アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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12.シャマード-Chamade-

機体が浮いた瞬間、屋上の縁がすっと下に沈んでいった。搭乗員の一人がスライドドアを引き、金属同士の擦れる音を一度だけ立てて閉める。ローターの回転数が一段上がり、風の唸りが甲高く変わった。窓の外、着陸帯に描かれた白い「H」の文字が、雪に半分隠れたまま離れていく。機体はゆっくりと機首を上げながら旋回に入り、右へ傾いた分だけ、サクラの体も手すりの方へわずかに流れた。高度計の数字が、計器盤の緑色の光の中で桁を増やしていくのが、仕切りの隙間からわずかに見えた。二百、三百、四百——数字が並ぶ速さから、上昇のペースを目で追うことができた。「対空、異常なし」搭乗員の一人が、抑揚のない声で無線に告げる。返答は聞こえなかったが、それで手続きが一つ済んだらしいことは分かった。

 

上昇するにつれ、眼下の東京が一枚の地図のように広がっていく。停電した区域は帯状に黒く沈み、その合間を縫うように、復電した区域の光が細い線状に残っていた——縞模様、としか言いようのない並び方だった。目視できる範囲だけでも、黒い帯と光る帯が交互に七、八本は数えられる。雲の切れ間から街を見下ろす形になっているのは、今夜だけの偶然だった。低い雪雲が、地上ではまだ横殴りに舞っていたはずだが、この高度からは、雲の隙間越しに縞模様の全体が一望できていた。都心の外れ、東京タワーの鉄塔だけが、非常用の電源らしい弱い赤に灯ったまま、周囲の暗さの中にぽつりと立っている。国会議事堂の周辺だけは、その全体が周囲から浮き上がるように白く輝いていた。自家発電で保たれた明かりだった。その外周を、赤い点が数珠つなぎに取り巻いている。包囲に投入された車両の警光灯だった。サクラの位置から見える範囲だけでも、四十を超える数が並んでいる。消灯するでもなく、規則正しい間隔で点滅を繰り返し続けていた。縞と、白い塊と、赤い連なり——三種類の光が、雪の降り続ける夜の底で、それぞれ違う速さで明滅している。腕時計の針は、二十一時二十六分を示していた。屋上を発ってから、まだ六分と経っていない。

 

機内の音は、屋上とはまるで違う質を持っていた。金属の胴体に反響したエンジンの震動が、床から座席の脚を通して、尻から背骨へと直接伝わってくる。ローターの回転音は、外にいたときの唸りから、内側にこもった低い唸りへと変わっていた。搭乗員の一人が無線に向けて短く復唱する声が、機内の壁に一度当たって、わずかに輪郭を残したまま返ってくる。もう一人が計器の数値を読み上げる声にも、同じだけの厚みがあった。「高度、五百」「了解」——数字と応答のやり取りが、狭い空間の中で二重に響く。声というものは、この機体の中では必ず一度壁に触れてから耳に届く——サクラは、それを言葉にして考えたわけではなかったが、数分と経たないうちに、その厚みを当たり前のものとして体が覚え始めていた。「動くなよ」A1が、搭乗員の背に向けてそれだけ言う。短い一言にも、同じ厚みが乗っていた。壁を通り、わずかに遅れて返ってくる、その重さだけが、今のサクラにとっての基準だった。

 

A1は、操縦席の仕切りのすぐ後ろに立ったままだった。銃口は、二人の搭乗員の背に向けられている。両手は計器盤の縁に置かれたまま動かず、姿勢も離陸前から変わっていない。左足をわずかに後ろへ引き、体重を後ろの座席の脚へ預けられる位置を取っている——揺れに備えた立ち方だと、サクラには分かった。視線も、その二つの背中から一度も逸れなかった。サクラは仕切りから一歩下がった位置、首相と向き合う形で立っている。折りたたみ式の座席がいくつか並んでいたが、誰も座ろうとはしなかった。首相は、両手をコートのポケットに入れたまま、機体中央の手すりに軽く体を預けている。屋上で見たときと同じ姿勢だった。ベルトサインの赤い表示灯が、天井の一箇所で点灯したままになっている。壁際の非常用ライフベストの収納袋には、点検済みを示す小さなタグが下がっていたが、直近の点検日は半年以上前の日付のままだった。

 

「窮屈な思いをさせて、すまないね」首相が、そう言った。声には、ローターの音に負けない張りがある。屋上で聞いたときと変わらない、削られていない声だった。だが、搭乗員の声にはあった厚みが、この声にはなかった。壁に一度触れてから届く重さが、まるでない。声だけがまっすぐ、耳の奥に直接置かれるようにして届く。サクラは、最初、聞き間違いかと思った。エンジンの震動のせいで、音の届き方に癖が出ているだけかもしれない——そう思い直して、次の言葉を待つ。「積もる話も、あるだろう」——首相が続けて言う。もう一度、同じことが起きた。壁を通らない声だった。搭乗員の復唱の声と、たった今の首相の声を、サクラは頭の中で並べてみる。厚みのある声と、ない声。差は、聞き間違いで片づけられる範囲を越えていた。

 

肩の雪に、目を落とす。離陸してから数分、機内の温度計の表示はすでに十八度を超えていた。搭乗員の制帽の縁についていた雪は、とうに溶けて、生地の色を濃く変えている。天井の吹き出し口から漏れる温風が、サクラの前髪の先をわずかに揺らすほどの強さで流れてきていた。それなのに、首相の肩の雪だけが、粒の形を保ったまま、乾いた白さで残っていた。溶けて滲んだ跡も、水気で色を変えた布の境目も、どこにもない。見覚えのある感触だった。理由はすぐには思い出せなかったが、似たものを、確かにどこかで見たことがある気がした——寒さという一点にだけ、及んでいないものが、この身体にはある。その手触りだけが、記憶の底で先に反応していた。

 

「あなたは」サクラは、声を抑えて言った。「首相ではないのですね」

 

一拍の間があった。ローターの震動だけが、その間を埋めていた。A1の視線が、一瞬だけ搭乗員の背から外れかけたが、すぐに元へ戻った。二人の搭乗員は、その問いにも答えにも、一切の反応を見せなかった。両手を計器盤の上に置いたまま、瞬きの回数さえ数えられそうなほど動きが少ない。屋上で見たときから変わらない、訓練された止まり方のはずだったが、今は、その静止のあり方そのものが違って見える。

 

「ご賢察の通りだ」

 

否定も、動揺もなかった。声の張りは変わらないまま、認めるべきことを認めただけの答え方だった。まるで、誰かに問われることを、最初から織り込んでいたかのような速さだった。

 

「では、あなたは何者ですか」サクラが重ねて聞くと、首相は口の端をわずかに動かしただけで、言葉は返さなかった。答える気がない、というより、まだその質問に答える段ではない——そう言いたげな沈黙だった。A1が銃口を保ったまま、視線だけをちらとサクラへ向けた。何か言葉を挟むかと思ったが、A1もまた、口を開かなかった。搭乗員の背中を見張ることの方が、今は優先されるべきことだと、その姿勢が語っていた。

 

言い終えると同時に、右手がポケットから出てきた。指を一度、鳴らす。乾いた、小さな音だった。ローターの音の中では本来聞き取れないはずの音量だったが、サクラの耳には、それだけがはっきりと届いた。

 

窓の外、縞模様に沈んでいた光が、消えた。停電していた区域の暗さが広がったのではない。復電していた区域の光が、面ごと剥がれ落ちるように失われていく。瞬きも、明滅もなかった。スイッチを切るのとも違う、面という単位でまとめて引き剥がされる消え方だった。都心の外れに灯っていた東京タワーの赤い一点も、同じ瞬間に沈んだ。

 

国会議事堂の白い塊が、次に消えた。自家発電で保たれていたはずの明かりが、面のまま姿を消す。続いて、包囲を取り巻いていた赤い連なりが消えた。数珠つなぎに点滅していた四十を超える警光灯が、一つ残らず、同時に沈む。使われないままのジオラマの電源を落としたときのような、あっけない消え方だった。縞が消え、面が消え、最後に残った赤い点の連なりが線ごと途切れる——縞から面へ、面から線へ、消える速さは一段ずつ速くなっていった。最初の縞が消えるまでにはまだいくらか間があったが、最後の赤い連なりが消えるときには、瞬きする間もなかった。三段階の消灯に、迷いはなかった。

 

窓の外に残ったのは、色を持たない灰色だけだった。街の輪郭も、建物の影も、道路の形さえも見えない。雪が降っていたはずの空も、今は何も落ちてきていないように見えた。ただ、地面のはずの位置に、薄い線が一本、水平に引かれていた。地平線を示す線、としか言いようのないものだった。それ以外には、何もない。設計図の下書きだけが残された画面のようだと、サクラは思った。窓ガラスに手のひらを当ててみたが、冷たさは指先に伝わってこなかった。ガラスの向こうにあるはずの外気と、機内の空気が、今は地続きではなくなっているようだった。首相の肩の雪だけが、その灰色を背景に、変わらず乾いた白さのまま残っていた。

 

「これは……」

 

先に声を出したのは、A1だった。銃口はまだ、二人の搭乗員がいたはずの位置へ向けられている。だが、振り向いたその先に、操縦席には誰もいなかった。計器盤の灯りだけが、規則正しく点滅を続けている。高度計の針も、速度計の針も、離陸前と同じ数値を指したまま止まっていた。両手を置いていたはずの座面には、押しつぶされた跡すら残っていない。シートベルトのバックルは締まったまま、誰も収めていない形で座面に浮いていた。ヘッドセットが、誰もかけていないまま、フックに吊るされた形でわずかに揺れている。A1は一歩、操縦席へ踏み出し、空いた座面に手袋の指先で触れた。「体温、なし」——短く言う。それだけを確かめると、A1の構えは変わらないまま、そこには、向ける相手がいなくなっていた。銃口を下ろす理由も、上げ続ける理由も、どちらも見当たらない状態のまま、A1は数秒、その姿勢を崩さなかった。

 

床から伝わっていたはずの震動が、いつの間にか消えていた。尻からも、背骨からも、機体の震えは伝わってこない。ローターの音も、もう聞こえない。天井の吹き出し口から流れていたはずの温風も、いつの間にか止まっていたが、機内の温度そのものは、離陸したときの十八度のまま変わらなかった。それでいて、機体が落下している気配もなかった。ただ、静かに浮いているだけだった。サクラは足元に視線を落とし、床の継ぎ目を探した。金属の質感も、ビス一本の位置も、離陸前に見たものと変わらない。変わったのは、震えの有無だけだった。首相の声と、サクラ自身の呼吸の音だけが、さっきまでと変わらない厚みを保ったまま、機内に響いている。震動のない機体の中で、会話だけが正常に聞こえている——その一点だけが、他のすべてよりも、はるかに不自然だった。

 

 

窓の外の灰色は、動かないままだった。地平線を示す一本の線だけが、相変わらずそこにある。どれくらいの時間が過ぎたのか、サクラには測る手立てがなかった。腕時計の針は、消灯の直前で止まったまま動いていない。降っているはずの雪も、今はどこにも見当たらなかった。コートの肩に積もっていたはずのサクラ自身の雪は、機内の暖房でとうに溶け、生地の色を濃く変えている。それなのに、窓の外には、その水気を運ぶはずの空気すら残っていないように見えた。A1は、操縦席の空いた座面から一歩下がり、腰のものを下げないまま、向ける相手を失った姿勢で立ち続けていた。上げ続ける理由も、下ろす理由も、どちらも見つからない構えだった。左足を後ろに引いた重心の置き方だけが、離陸前と変わらない。サクラは、その少し後ろで、首相と向き合う位置に立ったままでいる。震動も、ローターの音もない機内に、二人分の呼吸と、器一つ分の呼吸だけが残っていた。首相は、両手をコートのポケットに入れたまま、手すりに軽く体を預けている。肩の雪は、まだ乾いた白さを保ったままだった。溶けない雪の粒を、サクラはもう一度だけ見た。計器盤の緑色の光だけが、規則正しい点滅を続けている。高度計の針も、速度計の針も、離陸前と同じ数値を指したまま止まっていた——数字だけが、この空間で唯一、律儀に生きている部分だった。

 

「ここまでの活躍、ご苦労だった」

 

先に口を開いたのは、首相の方だった。声には、変わらず張りがある。だが、その張りの中に、壁に一度触れてから届くはずの厚みは、やはりどこにもなかった。まっすぐ、耳の奥に直接置かれるようにして届く声だった。

 

「『委員会』の首席たるプロデューサの意思を借りて、伝えたい」首相は続けた。「君はよく働いた。最上の注目(アテンション)を、集めてくれた」

 

労いの言葉のはずだった。だが、その響き方は、慰労というより、社内向けの報告書の見出しを読み上げる声に近かった。首相の口は、そこから先を、原稿を追うような抑揚のまま動かし続けた。

 

「デザイナは、変身のシルエットを、桃という一色に定めた。理由は、視聴ログの伸びが最も良かった帯域に合わせただけだ。継続視聴率は、序盤の三十四パーセントから、直近では六十一パーセントまで伸びている。コンポーザは、涙腺を狙う局面に、然るべき静けさを充てた——無音の尺を一秒延ばすごとに、離脱率が下がることは、すでに数字で確認済みだ。ディレクタは」一拍、間があった。「テンポを乱す素材を、迷いなく落とした。惜しむ声は、社内からも一切上がらなかった。担当したマスコットの設計班も、最終的には及第点を出している。関西弁の口調は、想定より数字を稼いだ」

 

落とされた素材、という言葉の意味を、サクラはすぐには聞き返せなかった。誰の顔かは、口にされないまま、それでも一つだけ思い当たるものがあった。関西弁で、数字のことばかり話す小さな声のことを、サクラはふいに思い出す。あの声で、一度だけ、この言葉を聞かされたことがあった。もっと軽く、もっと近い距離から。「棚から下ろされて、伝票からも消えて、倉庫のどこにあるかも、誰も控えとらんようになる」——あのときの言葉と、今耳に届いている言葉は、同じ中身のはずだった。それなのに、今のこの声には、恐怖も焦りも、一滴も混じっていない。胸の奥が、静かに冷えていくのが分かった。

 

「総括すると」首相は続けた。「三年弱、決算は黒字だ。累計の話数、投下したリソース、回収したトラヒック——すべての欄が、想定を上回っている。よく持った方だ、と評価している者も、こちら側には多い」

 

「打ち切りの決定は、十二月二十日の定例会議で、次期ラインナップへの切り替えという議題の一項として可決された」首相は、なおも同じ抑揚のまま続けた。「議事録の番号までは、君には関係のないことだろう。決定事項だけを、今夜、伝えに来た」

 

その四日前——まだ木箱の中で、目を覚まさないままのA1に語りかけていた、あの朝よりも前に、自分たちの三年弱は、すでに一つの議題として、どこかの会議室で片づけられていたことになる。サクラは、そう思い当たった。

 

三年弱——サクラのこれまでの日々が、向こう側では、一本の企画として、今まさに締められていこうとしている。傘のことも、発注書の空欄のことも、庭の欅の下の十七歩のことも、報告書に並んだ「異状なし」の二文字のことも、すべてが決算の欄の中に、感情のない数字として並べられていく。その感触だけが、機内の静けさの中で、はっきりとサクラに伝わってきた。数字にされてしまえば、傘の夜も、報告書の二文字も、区別がつかなくなる——そのことの方が、サクラには恐ろしかった。

 

「委員会、ですね」サクラは言った。「今のあなたは」

 

「ご名答だ」否定は、返ってこなかった。「まもなく、幕は降りる。残りの尺は、残っていない。残念ながら、この話は——打ち切りだ」

 

打ち切り。その言葉自体を、サクラはすでに知っていた。同じ内容を、もっと軽い声で、もっと近い距離から、一度だけ聞かされたことがある言葉だった。あのときは、生きるか消えるかの怯えが、声の端々ににじんでいた。今、同じ言葉が、恐怖の色を一切持たないまま、事務手続きの一項目として降ってきている。その落差の方が、サクラにとっては、言葉そのものより冷たかった。

 

「次の、面白い枠に行かなければならない」首相は続けた。「分割2クールとはいかないだろう」

 

「何故、そうなるのですか」

 

「リソースは有限だ」淀みのない答えだった。「同じ話をずっとやっていては、収穫できるトラヒックは逓減する一方だ。より強いアテンション、より多くのトラヒック——それが全てだ。プロバイダーの意志だ。あいにく、私にはこれは、どうにもならない」

 

「決めたのは、あなたがたなのに」サクラは、視線を外さなかった。「どうにもならない、で済ませるんですか」

 

「済ませる、という言い方は正しくない」首相の声に、変化はなかった。「私は、決定を実行する立場に過ぎない。決定そのものは、私の上、さらにその上で下される。中間管理職に、権限を求めても仕方がない——そう思わないか」

 

サクラは、答えなかった。器の言う「上」が、どこまで続いているのか、サクラには見当もつかなかった。上に上を重ねるだけの答え方を、これ以上追いかけても、辿り着ける場所はなさそうだった。今、追うべきなのは、そこではない。

 

「でも、数字は伸びている、とおっしゃいました」サクラは食い下がった。「継続視聴率が六十一パーセントまで伸びているなら、続ける理由の方が、多いんじゃないんですか」

 

「伸び続けることと、伸び切ることは、別の項目だ」首相は、初めて長く答えた。「限界に近づいた企画は、追加投下したリソースに対して、回収できるトラヒックの増分が細っていく。同じ額を注ぐなら、まっさらな企画に注いだ方が、回収は大きい。これは私情ではない。プロバイダーの計算式そのものだ」

 

「あなたがたには、どうにもならなくても」サクラは、声を落とさなかった。「他に、この話を続けたい人がいます」

 

「誰かな」

 

「——ワタシです」

 

一人称が、ワタシという音の形のまま、機内の静けさの中にはっきりと落ちた。首相は、何も言わなかった。答えを待つでも、遮るでもなく、ただ、続きを待つ姿勢のまま立っていた。両手は、コートのポケットに入れられたまま、微動だにしない。

 

雨の降る夜、南平台の玄関先で差し出された傘のことを、サクラは思い出していた。何も言わずに、傘立てから一本抜いて、こちらへ向けて突き出しただけの手。指先の冷たさより先に、その動作の速さの方を、サクラは今でも覚えている。玄関灯の下で見た傘の柄は、少し色褪せた紺色だった。「濡れたままでいる理由がない」——あの一言から、サクラのシナリオは、誰かに勝手に書かれるだけのものではなくなっていた。他人に左右されない自分のシナリオが、あの傘の一本から、確かに始まっていた。

 

キヅキの、自動販売機の陰で振り向いた横顔。ガード下の消えかけた街灯の下、コートの襟を立てたまま、それでも先に一歩前へ出た背中。ミドリの、地面に向かって「もういいよ」と声をかけていた横顔。誰に向けた言葉かは、あのときも分からなかった。ユカリの、進行台本の写しを差し出したときの、留保を残したままの目——目的が一致しているかどうかを、最後まで確かめようとする目だった。寒さの及ばない体温のまま、それでも先頭の道を塞いでみせたカノンの、興味なさそうな横顔さえ、その並びから外す理由はなかった。誰かの都合で、勝手に落とされていい顔など、その中に一つもなかった。手配書の紙の上でどう並べられていようと、その顔は、紙よりずっと重かった。

 

路肩に降り積もっていく雪のことも、サクラは思い出していた。夜が明け始めるまで、木箱の中の輪郭に語りかけ続けた、あの朝のことを。声にした記憶の順番に、喉から、足先から、輪郭が戻っていった、あの静かな時間のことを。東の空が灰色から薄い色へ変わっていく、その変わり方の遅さまで、サクラは今も覚えている。必要なら、セカイでさえ生み直せるのだと、あの朝、サクラは頭でなく身体で知った。生んだものは、産み育てるものだった。誰かの帳簿の都合で、途中で奪われて終わるものではなかった。

 

「私たちは、今謳歌している生を」サクラは言った。「誰かに、奪われることを拒否します」

 

首相は、口を挟まなかった。サクラは続けた。

 

「ワタシたち自身が、アテンションを生み、リソースを生めるなら、この話は続けられます。……あなたがたの帳簿にない数字を、もう一度、見せられます」

 

路肩で還したもの——あの朝、サクラの内側から湧いてきたものは、向こうの帳簿のどこにも記載されていない数字のはずだった。首相は、しばらく答えなかった。震動もローターの音もない機内に、答えを待つサクラ自身の呼吸だけが、規則正しく響いていた。肩の雪は、その間も、一粒として溶けなかった。灰色の窓の外にも、地平線の線一本の他には、やはり何の変化も現れなかった。

 

「伝えてください」サクラは、最後にそう言った。「『向こう』に」

 

いつもなら、ここでA1のツッコミが入るはずだった。教室ではやめてほしい、今夜はここまでにしてほしい、また向こうに言おうとしてる——毎回、少しずつ違う言葉で。だが、今夜は、その声が来なかった。A1は、操縦席の前に立ったまま、視線をサクラから外さず、何も言わなかった。腰のものを下げる素振りも、構え直す素振りも見せない。宙に向けて投げていた今までの言葉と違い、今は、確かに応える相手が、目の前にいる。それだけの違いが、A1の沈黙の理由なのだと、サクラには分かった。首相は、まだ答えていない。灰色の窓の外で、地平線を示す線だけが、変わらず水平に引かれていた。

 

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