アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
木箱は、開いたまま雪の上に置かれていた。長持ちに似た輪郭の縁に、白布の端が風でわずかに持ち上がっては、また落ちる。木の継ぎ目に霜が薄く張り、指先で触れれば崩れそうな細かい結晶になっていた。サクラは膝をついたまま、A1の顔の高さに身をかがめていた。カノンは道の先の暗がりに視線を向けたまま腕を組み、キヅキは雪だまりの縁に座り込んで両膝を抱え、ミドリはまだ根を絡ませたままの車軸のあたりを、しゃがんだ姿勢で見ている。道の先、停止したままの車列は九台とも動く様子がなく、ヘッドライトだけが消されずに雪面を照らし続けていた。エンジンをかけたまま放置された一台から、排気の白い蒸気だけが規則正しく上がっている。太陽の位置はまだ低く、東の空は乳白色に変わり始めたばかりだった。三日間、まともに眠っていないサクラの膝の裏側は、雪の冷たさとは別に、もう感覚が薄くなりかけていた。明るくなり始めた光の中で、カノンの頬に浅い擦り傷が一つ、キヅキの唇の端に乾いた血の跡が薄く残っているのが、今になって見えた。ミドリの手袋の甲には、木の根を使いすぎた名残なのか、細かい擦り切れがいくつも走っている。
木箱の中で、A1の睫毛がわずかに震えた。動きに気づいたのは、距離の近いサクラだけだった。前髪の先に張りついていた霜が、その震えで小さく崩れ、頬に一粒だけ落ちる。瞼が持ち上がり、瞳孔が薄明かりの中で焦点を結び直すまで、体感で二秒とかからなかった。視線はまず木箱の縁の白布に落ち、次に頭上の雪雲へ、それからサクラの顔へと動いた。唇が動く。掠れてはいたが、聞き慣れた抑揚のない声だった。「……今の現在時刻は」
その言い回しの骨格を、サクラは南平台の廊下で何度も聞いてきた。命令系統の確認を要求する。発令者の明示を要求する。適用条項の提示を——壊れていない。サクラはそれだけを、言葉より先に体で理解した。喉の奥から込み上げてきたものを飲み込み、声を整えてから答える。最初の一言は、少しだけ掠れた。二言目からは、いつもの声に戻っていた。携帯電話の画面を点ける余裕はなかった。バッテリーの残量を、この一週間で骨の髄まで惜しむようになっている。「……六時くらい、だと思います。正確には分かりません」空の白み方だけを根拠にした答えだった。「場所は、東名高速の下り線の路肩です。横浜町田インターを過ぎたあたり、だと聞きました」——アオネの計画書にあった地名を、記憶のまま口にした。数字の精度に欠ける返答に対し、A1の表情は変わらなかった。「推定で構わない。誤差は許容範囲内だ」——それだけを返すと、木箱の縁に片手をかけ、上体を起こしにかかった。
起き上がる動作に迷いはなかった。片膝を立て、木箱の外へ足を踏み出す。制服の襟元、腰のベルトの留め具、右腰に下げた伸縮する細い棒の重み——指先で一つずつ確かめ、位置がずれていないことを確認していく。棒の側面にある小さな窓に目を落とし、残量表示が点いていることも一瞬で見て取った。手袋の指先を軽く握り直し、感覚が正しく戻っていることを確かめる。最後に、空になったホルスターの留め金にも触れ、そこで一瞬だけ動きが止まったが、それ以上は何も言わなかった。五箇所の確認を終えると、A1は木箱から手を離し、雪の積もった路肩に、自分の足で立った。膝が一度、小さく揺れたが、すぐに直った。首を左右にゆっくりと動かし、視界の端まで異常がないかを確かめる仕草もあった。左右の色の判別、遠近の焦点、いずれも一瞬で確認を終えている。制服の袖に張りついていた霜が、体温でわずかに溶け始め、灰色の布地に濃い染みを作っていく。吐く息は白く、規則正しい間隔で立ちのぼった。
「今の状況はどうなってる」A1が言うと、サクラは息を整えてから答えた。「移送車両を、四人で止めました。木箱を確保して、開けたら、A1が中にいて。しばらく、反応がなかったので」「護送要員は制圧したのか?」続けて聞かれると、答えたのはサクラではなくカノンだった。「四人とも、動けない状態で確保。怪我はさせてない。無線機も回収済み」抑揚のない声で、カノンは即答した。A1はカノンへ視線を向け、「了解」とだけ返した。カノンは、それに対して何も言わず、わずかに顎を引いただけだった。「誰か怪我人が出たか」A1が続けて聞くと、サクラは即答した。「誰も、怪我してません」「確認」——短い一語だけが返ってきた。「アオネの所在は?」続けて名前が挙がると、答えたのはキヅキだった。「観測点にいたけど、合図のあとはもう下がったはず。今夜は別行動」「了解」——それだけで、A1はその項目を終えた。「本部へ連絡を上げているか?」A1が続けて聞くと、キヅキが即答した。「してない。今のところ、どこにも」A1は、それに対して「了解」とだけ返し、それ以上の追及はしなかった。
A1は、路肩の先、白み始めた東の空へ視線を向けたまま、動かなかった。視線を戻さないまま、報告の文脈から外れて、ふいに言った。「……舞台から降りるのは、寂しいなと、思っていた」
誰も、その一言に説明を加えなかった。カノンは組んだ腕をほどかず、視線だけをA1の背中に向けた。キヅキは抱えた膝から顔を上げず、指先がわずかに膝頭を強く握り直した。ミドリは車軸のそばにしゃがんだ姿勢のまま、雪に触れていた指を一度だけ止めた。記録から組み立てられた身体に、記録に残らなかった記憶が残るはずはない——それを言葉にできる人間は、この路肩に一人もいなかった。雪だけが、四人の足元に音もなく降り続けていた。サクラは、何かを言おうとはしなかった。言うべき言葉を探す前に、言う必要そのものが、すでにどこにもなくなっていた。指先に戻っていた重みを、サクラはそのとき初めて、いつもの重さとして意識した。ただ、A1の横顔を見ていた。それだけで、足りていた。
A1は、それ以上その話に触れなかった。表情を変えないまま、木箱の縁に残っていた白布の切れ端を一度だけ手で払い、路肩の雪を踏みしめて向きを変えた。
歩き出す前に、A1はサクラの隣に一度だけ並んだ。何も言わず、同じ方向を、同じだけ見ている。並んだ肩の高さが、木箱の前でかがんでいたときよりも、わずかに近く感じられた。
東の空、雪雲の切れ間から、薄い橙色が覗き始めていた。遠くに停まったままの車列のヘッドライトが、まだ消されずに雪面を照らしている。排気の白い蒸気だけが、誰にも止められないまま規則正しく上がり続けていた。カノンが先に歩き出し、キヅキとミドリがそれに続いた。四人分の足跡が、真っ白な路肩の雪に、順番に刻まれていく。サクラとA1だけが、まだその場に並んだまま動かずにいた。先に一歩を踏み出したのは、どちらだったか——サクラ自身にも、判然としなかった。ただ、二人分の足音は、最初の一歩から、同じ速さで重なっていた。歩幅を合わせているのが自分なのか、それともA1の方なのか、それもまた、分からないままだった。雪を踏む音だけが、白み始めた路肩に、しばらく続いていた。
十二月二十四日、正午を回ったところだった。窓のない部屋には作業ランプが机ごとに灯り、外の天候は画面越しの気象情報でしか分からない。降雪は小康状態、都心部の積雪は九センチで足止まりしている見込み——そんな一行が、他のニュースと同じ速さでモニターの隅を流れていく。桜田門本部庁舎六階、分析官の作業スペースに、未明の東名高速での一件が正式な手配情報として降りてきたのは、朝の会議から数時間が経ってからのことだった。文書番号は捜企一第〇一四号、発信元はKの決裁印。「対象、複数名・移動中」——これまで手配情報の欄に並んでいた「行方不明・拘束の可能性」という表記が、そのまま上書きされる形で変わる。Qは通達の文面を一度、口の中で小さくなぞってから、庁内システムの該当欄に貼り付けた。音にした瞬間に合っているか、耳から確かめる——いつもの手順だった。人数の内訳は、通達には書かれていない。誰が、何人で、どちらへ向かっているのか——確認できていない項目は、そのまま空欄で残される。Qは空欄を埋めなかった。手配の書式が変わったこと、それだけを一行、更新履歴に記録する。この案件の手配情報が書き換えられるのは、今日で三度目だった。一度目は「単独・所在不明」、二度目が「行方不明・拘束の可能性」。三度目にして初めて、対象が複数であることが公式に認められたことになる。
高速道路管理者からの一報、警視庁交通部の検問情報、量産型J系の配備表——この三つを突き合わせ、Qは今日の追跡体制の全景を数字で組み立て直す。環八・環七・首都高各線、国道246号との合流地点を中心に、検問は十八箇所。多摩川を渡る橋のたもとに集中配置されているのは、京浜島方面への流入を警戒してのことだろうと、Qは配置図を見ただけで見当がついた。動員人員は検問一箇所あたり四名から六名、単純に掛け合わせるだけでも百名を超える。量産型Jの追加投入は六箇所、いずれも検問の後方に控える形での配置。うち二箇所は用賀インターと東名川崎インターの周辺に集中していた。上空のドローンは四機——確認できる範囲で、だ。高度・機種の欄は「非公表」のまま。飛行時間は一機あたり二時間十五分で交代する計画になっている。過去の同種の事案、たとえば京浜島の強襲時と比べても、動員の規模は二回りほど大きい。検問十八箇所のうち、十四箇所が正午までに設置を完了したという報告が上がっている。残り四箇所は、雪による渋滞で予定より遅れていた。これだけの規模を、誰の判断で組んだのか。決裁の欄には、Kの名前だけがあった。
モニターの右半分には、官邸広報室が各社に配布した第一報がそのまま流れている。「不審な集団による車両襲撃事案について、政府は関係機関と連携し情報収集にあたっている」——語尾まで丁寧な、何も言っていない文面だった。配信の時刻は十時十二分。事案発生から五時間近く経ってからの発表になる。画面下部のテロップは「積雪による交通影響にご注意ください」という、まったく別件の注意喚起と同じ帯で流れていた。左半分には、同じ高速の同じ区間を撮った映像が、投稿から数分と経たずに流れ込んでくる。画質は粗く手ぶれも激しいが、映っている車列の台数も、雪の積もり方も、右側の映像と寸分違わない。撮影者の吐く息が白く映り込んでいるものまであった。右は五時間遅れ、左はほぼ同時——同じ街の、同じ数分間が、公式と非公式、二つの窓の中に二重写しのまま流れていた。
左側の画面の下では、コメントが止まる間もなく流れていく。「今映った子!!」「これ本物?」「速報出た」「はやく逃げて」「なんで警察こんな数出てんの」「犯罪者庇うな」「あの子たち何も悪いことしてないでしょ」「聖夜に検問って何事」——賛否の断片が、数字の桁を追い越す速さで積み上がっていく。同時接続の表示が、Qの目の前で三千から四万へ、四万から二十一万八千へと、十数分で跳ね上がった。二十一万八千という数字の下四桁が、たまたま聖夜の日付に近い並びになった瞬間、それに気づいたコメントが一つ流れ、直後に似た指摘が十件以上続いた。トレンド欄には「東名」「雪の護送車」の二語が同時に上位へ入り、十一時台には検索順位で一位と三位を占めている。二位に入っていたのは、まったく無関係なクリスマスケーキの予約キャンセル騒動だった——聖夜という同じ日付の下で、まるで系統の違う話題が肩を並べている。切り抜き動画の投稿も、通知が追いつかない速さで並んでいく。【速報】東名で謎の少女集団が護送車を強奪、【神回】雪の高速、四人vs検問、結末は、【聖夜の奇跡】逃げる少女たちに歓声が止まらない——語尾に絵文字を三つ重ねたものもあれば、時刻と場所だけを律儀に書いたものもある。同じ元映像の切り抜きが、投稿者ごとにまったく違う見出しをつけられて拡散していった。再生数の伸び方だけを見れば、非難と称賛のどちらの見出しも、ほぼ同じ速さで数字を伸ばしている。コメント欄の絵文字比率も、Qの集計では拮抗していた——非難系コメントの絵文字使用率が二十二パーセント、声援系が二十四パーセント。数字としては誤差の範囲に収まる差でしかない。
Qはふと、別の場所にあるものを思い出した。毛利ファイルの複製——庁内のネットワークには乗らない、施錠保管庫のオフライン複製。文書上の名目は「移管対象外・保全指定」、決裁印はKのもの。保管場所は地下二階の第三保管庫、開けるための鍵はQの引き出しの奥、二重底の仕切りに入れたまま。ディスクそのものには型番以外の表記がなく、ラベルも貼っていない——資産管理台帳のどこにも登録されていない一枚として、あの棚の隅に置かれている。持ち出すには受付簿への記入が一行だけ必要になる。持ち出し理由の欄は、空白のまま出しても通ることを、Qは経験上知っていた。手順としては、それだけのことだった。あの複製を作った夜から数えて、六十日と少し。今日まで、Qは一度もその手順を思い出したことがなかった。思い出した、というだけで、まだ何も決めていない。窓のない部屋の中で、数字だけが更新され続ける画面を前に、Qはその手順を、頭の中で最初から最後まで、一度なぞってみていた。持ち出す、と決めたわけではない。なぞっただけだ、と自分に言い聞かせるための言葉が、頭の隅にもう一つ浮かんでいたが、それも声には出さなかった。画面の同時接続数は、その間にも増え続けている。気象情報の一行だけが、降雪小康、と変わらず表示され続けていた。