アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
広場の隅に落ちた光の分だけ、地面の色が変わった。真っ白に飛んでいたはずの雪面が、急に本来の色を取り戻し、踏み荒らされた泥と混ざった灰色に沈んでいく。杖の先から放っていたはずの帯は、もう腕の長さより先まで届かなくなっていた。振り抜くたびに光の芯が細くなっていくのを、サクラは目で追うより先に、腕の重みで知った。三日間、まともに眠っていない体は、とうに限界を過ぎている。クロエの黒い帯も同じだった。地を這うように伸びていたはずの線が、今は足元数十センチで途切れている。届かない距離のまま二人が詰め寄ったとき、光より先に、指先の方が触れていた。広場の外側、中継車の並ぶあたりから、慌ただしい怒鳴り声がいくつか聞こえていたが、何を言っているのかまでは、この位置からは拾えなかった。視界の端が、時折白く滲む。座り込んで休みたいという衝動を、意識してではなく、体の方が勝手に堪えていた。
掴んだのはどちらが先だったのか、後になっても思い出せなかった。襟を掴む手に、爪が食い込む感触があった。踏み込んだ足が泥に沈み、体重を支えきれずに二人まとめて横へ倒れる。冷たさは、痛みより先に来た。雪と泥の混ざったものが、コートの内側まで一気に染みてくる。倒れたまま、クロエの手がサクラの前髪を掴んだ。振りほどく代わりに、サクラは相手の腕に自分の腕を絡めて引き寄せる。技も、型も、そこにはなかった。ただ、離すまいとする力と、逃れようとする力が、交互にぶつかっているだけだった。どこかで布の裂ける音がした。自分のコートなのか、相手の袖なのか、確かめる余裕はなかった。倒れた場所は、半年前にクロエ自身が印をつけたはずの反射材の円盤の真上だった。今はもう、泥に半分埋もれて、誰の足元にあるかも分からなくなっている。
一度離れても、すぐにまた距離が詰まった。膝が泥に沈み、立ち上がる前にまた引き倒される。転び、掴み、離れず、また転ぶ——それだけが、繰り返されていた。何度目かの転倒で、サクラの掌が凍った地面の縁に擦れ、薄く皮が剥ける感触があった。痛みを数える余裕は、もうどちらにもなかった。クロエの膝から、白いストッキングの布地が裂け、覗いた素肌に、泥の色がそのまま張りついている。優雅に整えられていたはずの髪は、半分ほどがほどけて頬に貼りつき、指で払う仕草さえ、もう出てこなかった。一度、クロエの肘がサクラの頬をかすめ、鈍い痛みが遅れて届いたが、声にはならなかった。組み伏せられかけたところを、サクラは泥に足を取られながらも肩から体を捻って抜け出す。抜け出した拍子に、二人まとめてまた横倒しになった。広場の外周、遠くに立てられたクレーンの腕は、空を向いたまま止まっている。十四台あったはずのレンズのどれ一つとして、もうこちらへ向いていない。誰も見ていない場所で、二人の少女が、美しさの一切ない喧嘩をしていた。
吐く息は、二人分とも白かった。サクラの息は浅く、途切れがちになっている。クロエの息も、これまで聞いたことのない荒さで上がっていた。少し離れた場所で、A1が動きを止めていた。踏み込む間合いはまだ残っているはずだったが、その手は動かない。消耗させる、という判断は、もうこの場に必要ないと分かっているようだった。二人の間に割って入る理由が、A1にはもう見当たらないらしかった。氷点下の空気の中、雪の粒が、二人の乱れた髪と肩の上に、絶え間なく落ち続けていた。溶けた雪が首筋を伝う感触にすら、もう体は反応しなくなっている。
組み合ったまま倒れ込んだ拍子に、クロエの手首を掴んでいたサクラの指先に、いつもと違う感触が伝わった。硬い刃のように張っていたはずの黒い帯が、指の下で、糸のようにほどけていく。一本、また一本。布の縁がほつれるときのような、静かな崩れ方だった。クロエの袖口、襟の折り返し、拳の輪郭の際から、黒い糸くずに似たものが浮き上がる。風に流されるでもなく、その場でただ薄くなって消えていった。爆ぜる音も、光の奔流もなかった。半年かけて磨き上げてきた輪郭が、縫い目をほどかれるように、静かに崩れていくだけだった。ほどけた場所から順に、輪郭の内側にあったはずの色が薄くなっていく。指先の黒が最初に失われ、次に手の甲、腕、肩——最後まで残っていたのは、目の奥にあった強い光だけだった。それも、瞬きひとつの間に、ふっと消えた。輪郭の下から現れたのは、半年間、誰の前にも出したことのなかったはずの、ただの制服の袖と、泥に汚れた指先だった。息の白さも、それまでとは違う、体温そのものの白さに変わっていた。
広場を囲んでいた予備の照明は、残る七基のうち、いくつかがすでに明滅を始めていた。副調整室の指示も、切り抜きのタグも、この暗がりまではもう届いていないはずだった。誰の目にも映らないまま、クロエの輪郭は、縁の方から順に薄くなっていく。半年前、反射材の円盤の上に立って組み上げたはずの舞台が、今は、誰もいない客席の暗さと変わらなくなっていた。倒れた照明の一基から漏れる火花だけが、規則的な間隔で、暗がりの端を一瞬ずつ照らしている。
腕の力が、不意に抜けた。サクラの襟を掴んでいた指がほどけ、クロエは泥の上に、そのまま座り込む。死なない——それだけは、はっきりと分かった。呼吸は乱れたまま続いている。頬に張りついた泥の下、素の顔が、残った照明の弱い明かりの中でようやく見えた。魔法少女の顔でも、社交の顔でもない、ただ疲れきった少女の顔だった。鼻の頭が寒さで赤くなり、唇の端が乾いて薄く切れている。片方の靴のヒールが、いつの間にか折れていた。半年間、誰にも見せなかったはずの顔が、誰もいない広場の隅に、無防備なまま置かれていた。
サクラも、それ以上立ち上がる力が残っていなかった。泥の中に、クロエと向き合う形で座り込む。しばらくの間、どちらも動かなかった。聞こえるのは、互いの呼吸の音だけだった。荒く、浅く、白い息を吐きながら、二人分の呼吸だけが、暗くなった広場に残っている。降り続く雪の粒が、二人の肩の上に、音もなく積もり始めていた。遠くの国道を走る車の音が、いつもより近く聞こえる。中継の音が消えた後の広場には、それだけの静けさが戻っていた。誰かが何かを言い出すまで、この静けさがどれくらい続くのか、サクラには見当がつかなかった。急ぐ理由も、どこにもなかった。
クロエの唇が、わずかに動いた。分類の処理のときの平らな声でも、社交の場で聞かせる丁寧な声でもない、どちらでもない高さの声が、喉の奥から出かけている。何かの一音が、形になりかけていた。サクラは、それが何になるのか、待つ姿勢のまま動かなかった。数秒の間、クロエの喉が小さく動き続ける。だが、音は、形を持つ前に止まった。クロエは口を閉じ、視線を、サクラの肩の向こう、まだ明かりの残る照明タワーの方へ逸らした。サクラも、続きを促すことはしなかった。促す言葉を、今夜のこの場所に置く必要はない気がした。
足音が、二人の背後から近づいてくる。雪と泥の重さを踏みしめる、いつもより湿った音だった。振り返らなくても、それが誰かは分かった。A1が、二人の座り込む場所の少し手前で立ち止まる。制服の裾から泥がわずかに跳ねているのが、街灯の残り火の中でも見て取れた。白かったはずの生地は、あちこち灰色に汚れている。
「対魔法少女事件特別捜査本部、A1」——名乗りは、いつもと変わらない平らな声で発せられた。「十二月二十五日、午前一時十四分」。時刻の読み上げに続けて、視線をクロエへ向ける。「羽根川クロエ。威力業務妨害及び公務執行妨害の容疑により、現行犯逮捕する」。声には、勝ち誇る響きも、憐れむ響きもなかった。ただ、書式のままの言葉が、雪の残る広場に落ちていくだけだった。文書番号を読み上げる手続きは、この場では省かれている——事後、正式な調書の中で改めて振られることになる番号だと、サクラは後になって知ることになる。
A1は、腰のワイヤーには手をかけなかった。かわりに、片手を差し出す。クロエは、しばらくその手を見ていたが、やがて泥だらけの手を重ねた。引き上げられ、膝がまっすぐに伸びるのを待ってから、A1はもう一方の手で、手錠を取り出す。冷たい金属の音が、静かな広場に、小さく響いた。立たせてから、かける——それだけの順番に、他の意味は付け加えられなかった。手錠をかけ終えると、A1はもう一言だけ付け足した。「黙秘権がある。ここから話す内容は、証拠として扱われる」。定型の告知だったが、抑揚のなさは、他のどの言葉とも変わらなかった。
手錠の音が収まると、A1は一度だけ、サクラの方へ視線を向けた。怪我の有無を確かめる目だった。答える代わりに、サクラは小さく首を横に振る。それだけで、A1は視線を戻し、クロエの肩に軽く手を添えて、歩き出す方向を示した。サクラは、座り込んだまま、その一部始終を見ていた。手首に金属の輪がかかっても、クロエは声を上げなかった。ただ、泥に汚れた頬のまま、まだ明かりの残る照明タワーの方を見続けている。誰も座っていなかったはずの広場の中心に、今、三人分の足跡だけが、雪と泥の上に残っていた。降る雪は、その足跡の縁から、静かに埋め始めていた。半年をかけて組まれた舞台の跡形は、もうどこにも見当たらない。ただ、踏み荒らされた雪と泥だけが、朝まで、この場所にあったことの証として残るはずだった。
四月半ば、渋谷のスクランブル交差点に、桜の花びらが舞い降りていた。
信号待ちの人波の上を、白い粒が斜めに流れていく。傘も、コートの襟も、もうそこにはない。薄手のカーディガンや半袖のシャツを着た通行人たちが、青信号と同時に一斉に踏み出す足元に、花びらが幾つも巻き込まれて舞い上がった。歩道の端、街路樹の根元には、踏まれて色を失った花びらが、うっすらと帯になって積もっている。駅前の交番の脇、待ち合わせの目印になっている犬の像の周りにも、花見帰りらしい人だかりができていた。気温十九度、風は弱い——電光掲示板の隅に流れる天気予報が、そう告げていた。信号待ちの間だけ、青信号の残り秒数を示す電子音が、途切れずに鳴り続けている。
交差点を囲むビルの壁面、四基の屋外ビジョンには、それぞれ違う映像が流れていた。十五秒おきに、四基すべての映像が同時に切り替わる仕様になっている。一基は、頬に指を当てた二十代らしい女性のアップから始まる。「わたしは、わたしのままで、キレイになれる。」白い文字が、頬の輪郭をなぞるように現れる。別の一基には、スーツ姿の若い男が、始発の駅のホームで大きく伸びをする映像が流れていた。画面の端、小さな時刻表示は「AM5:40」のまま止まっている。「自分のペースで、自分の分だけ、稼げる自由を。フューチャーペイ、はじめよう。」画面の隅に、小さくロゴが点滅している。三基目は、就職情報サイトの広告だった。オフィスの窓辺に立つ女性が、こちらへ向かって微笑む。「誰かの型に、はまらなくていい。あなたらしいキャリアを。」文言はそれぞれ違うのに、言っていることは、驚くほど同じだった。三基とも、画面の端には小さく「タップして詳しく」の文字が添えられていたが、信号待ちの間、それに触れる指は一本もなかった。誰の言葉でもない誰かに向けて、それぞれの「わたし」を勧める声だけが、四月の空の下に重なっている。
信号待ちの列の中、コートを脱いだばかりらしいスーツの男と、イヤホンをつけた若い女が、たまたま隣り合って立っていた。男の左手薬指には、まだ跡の浅い指輪がある。女の肩には、大学のロゴが入ったトートバッグが下がっていた。二人とも、下向きにスマートフォンをかざしている。画面がロックを解除した瞬間、通知欄よりも先に、一枚の広告が表示される仕組みになっていた。男の画面には、子供のいる家庭向けの保険の広告が流れていた。三十五歳からの終身保障、月々二千円から。男はそれを一瞥しただけで、歩幅を変えずにポケットへ戻す。女の画面には、一人暮らし向けの惣菜宅配のバナーが表示されている。初回限定、送料無料。湯気の立つグラタンの写真が、バナーの端に小さく添えられていた。女は画面をタップしないまま、イヤホンの向こうの音楽に合わせて、爪先だけを軽く鳴らしていた。同じ交差点、同じ十数秒の間、隣り合った二人は、それぞれ違う「自分らしさ」を、無言のまま勧められていた。
信号が変わる直前、ビジョンの一基が切り替わった。銀灰色の輪郭が、雑居ビルの三階分ほどの高さを飛び降りる映像——数秒だけの切り抜きだった。自動生成されたらしいタイトルには、色を示す言葉が一つ、機械的に添えられているだけだった。名前の欄は、まだ空白のままだった。タイトルの下に並んだハッシュタグも、「#新色」「#速報」の二つだけで、それ以上は何も足されていない。画面の下には、同時接続を示す数字と、流れの速いコメント欄が重ねて表示されている。「新色きた」「もう六人目?」「先週も出てなかったっけ」「もう覚えらんない」——驚きよりも、確認と、確認への疲れの言葉の方が多かった。桃が最初に配信へ映った日、その話題は三日間、トレンドの一位を譲らなかったのだと、サクラは風の噂で聞いたことがある。今日の六人目は、切り抜きが出てからまだ二時間も経っていないのに、順位はすでに三位まで落ちていた。同時接続の最大値も、四十八万——去年なら、一晩は保った数字だった。
別のビジョンの片隅、ワイドショーのテロップが小さく流れている。黄色い帯に赤い文字の、見慣れた速報の書式だった。司会者とコメンテーターらしき二人が、スタジオのソファに並んで座っていた。マイクを持たない方の声だけが、雑踏の合間に薄く届いた。「今はもう、誰でも、主役になれる時代ですから」——賛成とも皮肉とも取れる調子で、その一言だけが交差点に落ちて、次の話題へすぐに流れていった。声の下、小さなテロップの数字が一秒だけ表示されて消える。今年に入って確認された新色は、これで六件目。去年の同時期は、二件だった。数字が何を意味するのか、誰も画面に向かって聞き返しはしなかった。
その人波の中を、私服のサクラが渡っていく。丈の短いカーディガンに、履き慣れたスニーカー。四か月前より少し伸びた髪を、今日は後ろで一つに結んでいた。片手に提げたトートバッグの持ち手を、もう片方の手で持ち直しながら、歩幅は他の通行人とほとんど変わらない速さを保っていた。あの数日間、駅の柱や交番の掲示板を占めていた「特別手配」の紙には、実写ではなく、中継の一場面から起こされた似顔絵が載っていた。目の位置も、髪の分け目も、頬の丸みも、実物とはどこかひとつずつ違っている。似ているようで、似ていない絵。絵の下には「情報提供を求む」の文字と、今はもう繋がらない電話番号が並んでいた。あの掲示板は、今はもう別の告知——来月の地域防犯パトロール、参加者募集中の案内に貼り替えられている。今すれ違う誰も、絵と目の前の少女を、重ねようとはしなかった。
横断歩道を渡りきる間、サクラを見た人間は、一人もいなかった。ぶつかりそうになった老人が、会釈だけして通り過ぎていく。信号待ちのカップルが、サクラのすぐ横をすり抜けて、屋外ビジョンの方へスマートフォンのレンズを構えた。中学生らしい三人組が、横断歩道の途中で足を止めかけ、係員に急かされて小走りになる。彼女の方にレンズが向くことは、一度もなかった。
ショーウィンドウの前を通り過ぎるとき、サクラは足を止めなかった。ガラスに映る自分の輪郭が、後ろを歩く人波の中に紛れて、一瞬だけ誰かと重なって見えた。それが誰の輪郭だったのか、確かめるために振り返ることも、しなかった。ウィンドウの中では、初夏物の新作らしいワンピースが数着、値札を見せたまま並んでいる。
交差点を渡りきったところで、どこかの屋台らしい甘い匂いが、ふっと鼻先をかすめて消えた。近くの店の自動ドアが開き、来店を知らせる電子音が短く鳴って、すぐに雑踏へ溶けていく。風が吹くたび、頭上の桜が、また花びらを散らす。一枚が、サクラの肩に触れて、そのまま地面へ落ちていった。払う手は、動かなかった。
助手席側の窓ガラスに、桜の花びらが一枚、張りついたまま流れていった。灰色の覆面車両は、片側二車線の国道を法定速度で走っている。ワイパーの付け根に挟まったその花びらは、次の交差点で信号待ちに入っても、まだ剥がれずに残っていた。運転席にA1、助手席にサクラ——この並びも、もう三ヶ月目に入っている。ダッシュボードのデジタル時計は、十四時十七分を示していた。今日の当番表には、午後の枠に「待機」とだけ書かれていたはずだった。A1は、もう制服ではなく、黒いジャケットに黒いパンツという、どこにでもいる格好で運転席に座っている。所属を示す記章は、どこにも付いていない。契約書の別紙に書かれているのは、階級でも所属でもなく、ただの署名欄と押印だけだった。窓の外の気温表示は十六度、風は弱いと、フロントガラス上部の電子表示が小さく告げていた。
ハンドルを握るA1の左手首には、腕時計代わりの黒い端末が、いつもと同じ角度で巻かれていた。助手席側のドアポケットには、飲みかけの緑茶のペットボトルが一本、キャップを軽く締めた状態で差してある——サクラのものだった。運転席側のドリンクホルダーには、開封済みのミネラルウォーターが一本。中身の減り方は、いつもとほとんど同じ速さだった。後部座席には、折りたたまれた予備の防寒着と、装備一式を収めた黒いバッグが、シートベルトで固定されている。バッグの留め具には、擦れて色の薄くなった箇所が一つだけあった——三ヶ月間、同じ手が同じ角度で開け閉めしてきた跡だった。運転席の背もたれ、サクラの視線の高さにちょうど合う位置には、小さな擦り傷が一本残っている。半年前、まだ別の車両を使っていた頃からの引き継ぎ品だと、A1は一度だけ説明したことがあった。ダッシュボードの隅、灰皿の跡が残る小物入れには、先月更新したばかりの契約の覚書が、クリアファイルに挟まれたまま差してある。表紙の日付印だけが、サクラにも読み取れた。運転席側のドアポケットには、コンビニのおにぎりの空き袋が一つ、丸めずにそのまま突っ込んである。昼にA1が無言で寄って買い、無言で半分をサクラに渡した、その残骸だった。
「更新の件、今月の分、まだ確認してませんよね」信号待ちの間、サクラが聞いた。「確認済み。異存はない」A1は、前方を見たまま短く答えた。「甲及び乙、双方の署名欄、来週で問題ないか」「はい、大丈夫です」。サクラは少し間を置いてから、続けて聞いた。「今月、もう何件目でしたっけ」「本件で十一件目。先月比、四件増」——数字だけが、いつもの抑揚で返ってくる。「増えてますね」「増えている」それ以上の感想は、どちらの声にも乗らなかった。事務的な会話は、いつもこの長さで終わる。信号が変わり、車がまた動き出す。
ダッシュボードに固定された情報端末が、短く二回、着信音を鳴らした。液晶の隅、受信中を示す緑色のランプが点滅する。A1は片手でハンドルを保持したまま、もう片方の手で音量つまみを軽く回した。周波数の表示は、いつもと同じ数字のままだった。
「新宿三丁目、変身事案や」——タマの声が、端末のスピーカーから流れ出す。無線特有の、わずかに圧縮された響きが混じっていたが、聞き取りにくさはなかった。「銀灰の子ぉ、ビルから路地に降りた。配信同時接続、伸びとる伸びとる。……ええか、急ぎや、けど焦りなや」。数字の話と、気遣いの言葉が、相変わらず同じ声で同居している。同時接続の桁数までは読み上げなかったが、伸び方の速さだけで、タマが今どんな画面を見ているのか、サクラには見当がついた。続けて、位置情報の座標らしい数列が短く読み上げられ、通信は途切れた。液晶の下部には、「今年七件目」という小さな注記が、自動集計の一行として添えられている。四月に入ってから、まだ半月と経っていない。A1は「了解」とだけ返し、右手をハンドルへ戻す。カーナビの案内が自動で切り替わり、経路の残り距離が「六・二キロ」から数字で更新されていった。
助手席、サクラの足元に、傘が一本置いてある。畳まれたままの黒い柄に、窓から差し込む春の光が、細く一本の線を作っていた。
信号が青に変わり、車が動き出す。窓の外を、桜並木の続く歩道が流れていく。花びらが、歩道の縁にうっすらと帯を作っていた。信号待ちのたび、電光掲示板の広告が二つ、三つと入れ替わっていくのが見えたが、サクラはもう、その文言を目で追わなかった。歩道を歩く人波の中に、スマートフォンを胸の高さにかざしたまま歩く学生らしい二人組が、一瞬だけ視界を横切った。誰かの配信を見ながら歩いているのか、自分たちの何かを撮っているのか、車の速度ではそこまでは分からなかった。エアコンの吹き出し口から、かすかに新車特有の樹脂の匂いが混じって流れてくる。カーラジオは点いていない。無音のまま、タイヤが路面を噛む音だけが、車内に規則正しく響いていた。信号待ちの列に並んだ自転車の主婦が、こちらの車体を一瞥もせずに通り過ぎていく。赤色灯を屋根に載せていない限り、この車はただの灰色のセダンでしかなかった。サクラは、口の中でだけ小さく息を吐いた。
ねえ、向こう。今日は、別に大した話じゃないよ。ただの出動。ただ、それだけ——サクラは、それを声に出していた。
「今、脇見してただろう」A1が、前方を見たまま言った。「同乗者に用があるなら、そっちに言え。そこにいるのは、俺だけだ」
シラを切るには、もう遅かった。かといって、続きを話す気にもなれなかった。サクラは、助手席の窓に映る自分の輪郭に、少しだけ笑いかけた。窓の外、また一枚、花びらがガラスをかすめて後ろへ流れていった。
「……分かりました」少し間を置いてから、今度は前を見たまま、隣へ向けて続けた。「今日も、よろしくお願いします」
A1は、それに答えなかった。答えの代わりのように、右のウィンカーを出す。窓を数センチだけ下げ、片手でマグネット式の赤色灯を屋根の上へ滑らせる。留め金が吸いつく、こもった音が一度だけ鳴った。線をたどるコードが、窓枠の隙間を通ってダッシュボードの電源へつながっていく。エンジン音が一段低くなり、車は流れの外側へ抜けていく。無線から、出動を告げる短いコールサインが一度だけ流れ、A1がマイクに向けて型どおりの応答を返した。「移動901、了解」——数字と記号だけの応答だった。四か月前、雪の中を走っていた白いバスの後部座席で聞いた、あの同じ低い音を、サクラは思い出した。あのときは後部座席で膝を抱えていた。今は、助手席で前を見ている。それだけの違いが、今の自分と、あの夜の自分をつないでいた。車体は交差点を折れ、新宿の方角へ加速していった。加速に押され、足元の傘がわずかに位置をずらし、それでも倒れずに、春の光を受けたままだった。
ダッシュボードの無線が、短く一度鳴った。「新宿三丁目、現着まで三十秒」——タマの声ではない、機械的な合成音声だった。A1が「了解」とだけ返し、その直後、覆面パトカーは路地の入り口で二度、ブレーキを鳴らした。前輪が路面を擦り、アスファルトに薄いスリップ痕を残して停止する。片側は搬入用トラックの駐車帯、反対側は雑居ビルの非常階段——ネオン管の消えたカラオケ店の看板が、非常階段の途中に張り出していた。車一台がやっと通れる幅しかない裏路地に、換気ダクトの唸りと、生ゴミの饐えた匂いが薄く漂っている。ダッシュボードの時計は、十四時二十四分を示していた。エンジン音がまだ落ちきる前に、運転席側のドアはもう開いていた。最初に見た夜のA1の動きは、もっと速く、余白がなかった。今は、ドアを開け、ステップを一段踏んで、ただ降りる。それだけの違いに、四か月分の重みが乗っている。助手席側のドアも、ほとんど同じ拍子で開いた。路地の反対側の出口には、すでに別の車両が一台、静かに停まっている。運転席の人影は、こちらを一瞥しただけで、動かなかった。路地の奥、非常階段の下の踊り場で、飛び降りたばかりの輪郭が、ゆっくりと体を起こしていた。
着地の跡が、路面に薄い放射状のひびを作っている。輪郭が立ち上がると、周囲に細かい灰色の粉が舞い上がり、風もないのに、しばらく宙に留まってから落ちていった。艶のない銀灰色——陽の光を跳ね返さず、そのまま吸い込んで返さない色だった。踏み出した足が動くたび、袖口と裾の縁から、同じ粉が薄い尾を引いて散る。着地の一歩が路面を打つ音は、ゴムでも金属でもない、薄い板を軽く弾いたような、乾いた高い音だった。路地の入り口、コインパーキングの柵越しに、すでに数人がスマートフォンを構えている。「新色、来てるじゃん」「誰か配信回してる?」「こっちにも寄せて」——短い声が、いくつも重なって雑踏に紛れた。すぐそばに立っていた女性の画面に、同時接続の数字がちらりと見えた。三十八万。さっき掲げられていた三位から、また一つ順位を上げている。今年七件目——さっき端末に流れていた注記の通りだった。輪郭は、二人の少女を交互に見た。視線がA1で止まり、次にサクラで止まる。喉の奥から、押し殺した息の音が漏れた。指先に、細かい灰色の粒子が集まり始めていた——身構えているというより、逃げ場を探している構えに近かった。
「変身」——A1が、先に言った。
言い終えたときにはもう、白い輪郭がそこに立っていた。バイザーはすでに上がっている。右手には、伸縮した細い棒が握られていたが、狙いはまだ路面の一点に留まったままだった。サクラは瞬きをしていない。それでも、切り替わりの瞬間は見えなかった。いつもそうだ。見ていたはずの時間の中に、変化の分だけの隙間がない。
サクラも、スマートフォンを胸の前にかざした。液晶面を、外側へ。親指がサイドボタンに触れる。
一拍、音が来なかった。他の色ならすぐに鳴るはずの待機音が、鳴らない。その無音のあとに、柔らかい和音が一つだけ重なった。腕を、胸の前でゆっくりと開いていく——広げる、というより、何かを迎え入れるための隙間を作る動きだった。初めての夜からずっと、なぜこの形を取るのか、教えられたことは一度もない。
光は、胸の中心から来た。爪先でも指先でもなく、骨の奥の方から、桃色そのものが染み出してくる。物として広がるのではなく、色が先に在って、それが後から形を取っていくような広がり方だった。右手の甲に、薄い手袋の感触が張りつく。膝丈のスカートの裾が、遅れて足首の周りに落ち着いた。右手のひらに、伸びた柄の重みが収まる。結んでいた髪の色が、根元から少し明るい桃色に染まっていくのが、視界の端にちらりと映った。周囲の音が遠くなる。路地の匂いも、粉塵の重さも、感じるべきもののはずが、一枚膜を隔てて届く。中身が空になったまま、外側だけが手順通りに完成していく——何度繰り返しても、この空白には慣れなかった。それでも、もう説明を探さなくなった。空洞のままでいることが自分の形なのだと、この四か月で覚えただけだった。
「——始めます」
低く、事務的な声だった。宣言でも決意でもない、作業開始の報告に近い響きだった。
背後で、シャッター音に似た電子音がいくつも重なった。誰かの画面の中で、同時接続の数字がひと呼吸のうちに撥ね上がる。コインパーキングの柵の隙間から、桜の花びらが一枚、迷い込むように路地の奥まで飛んできた。銀灰の粉の上に、力なく重なって落ちる。温度が戻ってくる。路地の湿った空気、アスファルトの照り返し、遠くで回り続ける換気扇の音——止まっていた時間が、また動き出す感触だった。銀灰の輪郭が、半歩だけ後ろへ下がる。二人を見比べる視線に、迷いに似たものが浮かんでいた。逃げるか、構えるか——どちらの判断もまだ固まっていない重心の揺れが、爪先の角度に出ていた。指先の粒子が、また少し密度を増す。隣のA1は、棒を握り直しただけで、名乗らなかった。名乗る言葉を、最初から持っていない。
サクラは、構えを解かないまま、視線だけ隣へ向けた。
「A1も、名乗る文言、そろそろ考えておいてくださいね」
A1は、答えなかった。ただ、握った棒の先を、わずかに前へ倒しただけだった。