アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

101 / 101
9.コントラディクション-Contradiction-

東和新聞ビル最上階、編集局の一角に仮設された副調整室には、太いケーブルの束が三列、床の継ぎ目に沿って這っていた。BNCケーブルは色別に養生テープで留められ、床には撮影用の白い矢印が貼られている——非常口を示す緑ではない。天井から下りたライティングバトンが、点灯試験のたびに一度だけ強く光り、すぐに落ちる。三千二百ケルビン、その数字を口に出しながら照明技師が記録用紙に書き込んでいく。音声卓の前では二人がかりでフェーダーの位置を確認していた。「C‐7、通過」「C‐8、通過」。壁際にはバッテリーキャビネットが二台、満充電の緑ランプを並べて点している。技術・音響・照明、それぞれの立会い担当が、腕章の色で見分けられるようになっていた。窓の外には停電したままの渋谷が広がっているが、このフロアだけは非常用発電機の唸りごと、いつもの明るさを保っている。発電機の低い振動が、床を通して靴底に伝わってきた。ユカリは壁際に立ったまま、その振動を数えていた。壁の進行掲示板には、大きな文字で「本番まで、あと十時間十七分」と書かれ、その下に細かい文字で機材点検の完了項目が箇条書きにされている。八割方にチェックが入っていた。給湯コーナーには紙コップが積まれ、誰かが差し入れたらしい菓子パンの箱が半分空のまま置かれている。誰も座って休んでいなかった。立ったまま、片手でパンをかじりながら台本をめくるスタッフが二人いるだけだった。

 

配布された台本には、最終版の判が押してあった。表紙の日付の脇に、改訂番号が「第四版」と手書きで足されている。配役表の中列、自分の名前の隣に並ぶ役名の欄を、ユカリはページを開いてすぐに確かめる。「目撃者」。一か月前に見せられた仮の版と、文字は一つも変わっていなかった。主役の隣に立ち、悲劇を見届け、後になって語る者——動くはずの行が、確定稿になっても動いていない。その上下の行にも視線を流す。赤、青、緑、黄——それぞれの欄には「鎮圧対象」の四文字が揃って入っていた。自分の欄だけが、その並びから外れている。ページを閉じ、もう一度だけ開いてみたが、印字はやはり同じだった。

 

クロエは机の向こうで、別の紙束にペンを走らせていた。「ご覧になった?」顔を上げずに聞いてくる。ユカリは即答せず、台本を持ったまま二歩だけ距離を詰めてから口を開いた。「この台本、誰かが助かる筋はある?」糾弾の温度は乗せなかった。事実の確認として、そこに置いただけの問いだった。

 

クロエはペンを止め、ようやく顔を上げた。手元の紙束には、視聴率予測のグラフが折れ線で三本引かれている——楽観、標準、悲観、それぞれの想定接続数が凡例に添えられていた。「助かる、というのがどなたを指すかによりますわ」お嬢様口調のまま、一つずつ丁寧に数え上げていく。「今夜の同時接続の見込みは二十八万。うち六割が、初めてうちのコンテンツに触れる新規の視聴者。その定着率は、結末が悲劇であるコンテンツの方が、勝利で終わるコンテンツより十七ポイント高い数字が出ておりますの。数字だけの話ですけれど」淀みのない声だった。「では、鎮圧されずに終わる版は、初めから作られていない?」ユカリが重ねて聞くと、クロエは小さく首を傾けた。「作らなかったのではなく、作る意味がなかった、と申し上げた方が正確ですわ。系列五局、配信十二プラットフォーム、屋外ビジョン三十二箇所——この規模のリソースを注ぐ相手は、注ぐだけの結末を持っていないといけませんの」悲劇の必要性を、クロエは感情の語彙を一つも使わずに説明できる。「システムの割り当ても、その十七ポイントに連動しますわ。悲劇であればあるほど、こちら側に回ってくるものが増える——単純な話ですの」ユカリはその説明の正確さに、反論の隙を見つけられなかった。反論のための言葉ではなく、確認のための沈黙を選ぶ。「わたしの役だけ、鎮圧対象じゃない」ユカリはもう一つだけ聞いた。「なぜ、そうなってる」クロエは笑みを崩さずに答える。「見届ける人がいなければ、悲劇は伝わりませんもの。目撃者は、舞台の一部でありながら舞台の外にも立てる、唯一の配役ですわ」——その説明にも、迷いはなかった。役を与えられることと、鎮圧を免れることが、クロエの中では同じ意味の言葉として並んでいるらしかった。

 

数秒、ユカリは答えなかった。即答しないのはこの人の癖ではなく、この人のやり方だった——言葉を口に出す前に、一度、頭の中で最後まで組み立て終えるまで待つ。クロエもその間を急かさなかった。返答を待つ側に回ることに、慣れている態度だった。壁の進行掲示板の数字が、十時間十六分に切り替わる。窓の外で除雪車のブレードが路面を削る音が、遠く一度だけ響いて消えた。半年前、排斥連合の勧誘を受けたときにも、同じだけの間を置いてから答えたことをユカリは思い出す。あのとき口にしたのは、承諾でも拒否でもなく、一つの条件だった——一致していないことが出てきた時は、言う。忘れていたわけではない。言う機会が、今夜まで来なかっただけだった。

 

「目的が、一致していないことが分かった」ユカリはそれだけを言った。「それだけ」

 

余計な言葉は付け加えなかった。かつて自分自身が口にした約束を、ようやく履行しただけの声だった。クロエは何も聞き返さなかった。

 

ユカリは台本を机の端に戻し、ページの角を揃えてから手を離した。ドアまでは七歩。数えるつもりはなかったが、ノブに触れた瞬間、数えてしまっていたことに気づいた。

 

「ごきげんよう」クロエの声が背中を追ってくる。いつもと同じ高さ、同じ抑揚だった。ただ、その一言が届くまでに、いつもよりわずかに間があった——半拍。数えるほどの長さではない。振り返っても、クロエは変わらず紙面に視線を戻していたし、ペン先はもう次の行を書き始めている。何がその半拍を作ったのか、ユカリには分からなかった。分からないまま、ドアを引いた。

 

エレベーターは、階が下がるごとに暗くなっていく。最上階だけが発電機の明るさを保ち、その下の編集局は非常灯の緑だけが点在する暗さだった。自動販売機の表示灯も消えている。一階のロビーで、警備員が懐中電灯を片手に受付台の周りを見回っていた。ユカリには気づかず、視線はそのまま通り過ぎていく。回転ドアは手動に切り替えられ、押すたびに軋んだ音がした。外はまだ雪だった。信号は消えたままで、交差点には誘導灯の光だけが規則的に回っている。発電機の唸りが遠ざかり、代わりに雪が音を吸う静けさが戻ってきた。息を吐くと、白さが誘導灯の光の中で一瞬だけ形を持ち、すぐに散った。歩道には踏み固められた足跡と、まだ誰にも踏まれていない部分が斑に残っている。ユカリは踏まれていない側を選んで歩いた——理由はなかった。理由のないことを選べる余裕が、まだ自分に残っていることを確かめたかっただけかもしれない。停電区間の縁を歩きながら、ユカリは内ポケットの紙を確かめた。原本ではない——控室に置かれた複合機で、技師の目が逸れた数十秒の間に、確認しきれていない範囲まで一部だけ通した写しだった。用紙の残量を気にして途中で止めた分、綴じの半分から先はガラス面に載せる時間が足りず、白飛びしたページが混ざっている。原本を持ち出せば、机の上の欠落にすぐ気づかれる。写しなら、しばらくは気づかれない。歩幅は自然と速くなっていた。

 

タマから伝えられた場所は、シャッターの下りた薬局の軒下だった。雪を避けて奥まった位置に、身を寄せ合う人影がある。A1が出入り口側に立ち、通りへ視線を配っていた。奥にキヅキとミドリ、その隣にカノンが膝を抱えて座っている。誰も怪我をしている様子はなかったが、消耗の色は隠しようもなく、ミドリの制服の袖には泥と雪の混じった跡が乾きかけていた。カノンの手の甲に、まだ薄く炭のような匂いが残っている。サクラが先に気づいて振り向いた。「クロエのとこ、どうだった」短く聞かれ、ユカリは答える代わりに内ポケットから紙を出した。

 

「全部は、写せなかった」表紙はめくらず、中ほどの一枚だけを開いて見せる。中継スケジュールの数列に紛れて、書式の違う一行があった。時刻の欄に「二十五時十九分」、その隣に「包囲、完了」とだけ印字されている。担当者名の欄は空白のままだった。サクラの視線が、その一行で止まる。キヅキが横から覗き込み、口を開きかけて止めた。通りに視線を向けていたA1が、初めてこちらへ半歩だけ体の向きを変える。「時刻の確度は」短く一言だけ聞かれ、ユカリは「分からない。写した部分にそこまでの情報はなかった」と答えた。A1はそれ以上重ねず、確認事項として頭の中で処理を終えたらしい間だけを置いて、また通りへ視線を戻す。誰も、それ以上は言わなかった。言葉にする前に、意味だけが先に伝わっていた。

 

ユカリが紙を畳み直したところで、タマの耳が一度だけ動いた。「アオネからや」独り言のような声で、タマが言う。数字が三つ、経路の候補地名が二つ——妖精同士の回線を通って、文字だけの短い報告が届いていた。ユカリの持ってきた紙と、タマが受け取った数字。出どころも書式もまるで違う二つの情報が、ちょうど同じ拍で、同じ軒下に届いたことになる。ユカリは畳んだ紙をポケットに戻しながら、二つのものが同時に来たという、その事実だけを受け止めていた。

 


 

 

十二月二十四日、十六時三十分を回っていた。窓のない部屋の温度は、朝からずっと変わらない。正午に閉じないまま残したフォルダも、画面の隅で開いたままだった。あの時点では、手順をなぞっただけだと自分に言い聞かせていた。今は、その言い訳を探す手間そのものが消えている。割れたままの数字を前に、Qはようやく手を動かした——複製を、動かす。決めた、というよりは、決まった、という感触に近かった。

 

施錠保管庫のオフライン複製を、東京地方検察庁特別捜査部へ送る。宛先を選んだ理由は、Qの中では一行で足りた。変身者は存在しない、という前提に立つ機関の方が、この書類は速く動く。K機関は変身者の実在を前提にしているぶん、法の手続きの外へ出られない。特捜部は逆だった。存在しないものを起点にした立件のほうが、皮肉にも速い。地下二階の第三保管庫からラベルのないディスクを持ち出し、受付簿には時刻と番号だけを書いた。理由欄は空白のまま出す。白無地の封筒に「東京地方検察庁 特別捜査部 御中」とだけ書き、差出人の欄も、文書番号も、添え状も、すべて省いた。番号のない書類は、誰の決裁ラインにも紐づかない。投函は二百メートル先の郵便局の外付けポスト——防犯カメラの死角になる位置は、以前タマが渋谷の街で使っていたのと、実のところ同じ理屈だった。切手は多めに貼った。重さを量る手間を、郵便局員に取らせないためだった。退職願は、書かなかった。書かないことも、今夜の手順のうちだった。辞めるという言葉を紙に残せば、誰かがその紙を根拠に何かを問い直す。問い直されないまま、ただいなくなる方が、今のQには合っていた。

 

地下駐車場へ下りると、隅に「更新予定」の札を下げたまま長く放置されていた白いバスの前で、Qは足を止めた。タイヤの空気圧を示す表示灯が、赤から緑に変わったばかりだった——数分前まで、誰かがこの車体を動かせる状態に整えていたことになる。運転席に、人影がある。オリジナルのJだった。ドアを開けたQに、Jは振り向かず、フロントガラスの向こうを見たまま言った。「立ち食いそばの話は、今はしません」。聞いてもいないことを、先に断る癖は変わっていない。「聞いていません」とQは返す。それだけで、いつもの手順がひとつ、無事に終わったような気がした。

 

「どちらへ運ばれるんですか」——問うてから、Qは自分の声の型に、わずかに覚えがあった。量産型に向けて発したはずの、あの一文と同じ形をしていた。あのときは相手が何も持たない鏡だったが、今は違う。「まだ決めていません」Jが答える。「ただ、道は空けられます」。それだけ言って、Jはエンジンをかけた。Qは助手席に乗り込み、シートベルトを引いた。バックミラー越しに、後部コンパートメントの折り畳み席が二列、向かい合わせに並んでいるのが見えた。今はまだ、誰も座っていない。バスは地下駐車場の坂を上がり、雪の中へ出ていった。

 

 


 

 

同じ頃、渋谷の停電区間の路地を、サクラたちは北へ移動していた。薬局の軒下を離れてから、およそ二十分。A1が左斜め前を歩き、その半歩後ろにサクラ、続いてキヅキ、ミドリ、ユカリ。カノンだけが十メートルほど先行して、角ごとに立ち止まっては手の合図で次の道を示している。信号の消えた交差点を二つ渡った。停電した街には、発電機の低い唸りと、遠くの誘導灯の警笛だけが不規則に響いている。雪はまだ降り続いていたが、足跡を消してくれるほどの強さはもうなかった。踏んだそばから、跡は残る。残った跡は、追う側の地図になる。A1は角を曲がるたび、曲がった先ではなく、今来た道を一度だけ振り返った。跡がどれだけ読まれるかを、目測している動きだった。

 

最初の白い輪郭は、二本目の角を曲がった先に立っていた。艶のない白の外装、継ぎ目のない体。街灯の消えた通りで、その白さだけが雪明かりを吸って浮かんでいる。一体だけなら、抜けられる——A1がそう判断するより早く、その一体の背後の暗がりから、同じ輪郭がもう二つ、同じ歩幅で進み出た。三体の間隔は一メートル二十センチ。踏み込む足跡の深さまで揃っている。吐く息の白さが、三体ともにない。「戻れ」A1の声は短かった。一行は来た道を引き返し、次の路地へ折れる。その路地の先にも、白がいた。二体。さらにその向こうの通りを、灰色の車両が一台、徐行で横切っていくのが見えた。ヘッドライトは点けていない。点けなくても走れる目を、あちら側は持っている。

 

囲まれつつある——言葉にしたのは、誰でもなかった。全員が同じことを、同じ数十秒のうちに理解していた。キヅキがコートの襟を握ったまま、声を出さずに口の形だけで何かを数えている。届く範囲の壁の位置を測っている手つきだった。ミドリは足を止め、しゃがみかけた——地面に手をつこうとして、A1に肩を押さえられる。「まだ使うな。消耗が先に来る」。ユカリが懐の紙を確かめる仕草を一度だけした。包囲の予定時刻は二十五時十九分——まだその時刻ではない。それなのに、白の数は角を曲がるたびに増えていく。予定より早く網が縮んでいるのか、この網は台本の網とは別の網なのか、判断する材料が、路上には何もなかった。タマがポケットの中で身じろぎをした。「アオネから、続き来とらん」小さな声だった。妖精同士の回線も、この数分は沈黙している。外からの数字が途切れた状態で、目の前の白の数だけが増えていく——それが、今の全部だった。

 

三本目の路地で、前後を塞がれた。前方に三体、背後の角にも三体。左右はビルの壁と、雪をかぶったシャッター。六体の白い輪郭が、同じ速度で距離を詰めてくる。歩幅も、腕の振りも、六体全部が同じだった。カノンが半歩前へ出て、両手をゆっくり持ち上げる。ミドリが今度こそ地面に膝をつき、キヅキが息を大きく吸った。A1が腰のものに手をかける。「傷つけるな。数十秒でいい」——短い指示が、路地の全員に一度で通った。全員の動きが、戦闘の初動として噛み合いかけた、その時だった。

 

音が先に来た。エンジンの音ではなく、声だった。路地の入り口の向こう、大通りの方角から、拡声された声が近づいてくる。同じ文言を、一定の間隔で繰り返している。二度目は一度目より近く、三度目はさらに近かった。サイレンは、鳴っていない。緊急走行を告げる声だけが、サイレンの代わりに雪の街を渡ってくる。

 

「AI刑事のジャックです。緊急走行中」

 

前方の三体の動きが、揃って止まった。〇・二秒——数えたわけではないが、六体分の静止が同時に起きたことだけは、誰の目にも分かった。判断が遅れたのではない。名乗られた相手をどう扱うか、という項目が、判断の基準のどこにもなかった——そういう止まり方だった。同型の機体が、上位機の名乗りを前に、拒否の根拠も受理の根拠も持たないまま固まっている。その〇・二秒の直後、白い大型の車体が、路地の入り口のバリケード用の柵ごと突っ込んできた。鉄柵が跳ね上がり、雪の中を転がる。ヘッドライトの光が路地の壁を斜めに薙ぎ、雪の粒を一瞬だけ白く浮かび上がらせた。前方の三体のうち二体が車体に押し出される形で壁際へ流され、バスは雪を巻き上げながら、一行の目の前で急停止した。タイヤは鳴らなかった。

 

白いバスだった。車体の汚れ方も、後部扉の位置も、窓の小ささも、サクラの知っているそのままの一台だった。この一か月、二度と乗ることはないと思っていた車体が、量産型の包囲のただ中に、斜めに割り込んで停まっている。あの席で夜の首都高を何度も渡った。あの小さい窓から、川口までの四十分の景色を見た。乗っていた頃は、乗せられている、としか思っていなかった車体が、今は違う意味を持って目の前に停まっている。運転席の窓越しに見えた横顔に、サクラは覚えがあった。映像通話の画面で何度か見た、制服のボタンの位置が微妙にずれている、あの人だった。A1はすでに動いていた。問いも確認もなかった。後部扉へ回り、外側のレバーを引く——鍵は、最初から開けられていた。開けてある、ということの意味を、A1もサクラも、言葉にしないまま同じ速さで受け取っていた。道は空いている。乗れ、と誰も言っていないのに、そう書いてあるのと同じだった。

 

「乗って」サクラが振り返って言うより早く、カノンがもう乗り込んでいた。続いてミドリ、キヅキ。背後の角の三体が、静止から復帰して距離を詰め始めている。A1は扉の脇に立ったまま、腰のものを抜かずに、三体の進む速度と全員の乗り込む速度を同時に測っていた。間に合う——抜く必要がない、という判断が、構えの浅さに出ている。ユカリは一度だけ路地の入り口の方角を確かめてから、最後の一人として身を入れた。向かい合わせ二列の折り畳み席——以前は二人だけで座っていた、あの空間だった。壁沿いの装備と通信機材、天井近くの小さな窓、仕切りのインターフォン。何も変わっていない内装に、六人分の体が次々に押し込まれていく。膝と膝が交差し、誰かの肘が誰かの肩に触れたまま動かせなくなった。ミドリの制服の袖の泥が、隣のキヅキのコートに触れる。座席の数は、どう数えても足りない。折り畳まれたままだった予備の一席をキヅキが引き出し、それでも足りず、カノンは座面の端に浅く腰を預けた。タマはサクラのポケットから抜け出し、丸めた膝の隙間、誰の足も届かない一点だけを見つけて収まった。「せまいなあ」独り言のようにタマが漏らしたが、それ以上は続かなかった。A1が最後に乗り込み、扉を内側から引き閉める。助手席から後部を振り返った女性と、一瞬だけ視線が合った。窓のない資料室の、三面モニターの前にいるはずの人だった。情報以外のものの扱い方を、まだ迷っている人——いつかそう思った顔が、今は装備の運搬席に座っている。どちらも、何も言わなかった。言わないまま、女性は前へ向き直った。

 

インターフォンが短く鳴り、運転席から声が届く。「発進します」。人を止める時と同じ律儀さで、動き出す時にも一言があった。車体が向きを変え、倒れた柵を踏み越えて加速を始める。窓の外で、白い輪郭たちが同じ動作で車道へ向き直るのが、小さな窓越しに一瞬だけ見えた。六体が六体とも、同じ角度で。追跡は、ここから始まる——それが分かっていて、車内の誰も口にしなかった。かつて二人分だった空間に、今は八人分の呼吸が詰まっている。サクラは向かいの席のA1を見た。いつもの位置だった。いつもの位置に、いつもの倍以上の人数がいる——それだけが、あの頃と違っていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

スタイリッシュ異能バトルの世界で俺だけ魔法少女としてエロゲの敵と戦っている(作者:かませ犬S)(オリジナル:ファンタジー/冒険・バトル)

気付いたら俺が大好きだった漫画『アビリティ・ストライク』の世界に転生していた。▼その漫画は所謂、能力もののバトルファンタジーで、主人公やヒロイン、魅力的な敵キャラたちの能力を駆使した時に戦闘シーンが魅力の作品だった。▼漫画の大ファンだった俺はこの世界が『アビリティ・ストライク』の世界であることに気付いた。▼好きだった漫画の世界に転生したなら、原作に介入してみ…


総合評価:5967/評価:8.66/連載:46話/更新日時:2026年06月12日(金) 07:04 小説情報

そいつの開発者、俺なんだが(作者:束田せんたっき)(オリジナル:SF/コメディ)

なんか学生時代の黒歴史が、未来でディストピアの管理AIをやってたんですけど。国家ぐるみのストーキングやめてね。▼《真面目なあらすじ》▼高城之男へ一致せよ。▼タカギニアでは、すべての人間が、三百年前に死んだ偉人・高城之男とどれだけ似ているかで評価される。似ている者には栄光を、似ていない者には屈辱を。▼管理番号11-F-283-D503、平野平人。彼は一致度0.…


総合評価:7932/評価:8.26/完結:49話/更新日時:2026年08月27日(木) 19:15 小説情報

はーい、マユで~す! でもごめんなさい、いまマユは生体CPUになってるのでお話しできません(作者:何を書けばいいんだ)(原作:ガンダム)

CE71年、大西洋連合が実施したオーブ解放作戦によって発生した激しい戦闘の最中、マユ・アスカは流れ弾によって吹き飛ばされ絶命したかに思えた。▼だが彼女は死んでいなかった、瀕死の重傷を負いつつも生き残った彼女はブルーコスモスによって加工され、生体CPUメリー・ゴーランドとして生まれ変わったのだ。▼しかし、過去の記憶を抹消された彼女の脳内にはなぜかガンダムSEE…


総合評価:10242/評価:8.68/完結:32話/更新日時:2026年07月07日(火) 12:07 小説情報

カードゲーム世界で考察配信したら、黒幕っぽくて楽しい(作者:暁刀魚)(オリジナル:現代/冒険・バトル)

カードゲーム世界で無名配信者をしていたヒカルは、ある時カードのイラストやフレーバーに関する考察配信をしてみることにした。▼転生者特有のメタ読みを活用した結果、見事にカードの裏に潜む悪の組織の意図に気付き、組織が壊滅。▼まるで黒幕のようだと、ヒカルは思う。▼そんな状況でヒカルは――喜んで配信を続けることにした。▼なぜなら彼は人の嫌がることが大好きな陰湿デッキ使…


総合評価:32169/評価:8.68/連載:29話/更新日時:2026年09月30日(水) 18:05 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>