アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
階段を降りながら、アオイが言った。
「一個だけ聞いていい」
突然だった。聞いていいか、という問いの形をしていたが、先に降りているアオイは×××××の返事を待っていなかった——少し間を置いて、続けた。
「なんで防御やめたか、分かった?」
分からなかった。
×××××は正直に「分からない」と言おうとして——言う前に、何かが引っかかった。引っかかった。引っかかりが言葉にならないまま、×××××は「分かった気がする」と言った。
自分でも意外だった。
「分かった気がする」と言った後で、どのくらい気がしているのかを確かめようとした。確かめながら階段を降りた。アオイは止まらなかった。×××××も止まらなかった。二人の足が交互に、錆びた手すりを伝う音の中に来ていた。
「なんで、だと思う」
アオイが聞いた。
問いの出し方が、テストとも世間話とも違う種類のものだった。答えを求めている、というよりも——自分の計算を確認している、というような問い方だった。
×××××は少し考えた。考える前に、廃フロアで見た光景が戻ってきた。スマートフォンの光が外向きになった、あの瞬間。アオイが動かなかった、あの一秒。
「使い切ると、取れなくなるから」と×××××は言った。
「取れなくなる」という言葉が正確かどうかは分からなかった。アオイが言っていた言葉を繰り返しただけだったかもしれなかった。でも、言ってから——合っている、という感触が来た。合っている根拠は持っていなかった。ただ、そう思った。
アオイが一瞬止まった。
止まったのは一歩分だった。止まって、また降り始めた。
「そう」と言った。声が低かった。肯定の声だったが、大きくはなかった——肯定した量が、大きくなかった。「そう」という一語に詰まっているものの密度が、低くなかった、とだけ分かった。
廃ビルの出口は裏手にあった。
出た先は路地だった。路地の向こうに渋谷の光があった。光の量が、廃ビルの中より多かった。多い光の中に出て、×××××は少し目が慣れなかった。慣れるのを待ちながら、アオイの背中を見ていた。
アオイが立ち止まった。
止まって、スマートフォンをポケットから出した。出した動作が——さっきフロアの中でスマートフォンを持ったときの動作と、質が違った。さっきは「使う」という動作だった。今は「確認する」という動作だった。違いが、見ていれば分かった。
画面を開いた。
開いた画面の光が——白に近かった。灰色の白だった。光り方が均一ではなかった——揺れていた。揺れ方が、×××××には「怒っている」という言葉しか当てはめられない種類の揺れ方に見えた。見えた、というのは正確ではなかった。感触として来た、の方が近かった。
スマートフォンから声が漏れた。
漏れた声が、×××××に届いた。
今まで聞こえなかった声だった——アオイがイヤホンを外していた。外したまま、画面を持っていた。漏れた声の言葉は聞き取れなかった。音の質だけが届いた。音の質が——温かかった。温かいが、普通の温かさとは違っていた。食い込んでくる温かさだった。柔らかいが、引いてくれない。
声が続いていた。
アオイは返事をしなかった。
しなかった。
声が変わった。変わり方が分からなかった——でも変わった。音の質が、食い込んでくる温かさから、少し、引く方向に動いた。引いた音の質は——落ちていた。落ちた、というのが正確かどうかも分からなかった。ただ、温かさの中に違う何かが混ざった音だった。
「アオイだけが特別なのに」
そこだけ、聞こえた。
聞こえた言葉が、空気に残った。
残った言葉を、×××××は処理できなかった。処理できないまま、アオイの背中を見ていた。
アオイが、答えた。
「……それ」とアオイは言った。「ずっと言ってたね」
声が、さっきと違っていた。低くはなかった——高くもなかった。平らだった。平らな声で、言葉を出していた。感情の温度が読めなかった。読めないが、無感情とは違っていた。
何かを確認している声だった。
確認した上で、それを口に出した声だった。
声が止まった。
スマートフォンの中の声が止まった——止まったのか、アオイが何かを操作したのか、×××××には分からなかった。止まった後の空気が、変わった。変わり方を言葉にできなかった。ただ、何かが終わった後の空気の質に似ていた。
アオイがスマートフォンを下ろした。
下ろした手が——震えていなかった。震えていなかったことが、×××××には確認できた。確認した理由が言えなかった。震えているかどうかを見ようとしていた、という記憶がなかった。でも確認できた。
「……使い切るって、決めたのはいつ」と×××××は言った。
言ってから、余計なことを聞いたかもしれない、と思った。思ったが、引っ込める方法がなかった。出た言葉はそこにあった。
アオイが振り返った。
振り返った顔が——廃フロアで膝をついていた時の顔と、また少し違っていた。違い方が、「何かが増えた」か「何かが落ちた」かの、どちらかだった。どちらかが分からなかった。
「最初から」と言った。
短かった。
「最初から、って」
「変身した時から」
変身した時から、という言葉が出てきた。出てきた言葉の重さを、×××××は量れなかった。量れないまま、受け取った。受け取り方が正しいかどうかも分からなかった。
「妖精が言ってた」とアオイは続けた。「使い切ると、青が消える、って」
声に感情があった。感情が、乏しい方ではなく、抑えている方だった。抑えているものが何かを、×××××は特定できなかった。
「それを聞いて、思った。じゃあ使い切ればいい、って」
「いつ」
「去年の冬」
去年の冬——変身した、と言っていた冬——その時から、という意味だった。
×××××は黙った。
黙った理由が、言葉が出なかった、というのとは少し違っていた。言葉を選んでいたが、選ぶための語彙が来なかった。来なかったまま、沈黙が続いた。
「怖くなかったの」と×××××は言った。
出た言葉が問いの形をしていたが、問いとして正確かどうかは分からなかった。
アオイが少し間を置いた。
「怖い、っていうのが」とアオイは言った。「どのくらいのことを言うのか、よく分からなくなってた」
分からなくなってた、という言い方だった。「分からない」ではなく「分からなくなってた」——過去形だった。今は分かるということか、今もまだ分からないということか、どちらかが判断できなかった。
「妖精の声を聞いていると」とアオイが続けた。「怖いとか、嫌だとか、そういうのが——薄くなってく。薄くなってくのが、最初は楽だった」
「最初は」
「うん」
路地の向こうで人が通った。通った人は二人を見なかった。見ないまま、渋谷の方向に消えた。
「それで、今日」と×××××は言った。「使い切った」
アオイが頷いた。
「怒ってる」と×××××は言った。
言い方が、確認ではなかった——断言だった。断言の根拠は、さっき聞こえた声の質だった。
「怒ってる」とアオイも言った。繰り返し方が、確認的だった。「ただ」
続きが来なかった。
来ないまま、アオイがスマートフォンを見た。見て、また×××××を見た。
「ただ、うるさい」
「うるさい」という言葉が来た。
来た言葉の音の質が——「うるさい」という言葉の本来の用途と、少し違っていた。感情的ではなかった。判断として出てきていた。「うるさい」ではなく「うるさかった」という意味を含んでいた——含んでいた、というのは×××××の受け取り方で、正確かどうかは保証できなかった。
アオイがスマートフォンをポケットにしまった。
しまい方が、廃フロアで使い終わった時のしまい方と、違っていた。廃フロアでは「終わった」という動作だった。今のしまい方は——「置いておく」という動作だった。捨てていなかった。でも遠ざけていた。
「使えないんでしょ、しばらく」と×××××は言った。
「使えない」とアオイが言った。「多分、今日はもう」
「明日から?」
「分からない」
正直な答えだった。分からない、という答えが正直だということが、×××××には伝わった。伝わった理由が言えなかった——アオイが嘘をついていないということが、何かの積み重なりで分かるようになっていた。
いつから分かるようになったのかは、思い出せなかった。
「赤い人は」と×××××は言った。「また来る?」
アオイが少し考えた。
「来ると思う」と言った。「でも」
続きが来た。来た続きが、さっきの「ただ」とは違う種類の続き方をした。
「今日は来ない」
「なんで」
「使い切られたから」とアオイは言った。「取れないものを追っても仕方ないから」
取れないものを追っても仕方ない。
言葉が来て、×××××の中に入った。入って、そこにあった。消化できなかった。消化できないが、出てもいかなかった。
赤い少女がここに来ていた目的が、「取る」ことだった——という事実を、×××××はその瞬間に改めて理解した。理解は、理解する前からどこかで知っていたことの確認だった。確認した上で、あの廃フロアの戦闘が別の形で見え直した。
あの戦闘は、取る側と取られる側が、同じ空間にいた時間だった。
取られなかった。使い切ることで、取られなかった。
「それ、計算してたんだ」と×××××は言った。
言い方が問いではなかった。確認だった。
アオイが×××××を見た。
「計算、って言い方が合ってるかどうか」とアオイは言った。「でも、まあ」
少し間があった。
「そう」
そう、という言葉だった。
言葉が短かった。短い中に、照れているのか、疲れているのか、他の何かなのか——判断できない何かが入っていた。入っていたものを、×××××は取り出せなかった。
取り出そうとして、やめた。
やめた理由が——取り出さなくていい、という判断ではなかった。今は取り出す方法を持っていない、という判断だった。二つは違っていた。違いを分けられたことが、×××××には少し意外だった。
「行こう」とアオイが言った。
「うん」
「寒い」
「うん」
一月の路地だった。
路地の先に渋谷があった。渋谷の光の量は変わっていなかった——廃ビルに入る前と、出た後で、渋谷はそのままあった。光も、音も、人の密度も——変わっていなかった。
×××××の前を、アオイが歩いていた。
歩き方が——来た時より、少し遅かった。遅かった理由が疲れからなのか、別の何かからなのか、後ろから見ていると分からなかった。分からないまま、×××××はアオイの後ろを歩いた。
スマートフォンがアオイのポケットの中にあった。
中で何をしているのか、今この瞬間に声が出ているのか出ていないのか、×××××には知る方法がなかった。知る方法がないことが、今は気にならなかった——気にならなかった、というのが正確かどうかも、実は分からなかった。ただ、今は、アオイの背中の後ろを歩いていた。
それで十分だった。
十分、という言葉が正確かどうかを考えようとして——考えないことにした。考えないことにした理由が出てくる前に、渋谷の光が、路地の終わりで待っていた。
路地を出た。
渋谷が来た。
音が来た。人が来た。電車の音が来た。コンビニの冷たい空気が来た。横断歩道の電子音が来た。全部が一度に来た。
アオイが少しだけ肩をすくめた。
見えた。
肩が一度だけ上がって、降りた。降りた後で、アオイはまた歩き始めた。歩き方が、路地を歩いていた時と同じではなかった——渋谷の音の量に、身体を合わせていた。合わせ方を知っている人間の合わせ方だった。
ここが、アオイの「日常の座標」だった。
×××××には、今更のように、それが分かった。
先に声が来た。
アオイの声だった。変身中の声——感情を管理するシステムが変わった後の声——から、もう一段落ちていた。落ちた方向が、静けさではなかった。静けさの外側の、もっと何もない方向だった。
「カノン」
名前だった。
名前の呼び方が——名前の呼び方、というものがあるとすれば——そういう呼び方ではなかった。確認だった。「そこにいる」という確認を、名前という形で出した声だった。
赤い少女が止まった。
止まった理由が分からなかった——少なくとも×××××には分からなかった——でも止まった。廃フロアの半ばで止まって、アオイを見た。見方が、さっきまでとは違っていた。さっきまでは「どこから来るか」を見る目だった。今の目は「何が起きているか」を見る目だった。
アオイのスマートフォンが、光っていた。
光り方を、×××××は後から言語化しようとして、できなかった。できなかったが、何かは分かった。分かったことをいくつか並べると:光の方向が変わっていた。さっきまでの光は「アオイの中から外へ向かう」光だった。今の光は「アオイの表面に密着している」光だった。密着、というのが正確かどうかも分からなかった。ただ、光がアオイの輪郭に沿っていた。
沿い方が、衣装が体に沿う沿い方ではなかった。
水が容器に沿う沿い方だった。
「私の青、取れなくなる」
アオイが言った。
カノンが動かなかった。
「は?」
一拍置いて、声が来た。来た声の質が——赤い少女の声の中で、×××××が今まで聞いた一番違う質だった。怒っていなかった。恐れていなかった。困っていた——困惑の「困っていた」ではなく、「どこに足を置けばいいか分からなくなった」という意味の困っていた。
「なんで」
「使い切るから」
アオイの声が、まだ変わらなかった。
変わらない、という言い方では足りなかった。変わっていない、というより——変わることができない場所に来ていた。ある量を超えた静けさは、静けさという言葉で形容できなくなる。沸騰した水を熱い、とは言わないように——今のアオイの声を「静か」という言葉で表すと、何か重要なものが抜け落ちた。
スマートフォンの光が、密度を増した。
増し方が「明るくなる」ではなかった。「重くなる」だった。光に重さが出てきた。重さが出た光が、アオイの輪郭の外に少しだけはみ出し始めた——はみ出した部分が、廃フロアの空気に触れていた。触れた空気が、×××××のいる場所まで変わった。
温かくはなかった。
ただ、密度が変わった。
妖精の声が、聞こえた。
今度は言葉が届いた——届いた理由がアオイのイヤホンが外れていたからなのか、声が大きくなっていたからなのかは、分からなかった。届いた言葉は、短かった。
「アオイ、やめて」
アオイが答えた。
「うん」
やめなかった。
声が続いた。
「そんなことしたら、青が消えちゃう」
「知ってる」
知ってる、という返し方だった。
知ってる、という言葉を×××××は今まで何度も使ったことがあった。自分が使ってきた「知ってる」と、今アオイが出した「知ってる」が、同じ言葉かどうか——同じ言葉ではないな、と思った。考えた、ではなかった。ただ思った。
「アオイだけが特別なのに」
声が、また変わった。
変わり方が——さっきより温かかった。温かさが上がったのではなかった。温かさの種類が変わっていた。さっきは食い込む温かさだった。今の温かさは——溶ける温かさだった。形が柔らかくなった。柔らかくなった分だけ、入ってくる。
アオイが少し間を置いた。
「……それ」
言葉の出し方が、今夜で一番、遅かった。
「ずっと言ってたね」
それだけだった。
妖精の声が止まった——止まったのか、アオイが何かをしたのかは、この距離からは判断できなかった。ただ、スマートフォンからの声が途切れた。途切れた後の廃フロアが、前より静かになった。静かになった理由が音の数が減ったからではなかった。密度が変わったからだった。
光が、また増した。
増し方が、今度は違った。
今度は「重くなる」ではなかった。
「広がる」だった。
広がり始めた光が——×××××は後から「あの瞬間」を何度も取り出して確認したが、確認するたびに少し違う言葉しか見つからなかった——アオイの輪郭を、まず端から溶かし始めた。溶かした、というのは消えた、という意味ではなかった。輪郭が——境界が——外側に向かって開いた。
開いた場所から、藍色が流れ出した。
流れ出し方が、爆発ではなかった。
×××××の頭の中に「爆発」という言葉があった——廃フロアに来て、戦闘を見て、積み上がっていた言葉の中に「爆発」があった——でも今起きていることは爆発ではなかった。
決壊だった。
堰が切れた時に水が動く、あの動き方だった。一瞬の静止があって、その後に全部が来る。全部が一度に来るのではなく、来るものの量の加速が止まらなくなる——あの動き方。
藍色が廃フロアに広がった。
床を流れた。壁に当たった。当たって折れて、また流れた。流れた藍色の光は、液体の光だったが、床を濡らさなかった。ただ、そこにあった。あって、次の瞬間には薄くなっていた。薄くなりながら広がり続けていた——広がることで薄くなっていた。
アオイの衣装が、消えていた。
消えた——というのも正確ではなかった。衣装が——変身中のアオイを包んでいた深海の藍の層が——流れ出した光の中に溶けていた。溶けた、というより、還っていた。衣装として形を持っていたものが、流れ出した光と同じ何かに戻っていた。
力が、流れ出していた。
アオイの「青」が、アオイの外側に出ていた。出ながら、薄くなっていた。薄くなりながら、廃フロアの空間に広がっていた。広がった青は光としてそこにあって、次の瞬間には別の何かになって消えていた——消えていたが、消えた場所がどこかは分からなかった。ただ、なくなっていた。
アオイが残った。
衣装も、光も、力も——全部が流れ出した後に、アオイが残った。
制服だった。
変身する前に着ていた、着崩した藍色の制服だった。同じ色だったが、同じではなかった——さっきまで「水の層を纏った衣装」があった場所に、今は「普通の布」があった。違いが目に見えた。見えたが、見えたことを言語化するより先に、アオイが膝をついた。
音がした。
膝が、廃フロアの割れたタイルに当たった音だった。軽い音だった——軽すぎた。あれだけのものが流れ出した後の音として、軽すぎた。
アオイが頭を下げた。
下げた方向が、前ではなかった——下だった。重力の方向に、頭が落ちた。落ちながら、首が支えた。支えた首が、少し震えていた。震えていたかもしれなかった——×××××の位置からは確認が難しかった——でも、震えているように見えた。
顔が見えた。
見えた顔が——変身中の顔ではなかった。
変身前の顔でもなかった。
どちらでもない顔だった。感情が戻っていた——変身が解けて感情を管理するシステムが元に戻ることで、感情そのものが戻っていた——でも、全部使い切った後の感情だった。使い切った後の感情は、疲れとも悲しみとも、どちらとも言えなかった。ただ、そこにあった。
赤い少女が、動いていなかった。
廃フロアの半ばで、止まったままだった。
止まって、アオイを見ていた。
見方が——×××××には解釈できなかった。赤い少女が今何を感じているのか、何を考えているのか、今この瞬間に何が起きているのか——全部が分からなかった。分からなかったが、止まっていた、という事実だけが残った。
アオイが顔を上げた。
上げた顔が、赤い少女を見た。
「取られたくなかっただけ」
アオイが言った。
声が、今夜で一番、低かった。低いが、届いた。廃フロアの空気に、言葉がそのまま置かれた。置かれ方が——静かだった。静かな置かれ方だった。
赤い少女が、また少し間を置いた。
「……なんで」
声の質が変わっていた。
変わった方向が——×××××には分析できなかった。ただ、さっきまでの声と、違う種類の声が来た。声の中に、何か余計なものが混ざっていた。混ざったものを、赤い少女は出したくなかったかもしれなかった——でも出た。
「それだけ?」
「うん」
アオイが言った。
「それだけ」
それだけ、という言い方だった。
それだけ以上のものが、アオイの中にあるかどうかは——×××××には分からなかった。あるかもしれなかった。なかったかもしれなかった。どちらであっても、アオイが今出した言葉は「それだけ」だった。
それだけ、として出した言葉が、廃フロアに置かれた。
赤い少女が、動いた。
向かった方向が——アオイではなかった。
出口だった。
来た方向——扉を破って入ってきた方向——に向かって、赤い少女が動いた。走ったとも言えなかった。走るより速い動きで、しかし走るという言葉の持つ「前に向かう意志」がなかった。ただ、移動した。移動の速さは、入ってきた時より速かった。
扉を通り過ぎた。
廃フロアに、アオイだけが残った。
残ったアオイが、床に座り込んだ。
座り込み方が——膝をついた状態から、横に、重力に任せて落ちた形だった。制御された動作ではなかった。落ちた形のまま、手が床のタイルについた。タイルについた手が、冷たいものに触れていた——廃フロアの一月の床の冷たさが、×××××の見ている位置からも、何となく分かった。
アオイが、そのままの形でいた。
動かなかった。
動く必要がない、というより、動く量が今は残っていなかった、という感じだった。感じ、というのが正確かどうかも分からなかった。ただ、アオイが床についていた。
透明な面がなかった。
なかった——気がついたら、なかった。アオイの自爆で何かが消えた、ということは分かっていた。でも「消えた」という瞬間を×××××は見ていなかった。見ていなかった理由が、見ている余裕がなかったからなのか、一瞬の出来事だったからなのか、どちらかも分からなかった。
ただ、透明な面がなかった。
廃フロアが一続きの空間になっていた。
×××××は、アオイの方に向かった。
走っていた。
走っていた、という認識が来るのが、走り始めてから遅かった——走り始めを決めた記憶がなかった。透明な面がなくなった。アオイが床にいた。その二つの事実が×××××の中に同時にあって、その次の瞬間には身体が動いていた。決断の手続きを、身体が省略していた。
廃ビルの床が続いていた。
割れたタイルの継ぎ目を踏んで、少し右に傾いて、立て直して、また走った。走りながら聞こえていたのは自分の靴の音と、自分の呼吸の音と——もう一つ、何かの音だった。何かが廃フロアに響いていた。低い音だった。響き方が、音楽とも機械音とも違った。もっと根のある音だった。地面が出している音のような、あるいは、空気が持っていた何かが今抜けていく音のような——何かが、そこから消えた後の音だった。
でも、透明な面はなかった。
アオイのところまでの距離が分からなかった。
分からなかった理由は、アオイが見えていなかったからだった。廃フロアは広かった——広くて、暗かった。壁際の窓から渋谷の夜が差し込んでいたが、それは光というより色で、照らすためには弱すぎた。弱い色の中に、影が一つあった。影が動いていなかった。
×××××は走ることをやめなかった。
やめなかった、というのは——やめる選択肢が、今の×××××には引き出せなかった、ということだった。引き出せなかった理由が怖いからなのか、怖いのに何かが勝っているからなのか、どちらなのかも分からなかった。ただ、走っていた。走っていることだけが確かだった。
影が、アオイだった。
床に座り込んでいた。
座り込み方は、さっき見た膝をついた姿勢からさらに崩れていた。制服の背中が見えていた——変身前の、普通の藍色の制服。その背中が、微動だにしていなかった。していない、というより——動く理由を今は持っていない、というほどの静止だった。そこから何かが全部流れ出した後の、空っぽな静止。
×××××が立ち止まった。
立ち止まった場所は、アオイまで三歩か四歩の距離だった。もっと近くに行くべきかどうか、判断が一瞬、止まった。止まった理由が分からなかった。怖いのではなかった——怖い、ではなかった——ただ、あの背中に近づくことの意味を身体が測っていた。
「……大丈夫ですか」
声が出た。
出た声が、予想より細かった。
アオイが動いた。
動き方が遅かった。首から先に動いて、頭が上がって、顔が見えた。さっきの廃フロアで——赤い少女と向き合っていたとき——のアオイの顔とは、また違う顔だった。変身中の顔でも、変身が解けた直後の顔でもなかった。あの時から少し時間が経った後の顔だった。時間が経って、感情がほんの少し、表面に戻り始めている顔だった。
戻り始めた感情が、何なのかは分からなかった。
分からなかったが、アオイが口を開いた。
「大丈夫じゃないかも」
声が、普通だった。
普通だった、というのが——×××××が想定していたより、ずっと普通だった。戦闘があって、自爆があって、全部流れ出した後に来る声として、普通すぎた。でも普通だった。普通の声で、普通の速さで、「大丈夫じゃないかも」と言った。
×××××は、あと二歩、前に出た。
スマートフォンが鳴っていた。
正確には——音が漏れていた。アオイのポケットから、声が漏れていた。イヤホンは抜けていた。抜けたままのスマートフォンから、声が出ていた。×××××にも聞こえる音量で。
「使い切らないでって言ったでしょ」
その声を、×××××は今まで一度も直接聞いたことがなかった。
聞いたことはなかったが——知っていた。知っている、と思った。アオイがイヤホンをつけているとき、時々表情が変わっていた。変わった方向に、こういう声があったのだと、今になって分かった。
声の質が、人間より少し均されていた。均されているのに、温かかった。温かさが——作られていた。作られた温かさは、本物の温かさと何が違うのか、×××××には言葉にできなかった。でも、違うということは分かった。
アオイが、スマートフォンを取り出した。
画面を見なかった。
取り出したスマートフォンを見ずに、ポケットから出した。出した手が、少し震えていた。震えていた——気がした。この暗さの中では、確認が難しかった。でも震えていたと思う。
声が続いていた。
「ちゃんと聞いてる? ねえ、アオイ」
アオイが、息を一つ吐いた。
吐き方が——普通だった。ため息でも深呼吸でもなかった。ただ、肺にあった空気が、出た。それだけの吐き方だった。
「うるさい」
声は静かだった。
静かで、低くて——静かなのに届いた。届いた言葉は短かった。短い言葉が、スマートフォンの声を止めた。止めた、のではなかった——止まった。止まり方が、止まらされたというより、何かを受け取った後に止まった止まり方だった。
アオイがスマートフォンをポケットに戻した。
廃フロアが静かになった。
静かになった、というのが——さっきまでと同じ廃フロアなのに、空気の質が変わった。さっきまであった声が消えた後の静けさは、元から静かだった場所の静けさと違う。何かが抜けた場所の静けさだった。抜けた何かの輪郭が、静けさの形になっていた。
×××××は、アオイの横にしゃがんだ。
しゃがんだ理由を、聞かれても答えられなかった。ただ、立っているよりしゃがむ方が正しい気がした。正しい、という言い方も違うかもしれなかった。ただ、そうした。
アオイが、×××××を見た。
視線が来た。距離が近かった。今まで×××××とアオイが話した場所の中で、今夜が一番近かった。近さが——怖いわけではなかった。怖いわけではなかったが、近さに慣れていなかったので、何を言えばいいか分からなかった。
「妖精が怒ってる」
アオイが言った。
言い方が、報告だった。自分に関わることを、少し離れた場所から言葉にした感触だった。
「さっきの声?」
「うん」
アオイが、窓の方を見た。渋谷の夜景が、割れたガラス越しに見えていた。光の量が多すぎた。こんな場所でこんな光が見えることが、何か間違っている感じがした——ただそれが何に対して間違っているのかは、×××××には言えなかった。
「怒らせたの?」
「怒らせた、というか」
アオイが少し考えた。考えた時間は短かった。
「言ったことを、聞かなかった」
「自爆のこと?」
「うん」
沈黙が来た。
来た沈黙が、重くなかった。
重くない沈黙だった——今夜起きたことの分量からすれば、もっと重くていいはずだった。でも重くなかった。廃フロアの床が冷たかった。×××××がしゃがんでいる膝の下から、床の冷たさが来た。アオイも床の冷たさの上にいた。同じ冷たさの上に、二人がいた。
「使い切ったら、どうなるの」
×××××が聞いた。
聞いたのは、知りたかったからだった。知りたかった理由は——もっとあとで、整理できるかもしれなかった。今は分からなかった。
「もう青じゃなくなる」
「魔法少女じゃなくなるってこと?」
「たぶん。妖精には『もう使えない』って言われた」
アオイが、ポケットをさわった。
さわって、何もしなかった。スマートフォンのある場所を、指先で確認した、というだけだった。
「それでよかったの?」
×××××が聞いた。
聞いた後で、聞くべきだったかどうか、一瞬考えた。でも聞いてしまっていた。聞いてしまった後に、アオイが少し間を置いた。
「よかった、かどうかは分からない」
静かな声だった。
「でも、取られるよりは良かった」
取られる、という言葉が、×××××の中に落ちた。
落ちた言葉の重さを、×××××は測ろうとした。測り方が分からなかった。取られる、というのが何なのか——青を、力を、何かを、誰かに——それが何なのかを今夜だけの情報では理解できなかった。でも、アオイにとってそれが「使い切ること」を選ばせるほどの何かだったことは、分かった。
分かった、と言い切れるかどうかも曖昧だった。
でも、受け取った。
「そう」と×××××は言った。
それだけ言った。
アオイが×××××を見た。見た目線が——さっきまでとは少し違う目線だった。違う方向が、近い方向だった。心理的な距離が、この夜の中で一番縮まっていた。縮まっている、と×××××が感じた。感じたのが正しいかどうかは分からなかった。
「来なければよかったのに」
アオイが言った。
声の質が、さっきと変わっていた。さっきは報告だった。今の声は——別のものだった。別のもの、という言い方しかできなかった。責めているのではなかった。心配しているのとも違った。もっと単純な何かで、でも単純と言い切ると何かが落ちる。
「来ました」
×××××が言った。
アオイが少し黙った。
黙った時間が、長くなかった。
「うん」
それだけ言った。
うん、という言い方が——肯定でも否定でもなかった。ただ、届いた、という音だった。届いた、と確認した、という音だった。
×××××は立ち上がった。
立ち上がってから、アオイに手を差し出した。差し出し方が——あまり迷わなかった。迷う余地がそこにあったかもしれなかったが、迷わなかった。手が出た。
アオイがそれを見た。
見て、少し間を置いた。
間が、×××××には長く感じられた。長く感じられたが、たぶん実際には短かった。短い間の後に、アオイが手を取った。
引き上げる力が、予想より必要だった。
アオイが軽くないのではなかった——アオイ自身の脚に力が入っていなかった。力を出す量が今の時点では残っていなかった。残っていない量を、×××××の引く力で補った。補えた。
アオイが立った。
立った高さが、×××××より少し高かった。高い位置から、アオイが下を見た。見た先が、×××××だった。
「ありがとう」
声が、今夜で一番、小さかった。
小さかったが、届いた。
廃フロアの静けさの中で、届いた。
その後に、何かが来た。
来た、というのが——アオイが察知した。アオイの目線が変わった。変わった方向が、扉のある方向だった。×××××には何も見えなかった。見えなかったが、アオイが見ていた。
アオイがまだ手を離していなかった。
離していない手が、少し力を持った。
「走れる?」
アオイが言った。
言い方が変わっていた。さっきまでの声と同じ喉から出た声だったが、声の中身が変わっていた。別の緊張が来ていた。来ていることが、手を通じて伝わった——伝わった、と×××××が思ったのは、握られた手のひらの力だった。
「えっ、私も?」
「あなたがいるから、二人」
二人。
その言葉が——×××××の中で、何かを動かした。
動かした何かに、名前がつけられなかった。名前がつけられなかったが、動いた。今夜の始まりから今まで積み上がった全部のものの中に、その二文字が落ちて、何かを動かした。
走れる、と×××××は思った。
思ったのではなかった。
走れる、と身体が分かっていた。