した。最初の戦闘で、腕をやられた。でも変身が解けたら消えた。消えたけど——あの場所で痛みを感じたとき、ここにいる、という感触は、日中よりずっとはっきりしてた」
×××××はそれを聞いた。
聞いて、何かが——自分の中で微妙に動いた。動いた、というより、今まで別々に存在していたいくつかのことが、線で繋がったような感触だった。アオイが毎日あの公園にいる理由、妖精を完全には信じていないと言いながら声を待っていた理由、変身後の顔が×××××の知っているアオイとは別の顔になる理由——それらが全部「同じ方向を向いている」と気づいた瞬間だった。
同じ方向というのが何なのかは、×××××にはまだ言葉にできなかった。
ただ、方向があることだけは分かった。
自販機の光が一度だけ揺れて、また元に戻った。
アオイが首から下げていたもう一方のイヤホンを取り上げて、耳に入れた。会話を終わらせる動作だったかもしれないし、そうでなかったかもしれなかった。どちらにしても、今夜アオイが話したことは全部話した——という感じがした。全部かどうかは×××××には分からないが、今夜の分は、ここで終わった。
「……アオイさん」
「何」
「今日、話してくれてありがとう」
アオイが少し沈黙した。
「別に」と言った。「聞いたから話した」
「そうだけど」
「それだけのこと」
そうかもしれなかった。でも×××××には、それだけのことがそれだけではない気がしていた——気がしているだけで、うまく言葉にはならなかった。
ベンチから少し離れた場所で、誰かの笑い声が上がった。それから消えた。公園の外れ——×××××がいつも通り過ぎる側の、ずっと向こうからだった。声の主は見えなかった。
×××××は足を少し持ち上げて、段差の縁の上で膝を抱えた。
アオイの「変身してる間の方が楽」という言葉が、頭の中でまだ静かに響いていた。変身して、考えなくていい場所に行く——そういうことを、アオイは続けている。続けながら、妖精の声を遠くに聞きながら、自分がここにいる実感を戦闘の中で確かめている。
自分には。
その問いが来かかって、来かかっただけで止まった。
答えが出ないことは、もう知っていた。知っていたから、答えを探しにいかなかった——正確には、探しに行く必要がある気がしなかった。今夜はそういう夜ではなかった。
アオイが、そこにいた。
×××××が、そこにいた。
それだけのことが、段差の縁の上に確かにあった。渋谷の夜の、光と騒音の残りかすの中に。
帰りに、×××××は一度だけ振り返った。
アオイはまだそこにいた。段差の縁に座って、夜の公園の薄い光の中に、両耳にイヤホンを入れて。妖精と話しているのか、ただ座っているのか、×××××の位置からは分からなかった。
分からないまま、×××××は歩き始めた。
今夜のアオイの声を、頭の中でもう一度だけ再生した。
変身してる間の方が、楽な気がする。
その言葉の意味を、×××××はまだ全部は理解していなかった。でも——理解していないことが、今夜は少し怖かった。今日より前に同じ言葉を聞いていたとしたら、きっと怖くなかった。怖くなったのは、今夜アオイの話を聞いてからで、それはつまり、今夜×××××の中で何かが変わったのかもしれなかった。
何が変わったのか、まだ分からなかった。
渋谷駅の地下に降りる階段の入り口で、×××××はしばらく立ち止まった。下から吹き上がってくる空気が、地下特有の閉じた匂いを運んでいた。人の多さを示す匂いで、誰の匂いでもない匂いだった。
変身してる間は、考えなくていい。
×××××には変身する方法がない。でも——変身しなくても考えなくていい場所が、あるとしたら。あるいは考えなくていい時間が、あるとしたら。そういう場所や時間を×××××はこれまでに見つけたことがあるだろうか。
ないかもしれなかった。
あるかどうかも、分からなかった。
×××××は階段を降り始めた。改札の電子音が近づいてきた。ICカードをかざした。電車は三分後に来ると表示されていた。
ホームで、電車を待ちながら、×××××はまた考えた——考えた、というより、頭がそちらに向いた。
アオイは今夜もあそこにいる。
妖精の声を聴きながら。
×××××がいなくなっても、あそこにいる。
その事実が、今日はなぜか、胸のどこかにひっかかった。ひっかかり方の形を言葉にしようとして——できなかった。できないまま電車が来て、乗って、座って、窓の外が暗くなった。
地下を走る電車の窓に、自分の顔が映った。
今日より前の自分の顔との違いを、×××××は確認しようとして——できなかった。違いがあるのかどうかも分からなかった。
でも。
アオイの「変身してる間の方が楽」という言葉が、今も頭の中で静かに揺れていた。揺れながら、何かと共鳴しているような気がした。共鳴している「何か」が×××××の中にもあるような気がした。気がするだけで、確かではなかった。
電車が地上に出た。
窓の鏡が消えて、×××××の顔が消えた。代わりに、住宅街の夜が流れ始めた。