アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
光が見えた。
見えた、というのが正しい言葉かどうかは、今でも判断がつかない。確かに光があった。建物の上の階から、藍色と言うには暗く、青と言うには濃い、何かが漏れていた——ほんの一瞬。窓の内側で何かが動いて、それが光を出していた。出して、消えた。
×××××の足は止まった。
止まるつもりがなかった。しかし止まっていた。ジュースの缶が公園のゴミ箱にはもうなく、×××××は帰宅ルートの歩道を歩いていた、はずだった。帰るつもりだった。紙には「来ない方がいい」と書いてあって、それを引き出しにしまったのは昨日のことで、来ない方がいいと書いた人間が正しい場合に備えて来ないことを選んでいた、はずだった。
足が止まった。
道路の向こうに、雑居ビルがあった。
この辺りに来るようになって、通った回数で言えば二十回を超えるかもしれない場所に、一度もまともに目を向けなかったビルがある——そういうビルが渋谷にはいくつもある、と何かで読んだ記憶があった。建物があることは知覚している。でも「見た」ことにはならない。目に入っていても記憶に残らない何かが、渋谷には多い。
一階は何かの飲食店だった。看板が古く、時間帯のせいか文字が読めなかった。看板の脇に自転車が三台、アルファベットのアイウエオのように並んで留まっていた。二階と三階の窓は暗く、外からは何も見えなかった。四階か五階——どちらか判断できなかった——の窓だけが、少し違った。
また、光が来た。
今度は長かった。二秒か三秒。藍色が窓の内側で揺れて、揺れた拍子に窓枠の金属が光を反射した。反射した光は横に伸びて、消えた。
×××××は横断歩道の手前で立っていた。
信号は赤だった。
「来ない方がいい」という言葉の意味について、×××××はもう考えるのをやめていた。正確には、考えることが止まっていた——思考が続かなかった、という方が近いかもしれなかった。電車の中で展開しかけた論理の続きが、横断歩道の手前では出てこなかった。
出てこない代わりに、別のことを考えた。
あの光が、アオイだとしたら。
考えた——という動詞を使うのが適切かどうか分からなかった。考えたのではなく、そういう前提が頭の中に生じた、という感触だった。理由を積み上げて辿り着いたのではない。土曜日に見た青い光と、今日見ている藍色の光が、同じ何かから来ている可能性を、頭の中のどこかが既に「そうだろう」と処理していた。
処理している、ということに気づいて、×××××は少し驚いた。
驚いたが、驚きは長続きしなかった。
信号が青になった。
渡った。
自分が渡ることを決めた、という感覚は薄かった。信号が変わって、横断歩道の幅分だけ足が進んで、歩道の向こう側に出た、という事実の連なりだけがあった。決意、とか、意志、とか——そういう言葉を当てはめるには、動作が地味すぎた。横断歩道を渡っただけだった。ただ、渡る方向がビルの側だった、というだけのことだった。
ビルの前に立った。
近くで見ると、古さがよく分かった。外壁の継ぎ目に汚れが溜まっていた。一階の飲食店はまだ営業しているらしく、内側の光が扉の隙間から漏れていた。煙草の匂いと、揚げ物の匂いが混ざっていた。誰かが入っていくのか出てくるのかが分からない出来事が、扉の向こうで起きているような気配があった。
×××××は建物の横を通り抜けた。
非常階段が側面についていた。外付けの、鉄製の。下から上まで伸びていた。踊り場に蛍光灯が一本ついていたが、三階あたりのものは切れていた。
足が階段の下に来た。
×××××は上を見た。
上は暗かった。暗さの中に光が揺れていた。揺れ方が、さっきと変わっていた。強くなっている気がした。強くなっている、というのが正確かどうかは分からなかった——単に近くに来たから大きく見えているのかもしれなかった。
手すりを掴んだ。
手すりは錆びていた。錆の感触が手のひらに当たった。当たったが、特にどうということもなかった。×××××は階段を上り始めた。
一段上るたびに、金属の音が鳴った。
自分が出している音だということは分かっていたが、音が出るたびに少し驚いた。驚いた、というのは大げさで——音の存在を確認した、という程度だった。足を置くたびに、このビルを支えている鉄が、自分の重さに反応している。その事実だけを一段ずつ確認しながら上った。
三階を過ぎた。
切れた蛍光灯の位置で、暗さが一段増した。増した分だけ、上から来る光が目立った。目立つようになってから、×××××は初めて「あの光に向かっていく」という実感を持った。持った、と同時に、足が少しだけ重くなった。
来ない方がいい。
言葉が、また出てきた。
引き出しにしまったはずの紙の文字が、脳裏に出てきた——という言い方をするには、出てきた感触が物理的すぎた。実際に光の中でその一行が見えた気がした。見えた気がした、だけで、実際には見えていなかった。蛍光灯の切れた踊り場に立って、上を見上げながら、光が揺れているのを確認しているだけだった。
足が止まった。
止まって、×××××は踊り場で立っていた。上に行くことも、下に戻ることも、どちらもしていなかった。していなかったが、どちらかをするつもりがない、ということでもなかった。ただ、止まっていた。
何かの音がした。
上からだった。
衝突音、とは少し違った。強くぶつかる音ではなく、重さが移動するときの音、だったかもしれなかった。それと同時に、藍色の光が強くなった。強くなって、窓ガラスの外まで漏れた。漏れた光が階段の手すりに当たって、×××××の足元まで届いた。
足元が少しだけ青くなった。
一瞬だった。
一瞬で光は戻って、暗さが元に戻って、×××××はまた踊り場に立っていた。
手すりを掴んでいた手が、少し震えていた。
震えていた、と気づいた時間は短かった。気づいた次の瞬間には、もう足が動いていた——上に向かって動いていた。動いている足を止める考えは、出てこなかった。出てこなかった、ということをどこかで確認した気もしたが、確認した時点では既に二段上っていた。
四階。
踊り場の蛍光灯は生きていた。踊り場の壁に、何かの案内板の残骸があった。何の会社の名前が入っていたのか、文字が消えていた。
五階。
非常ドアがあった。
ドアの向こうから、音がしていた。
音の種類を言葉にするのが、×××××にはできなかった。ぶつかる、とか、走る、とか、そういう言葉では当てはまらないが、何かが動いている音がしていた。動いているものの数が複数あって、それぞれの動き方が違っていた。そういうことが、ドアの向こうから伝わってきた。音の物理として。
光も伝わってきた。
ドアの隙間から——金属のドアが床面と接するあたりに、数センチの隙間があって——そこから、藍色が漏れていた。漏れ方が一定ではなく、強くなったり弱くなったりを繰り返していた。
×××××は自分の呼吸を確認した。
呼吸はしていた。ただ、少し浅かった。浅くなっていたことに、今気づいた。
ドアに手をかけた。
開いた。
開けた、ではなく、開いた——という感触だった。鍵がかかっていなかった。引いたら素直に動いた。動いた瞬間に、音と光と、それから——温度が違う何かが来た。
温度、と言うのも正確ではなかった。圧力に近かった。空気の密度が違う場所の境界を越えるときの感触。水の中に踏み込む直前の、表面張力のような何かが、ドアの縁にあって——それを越えたら、空間の質が変わった。
廃フロアだった。
壁のボードが剥がれかけていた。床は元は何かのタイルが貼ってあったらしく、割れたまま放置されていた部分と、剥がれて下地のコンクリートが露出している部分が、決まった法則なく混在していた。窓が四つ、外に面してあって、三つは板が打ち付けてあり、一つだけが開いていた。開いている窓から、渋谷の夜景が見えた——高さがある分だけ、地上から見るより多くの光が見えた。多くの光が見えたが、今は夜景を確認する必要があるとは思えなかった。
二人いた。
アオイと——赤い少女。
二人は×××××が入ったことに気づいていなかった。
気づいていなかった、と後から思うのは簡単だった。しかし×××××がドアの内側に立っていた数秒間、二人の動きは確かに「×××××を観測していない動き」だった。向き合っていた。向き合って、距離を保ちながら——アオイが何かを発していて、赤い少女がそれを受けながら前に出て、前に出た先でアオイが退いて——という動きが繰り返されていた。
変身していた。
二人とも。
公園の近くで一度だけ見た、アオイの変身後の姿——藍色の、水が層になったような衣装——それが今ここにあった。近い。遠くで見るより、ずっと近くにあった。それと向き合っている赤い少女の衣装は、緋色に近い赤で、動くたびに布の端が、炎が横に広がるような方向にはためいていた。
音の出所が分かった。
アオイが指先から何かを伸ばすと——糸のような、光の線のような何かが、空間に引かれた。見えるか見えないかぎりぎりの細さで、複数、室内を区切るように引かれた。引かれた線の内側に赤い少女が入ると、赤い少女の動きが一瞬だけ遅くなった。遅くなったのは本当に一瞬で、次の瞬間には線を突き抜けていた——突き抜けた場所で、線が断ち切れた。断ち切れる音は聞こえなかった。断ち切れた事実は、アオイの表情で分かった。
表情、と言えるかどうかも怪しかった。変身後のアオイは感情表現が乏しい、と知っていた——知っていたが、今のアオイを見ると、その「乏しさ」の意味がやっと分かる気がした。感情がないのではなかった。感情の優先順位が変わっていた。今この場で生き延びることの優先度が高すぎて、表情に使えるリソースが残っていない——そういう顔だった。
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×××××は動かなかった。
動けなかった、というのとは少し違う。動く選択肢があることは分かっていたが、どちらの方向に動くかが確定しなかった。前に進めばアオイに近づく。引き返せばドアを抜けて階段に戻る。どちらも可能だった。可能だということが、逆に足を止めた。
見ていた。
見ているしかなかった、という受動性ではなく——「見ていた」という動詞の能動性を、×××××はこの数秒間に初めて感覚として持った。見る、ということが選択だった。逃げることも選択で、入ることも選択で、見ていることも選択だった。選択したから見ていた。
その選択の根拠を、×××××は持っていなかった。
持っていなかったが、したかった。
赤い少女が踏み込んだ。
速かった。
廃フロアの幅の半分を、一呼吸で詰めた。詰めながら右手が前に出た——出た手の周囲に、何かが集まっていた。色ではなく、密度のようなものが。集まっているものが「炎」かどうかは分からなかった——熱が来なかった。でも「燃えている何か」という印象は揺るがなかった。
アオイが後退した。
後退しながら腕を前に出した。出した腕から光の線が、今度は前より多く引かれた——部屋を格子状に区切るほど、密に。赤い少女がその格子に当たった。当たって、止まった。
一秒。
二秒。
赤い少女の体から、熱に似た何かが放出された——放出、というのも正確ではなく、「圧縮していたものを一点に向けて吐き出した」という感触で、それが格子に当たって、格子が揺れた。揺れて、光の線の一本が消えた。消えた場所から、隙間が生まれた。
アオイがよろめいた。
よろめいた、と×××××が認識したのと同時に、×××××の口から声が出た。
「アオイさん!」
声が出たことに、驚いた。
出した、というより、出た——という感触だった。声帯が動いて、肺の空気が変換されて、音になって、部屋に出た。その一連が自分の中で起きた、という事実は分かっていたが、出すつもりがあったかどうかは、出た後でも分からなかった。
ただ、声は出た。
アオイが振り返った。
赤い少女も振り返った。
振り返った二人の顔が、どういう表情だったか——どちらも、×××××が予測していた何かとは違った。アオイは驚いていたが、その驚きは「来るとは思わなかった」種類のものではなく「来た、という事実を今処理している」種類の驚き方だった。赤い少女は——驚いていた。ただ驚いていた。その驚き方が、少し人懐っこい感じで、×××××にはその「人懐っこさ」がうまく処理できなかった。
赤い少女が言った。
「……また来たの」
質問ではなかった。確認だった。驚きながら確認している、という口調だった。
その言葉の意味を、×××××は考えた。
考えながら、体が動いた。後退するのではなく——前に動いた。一歩。床のタイルが一枚分だけ、足の裏に感触が変わった。
アオイが言った。
「来ない方がいいって書いた」
声は変身前より少し低かった。低かったが、アオイの声だった。
「……うん」と×××××は言った。「書いてあった」
「読んだ?」
「読んだ」
一拍の間があった。
「来た」
言ってから、余分な言葉が出そうになって——出さなかった。だから来てみた、とか、来るなとは書いてなかったから、とか——そういうことは今言う必要がなかった。言ったところで状況は変わらなかった。変わらないことが分かっていたから、言わなかった。
アオイが×××××を見た。
見た時間は短かった。一秒ほどで、アオイの視線は赤い少女に戻った。戻る直前に、何かがアオイの表情にあった——何か、というのは言語化できなかった。感情と言えば感情だったが、どの感情かが分からなかった。怒りでも安堵でもなく、もっと別の何か。
赤い少女が×××××を見た。
「お前さ」と赤い少女は言った。「怖くないの」
×××××は少し考えた。考えた末に、答えた。
「……怖い」
「だよね」
「でも来た」
赤い少女がそれを聞いて——笑ったのかもしれなかった。笑い方を知っている人間が、状況に合う笑いを持っていなくて、代わりに何かが顔に出た——そういう表情だった。一秒よりも短く、消えた。
「下がってろ」と赤い少女が言った。
×××××に向けて言ったのか、アオイに向けて言ったのか、判断がつかなかった。どちらにも言っている可能性があった。
アオイが×××××の方を向いた。
「下がって。壁際」
アオイの言葉は指示だった。指示の出し方が、いつもと少し違った——いつも、と言っても、アオイがこういう状況で×××××に指示を出したことはなかった。なかったが、出し方の種類として、これは「お願い」の形をした「指示」だった。どちらの成分が多いか、一対一か——判断できなかった。
×××××は壁際に下がった。
下がりながら、この選択についても考えた。下がることを選んだのは、アオイの言葉に従ったからなのか、それとも自分が壁際に行くことが状況として正しいと判断したからなのか——どちらでもあった気がした。どちらでもあるなら、どちらでもよかった。
壁に背中が当たった。
当たった壁は冷たかった。コンクリートか、その上の薄い仕上げ材か——何かが背中を通して体温を持っていった。持っていかれながら、×××××は目を逸らさなかった。
二人が、また対峙した。
×××××はそれを見た。
壁際から見る構図は、階段で見た構図と違った。距離が近かった。近すぎて、細部が見えた。細部が見えることが、状況の把握を難しくした——遠くから見ているときは「光と影」として処理できていたものが、近くで見ると「人間が何かをしている」として処理せざるを得なくなった。
アオイが消耗していた。
消耗、という言葉が正しいかどうかは分からなかった。でも、変身前のアオイを何度も見ていた目が、今のアオイから何かが削れていることを感じ取った。見える形では変わっていなかった。衣装も、姿勢も、動き方も。ただ、動き方の中に「余裕」があった時間と「余裕がない」時間の差が、今の方が大きかった。
余裕がない時間の比率が、増えていた。
赤い少女が攻めていた。前に来ていた。来るたびにアオイが線を引いて防いで、防ぐたびに何かが減っていく——という構造を、×××××は体感として理解し始めていた。理解するにつれて、理解したくなかった、と思った。
理解したくなかったが、目は逸らせなかった。
「来ない方がいい」と書いた理由が、今になって分かった気がした。
分かった気がした——だけで、確認はできなかった。アオイに「なんで書いたの」と聞けば答えてくれるかもしれなかった。でも今は聞ける状況ではなかった。状況ではなかったが、答えの輪郭は見えていた。
来ない方がいい理由は、こういうことが起きているから——だった。だとしたら、「来るな」ではなく「来ない方がいい」と書いたのは、何だったのか。
来ることを完全には否定しなかった。
否定しなかった理由が何だったのかは、×××××には分からなかった。
分からないまま、壁に背中をつけて、見ていた。
見ていること以外に、今できることを×××××は持っていなかった。持っていなかったが——「今できることを持っていない」ということと「何もできない」ということは、違う気がした。
その差が何なのかは、言葉にならなかった。
アオイが止まった。
止まった、というのは一瞬だった。一瞬だけ動きが止まって、次の瞬間には赤い少女の攻撃を受けていた——受けた、という表現も正確ではなかった。当たった、のでも、防いだ、のでもなく——アオイの身体が、赤い少女の拳の軌道に重なった瞬間、何かが「抜けた」感触が、部屋の空気に生じた。
アオイが後ろに吹き飛んだ。
飛ぶ、というには低く、落ちる、というには水平で——アオイの身体が、廃フロアの床と擦れながら数メートル移動した。移動して、壁のそばで止まった。
止まった壁は、×××××がいる壁ではなかった。反対側だった。
×××××は声を出そうとした。
出た声は、何も言っていなかった——音は出たが、言葉になっていなかった。言葉にする前に、アオイが起き上がったからだった。起き上がった動作が、ゆっくりだった。いつもより一秒か二秒、長くかかった。
赤い少女が動いていなかった。
動いていなかった、というのは見ていれば分かった。ただ、なぜ動いていないのかは分からなかった。自分でも驚いているのかもしれなかった。驚き方が、「勝ちそうで戸惑っている」種類の驚きに見えた——見えたが、確かめる方法はなかった。
アオイが立った。
立ったアオイを、×××××は見た。
立ったアオイの手の中に、スマートフォンがあった。画面が——さっきより強く、藍色に光っていた。強く、という言葉では不足だった。密度が変わっていた。体積が同じで、中に詰まっているものの量だけが変わった、という感触の光だった。
アオイは赤い少女を見ていた。
何かを決めた顔だった——と後から思う。この瞬間には、×××××にはそれが「何を決めた顔」なのか分からなかった。決めた、という事実だけが伝わってきて、内容が追いつかなかった。
部屋に、音がなかった。
部屋の外から渋谷の音が来ていたはずだった——電車の音、車の音、人の声——でも今は聞こえなかった。聞こえないのか、×××××に聞こえていないだけなのか、判断できなかった。
×××××は壁から背中を離した。
離した。
一歩、踏み出した。
なぜ踏み出したのか、踏み出した後で考えた。答えは出なかった。出なかったが、踏み出したことの事実は残った。床のタイルが一枚分、足の裏の感触が変わった。変わったことで、自分が動いていることが確認できた。
動いた理由が分からなかった。
分からなかったが、分からないまま動いていた。来ない方がいい、と書かれていたのに来たのと、同じ種類の動き方だった。理由が先にあって動くのではなく、動いてから理由を探す——そういう順番の体の動き方を、×××××はこの数週間で、少しずつ覚えていた気がした。覚えていた、というのが正確かどうかも分からなかった。
アオイが、また何かを決めようとしていた。
×××××には止める方法がなかった。止める言葉を持っていなかった。止めた方がいいのかどうかも分からなかった。
ただ、近くにいることはできた。
近くにいることが何の意味を持つのか——今は分からなかった。分からないまま、×××××はもう一歩、踏み出した。
タイルが一枚分。
また一枚分。
アオイに近い方に向かって、×××××は床を踏んでいた。